飲食と野球、二刀流の人生を歩む男――。ソフトバンクで育成出身者第1号本塁打を放ち、「松中2世」とも評された左の長距離砲だった小斉祐輔(42)。現在は福岡で牛タン専門店を営み、独立リーグ・火の国サラマンダーズの監督も務めている。育成からはい上がった現役時代、料理人としての挑戦、唯一のれんを託された男としての矜持――その歩みは今なお進化を続けている。
大阪府松原市で育ち、小2でソフトボール、小3から野球を始めた。「プロになりたい」ではなく「自分はプロになれる」と信じていた少年時代だった。高校は名門・PL学園へ。同期は今江敏晃、桜井広大、朝井秀樹ら全国区の実力者に囲まれ、「良くも悪くも人生の基盤」と語る厳しい3年間を過ごした。
進学した東農大生物産業学部では、3年時に気の緩みを指摘され「3、4か月も干された」。副キャプテンとしての自覚を胸に腐らず向き合い、「一番早く来て、最後に帰る自分に変われた」と胸を張る。この姿勢の変化が後の飛躍につながった。
努力は実を結んだ。東京ドームで初開催された神宮大会での活躍が評価され、育成ドラフト元年の2005年、ソフトバンクに育成1位で入団。1年目に支配下登録をつかみ取り、3年目には育成出身者第1号本塁打を記録した。
現役時代には主砲・松中信彦(現中日打撃統括コーチ)の存在が大きかった。グアム自主トレをともにし、準備の重要性と勝負への姿勢を吸収。松中に連れて行ってもらった神戸の「たん平」との出会いが、引退後の第二の道の伏線となった。
15年の現役引退後、仙台で1年間働き、その後、神戸の「たん平」で本格修行へ。「社長が『全部教えるから覚えていけ』と言ってくれた」。仕込み、肉の扱い――牛タン一枚に宿る技術を3年以上かけて徹底的にたたき込み、のれん分けを許された唯一の存在となった。
20年、福岡で「博多牛や たん平」を開業。しかし、直後のコロナ禍で客足が伸びず「2、3日ノーゲストの日もあった」という。それでも「つぶせない」と厨房に立ち続け、仕込みの精度を磨き続けた。
やがて常連が生まれ、口コミで県外から訪れる客も増加。お客さんから、「本店よりおいしい」と言われることもある。「それが一番うれしいし、のれんに泥を塗れない」。扱う牛タンは、佐賀、宮崎、鹿児島の精肉業者から信頼関係で仕入れる厳選部位ばかり。「どこで育ったかより、誰が目利きしたかが大事」。質を見極める姿勢も揺るがない。妻も繁忙期に加わり、夫婦二人三脚で切り盛りする人気店へと成長した。
野球との縁も続く。25年、元ソフトバンクの馬原孝浩GMから声がかかり、火の国サラマンダーズ監督に就任。「俺でいいんかなと思いましたけど、若い子と向き合うのは面白い」。就任1年目で九州アジアリーグを制し、来季は世代交代とNPBへの選手輩出をさらに進める方針だ。
最も重視するのは準備である。「ミスは怒らない。でも準備不足だけはダメ。やることをやっての失敗なら全然いい」。型にはめず、個性を伸ばし、弱点だけを整えるスタイルで選手と向き合っている。
今後の展望を尋ねると、「店をもっとよくしたいし、高校生以上の選手も指導していきたい。みんなで稼いで盛り上がれる形をつくりたい」。料理人として、監督として――二つの現場を持つ生き方は、これからも深まり続ける。















