はてなキーワード: ピンドラとは
アニメキャラによるカバーソングの傑作を知りたくなった の続きです。
オマイラから教わったカバーソング系アニソンを一通り聞いたので、感謝を伝えるためにキーボードを叩いている(訳者注:筆を執るの現代語訳だろう)。
カバーソングを聞きながら「お前らもやろうと思えば人の役に立てるのに何故日頃あんなにツンツン ケンツン ツンケンドンしているのか」と考えているとき、ふと「ありがとう」ってちゃんとお前らに伝えられてくれる奴らが少なかったせいではないかと閃いた。
書き忘れや聞けてない曲もあるだろうけどそこはごめん。俺の個人的な注意力や検索力の限界だ。
まさにこういうコンセプトについて話をしていたので多くの人から言及があり安心した。どちらもキャラの声を維持したままでカラオケ歌いしている所で評価が高い。どちらも聞いていてて「この子歌上手いんだなあ・・・そういえば俺は今どの立場で聞いてるんだ」とふとモヤモヤ出来て楽しい。
監督なりプロデューサーなりの趣味で選んだアーティストを作品全部巻き込んでカバーさせるというパワースタイルが実現する「あの曲もこの曲もあるじゃん」の豪華さよ。「ニューヨークでジョンが倒れた時も」の作品の精神性と深く関係がありそう且つ実際にはそんなでもなさそうなラインとか凄くモヤモヤする。
ブルーハーツの世紀末感溢れる歌を2015年にガールズバンド風に歌わせるという発想がいいんだよね。つうか作品の空気が年齢詐称してる感バリバリっていうか、深夜アニメ黎明期世紀末の不安定さ・見切り発車感・退廃感・ヤケクソがまざっててそれがまあ毎週のブルーハーツと合ってたんだなあ。サントラ単品で聞いても楽しめるので俺個人としてもコレはおすすめしたい。月の爆撃機が特に好きだ。
こういうのの走りって感じがある。そもそも自前で持ってる主題歌自体が女の子に歌わせる恋愛ソングとしてかなり強いと思う。定期的にカバーもされとるしなあ。
最近のアニメ詳しくないから見逃してたわ。クオリティ凄いなあこれ。キャラの息遣い自体を歌い方にミックスしてきてるのか?演技っていうかもうイタコの状態じゃん。
カバーソング使うことの強みに作品コンセプトを伝えやすくなるってのがあると思ってて、これとかまさに「この作品はこういう空気感です」ってのが分かる。あとはキャラ声でこの歌唱力なんだってことを作中ネタをバラさずに伝える機会が増やせるのもいいんだろうな。
シャフトの悪ノリ全開。元の曲が悪ノリしてるから相性がいい。パート分けさせてたり「カラオケっぽいキャラ声」なのが面白い。悪ノリなのにいい仕事してたらそれは強いよ。
素直にかわいい。ノスタルジーで優しく怪しい空気とキャラの相性がいいなあ。
全然知らんかった奴。この伸びで完全にコエンマってもう反則だろ。二次会あるあるの「伊達に長生きしてないやたら上手いオッサンいるよな」のパターンとして解釈一致感があるのもいいね。
ハマリ曲の代表みたいな奴。本当にもうピッタリなんだよね。声優じゃなくてキャラで歌わせることの意味もあるっていうか。放課後カラオケボックスで実際あのメンバーに聞かせて欲しさがある。歌も・・・歌えるんだ的な。
上手い。ぷにるの声でめっちゃ上手い。マジで上手い以外の感想がない。原曲自体の可愛さ無関係に全部可愛くなる。
何故忘れていたのか。カラオケしてますの演技が凄い奴。それが愛でしょうとCHA-LA HEAD-CHA-LAで歌い方違いすぎるのがマジでこなたなのよね。こういう奴なんだよ本当。
「転生前のこのキャラがこの曲歌いそう」×「転生後のこのキャラが抱えてる文脈と歌詞の相関性が高い」→脳内で二つの時間軸が同時に走って交じる。なんて言ったもんかな、昔何となく刺さった歌詞と似たような状況が訪れて、ふと答え合わせを受けるような瞬間、そういうのって俺らの人生でも実際あるよなっていうリアルな手触りを伴った感情移入が湧き上がる感覚?文脈乗せてくるよなあ。
原曲が垣間見せた様々な文脈がバンドのスタイルにふっとばされ純粋な「陽」の歌に。こういう組み合わせ方面白いよな。
このコンセプトでこの選曲が何もおかしくないって所で独特の位置にあるよね。今語られている懐メロも数十年後には同じ扱いだろうけどな。時代の流れは残酷やな。
原作補完として面白すぎる。孤高を失った男が馴れ合いに没していきながらもそれを自分でネタにしつつ、それを周囲が受けいれていく中で絆が深まっていくという光景の人間味が味わい深すぎるんだよな。
