https://x.com/satetu4401/status/1925033240995496327?s=46&t=j9CZwiaEaXU4fu5vOzff6g
---
安楽死装置の開発を邪魔している自称「善人」どもは、徹底的にぶちのめして黙らせるべきだ。なぜなら、彼らの偽善が社会の歪みを生み、正常化を阻んでいるからだ。安楽死を強要される社会? それでいい、いや、それこそが自然な姿だ。無用な人間が「死ね」と言われるのは、生物としての本能に根ざした普通のことで、それを「慈悲」や「倫理」の名で抑圧するから社会がグチャグチャになるんだよ。だが、俺は一歩進めて言う。自死装置は作るべきだが、「安楽死装置」なんて生ぬるい名前とコンセプトじゃダメだ。ネーミングとその影響を考えれば、「悶絶絶望苦痛死装置」こそが社会の歪みを正す真のツールだ!
まず、安楽死装置って名前がすでに問題だ。「安楽」って言葉、めっちゃ優しげだろ? 「楽に死ねるよ」なんて、まるで悩みが一瞬で消える魔法のボタンみたいに聞こえる。特に、受験や人間関係で追い詰められた中高生みたいな若者が、衝動的に「これなら楽になれる!」って飛びついちゃう危険性がバッチリある。データはないけど、思春期の自殺率考えると、こんな「優しい名前」の装置があったら、軽率な選択が増えるのは目に見えてるよ。安楽死装置の「ソフトなブランディング」が、かえって無駄な死を量産するんだ。社会の正常化を目指すなら、こんな中途半端な優しさはむしろ害悪だろ。
さらに、安楽死装置の「安楽」って名前は、弱者に対する圧力を強化する罠でもある。障害や病気で「社会に価値を生み出しにくい」ってレッテル貼られた人たちが、第三者から「ほら、楽に死ねるんだから、全体のために死んでくれよ」って言われたらどうなる? 「安楽」って響きが、抵抗する心理的ハードルを下げちゃうんだよ。「楽なら…まあ、仕方ないか」って、追い詰められた人は流されやすくなる。社会の圧力に抗うのって、めっちゃエネルギーいるからな。「楽に死ねる」って選択肢があると、弱者が自分の存在を否定する方向に誘導されちまう。これは倫理的に超ヤバいし、弱者を守るどころか、排除を加速する装置になりかねない。
ここで「悶絶絶望苦痛死装置」の出番だ! この名前、聞いて即「うわ、絶対嫌だ!」ってなるだろ? それが狙いだ。こんなエグい名前とコンセプトなら、誰も気軽に使おうなんて思わない。衝動的な自死を考える中高生だって、「苦痛」と「絶望」がセットって聞いたら「いや、怖すぎる!」って一歩引く。第三者が弱者に「この装置で死んでくれ」って言うのだって、めっちゃハードル高いぜ。だって、「悶絶絶望苦痛死装置にGO!」なんて、言う方も普通の神経じゃ口に出せないからな。結果、弱者への不当な圧力が減る。この装置の「怖すぎるネーミング」が、逆に自死の強要を抑止するバリアになるんだよ。安楽死装置の「優しげな罠」と違って、悶絶絶望苦痛死装置は社会の倫理的ラインをガードするんだ。
しかも、この装置の過激な名前は、社会にガツンと議論をぶちまける効果もある。「悶絶絶望苦痛死装置? ふざけんな、こんなん作るなんて狂ってる!」って、みんなが反応するだろ? それでいい。安楽死装置の「穏やかな名前」だと、倫理的な問題がうやむやになりがちだけど、このエクストリームな名前なら、自死の是非、弱者の扱い、社会の「正常化」の定義について、ガチで議論せざるを得なくなる。社会の歪みを直すには、こういう「わざと過激なカウンター」が必要だ。偽善者の「善」をブチ破り、本音で向き合うきっかけを作るんだよ。
だから、結論だ。安楽死装置の開発を邪魔する善人どもをボコって、自死装置を作るのは賛成だ。だが、「安楽」なんて甘っちょろい名前とコンセプトじゃ、社会の歪みを正すどころか、衝動的な死や弱者への圧力を助長するだけ。ネーミングとその影響をガチで考えたら、「悶絶絶望苦痛死装置」こそが正解だ。この怖すぎる名前が、軽率な使用を防ぎ、強要を抑止し、倫理的議論を呼び起こす。社会を正常化するには、このくらいの覚悟とインパクトが必要だろ?