はてなキーワード: 告白とは
やっぱり無理なんかな
金じゃないんだろうな
先週マチアプで出会って告白してOK貰えたのに、翌日LINEで『やっぱり無しにしてください』
もう分からん
何処に行けば出会いあるんだろう
諦めたくないな
良い家庭を作りたいわ
首都圏の初婚の平均年齢って35とかなの?
このままだと結婚生活の足しになればと貯めてた金も、FIREの資金になってしまう
何も残んないわ
告白をされた。全く恋愛感情を持っていなかった相手からである。
仲の良い関係性とは思っていたが、まさか自分に惚れた腫れたの矢印が向いているとは思っていなかったのである。
狭い趣味のコミュニティの中で培った関係性であり、それを崩したくない気持ちもありつつ「いやー、うん、今は好きとかそういう気持ちでは見られないかなぁ!」と問題を先送りにすることしかできなかった、苦い週末を反芻している最中。
共通の知り合いは、先の告白発起人より相談を受けていたようで、多少の身にならないアドバイスを提供してくれた。
「彼氏がいるとか、今は恋愛する気分じゃないとか、そういうこと言っておけば良かったのにね」
………????
自衛、なるほど。結婚適齢期にも関わらず特定のパートナーも持たず、ニコニコと趣味に勤しんでいた私が悪いと。なるほど。
誤解されがちだが告白は、関係性の根回しを十分にした上での最終確認とすべき
「聞かなかったことにしてやるからお前も言わなかったことにしろ」
って意味ではなく?
ぎくしゃくするのも嫌だし…だったら、聞いてなかったことにするよってことだったりは…
しないか
そして清潔感がないのに〜のくだり
本当に清潔感がないって分かってるのに告白してるなら失礼だし、そうではなく断られたことへの言い訳的なものだったらダサいからやめなさい
あなたの言うとおり、ありのままを受け入れてもらおうとするのは大分おこがましいことだ。皆、大なり小なり努力しているのに。
そもそも業務上の先輩に告白されるって恐怖だよ。そういう関係性が築けていないのに。少しコミュニケーションの部分を見直せたらいいな
ブコメ勢ってって偉そうにしている割に、案外、AI記事との見分けも付かないんだなw
と、さすがに笑ってしまったぜ。
10月に俺が増田に投稿した全819本のAI記事が、10月の増田の総ブクマ数のトップ5を席巻した。
証拠は簡単で、後で該当記事からこの記事へ全部リンクを貼っておく。
AI記事の生成方法は、自分で調べてくれって感じだが、いずれもはてブ勢にウケるだろうなという
キーワードを盛り込み、流行りを盛り込み、過去の増田におけるブクマ数上位の傾向を読み取り、
最初から多くの人の感性に響くような、コメントしたくなるような要素を多く盛り込んだ。
ちなみに819本という数は、単純に俺の誕生日が8月19日という理由だったりする。
放置するつもりだったし、ネタばらしもするつもりがなかったんだが、
コメント見ていたら10月のトップ5の中に「脳梗塞」と「人工肛門」の話とかあったのかよw
さすがに他人のセンシティブな話題をAIだと茶化すのは本望ではないゆえ、今回のこの記事は全部釣りでした~~~
トップ5に俺の記事は1つもありませんすいま千円~~~~と、早めに告白しておくぜ。
何年か前に告ったけど振られた。
多分、完全な友達と思われているのであろう。
私は友達として「も」大好き。
その人は、私の人生で出会った人史上、一番かわいいし、性格もかんぺきで努力家。
まじで非の打ち所がない。
そんな私にも、優しくしてくれるんだから、童貞な私は悩殺だよ。
自分にとっては、好きな人でもあり、親友でもあり、人には話せないことも気軽に話せる。
(相手のことが好きということ以外は。)
親友と呼べる人は、この人だけだと思う。
好きな人と、親友が一緒っていうのはこんなにもつらいのかと思うね。
もし私が、その人と同じ性別(女)だったら、好きにはならずに、一緒にいて楽しい親友で完結してたのかな。
一方で、私が女だったら多分5軍だから、関わることはなかったかもしれない。
どうせ、付き合えないのはわかっているんだから、早く諦めるべきなのに。
他にいいなと思う人ができても、どうしてもその人と比べてしまう。
その人には現在、彼氏がいて話を聞く限りは完璧で、私なんかが勝てるわけがない。
その人は真面目だから、彼氏をとっかえひっかえはしないだろうから、別れないんじゃないかな。
まだ、わからないけど。
よく考えてみると、話していて楽しいと思うけど、果たしてこれは恋愛感情からくるものなのか、友情からくるものなのかわからない。
相手は、友達でいてくれているのに、好きでいてしまうことが本当に申し訳ないな。
もし、彼氏と別れたら、もう一度告白して、振られて諦められたら、いいけど。
もし、そのアクションを起こしたら、親友を失うかもしれないし、優しいからなかったことにしてくれるかもしれない。
一度目の告白はなかったことにしてくれているのに、もう一度ほじくり返すのも良くない気がする。
いっそのこと、出会わなければよかったのかな。