そんなのあったなあ。作品のテーマであるスポ根・夢・情熱が詰め込まれた歌詞がどのキャラクターの口から歌われても違和感全くないのが作品の一貫性を感じた記憶。最後には全員が同じ方向を向いたステージ・作品だったなあって気分をダメ押しするすごい合唱。
ここまでやれと誰が言ったんだろうか。こういうコンセプトのカバー繰り返してたらいつかはこういうの出てくるよなって感じ。マジで「カラオケの廊下でふと聞いてしまった」なんだわ。ある意味で不特定多数の恥部を閉じ込めている割にはドアの防音が弱い中で、ドリンクバーやトイレで普通に何度も廊下を通るようになってるんだからなんか謎の施設だよなカラオケボックスって。
「選びそう」や「歌いそう」の一つ上に「このグループ内で定番になってそう」があることを知った。四万十川の鮎を故郷の味やと言いながら食べる姿を覗き見ることでしか得られない栄養がある。
言及してなかったので追記。歌い方のちょっと無理してる感とかカラオケすぎる。サントラのフル版だと小芝居消えるけど歌い方は普通に演技しっぱなしのままフィナーレ突入するからまた違った面白さがあるな。
いくえみ綾の『太陽が見ている(かもしれないから)』(2014)は明らかに『I LOVE HER』(1993)の焼き直しだった。芦原妃名子の『piece』(2008)は作者自身が『砂時計』(2003)の再構成と柱スペースで語っていたしそれを読む前からなんか砂時計と似てるなと思っていた。
クリエイターが過去作品のセルフオマージュみたいな作品を描くのってどういう動機なんだろう。やり残し感?
そういえば幾原邦彦もピンドラの心残りはピンドラでやってほしいみたいなことを言われているのを読んだことがあるから別作品で心残りを昇華しようとしていたのか。
アイラブハーも太陽もシチュエーションは突拍子もない非現実的な三角関係もので、掲載誌のターゲット年齢層もあるだろうけどアイラブハーは軽めで青春ものらしい爽快感があるのに対して太陽は暗めだった。(主に女の子の心理描写が)丁寧で繊細になったと言えばそう。
漫画としては太陽の方が丁寧でクオリティが高いんだろうし実際ラストの方の日帆には泣けたけど、キャラクターが全体的にアイラブハーの方が愛おしいんだよな。花も艶香も高校生らしくて、特に主人公の花は本当に明るくて性格いい子だし。艶香はだるいメンヘラだけど単純でバカっぽくてかわいい。太陽の男の楡はいわゆるいくえみ男子だけど、ああいうのより単純に奥田民生を描くのが楽しいんです期のいくえみさんの男キャラがこっちまで楽しくなって好きだった。
いや、太陽の岬もいい子だし日帆も大好きなんだけど…太陽もみんないい子だけど暗くて難しいんだよな…岬はちょっと気難しくて怖いし…日帆は本格的だし…
言葉遊びや冗長さ(これは二者での意味合いが全く違うけど)に本質があるって点では似てるのに子供の頃から西尾維新は超苦手で幾原邦彦は大好物なのもなんかよく分かんないな、いや分かるけど
幾原作品としては相当分かりやすい部類だったし「愛」「つながり」が以前よりも救いの多い役割を担ってる分とりあえず人に勧めるならこれになるかも。
ピンドラの『飢餓同盟』、ユリ熊嵐の『羆嵐』みたいな感じで今回は芥川辺りがベースなのかな、内容覚えてなさすぎて何も分かんなかった
結局わざわざ焼き直しって言うほどピンドラ的な部分が核ではなかったけど普通に色んな対比は取れそうだし気合がある時にそれぞれもう一周ぐらいしてみたいね…
ジブリの新作がそうでもなかったや…という事実にしょんぼりした理由は、自分に響いたのが
持つ者の冒険譚
よりも
持たざる者の救済譚
だったからだ。
ピンドラについてはいろんな人が言及してると思うから割愛する。
今回は、ジブリの新作がピンと来なかった地味なショックについて書こうと思う。
君たちはどう生きるかの中で印象に残ったのは、黄泉の国という名の生き地獄になっていたペリカンたちが最後あの塔から飛び出して、眞人に「出られたんだ、よかったね」と言われるところ。
そこで初めて自分が、乙事主よろしく老いたペリカンが語った「絶望感」に共感していたのだと気づいた。
扉を開ける直前にお母さんが言い放った「火は得意よ、素敵じゃない!」は普通に泣かせポイントだったからそれはそれとして、
