名前を隠して楽しく日記。
増田で論点をずらして結論だけを置き逃げするタイプの言及は、典型的なストローマンや話題のすり替えであり、本来まともに相手をする価値はない。
しかし放置すると、議論の雰囲気によっては誤誘導される読者が出るため、最低限の釘刺しは必要になる。
彼らの狙いは「すり替え後の論点を読者に補完させること」で、自らの主張の矛盾を隠すことにある。
この手の逃げ方を封じるには、「論拠」ではなく「観点」、つまりその結論がどの立場から出てきたものなのかを当人に示させることが最も有効だ。
立場が明示されれば、侵略国にとって都合が良い前提に立っていたり、党派的正義の中に市民生活の視点が欠けているといった“隠された前提”が露呈するためである。
近年「ソースを出せ」が効かなくなっているのは、立場を隠したまま「自分に都合の良い正しさ」を創作する荒らし的手法が横行しているからだ。
正しさは立場に依存するため、立場の秘匿が最大の武器になっている。
日本国内でも、日本の正しさを語ると言いながら「有事の際に日本はどうあるべきか」という思想的立場を伏せることで、同盟国を見捨てる選択を正当化するケースが見られる。
論点ずらしがぶら下がっている元の話題が政策提言である場合について返答例を挙げると
「あなたはどの立場から、どの将来像を想定して、何を望んでいるのですか?」
となるかと。
この問いに対して、論点ずらしをする人は 「立場」 「推論プロセス」 「代替案」 のいずれかを省略してくる。
それらをすべて書いてしまうと、論の繋がりが破綻していることが傍目に明らかになるか、あるいは辻褄を合わせられずに書き切れなくなる。
また、論点ずらしの元が何らかの「指摘」であった場合の返答例を挙げると
「その指摘が当てはまらないあなたの立場は何ですか? その立場から見て、元の話題とどう関連するのかを最低限説明してください。」
となるかな。
これも、相手は 「立場」 または 「元の話題との接続」 のどちらか、あるいは両方を省略してくる。
結局のところ、増田における論点ずらしで反論を困難にしているトリックは
という一点に尽きるんではなかろうか。
ここでは「参考にする価値は無いんだ」なと伝われば充分と割り切ることも肝要ですかね。
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海外ドラマ好きな人に「フレンズ好きなんですよ」って言ったら「それはアニメ好きなんですよ〜って言ってちびまる子ちゃん好きって言ってるようなもんですよ!」って怒られて「お、怒られた……」ってなってる
休日に映画を観るか、音楽かお笑いのライブに行くかしか選択肢がない。楽しいんだけど、ちょっと人生が物足りなくなってきた。
自分がパッと思いつかないような場所やイベントに連れてってくれる人がいないかなぁ。1日の予算で2万円以内くらいだったらおごるので、休みの日に1日振り回してほしい。
元増田ですが、店舗で見て、とりあえずソフビのムービーモンスターシリーズを片っ端から買うことにしました。
あれ、すごいね。お値段と取り回しのよさを考えると驚異的なクオリティ。
おう、そうなるといいな
ペテロの葬列だっけ?😟
主人公の妻の不倫相手が、ボクはずっと打算で生きてきた、みたいに言ってなかったっけ?
打算?妥協?
で、ドラマの方を観たので、主人公は小泉孝太郎なんだけど、あのドラマだけははまり役すぎて、
はまり役すぎるが故に、観ててときどき笑うシーンでなくても笑ってしまって…😟
で、妻も不倫相手も、自分に正直になって、ひでー女だなwなんだけど、
主人公も大企業会長の娘の夫という制約から解放されて、自分に正直になって探偵になる
ペテロの葬列のドラマは、自分は大企業会長役の平幹二朗が好きすぎて…😟
自分は不倫に走るとか、探偵になりたいとかはないけど、子供の頃の夢はある
そして、ずっと夢は叶わないと思っていた
でも、ふと思ったんだけど、死んだらもっと叶わないじゃん、絶対叶わなくなる
自分もどっちかというとそっちなんだけど、地獄がないと考えると、モラルがなくなるのが良くない、という宗派もある
オフィスビルのトイレ清掃で一生を終えるとしても、それが天職というものである
しかし、本当に天職なのか、自分の判断は正しかったのか、それは死んで初めて神さまがジャッジするものである
それまで人間は、自分の判断が正しいのか分からないまま、この世界でもがき続けるしかない
ペテロの葬列の主人公は、大企業の会長の娘の夫であり、その会社の安定した正規社員であり、社内報を作る温い部署で働いていたが、
詐欺事件を追っているうちに、自分はかごの中の鳥であり、自転車に乗って草原に飛び出す夢を見がちで、
私は無職だが、仕事があったこともある、人生まったくうまくいかなかったが、これも天職なのであろう
しかし、神さまを信じてはいるものの、私は何度か全身麻酔を経験している
考えただけで、非常に恐ろしい
何もない、意識もない、いきなりすべてが消えるというか、すべてが消えたという自覚がない
奈落の底に落ちるのなら、落ちる過程というのを体験するわけで、それはまだマシである
自覚がないのだ
一瞬で世界が消えるのだ
天国がいい場所にしろ、死んでしまったら、子供の頃の夢は叶わなくなる…😟
