今朝、十年ぶりに知人から連絡があった。十年ぶりですよ。十年といえば、イチローがメジャーでヒットを打ち続けていたぐらいの歳月である。その知人が「助けてほしい」と言ってくる。で、その助けというのが、財布からチャリンと小銭を出すようなレベルではなくて、紙幣を重ねて封筒がパンパンになるぐらいの金額である。
事情はよくわからない。娘さんが病気で、しかも心臓だと。で、紛争で家族は国外に避難させ、自分は母国に留まっているらしい。――いったいどんな状況だと思うかもしれないが、平凡に日本で暮らしているお前らと違って、私くらいの国際人になると、こういうシチュエーションもごく普通に転がり込んでくるのだ。いや、望んで転がり込んでくるわけではないのだが。
困ったのは、ここで私は「選択」させられる立場に突然なってしまったことだ。選択なんて、ふだんはスーパーで「特売の白菜にするかキャベツにするか」ぐらいでいい。白菜とキャベツなら失敗しても鍋の味が変わるだけだが、ここでの選択は、ひとつの命がかかっている。
援助すれば「無限出費コース」の扉が開きかねない。援助しなければ「冷酷人間コース」に直行である。昨日まではそんな分かれ道なんてなかったのに、今日は急に「さあ、どちらに?」と背中を押されてしまった。
そして困るのは、この分かれ道に「通り抜け禁止」の道標が立っていることだ。本当なら「今日はやめておきます」という第三の道があるはずなのに、それは最初から消されているのだ。援助するか、しないか。告白されたら、付き合うか、断るか。選択的夫婦別姓になったら、どちらの姓を選ぶか。――「選ばないでいる」という道は、問いかけられた瞬間に閉じられる。
私はただ呼びかけられただけなのに、呼びかけの瞬間から「選ばない自由」さえ取り上げられ、責任を背負わされる。
――人生とはなんと理不尽な舞台だろう。だからウルリヒ・ベックもサルトルも嫌いなんだ。難しく「リスク社会」だの「自由の刑」だのと言われなくても、もうじゅうぶん、こちらの胃には重いのである。