ポケモンという作品は、表面上は友情と冒険の物語である。しかし、その奥底には、選抜・進化・淘汰といった構造が脈打っている。プレイヤーは常に「強いポケモン」を求め、「弱い個体」をボックスに送り、やがて忘れる。この行為は、ゲーム的な最適化であると同時に、無意識のうちに「価値のある命」と「そうでない命」を峻別する思考の模倣でもある。
もちろん、ポケモンが優生学を意図した作品であるわけではない。しかし、そこに描かれる“選び”“育て”“戦わせる”構造が、近代社会の優生的思考と響き合うのは事実だ。美しく描かれた「進化」は、能力主義と完全主義の寓話として読むこともできる。強くなることが正義であり、進化できぬ者は置き去りにされる――それは、20世紀の暗い歴史が示した思想の萌芽と重なる。
今日、我々の社会もまた「進化できない者は淘汰される」という空気を強めている。教育、就職、SNSの人気――あらゆる場所で「強くあること」「効率的であること」が求められる。ポケモンはその風潮を象徴する鏡であり、「楽しい遊び」として社会の競争倫理を内面化させる装置でもあるのだ。
この構造を意識しないまま遊び続けるとき、私たちは“進化”という言葉の下に、どれほどの命を見捨てているのか。
「捕まえる」ことの快楽と「選び捨てる」ことの正当化――その境界線を問い直すとき、ポケモンという現代神話は、無邪気さを越えて、倫理の臨界に立っているのかもしれない。