昔家の近くにあった韓国料理屋が閉店してしまい、そこの店のキムチチゲが大好物だった彼氏が落ち込んでいた。
そんな彼氏を哀れに思い、ネットで再現レシピを調べ、試行錯誤を重ね、ある日夕飯に出してあげたことがある。
出来上がったキムチチゲを食べた彼氏は大いに感動し、それはそれは嬉しそうに喜びを伝えてくれた。
キラキラした瞳で「本家と同じ味だ!週1で食べたい!」と言ってくれるのは嬉しいのだが、
最近なんか怖くなってきた。
あのキムチチゲは、キリストの生誕同様、キムチチゲ=紀元とした場合の前と後で私の物語が変わってくる。
紀元前、私はそれほど積極的に料理をしない代わりにそれほど悩むこともなかった。紀元後、私は積極的に料理をするようになり、自分の中の料理経験値が蓄積されるに連れ違和感を感じるようになっていった。
違和感は大きく2つ
お店が閉店する前に二人で食べに行ったことがあるのだが、もちろん美味い。あのバランスの良い辛味と酸味と旨味は一口食べた瞬間に美味しい!と声を上げるレベルである。だが、毎週食べたいは言いすぎだと思う。
この世にはもっと週1で食べたいものがあるはずで、なんならその時食べたプルコギの方が美味かった気がする。
彼氏は私よりも味覚が繊細で、下味に使ったタイムやローズマリーもドンピシャで当てる。
彼の言う美味しいは信頼しているのだが、私が先々週作った鹿肉のパイ包み~ブルーベリーソースを添えて~の方が確実に美味いはず。だがそっちは毎週食べたそうには見えない。
そんな訳はないのにと疑いの眼差しを向けてしまうと同時に彼氏の味覚を信頼している自分もいるため、結果的に紀元後は自分の味覚を疑うようになってしまった。
こちらの理由の方がメインで、とにかくキムチチゲのレシピが簡単すぎる。下準備なんてほぼゼロで、具材はざっくり切ったらそのまま鍋にドボン。
味付けも市販のキムチを投入した時点でほぼ決まる。醤油で整えたり、出汁を変えたり味付けもほぼ毎回変わっている気がするが、キムチを投入した時点で大体なんとかなる。
こっちが「今日キムチチゲね」と言う時は料理するのがだるいからキムチチゲという温度感なのだが、向こうはご馳走を用意されたときのような喜びと感謝の意を表現してくるので何故かこちらが申し訳ない気分になってくる。
彼は彼で素直に思っているままの感謝を表現しているだけであって、喜びを抑えてくれとお願いするのも、彼に嘘をつくことを強制するようで心苦しい。
まさかこっちが料理作っておいて罪悪感を感じることになるとは、紀元前では思いもしなかった。
せめてキムチチゲがスパイスカレーぐらい手間がかかればこちらも納得するのに。
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正直毎週作るだなんて造作もないのだが、こんなお手軽な料理で、ここまで大喜びしてくれるだなんて、そうやすやすとキムチチゲを出してやりたくない。
言葉の重みがなくなるからという謎な理由で頑なに「愛している」と言わない男が居るが、今なら気持ちが良くわかる。
毎週でも愛してると言われたいが、毎週キムチチゲは出したくない。
このキムチチゲはここぞという時に使いたい。
現に私が彼氏に対して申し訳ないことをしてしまったと反省したときは、即キムチチゲを作っているため、この技が使えなくなった未来が不安ですらある。