正直に言うと、俺はマクドナルドのほうが好きだ。あのチーズの塩気とか、バンズの甘さとか、ポテトの油の香りとか――全部、心が安心する味なんだ。でも、友人たちと高級レストランに行くときは、そんなこと言えない。ソースの名前がやたら長い料理を前に「繊細な味わいだね」なんて言いながら、実は心の中で「これならビッグマック2個食べたほうが幸せだな」と思っている。食事が終わると、みんな満足そうに「やっぱり本物の味は違うよね」と笑う。俺も合わせて笑うけど、口の中にはあのケチャップの甘酸っぱさが恋しくてたまらない。味覚って、正直なんだよ。だけど、正直でいるのは案外難しい。だからこの告白はここだけの話にしておきたい。
2025-11-02
ばあーーーーーかw
文春砲によってすっぱ抜かれて事態が大きくなっていった当時、「もともと(松本人志を/ダウンタウンを)好きじゃなかった」と告白する人が相次いだ。
それはごく一部というには多過ぎたし、しかし「今それを言うのってダサ(勝ち馬に乗りたいだけじゃん)」と批判しながら、かの人物を擁護する種の反応もまた多かった。
雑で体制的な言説に頼ることでしか発言できない人々のことはさておいて、あえて今言いたい。
増田は90年代の半ば生まれである。ゆえに、「ダウンタウン黄金時代」なるものを知らないとされる世代である。
天才的なネタによって「お笑い」文化を書き換えた生ける伝説のコンビであり、ゆえに世代に当たる人間が神格化するのもやむなしの存在なのだ――とは耳タコになるほど聞かされてきた。
なお、知人友人から上記と近しいコメントを返されてきた芸人には、とんねるずがいる。
ダウンタウンとほとんど同じような理由から苦手だったので挙げたまでであり、他意はそれ以外にない(言語化できない感覚値のみで苦手なのではないことを言いたかっただけだ)が。
なぜ「好きじゃない」と思ってきたのかを、くだんの報道内容や今般の始動への言及は一切抜きに、まずは語らせてもらいたい。
「好きじゃない」と表明したとき、もっぱら返されるこの「伝説」としての文脈であるが、どのように伝説だったのかを、増田の知人友人から具体的に聞けることはないまま、今に至る。
むろん、いくらでも動画が合法違法問わずアップロードされる時代だ。気になるなら自らの目でネタを確かめればよいかもしれない。
けれど増田はお笑い批評が仕事でも学業でもなければ、お笑いフリークでも誰かのグルーピーでもない、ただの一お茶の間の人間である。
嫌だから冠番組はほとんど見ないし、見るにしても当人らが話すシーンは飛ばしたり離席しようとする(ここ10年の話)だけでとどまっている。わざわざ自ら検証なり好きになりするための営みを取る動機はない。
ただ、まとまった文章を読むことで考えを改めて視聴してみようと思う可能性は否定しないので、なにかいい記事があれば教えてほしいし、コメントで教えてもらえることももちろん歓迎である。
『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで』を筆頭に、『リンカーン』などの番組でのイジリに対する印象である。
つい笑ってしまうような瞬間が皆無ではなかったと思うが、そこで得られる笑いによる快よりも、「これのなにがおもしろいの?(むしろ胸糞が悪いだけ)」と即時に感じてしまうことで生じる不快のほうが大きかった。
古い純文学なんかを読んでいると、今では考えられないような価値観を目の当たりにして驚くこともままあるが、それによって作品をキャンセルしたいとかもう読みたくないとかとは思わない。
過去は今と地続きとはいえ、故人の、昔に固定された作品だからである。
そして、快より不快が勝るものは閉じれば終われるほど、直線的な影響を持つものではもはやない。
しかし、先に挙げたようなバラエティ番組は当時の自分にとって現在の話であり、出演者が同時代を生きている人間であるのはもちろんのこと、その番組を笑って見るのは、自分のクラスメイトや、ときに友人だった。
もちろん、「作り物」たる芸の世界での言動であるとは、みなわかっていたと思う。けれど、芸人のネタや言動はミーム化するものだ。「オッパッピー」は決め台詞以上の意味を見いだせないまま口にするだけのものであっても、「あーいとぅみまてーん!」は、(軽い?)謝罪シーンにおいて、流用されるものであったろう。
「なにをどんな視点で切り抜くと痛快か、共感を得られるか」ということを大小発見するのが、お笑いのひとつの構造であるはずだ。
だから、芸の世界での言動の過激さや切れ味がそのままに持ち込まれることはなくとも、縮小版は容易に現実世界にも輸入される。そもそも、現実世界の観察に立脚しているからこそ支持を得られるものなので、当然のことなのだが。
彼らを単なる好き嫌いで終わらせられない理由が、このあたりにある。自分にとってはいじめにしか思えないものがひろく支持されている(まさに横の席に座る級友もだ!)ことが、恐ろしかったのだ。
︙
*長すぎるとブツ切りにされると聞いたので、「ダウンタウンが昔から苦手だった」論について❷に勝手に続けます。
以下は、ジェンダーについて、あくまでも(イケメンではない)男性からの視点で考えた文章です。