たしか、家族観をめちゃくちゃ大事にする文化を持つ韓国の人たちが千と千尋を見た時に号泣したのが冒頭の「両親が豚になる」シーンだったと聞いた。
それと同様に、半ば宮崎駿の自伝ともいえる今作の通低音が「今を生きる人たちのバックボーン」とは異なりすぎてて、しかも我々のそれが割と地獄めなベクトルへ向いていることを、「自分にピンとこなかった」ことで改めて突きつけられたような気がしたのだ。
冒頭から描かれる「すげえいいとこの家」という事象だけがギラギラしちゃって、内容が頭に入ってこない。
「金持ちの家の子」という要素だけで、「自分とは違う子」として切り離して捉えちゃって、主人公やその周りの人物の誰にも共感できない。
目の前に展開されているのはフルスロットルの宮崎駿なのに、最後までついぞ一緒に冒険できなかったのだ。
金持ち描写一つで足止めを喰らい、あの作品を正面から喜んで受け取れないくらいには、自分が貧しくなっていた。
なんかそれが妙にショックだったというか、悔しかった。
と同時に、かねがね思っていた〝最前線の文化教養は「生存に不安のない者」たちからしか生まれてこねーんだな、そいつらの夢想という名の創作物をありがたがって消費してるのが私なんだな〟という、自分でもびっくりするほど狭量な感覚に襲われた。
ってゆー結論になっちゃうのがどうしても悔しいからもう一回観に行きたいなとは思ってるんだけど、Twitterとかで「とりまもっかい見る」つってる人たちの心の中、なんか同じような感覚の人いない?
ねえいない??
「俺は一人でもペンギンを見に行くぜ!」
最新回でまたしてもピンドラネタが出てきたチェンソーマン。ペンギン、だけじゃ無かった。飢餓ネタもあった。
今までもピンドラネタは何度か出てきており、有名なのは水族館扉絵とかだが、それ以外にも明らかなオマージュが出ており、テーマが共通する部分がある。
他いろんな作品を多数取り入れているので、いつものやつ、みたいに思いがちだがチェンソーマンとピンドラの関係は少し違うように思い始めた。
明らかに発想の根幹にピンドラが存在し、設定に組み込まれている。
もしかしたら「これが元ネタ」などと言われることにチェンソーマンファンは辟易しているかもしれない。
ただ「輪るピングドラム」という作品も宮沢賢治をはじめ村上春樹、それ以外にも小ネタや懐かしメロディーやセリフなど、他作品の取り込み方がチェンソーマンとよくにているのだ。
しかしチェンソーマン考察者には申し訳ないのだが輪るピングドラムという作品はあらすじを見てもおそらく2割も伝わらないアニメだ。
なんなら緩く流し見で全話見ても「え、どゆこと?」となる可能性は高い。
総集編の円盤化を待つ手もあるが、結構大幅なカットが入ってるのであれは一見さん向けではなかった気がする。
なので配信でTVシリーズをぜひ見てほしい。なんとアマプラでは今、追加課金なしで見れる状態なのだ。回し者みたいだな。
とにかく1話〜3話で切らないでほしい。無理して11話くらいまでは見てほしい。
そうすれば藤本タツキが何を考えてあの描写をしているのか、少しの手がかりになるはずだろう。
ちなみによく考察で出てくるのが「箱のシーン」
ピンドラでの心の会話をする抽象的なシーンのように語られているが監督が「現実のシーン」と言っていることはここ置いておきたい。
今期は注目作多く、また続編が多くてそのファンも盛り上がってるのだが
それとは別に新作アニメが賑わっており大体観測範囲でキッチリと注目作が分かれたようなのでメモしておく。
ガンダムだしおっさん向けは勿論だが百合としても楽しめる。が、百合界隈では百合ニワカおっさんの解釈が気に食わないとかで小言も多そうだ。脚本家がウテナ(監督イクニ)の小説版を担当した影響で、ある一定年齢のアニメ層も語らせに来てるので、熱気あふれる議論が生まれそうだ。年齢層はかなり高い。
もちろん内容の素晴らしさはあるが、受け取り方は人によるため割愛する。とにかくビジュアル面で注目されていた作品で、申し分ないスペシャルな出来に仕上がっていたので、作画オタは大注目だろうが、この作品をアニメ好きの家族で共有する絵を想像できないので、話題の割には多少マニアックなファン層になっていくだろう。ただしジャンプなのでライト層も引きずり込むことができる。ミーハーってのは悪いことじゃない。新しいものに敏感な人たちはこぞって見るはずだ。ちなみにピンドラ要素がありこれもイクニだ。イクニファン大興奮のクールになった(?)