ずっと、夢なんて馬鹿げている、何を甘っちょろいこと考えてるんだ、現実を見ろ、打算で考えろ、妥協しろ、私もそうやって生きてきた
でも、ペテロの葬列のように、もう、その制約から解き放たれてもいいのではないだろうか?😟
打算や妥協に逃げないで、ずっと夢を叶えようと努力して生きれば良かった、と今更思っても手遅れであるが、
死んだら、本当に叶わない、
死者が復活できるのは、イエスキリストのみ、つまり神さまのみが復活できるのである
私は神ではない…😟
銃夢のジャシュガンの台詞にあったように、人間とは限られた存在であり、
3行目までは同意
セーフティネットはやや弱いが解雇規制がキツいという社会主義もあるだけって話
そもそも国鉄にしろ水道にしろ、社会主義であればインフラに自由な投資など必要ない
戦前が戦後高度経済成長期よりも「活力があった」かどうかは甚だ疑問だが、
民主主義かつ社会主義的政策であったなら、という話を私はしている
竹中については、その前段階で自民政権が社会主義を壊し始めているので
ついにこんなこと言う奴が出てきちゃったか、という感じだった
何か起きた時にあおやまちゃんのせいにしようしたり、あおやまちゃんに恩を売ろうとしてるんだけど、粗timpoくんたちはあおやまちゃんを盗聴してるだけだから意味ないんだよー😲
のやつなの😲
だって盗聴されてるだけだもーん✌️🥺
出ないほうがいいのでは
でもあれって成長物語じゃないところが受けてるんじゃないの
まじでえらすぎる、自分を甘やかすだけなくて、やるべきことは将来の自分のためにきっちりやるのが本来の自分へのやさしさだよね……私は全然できないよ……
貴方のようなちゃんとした人のおかげで世の中回ってると本当に思う、ありがとう
体と心は壊さないように気を付けてね
転勤族で偶然そうなった人は結構いそうだけど、なんというか親が能動的に、「もっといい環境で子育てするために!」って引っ越す場合、都会→田舎の話ばっかり聞く気がしてる。
もし、逆に田舎→都会に引っ越したというパターンををリアルで知っていたり、経験したりしてる人がいたら、成功した例でも失敗したなーっていう例でも、良ければ教えてほしい。
田舎も都会も幅が広すぎなのは重々承知なんだけど、ざっくり、「もともといたところより相対的に栄えてる/人が多い/便利な場所に引っ越した」くらいのイメージです。
子育て環境モチベーションで田舎→都会に引っ越そうと思う人って、やっぱりあんまりいないのかな。
地方→大都市はいなくても、同じ県内でもっと便利なところに引っ越す、みたいな例ならたくさんあったりする?
あまりいないのだとしたら、それはシンプルに田舎の方が子育て環境が優れているからやろうと思わないのか、やろうとしてもできないという話なのか、どうなんだろう。
そろそろ子どもを考えてて、このままだと東京で子育てすることになりそうな既婚子なしなんだけど、子育て場所についてよく目にするもの以外も含めいろんな意見を聞いてみたい。
雑談配信みたいなもので、学ぶことを目的としている動画ではないんじゃないの。
それってエビデンスあるんすか?
『ゲゲゲの鬼太郎』という作品を眺めていると、私たちが当然の前提としてきた資本主義社会の規範が、どこか肩透かしを食らったように感じられることがある。もちろん、鬼太郎は日本文化の財産とも言える名作であり、その魅力を否定するつもりはまったくない。しかし一歩踏み込んで見れば、そこには「働かなくても、なんとなく生きていける」世界観が、物語の根っこに横たわっている。
まず気になるのは、主要キャラクターの生活実態である。鬼太郎にせよ、ねずみ男にせよ、明確な職業に就いているわけではない。ねずみ男はしばしば小銭稼ぎに奔走するものの、長期的な就労という発想はほぼ存在しない。鬼太郎にいたっては、妖怪トラブルに介入するものの、報酬を安定的に受け取るわけでもなく、社会保険にも加入していない。にもかかわらず、彼らの日常は大きく困窮することなく続いていく。こうした描写は、勤労と収入を基盤とする現実社会とは対照的な、どこかアンチ資本主義的な響きを帯びている。
さらに興味深いのは、金銭に対する倫理の配置である。鬼太郎は見返りを求めずに人助けを行う。一方、ねずみ男が金銭を動機に動くと、物語は決まって彼を笑い、失敗させる。お金を追う行為そのものが、作品内で浅ましいものとして扱われているのだ。ここでは市場原理よりも、情や共同体への忠誠、あるいは伝統的価値が優位に置かれている。資本主義の論理を自然ではないものとして退ける姿勢が、巧妙に物語の構造に組み込まれていることが分かる。
そして最後に、妖怪たちの共同体が持つ前近代的な性格を指摘しておきたい。彼らは国家の制度や法の枠組みを頼りにせず、独自の掟やゆるやかな秩序によって暮らしている。その姿は、近代社会が時間をかけて構築してきた制度やルールよりも、自然や伝承に根ざした世界を好ましいものとして提示しているように見える。これは資本主義社会への適応を前提とした教育観とは、やや緊張関係をはらむ。
もちろん、『鬼太郎』がただちに反資本主義の宣言書であるなどと言うつもりはない。しかし、もし子どもたちがこの作品だけを拠り所に世界観を育むなら、働くことの意味や、制度を支える責任といった感覚が希薄になるのではないか。そう懸念する声が生まれるのも十分に理解できるのである。