2025-09-11

選択>のジレンマ

今朝、十年ぶりに知人から連絡があった。十年ぶりですよ。十年といえば、イチローメジャーでヒットを打ち続けていたぐらいの歳月である。その知人が「助けてほしい」と言ってくる。で、その助けというのが、財布からチャリンと小銭を出すようなレベルではなくて、紙幣を重ねて封筒パンパンになるぐらいの金額である

事情はよくわからない。娘さんが病気で、しか心臓だと。で、紛争家族国外避難させ、自分母国に留まっているらしい。――いったいどんな状況だと思うかもしれないが、平凡に日本暮らしているお前らと違って、私くらいの国際人になると、こういうシチュエーションもごく普通に転がり込んでくるのだ。いや、望んで転がり込んでくるわけではないのだが。

困ったのは、ここで私は「選択」させられる立場に突然なってしまたことだ。選択なんて、ふだんはスーパーで「特売の白菜にするかキャベツにするか」ぐらいでいい。白菜キャベツなら失敗しても鍋の味が変わるだけだが、ここでの選択は、ひとつの命がかかっている。

援助すれば「無限出費コース」の扉が開きかねない。援助しなければ「冷酷人間コース」に直行である。昨日まではそんな分かれ道なんてなかったのに、今日は急に「さあ、どちらに?」と背中を押されてしまった。

そして困るのは、この分かれ道に「通り抜け禁止」の道標が立っていることだ。本当なら「今日はやめておきます」という第三の道があるはずなのに、それは最初から消されているのだ。援助するか、しないか告白されたら、付き合うか、断るか。選択夫婦別姓になったら、どちらの姓を選ぶか。――「選ばないでいる」という道は、問いかけられた瞬間に閉じられる。

私はただ呼びかけられただけなのに、呼びかけの瞬間から「選ばない自由」さえ取り上げられ、責任を背負わされる。

――人生とはなんと理不尽舞台だろう。だからウルリヒ・ベックサルトルも嫌いなんだ。難しく「リスク社会」だの「自由の刑」だのと言われなくても、もうじゅうぶん、こちらの胃には重いのである

注文していないのに皿が運ばれ、「こちらかこちらをお選びください」と迫られる食卓。私はただ座っていただけなのに。

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