幼少期、いわゆるオタクとして育った私には、男たちの集団が常に攻撃的に映っていた。加害を厭わない彼らは、アニメや漫画に登場するような美しさとは無縁で、醜いばかりだった。
思春期になり、彼らからの好意などそもそも欲しくないというルサンチマンが私の内に芽生えるのは、今思えば当然の中二病だった。異性愛を欲しないという姿勢は、どうしようもなく男に夢見てしまう私にとって、困難であるが故に格好良く感じられた。どうにかして男からの好意を拒絶してやりたかった。(実際に好意を向けられることはほとんどなかったが。)
そんな私にとって、性的少数者というアイデンティティは、格好の盾ないし矛のように感じられた。しかも無料だ。オタ活で金のない女学生が飛びつかない理由がなかった。
しかし、無性愛者(アセクシャル)であることは私には難しすぎた。性愛的に寄る方を必要としないという気高さには、弱い私(性欲は強い)がどれだけ嘘を踏み固めたところで、手が届くとは思えなかった。
だから私は「レズビアン」になることを選んだ。そして、必要以上にその自認を痛いほどに主張した。言葉でもツイートでも。それはまるで自分自身に鞭打つようだった。「お前はレズビアンだ」と強迫しなければ、私は同性愛者ではいられなかった。
「私、レズビアンなので。」
と宣言した時に見せる男たちの曇った表情で、傷ついた私の精神が潤っていくさまを、心の裏側で確かに感じた。それは小さな復讐の成功体験だった。その時の私は、ひどく勝ち誇った顔をしていたのだろう。
20代、レズビアンとして恋愛を頑張ってみた。大して持ち合わせのない時間も金もつぎ込んだ。しかし結局、誰のことも心から好きになれなかった。パートナーができることは何度もあったが、その彼女が金銭や心理的な安心に寄与しない分かると、人でなしの心がスッと冷めていくのがわかった。
彼女との破局を正当化するために、いくつもの嘘を重ねた。その行為は、嫌いだった現実の男たちの醜い言い訳と重なった。
あれだけ認めたくなかった「レズビアンのカップルは破局率が高い」という統計に、私もいくらか貢献してしまっていた。
現在、30歳に差し掛かる私には何もない。残ったのは、「男嫌いの男体好き」という、抱えていくのには苦しすぎる醜い実態だけ。