ブルーロック→永遠の厨ニ病&心は女子オタ向け(腐女子、夢女子等)
前者2つと比べて知名度は低いが一話の構成が素晴らしい出来だったため、ダークホース的にあがってきた作品だ。純粋にめちゃくちゃ面白い。知名度は低いと言っても連載当初よく炎上していたので知っている人もいるかもしれない。とにかくファンアートやキャラクター情報が一気に流れ始めた印象。熱量が水星の魔女と違う方向に向かってる印象を感じる。呪術廻戦や鬼滅を好きな層はチェンソーマンじゃなく以外とこっちのが合うかもしれない。コミケで一番賑わう作品になる予感がする。
主にこの3作品は大注目作品として今期追っていきたいのだが、まだ放送されていない作品「うる星やつら」がある。
上記3作品は意外と視聴者層が幅広くないように感じるのだが、うる星やつらは色んなオタクがライトに楽しめそうなので、今季の癒やし枠として楽しみにしたい。
ネタバレなし。というかネタバレになる程の新展開はそんなにないかも。
全体の感じとしてはアニメの総集編と、更に解釈を分かりやすく付け加えてくれているような、エヴァでいう簡易版まごころを君に的な印象を持った。ああ、この感じ方で監督の言いたいことは間違ってなかったんだ的な。
銀河鉄道の夜未履修だし、色々詳しいことはわからないけれど、何だか人によっては救いのない作品なのかなと。
「例え運命がすべてを奪ったとしても、一度でも愛してると言われた子供は幸せを見つけられる」
と言っているように、この物語の大まかな結論はこれに尽きると思う。
生まれに恵まれなくても、環境に恵まれなくても、レッテルを貼られた人生でも、愛し愛される事で救われる事があると。
その通りだと思う。自分も結婚してて、幼少期とかあんまり恵まれた子供じゃなかったけど、今は愛し愛されて幸せ。
でもふと、愛し愛される相手を見つけられてなかったら?もし相手が死んでしまったら?と画家を前にしているような気持ちになる事があって。この今の幸せはただただ幸運に恵まれただけのラッキーと思っている。
じゃあ乗り換えできてなかったら?また呪いのレールに乗ってしまったら?そんな事誰しもにあり得る出来事だ。
そんな時にこの物語を見たらどう思っただろう?
愛がないと幸せじゃないのか?
愛を見つけられないのは産まれと同じくらい運のなす偶然であり、不条理ではないのか?
愛し愛されない人は来世に期待ってこと?
こんな感情だと思う。
ウテナ時代から幾原監督の作品は見ているけど、どの作品にも総じて愛(自己愛、他人からの愛)が重要なキーワードになっていて、幾原監督は愛を訴える人なんだなと。
それと同時に、監督も愛も平等ではなく、世の中が不条理である事を痛感していて、あえて完全にみんながハッピーになれる訳ではない、考察の余地の残る着地が常なのかなと。
昔はこうやって、良し悪しのはっきりしない、考察しがいのある作品を好んだけれど、大人になると現実を突きつけられているようでちょっと苦しくなる。名作という点に異存はないけれど。
感じるところはあれど、見に行く甲斐ある作品でした。トリプルHの歌声を映画館で聴けただけでなんかもう感慨深かった。
そろそろ上映数が少なくなるので、気になってる方は是非に。
直接的なネタバレはしないけど間接的にやんわり触れるので注意
この作品を始めてみたのは確か5年ぐらい前で、リアタイ勢ではないんだけどだいぶのめり込んでみていた。
当時は今よりだいぶぼんやり生きていたこともあってただただ作品に夢中になっていたんだけど、今見てみると陽毬や冠葉晶馬、苹果ちゃんや多蕗、ゆり達の愛に対する切実な姿がまぁ染みる。私は人と関わるのが苦手だけど愛をもって接していきたいと思った。
舞台挨拶の話もしたいけど内容話していいのかわからないから伏せるんだけど、輪り輪った愛がどこに向かったのか監督がお話してくれて、その話がすごく嬉しかった。この作品を作ってくれて本当にありがとう。