はてなキーワード: 即非とは
「これをするにはこれくらいの時間がかかるだろう」という見込みが尽く当たらない。
遅刻もするし、〆切も守れない。
時間的期限を守ることに掛かる労力が大きすぎる。
世の中は、特別労せずに時間や期限を守れる人間がマジョリティなんですか?本当に?それともみんな頑張ってるの?人によるかそりゃ。
遅刻は日本では即非社会的人間のレッテルを貼られるけど、遅刻しない能力を持つ人間の分布が運動能力や知能と同様にベルカーブを描くとしたら、たまたま遅刻しない体に生まれた人たちって遅刻に厳しすぎやしないですか?
心が狭すぎやしないですか?
マーチ以上の大学に進学できる人間が、高卒を見下してたら嫌なヤツだなと思いませんか?
という気持ちです。
2ちゃんヘビーユーザーはそもそも論として専ブラ使うのが当たり前でなんかうぜーやついたら即非表示がデフォだったしミュートワードも駆使してたからな。
この辺が意外と認識が違うところというか、表示させて読んだ上で強い気持ちでスルーしてたわけじゃなくて、スルーしたい奴はそもそもガンガンにミュートしてたんだよな。
まとめサイトに取り上げられるようなとこに常駐してた民だとまた話も違うんだろうけど、そんな感じでけっこうスルーは機能してたんだよな実際。
専ブラ使ってなくて荒らしに構う奴には専ブラ使えって誘導する文化もあったし。
SNSってかTwitterが流行り始めたころに、誰かにブロックされたらめっちゃ怒り狂ってた狂人が散見されたものだが、いやそんな発言してたらブロックされて当たり前やろって感じだったけど、今にして思えばあれって2ちゃん時代は自分が大半のスレ住民にミュートされてる現実に気付いてなかったおかしな奴だったんだろうな。
こいつあかんなーと思ったら即非表示にしてきたから低評価ボタンを押す暇がない。
非表示にしてきた奴らのブコメに逐一低評価ボタンを押してやりたいところだが、存在すら認識したくない奴らのブコメを見るのもそんな奴らのためにボタンを押す時間を費やすのも無駄の極みである。
非表示にするほどではないがこのブコメに関しては低評価という場合も考えられる。しかし低評価はブクマカの評価に将来影響を及ぼしそうだが非表示がユーザースコアに加味されるかどうかは不透明だ。ユーザーに与えるダメージが低評価より非表示の方が大きいならば、ユーザーそのものは非表示にせず部分的に低評価というのが可能になる。
アクシアとほんひまの匂わせが〜って騒いでたひとみーんな即非表示にしてて醜い醜い pic.twitter.com/rE0GqI41PO— ぽ (@auaudarunnn) August 18, 2022
私がジャンルと言っているのは、そのジャンルの作品数が増えることである。(質問わず)
ジャンルに関わるクリエイターが多くなり、作品数が増えることそれがジャンルの繁栄である。
富、名声、地位という代表的なものを、クリエイター個人個人が手に入れることが出来ることがクリエイターの繁栄である。
この二つを双方といったのは、ある時のジャンルの繁栄とクリエイターの繁栄は対立関係にあるからだ。
ジャンルがある程度育っている場合は、ジャンルとクリエイターは対立関係になく、協力関係に近くなるが
クリエイターによる革命的な創造によって、ジャンルとして発生する可能性を秘めている時点は、対立的である。
つまり属人的であるとき、ジャンルがまだクリエイター個人のものであるときは、それをジャンルとして扱われること、非属人化されることに拒絶反応が出るだろう。
その時にはまだ、作風として、クリエイターのアイデンティティとして機能するのだ。
例えば、アニメというジャンルは誰かのものではないが、アニメ作品となれば、誰かのものになる。
まだアニメ作品は集団で作られるので、ジャンルとして扱われるのだろう。
芸人を見るとわかりやすい。彼らの漫才やコントはアイデンティティを確保する。
これを真似れば、パクリとして扱われるだろう。
しかし、こういった状態は、ジャンルの繁栄としては悪いと言える。
誰もジャンルに関われず、似た作品を作ることは、集団、本人などしか作ることが出来ないだろう。
どのように行うかというと、抽象化になる。
もし、この抽象化を、全体へ還元せずに作風、アイデンティティに還元するなら意味はない。
より大きなものへと、広げていき、出来れば属人化されていないところまで広げられれば良いだろう。
しかし、完全な対立関係ではなく、ジャンルを使用するもののところにもクリエイターがいなければ、そのジャンル終わってしまうだろう。
その時点では、ジャンルを使用するものたちのクリエイターの質は低い状態が望ましい、なぜかというと、さらなる分裂は避けたいからだ。
そして、ジャンルが繁栄し、数が増えたとき、それはアイデンティティではなく、より大きなものになるのだ。
こう考えたときに、一時的な対立関係を経ずにはできないかと考える。
・凄腕クリエイター
・抽象化を行う物書きたち(評論家や、批評家がこれにあたるのではないか、その中でも全体へ還元することを良しとする人、グループでなければならない)
・物書きを支持する人たち(未成熟クリエイターや柔軟な考え方ができる視聴者も含む)
・投稿場所(サイト、未成熟なジャンルが埋もれないような場所、すみわけができるような場所)
しかし一次的な対立を回避することが可能になって、より包括的な繁栄が可能になる。
つまり凄腕クリエイターが創造し、それを即非属人化し、ジャンル化し、ジャンルの繁栄に対してクリエイターにインセンティブが発生するようにできるだろう。
[B! 増田] 【急募】オクラとささみにかける酸っぱくない調味料(できたらノンオイル)
人力検索に増田使う奴の善悪は置いといて、この手の質問増田に対して大前提(今回なら「酸っぱくない」)を無視して答えるidは即非表示リストに入れる
少なくとも本文、ひょっとしたらタイトルすら読んでない、もっと酷いと全部読んだ上で無視して書きたいことだけ書く(ブコメごときで他者の要求に誠実に応える必要はない)、というidの一覧なので非常に捗る
これを続けたおかげか、最近の人気コメントで「トップブコメ、●●は違うだろ」みたいな指摘があっても元発言が非表示のことが増えた
快適と思いきや文脈が気になったときにログアウトして確認するのはめんどい、でも確認すると大体のケースでああやっぱり非表示にしといて良かったとなるので多分オススメです
昔々あるところにお爺さんとお婆さんが暮らしていました。
ある日、お爺さんは山へ芝刈りに、お婆さんは川に洗濯に行きました。
当時は高度経済成長の真っ只中で、産業があらゆるものより優先されていた時代です。
異臭を放ち虹色に輝く川で洗濯するお婆さんは、当時の価値観から言ってもかなり異質な存在として近所では有名となっていました。
しかしそのような世間の目を気にするようなお婆さんではありません。
洗う前より汚くなった着物を両手に担いて、お婆さんは笑顔で家へと帰ります。
一方その頃、海の向こうアメリカではベトナム戦争に反対する若者の間で東洋思想に対する関心が高まりつつありました。
第二次世界大戦の帰還兵は戦争から解放されると子供を作り、それがベビーブーム世代となり一大勢力を築き上げ、その彼らは親の世代が持っていない価値観を東洋に求めたのです。
少し時代は遡りますが、鈴木大拙は東洋の『ZEN』の精神を米国に紹介した人物の代表と言ってもいいでしょう。
彼は仏教における悟りを『霊性の自覚』と捉えました。それは『即非の論理』を体得することで得られるものです。
大拙は通常の論理を分別知の論理と位置づけ、対象を分別する前の段階を『即非の論理』とし、それをとても重要視しました。