先日、数年ぶりに台湾に行った
日本より暑く湿度も高いのに、街の人たちに驚くほど清潔感があった
清潔感がない、というのは、そう考えると、心身が貧しく下品っぽい、ということで
指摘されるとキレてくるのはそういう人間だからだし、清潔感のない人が多いというのはそういう人が多いということだ
以前は感じなかった差を感じるのは、それだけこの数年で日本が貧しくなったからだろう
悲しい
成金やヤッピー、イキリ商社マンや全身シャネルを清潔感があるとはいえないことからもわりと当を得ているはずだ
(6月半ばに台北で現地女性を盗撮した日本人観光客男性が逮捕されていた。そのような犯罪は日本人、という認識だそうだ。非常に恥ずかしかった)
下品さとは何が下品かわからない状態だから、下品ですよといったところで当の本人にはなんら響かない
下品がわからないということは上品もわからないということだから社会も文化もそりゃ劣化する
下品と不潔は近いものだが、上品と清潔は違うもので、世の中には確かに上品にみせかけた下品の構造があって、貴族社会なんてまさにそうで、だからこそ形と精神の美意識が非常に重要だった
矛盾を孕んだ貴族の美意識が新時代では淘汰されることがわかっているから『山猫』のランカスターはただ悲しいのだし
そこに説得力を持たせるのが成り上がりや庶民には決して獲得できない本物の貴族であるルキノ・ヴィスコンティの画面の隅々まで贅沢な美意識なのだった
そして庶民や成り上がりはそういった美意識を豪奢から清潔感に転じて市民になった
終わってしまったものというのは老人の思い出のように安全で変わりようがないので、多くの人が貴族やサムライや王族を愛でたいのは当たり前だが、それを現代にゾンビのように甦らそうとするのはかなり危険だ
贅沢な映画が見たくなったなあと思いながら鏡を見てお前に清潔感はあるかと問いかけるがうすぼんやりとして良く見えないのだった
清潔な服や身だしなみもそうだけど ・猫背じゃない ・目線がちゃんと前 ・はきはきとした喋り方 ・しっかりした歩き方 は本当に大事。