親が「結露」を知らなかった。
その瞬間、世界の基盤がひっくり返ったような衝撃を受けた。
氷を入れたコップを渡したとき、親が呟いた。
「なんで外側まで濡れるんだろう」
その一言は稲妻のように私の耳を打ち抜き、鼓膜を破るかと思うほどだった。
だが顔は真剣そのもので、目は何の疑念もなく虚ろに開かれていた。
結露を知らない。
言葉を持たない。
冬の窓に貼りつく水滴をただ「家が古いから」「湿っぽいから」と思い込み、黒いシミを「老いの証」として受け入れ、カーテンに生えたカビを「運命」と呼んできたのだ。
数十年という歳月を、現象を理解しようとする一歩も踏み出さぬまま、漫然と通り過ぎてきたのだ。
説明してやったときも「へえ、そうなんだ」と、まるで天気予報を聞き流すかのような薄い反応。
驚愕も羞恥もなく、ただ平板に、まるで結露など道端の小石のように扱った。
その態度が恐怖だった。
人はここまで無頓着でいられるのか。
思考のスイッチを最初から投げ捨て、理解しようとする努力を拒否し、知性を侮辱することができるのか。
私は見た。
ただの無知ではない。
「知る」という営みを丸ごと切り落とした人間の姿を。
結露という理科の教科書にも載るような当たり前の現象にすらたどり着けず、問いかけることすらせず、ただ「冷たいから」で止まってしまう思考。
そこから一歩も動かない。
石のように固まり、苔のように無言で時を重ね、やがて老いていく。
その姿は生理的な寒気を呼び起こした。
人は知らなくても生きていけるのだ。
いや、知らないままで「知らないことにすら気づかず」生きていける。私はその事実に凍りついた。
知識を持つことが生の明かりだと思っていた私の前で、知識なき人間がまるで暗黒の洞窟を安らかな寝床にするかのように平然と呼吸していたのだ。
その光景は、結露よりも冷たく、カーテンのカビよりも暗く、私の背筋に貼りついた。
ぞっとする、という言葉では生ぬるい。
これは恐怖だ。