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2025-02-16

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天皇権威を基盤とした武家政権構造考察

序論:権威権力二元構造

本論では、鎌倉幕府を中心とする中世武家政権天皇権威を不可欠な基盤として成立した事実を、制度的・経済的象徴次元から多角的検証する。

日本史上の権力構造が「権威天皇)」と「権力武家)」の二元性によって特徴付けられることを示し、摂関政治から江戸幕府に至るまで一貫してこの原理機能したことを論証する。

制度正統性の源泉

官位体系による権力正統化

鎌倉幕府創始者源頼朝が1192年に「征夷大将軍」に任命された事実は、武家政権法的根拠朝廷官位授与に依存していたことを端的に示す。

この官職律令制下で蝦夷征討を目的とした令外官であったが、頼朝はその任命を以て東国支配権公認を得た。

特に1185年の「寿永二年十月宣旨」において、頼朝東国における荘園国衙領警察権公式に認められたことが、朝廷との制度紐帯を強化した。

守護地頭制の双務

承久の乱(1221年)後に全国に拡大した守護地頭制は、幕府朝廷荘園管理システムに介入する手段となった。

地頭による年貢徴収権の獲得(1221年「新補地頭法」)は、一方で幕府経済基盤を強化しつつ、他方で朝廷一定の税収を保証する相互依存関係形成した。

この共生関係は、幕府朝廷経済的存続を担保することで自らの支配正当性を補完する機能を有していた。

象徴権威継承構造

三種の神器王権

鎌倉時代後期の両統迭立期(持明院統大覚寺統)において、幕府皇位継承に介入した背景には、三種の神器所在正統性根拠とされた神権政治論理存在した。

例えば後嵯峨天皇の治世(1242-1246年)において、幕府は神器の継承過程監視しつつ、自らが「治天の君」選定の仲裁者となることで権威の源泉を掌握しようとした。

宗教的儀礼の共用

朝廷主宰する新嘗祭大嘗祭などの祭祀は、中世を通じて天皇神聖性を可視化する装置として機能した。

幕府はこれらの儀式への供御人派遣財政支援を通じて、伝統権威への恭順姿勢を示すとともに、自らの支配を「神国」の秩序に組み込む戦略を採った。

特に伊勢神宮賀茂社への寄進は、武家宗教的権威を利用して支配正当化する典型的手法であった。

経済的相互依存構造

荘園体制媒介機能

鎌倉幕府経済基盤となった関東御領(約500箇所)の多くは、元来が朝廷貴族荘園であった。

幕府地頭を通じた年貢徴収合理化を図りつつ、従来の荘園領主へ「得分」を保証することで旧勢力との妥協を成立させた。

この「本所一円地」への不介入原則が崩れた蒙古襲来後も、朝廷幕府軍事課税を追認した事実は、両者の経済的共生関係の強固さを示す。

貨幣経済媒介者としての朝廷

平清盛日宋貿易以来、朝廷が保持していた対外交易権は、鎌倉期においても「大宰府」を通じた外交貿易管理として継承された。

幕府実質的外交権を掌握した後も、形式的には朝廷を窓口とする建前が維持され、明との勘合貿易室町期)に至るまでこの構図が持続した。

政治的相互作用の諸相

摂関政治から幕府政治への連続

藤原道長の「御堂関白記」にみられるように、摂関家天皇外戚として権力を掌握する構造は、後に武家が「征夷大将軍」の官位媒介権力正当化する手法と同根である

平清盛が「太政大臣」に就任した事実(1167年)は、武家伝統官制依拠せざるを得なかった制度的制約を示す。

院政執権政治の相似性

白河院政(1086-1129年)が開いた「治天の君」の政治形態は、北条泰時執権政治(1224-1242年)において「得宗専制」として再構築された。

いずれも名目上の君主天皇/将軍)を背景に実権を掌握する点で、権威権力の分離という中世政治構造典型を示している。

思想的基盤の分析

神国思想政治的利用

北畠親房の『神皇正統記』(1339年)が主張した「神器継承正統性」論は、建武の新政崩壊後も南朝方政治的正当性を主張する根拠となった。

これに対し足利尊氏光厳上皇擁立した事実は、北朝方も同様の神権論理依存せざるを得なかったことを示す。

朱子学の影響と国体

鎌倉後期に伝来した朱子学大義名分論は、水戸学における南朝正統論(『大日本史編纂)を経て、明治期の南北朝正閏論争(1911年)にまで影響を及ぼした。

この思想系譜は、天皇権威武家政権正統性を超時代的に規定してきた事実を逆照射する。

結論権威権力の持続的共生

以上の分析から鎌倉幕府を頂点とする武家政権天皇権威を不可欠の基盤として成立・存続したことは明白である。この構造は単なる形式的従属ではなく、

官位体系による権力正統化

荘園経済媒介とした相互依存

③神権思想に基づく支配正当化——という三重メカニズムによって支えられていた。

明治維新に至るまで継続たこ権力構造本質は、権威祭祀権)と権力軍事力)の分離・補完にこそ存し、日本政治史の基底を成す特質と言えよう。

2020-07-05

anond:20200705184911

にっ き [0]【日記

①日々の出来事感想などを一日ごとに日付を添えて、当日またはそれに近い時点で記した記録。古くは「御堂関白記」「玉葉」「明月記」などが著名だが、職掌上交替で書き継がれた「御湯殿上日記」などもある。日誌。にき。

