はてなキーワード: プロポーズの日とは
式の当日、参列者は十数人。
祝儀をもらわずに式だけ挙げたような感覚で、親戚も友人もいないから質素に招待状を手渡しで配り、「おめでとう」の言葉だけを残してお開きになった。
挙式から披露宴までノンストップで三時間、なぜか水ばかりが進んで、いつもと同じようにちょっと胸がざわつくのを忘れていた。
夫と初めて二人きりで過ごした夜、リビングの蛍光灯はすでに消えていて、廊下の間接照明だけが淡く揺れていた。
お互いに言い合いのない沈黙を交換しながら、寝室のドアを開けた瞬間、彼の姿を初めて真正面から見た。
布団の上の彼は、そこに「あるはずのもの」がない人だった。
まるで身体の一部を断片的に削ぎ落とされたかのように、彼は静かに、自分がかつて持っていた「男らしさ」の輪郭を探しているようだった。
それを決めたのはプロポーズの日だった。「無理して増やさなくても良いよね」と軽く笑い合った。
けれど、本当に何かを失った人と、何かを持たずに歩み寄る人、二人が寄り添うとき、約束の重みは思っていたよりもずっしりと胸に沈んでいった。
「運転中に歩行者を避けようとして」「鎖骨を折った」「そこから下は――」
抱擁を交わすたび、私の胸の中に無かったはずの空洞がひとつ、またひとつと生まれていく感覚がした。
彼のいないものを受け入れることは、私の身体に刻まれた既成事実の境界を揺さぶる行為だった。
目を閉じると、手のひらに触れる温度、吐息のリズムだけが確かな実感として残り、その隙間を埋めようと私の意識は懸命に探りを入れた。
「これでいいの?」
問いは無言のまま、私たちの間を漂っている。
完璧とは程遠い身体を抱きしめながら、私は自分の内側からこみ上げるエネルギーを感じる。
欠損と合意のレイヤーが重なり合う瞬間、そこには見えない約束の光と影が浮かび上がる。
それでも私は思う。
どんな形であれ、他人の身体の不在に寄り添うことで、自分自身の境界線は再定義されるのだと。
この先、彼と歩む道のりは氷の上を進むような不安定さを孕んでいるだろう。
とりあえず言いたい。
そのかっこいいを魔法の国のディズニーランドでやるっていうんだから
やっぱり素敵な気がする。
動画で仲間でワイワイやってんのは全然素敵じゃない。アホみたいだ。
それならディズニーランドじゃなくてもよくね?とも思う。
ツイッターでも迷惑を考えろとか、私はこんなところでプロポーズ受けたくないとか
さんざん言ってる。
一人で告白できないからって周りを巻き込むとか卑怯とか、断りずらいとかさんざん言ってるけど・・・
「実際にアンタそんなんできるの?」と言いたい。
正直ちょっと難しいくない?度胸いるよ。チキンじゃ絶対にできない。
本当のプロポーズだもの。人生の分帰路をそんなところでできますか?
そりゃ中には本当に自分のことしか考えていない人もいて、キャストが怒るようなことは正直アホとしか言いようがない。
ヤフー知恵袋にも女性から書かれてたけど「あんな公衆の面前でプロポーズされて断れなかった。結婚は嫌だ。断らなかった私が悪いのだろうか」
なんてなんのチエを借りたいのかわからないことがかかれていたりするけど、本気でプロポーズしてるなら本気で答えなかったお前が悪いだろう。
とも思う。
でも考える。
考えて勇気だして、声に出したプロポーズの方が一生の記憶に残ると思うわけ。
それだけすごいことだと思うわけ。プロポーズって相手の持ってるものも全部背負うっていうことだもの。
僕の相方はそういうのを夢みている。
10人兄弟の長女ですごい苦労人。両親も離婚。家庭は崩壊していて、
兄弟は別々に住んでいる。
おじいさんとおばあさんに育てられた。
お母さんはもう余命が1年、ずっと入院してる。
彼女も体が弱くて、あんまり仕事できない。彼女自信も結婚はもう無理だって言ってる。
と、笑顔が辛い。
彼女と結婚すればもれなく、10人の兄弟と生活保護で暮らすおじいさんや入院しているお母さんも入る。
私の親は大反対している。
それでも僕は彼女に幸せにしたいと思うワケ。きっと僕の今していることとかできなくなる。
やりたいことはドンドンできない現実に突き詰められるかもしれない。
それでも
プロポーズの日程は7月16日(日)ワンスアポンが終わってからです。