男女どちらの方がつらいといった意見ではありませんのであらかじめご了承ください。
「イケメンじゃない男性の恋愛社会における生きづらさ」を始点に。
原因の1つは、男女平等が叫ばれて何十年もたつが、いまだに男が女を率いるもの、という価値観がまかり通っていること。バレンタインデーがあって逆バレンタインデーが無いのは、男が女に好意を伝えるのは「当たり前」だから(ホワイトデーはバレンタインデーのお返しをする日である)。
これを強化するのが、ルッキズムは生物学的に(おそらく)自然なことであるのに対し、ルッキズムはダメなことで顔の良し悪しじゃないよという意見が支配的で、しかし実際はテレビに出ている人の整い方は異常であり、完全に矛盾しているということ。例えば、テレビドラマのメインキャストは美男美女しかいないが、これは多くの人が美男美女が好きということの証左である。ちなみにテレビに出ている不細工タレントは本当の不細工ではなく、不細工だとしても身なりやメイクが整っていて漂白されている。これは自然界で起きにくいのは、単純に身なりを(タレント級に)整えるのはお金がかかるからだと思っている。これにブーストをかけるのが昨今のショート動画の流行。
で、なぜイケメンでない男性が生きづらいのかと言うと、特に日本の告白文化だと、告白をするまで女性の本当の意思を確認することができない(男が女に告白して、女に「友達だと思っていた」とフラれる事象があるのは、そういうこと)。で、イケメンなら多くの人が好きなはずであるから、成功確率が高いと事前に分かった上で告白することができる。しかし、イケメンでなければ、よほど特別に近い関係にあって親密さを確認できる環境が整わない限り、告白が成功する確率は著しく不明瞭で、おそらく低い。これが未婚率の増加を物語っているのではないかなあと思いました。あと、告白する前の段階であっても、イケメンでない男性は、特にファーストコンタクト(や浅い関係性)で女性に近づいて拒絶されるか否かは、イケメンに比べて拒絶される確率が高い(内面もよく知られていないから)。だから、親密にもなりにくい。
「イケメンじゃない男性でも美人の彼女がいたり結婚していたりする」という反論に関しては、その男性が「そういう人」(生まれもった性質などでリスク許容性が高い)というだけで、一部の男性に限られた現象ではないかと考える。そうでなければ生涯未婚率が増加している説明はつかない。
ということで、伝統的なジェンダーにおける男性性、つらいよね。ということです。着想した段階では、なぜちゃんみなが人気なのか、という考えがありました。ちゃんみなをビジュアルよりも「強い女性」として人気である、と仮定して考えると、それは生まれもったビジュアルではなく強さ、すなわち「現世で変えられる」ところに希望を感じたからなのではないかと。「理想」は可愛い、きれいな美人かもしれないけど、現実的な折り合いとして「強い女性」が人気になるのではないかと(CHAIの"NEO KAWAII"という考え方は好きですが、生物学的にルッキズムを負かすのは非常に困難で、外見以外を切り口にした方が現実的かもしれません)。それならば女性が強くて男性がそれに預かる、みたいな関係性が魅力になってもいいのではないか、というか、それでしか現代の人間の未来はないんじゃないかなあ、などと考えたり。
高市早苗がトランプの横でぴょんぴょん飛び跳ね舌を出して一部国民には顰蹙をかっているようだ。
だが本当に恥をかいたのは、女性が政治の最前線で生き残るため「キャピキャピ」「媚び」という振る舞いを演じざるを得ない構造を温存してきた、私たち日本人全体ではないか。
私は高市さんの政治思想とは相容れない。しかし、相容れない相手だからこそ、あの場面を「政治家・個人の資質」の問題に落とし込んではいけないと思う。
彼女は「飲み会に呼ばれても読書を選ぶ」「お酌を断る」タイプの勉強家として語られてきた。
そんな人物でさえ、表舞台に立てば「求められる女性らしさ」を的確に読み取り、演じ、年長男性が支配する政治の世界に適合して昇っていく以外の選択肢がなかった。
メディアは女性政治家の政策より表情・服装・物腰を先に採点し、政界は可愛げや空気の読める振る舞いを忠誠の証として要求し、有権者はそこに無邪気に付託してきた。
こうして「政治的能力」より「性別役割の演出」を評価するインセンティブが形成され、総理大臣という最上位の地位にある女性でさえ、その演出から自由ではいられなかった。
右か左か以前に、女性が「女性らしさ」を演じなくても評価される政治と社会を用意できていないことの、赤裸々な告白だった。
痛ましい思いにさせられたというのが正直なところだ。
左派こそ、ここで自省が要る。
保守系の女性に対して「ほら見たことか」と嘲るのは簡単だが、それは結局、同じ檻を補強しているだけだ。
思想が違っても、女性を女性らしさの演出に縛る仕組みを壊すことは普遍的な解放の課題である。
もし左派を名乗るなら、まず相手陣営の女性政治家の人間としての自由と尊厳を守ることだ。
彼女が「戦略」を選ばざるを得なかった時点で、すでに誰かが負けている。その誰かとは、日本の女性たちであり、そして私たち国民だ。