はてなキーワード: 本土派とは
https://anond.hatelabo.jp/20250727144129
劉仲敬は理系思考(可否の証明・反証)を重視し、問題解決できないなら“問いの立て方”自体が誤っている可能性を指摘。
近代中国史は「日本はできたが中国はできなかった」「帝国主義やソ連のせいだ」といった恨み節に終始。各論は有効でも、全体像を説明できない点で枠組み自体を見直す必要がある。
英仏などの「地方性国家」は、一度ローマや神聖ローマ帝国を脱してから成立した。
中華帝国(大清/中華人民共和国)は「多民族・多文化の大帝国」で、帝国体制下で民主憲政は成立しない。
日本→明治維新で「東アジアのイングランド」として帝国体制を離脱
台湾・香港→中華民国という限定的枠組みの下で事実上の自治・民主化を経験
3. 「諸夏/諸亞」モデル
諸夏(Zhuxia)
周代以降、文化的に儒家文明を共有する諸侯国群を指す古典用語。「中華」「華夏」の原義に近い。
諸亞(Zhuya)=内亞(Inner Asia)
草原地帯(ウクライナ~満洲/モンゴル~新疆~中東)の遊牧文化圏。騎馬・商隊による技術・情報交流が活発。
春秋戦国期の分裂状況をモデルに、現代の東アジアも「諸夏の群雄割拠+諸亞の衝突」で捉え直し、宋明以降の大一統体制が「競争」を奪い、技術・市民社会発展を阻害したと論じる。
東西の大多民族帝国(大清/神聖ローマ帝国/オスマン帝国)を例に──
→ 成功例は「小民族主義」:帝国解体後に小さな民族国家が民主化を先行して実現。
5. 台湾・香港──「植民地→文化民族主義→政治民族主義」の連鎖
「華独」(中華民国枠のまま台湾のみ統治)と「台独」(台湾共和國)を使い分けるが、後者は欧州型民族発明の典型。
冷戦下のサンフランシスコ条約体系(1952年「臺北条約」)を“盾”に、事実上の安全保障を獲得。法理的に「中華民国在台」を温存する方が有利。
粤語という文化的共通性が古くからあり、文化民族主義は既成事実。
返還交渉での「一国両制」失敗と梁振英政権の裏切り感から政治民族主義(港独)が急浮上。
「退出六四集会」など符号化された分断動員によって、反中・本土派が選挙で勢力を拡大。
公民民族主義(市民社会成熟度が基盤)は論理的には最も合理的だが、選挙や運動動員の「シンボル」としては文化言語的な分かりやすさに劣る。
香港・台湾でも「粤語」や「中華民国枠」といったシンプルな記号 πολιtics が大衆動員を左右。
劉仲敬自身も「思想が歴史を変えるのではなく、歴史の潮流が思想を求める」ことを強調。
東アジアの大一統体制から分権競争へ──「諸夏」モデルが東アジアに適用される時代が来る、という予見。
まとめ:
近代中国の「大一統・大中華」史観は、帝国─民主・民族─国家の歴史的段階論を見落としている。
民主憲政は「小さな、競争する民族国家」でしか成立せず、東アジアの再民主化は「春秋戦国的分権と競争」の再現から始まる──この視座が本インタビューの核心です
https://anond.hatelabo.jp/20250727144129
■ 概要:
このインタビューでは、劉仲敬が蔣經國(蒋経国)と李登輝という台湾の二大政治指導者の遺産について、特に蔣經國の政治スタイルとその本質を分析しています。核心は、蔣經國が「共産党式の幹部体制」を内在化した上で、台湾を独自に制御したこと、そして李登輝以後にその遺産が別の方向に「発明」されていったことです。
■ 主なポイント:
1. 蔣經國の人格と訓練背景
若い頃にソ連で訓練を受けたため、蔣經國の性格は共産党幹部候補的。
情報部門や幹部運営において共産党的な「粛清」や「双重道徳」が基本思想。
1950〜70年代が国民党の「レーニン主義的純度」の最高潮。
経済発展により技術官僚や地方の中産階級(派閥政治)の影響力が拡大。
彼らは本来のレーニン的体制とは相容れないが、蔣經國は「とりあえず使える」と判断。
本土派の成長も黙認。ただし、真の危機は「統一戦線による国民党の再赤化」。
「本土化」路線は長期計画ではなく、その時々の「緊急対処」だった。
政治家とは「今この瞬間の危機」に対応する存在であり、理想設計とは無縁。
廖承志との対話を拒否し、統派との距離を取り続けたのも、「統一戦線型の危機」が即時だったから。
蔣經國の死後、部下たちは状況に応じて彼の遺産を「再発明」した。
特に李登輝は、「蔣經國の意志」を引き継いだという形で民主化・本土化を進めた。
実際には、蔣經國自身も**「後のことまでは考えていなかった」**可能性が高い。
政治家:紙の船で嵐を航海するような存在、常に危機の中で動く。
歴史的偉業に見える決断も、ほとんどが**「急場しのぎ」**であったという現実。
■ 結論:
蔣經國は、共産党式の統治術とアメリカとの協調を活かしつつ、台湾における国民党体制を一時的に安定させたが、それは理想に基づくものではなく、その場その場で最も緊急な危機に対応する「即応的政治判断」の積み重ねに過ぎない。そして彼の死後、その行動の意味合いや「意志」は、後代の政治家によって再構築(=再発明)された。