②「日記帳」の略。

2015-07-09

輯佚

プリンプリン物語』というNHKが生み出した古典的人形劇がある。

この『プリンプリン物語』。初めの二年間分のマスタービデオテープ現存していない。

1970年代当時、NHKであってすらビデオテープを上書きして使っていたからだ。

1000年代を生きた藤原道長日記御堂関白記』は、すべてではないが自筆原本が子孫の近衛家に伝えられた。古い時代の写本もある。

道長と同時代人、藤原実資(さねすけ)の日記『小右記』は原本存在しないが、過去、様々な公家重要性を感じ、書き継いでかなりの分量が現代に伝わる。

御堂関白記』『小右記』は伝本の種類や、文字の異動などが網羅的に調査され、今では東京大学史料編纂所ウェブサイト全文検索なんかができたりする。

刊行本である大日本古記録』シリーズリンクされていて、図書館とかに行かなくても道長や実資の記録にアクセスできる。

話を『プリンプリン物語』に戻そう。記録と言うものは簡単に失われる。

電子化が進んでもそうだ。今フロッピーデータをすぐさま利用できるだろうか? 営業を止めたウェブサービスが(インターネットが生まれたかだか十数年の間に)どれだけあっただろうか?

改めて、記録と言うものは簡単に失われる。しかし。

2000年代後半からNHKは『プリンプリン物語』の失われた話をビデオで録画して今でも持っている人を探している。他にも捜索願が出ている有名番組があるようだ。

http://www.nhk.or.jp/archives/hiwa/boshu3.html

歴史上失われ、現在では伝わらない文章逸文(いつぶん)という。諸本引用された文章から、失われた本体復元する作業を輯佚(しゅういつ)という。

1000年前の道長や実資の記録はもちろんだが、たかが数十年前の記録に対しても輯佚は行なわれうる。

そして重要なことは、実は私たちデータの断片を持っている可能性がある点だ。

偉そうな言い方だけど、歴史を記録し後世に伝える機会が、もしかしたら私たちにもあるかもしれない。

こんな文章書いているからわかる通り私は歴史好きだ。でもこういう現代のやがて歴史になっていく部分を記録する、っていう営為結構好きだ。

今の時代も1000年後には1000年前になってるわけだしね。

2014-11-01

平安時代無能公卿藤原顕光

つの時代にも仕事ができないやつがいる。

から1000年前、教科書で習う藤原道長時代にもそんなやつがやっぱりいた!

その名も、藤原顕光。

こいつはひどい。

道長日記御堂関白記』や、有職故実に通暁していて『小右記』という日記を残した公家藤原実資から馬鹿にされまくる。

曰く「こいつの儀式でのミスを書いていたら多すぎて筆の毛が無くなるわwwwwwwwwwwwwww」とか

曰く「こいつはアホ中のアホである」とか。

少なくとも日記を読む限り、諸卿から笑われる人物であったことは間違いないようだ。

藤原顕光と藤原道長はいとこの関係だが、実は顕光の方が兄の家系に連なっている。

から1000年前は、道長がさまざまな事情により世の牛耳を執った時代だったのだ。ここら辺はいろんな本に詳しい。

さて、本題。顕光は本当に無能だったのだろうか?

無能無能だ、と笑った側の日記しか残されていないのが問題である

政権当事者である道長は、正嫡となりうる顕光をはたして褒めるだろうか。

小野宮流という有職故実を守る立場にあった実資が、他流の顕光の挙動をはたして褒めるだろうか。

ここら辺は考えながら、顕光のことを考えねばならない。

さて現代にいったん話を戻そう。

仕事ができないやつって結構いるんだけど、割と楽しそうだ。というか上手いこと楽している。

もちろん人はそれを批判する人のだが、仕事しねえやつってのはなんだかのらりくらりそういうのをかわしながら日々生活している。

ある種タフさがある。上手いこと流しちゃうのだ。そして多少の陰口を言われたところで動じない。

仕事できない人の完成型は、ただ仕事をしない部分からのみ成り立つのではない。タフさがそこには必要だ。


1000年前に時は遡る。

顕光は散々バカにされながらも、右大臣から左大臣へ、大臣20年ほど務めている。道長の全盛期にである

顕光は道長や実資や、その他の貴族揶揄を、あまり気にしなかったのではないだろうか、と想像する。

想像をたくましくし過ぎだが、実資なんかが意識している細かい儀礼なんて、どうでもいいと感じていたのではないかとすら思う。

1000年後の私たちほとんどが実資の有職故実を全然気にしないのと同じようにね。

実は顕光は、私たちが習う教科書的、あるいは道長的な平安貴族論理とはや離れたところで、平安ライフを満喫していたのではないか、と想像させられる。

そうした仮定にたったとき、彼の眼から眺めた平安時代は一体いかなるものだったのだろうか。

 
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