はてなキーワード: 従属変数とは
Bの傾向がある人はA(糖摂取を控える)、という説明の方が説得力が高い。
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「逆因果関係(Reverse causality)」とは、**通常考えられる原因と結果の関係が逆転している状態**を指します [1]。つまり、**結果(従属変数)が原因(予測変数、独立変数)を引き起こす**場合に発生します [1]。広義には、特定の交絡因子(Confounder)が結果と密接に関連しており、その交絡因子が結果と原因の両方に同時に影響を与える状況も逆因果関係に含まれます [1]。
この問題は、特に栄養学や疫学の多くの研究を悩ませており、その程度は十分に検討されていないようです [1]。
「追加糖摂取と7種類の心血管疾患発生率との関連性」に関する研究 [2] に対して寄せられた論評 [3] では、この研究結果が逆因果関係の問題を抱えている可能性が指摘されています。
以下に、逆因果関係がこの研究でどのように現れていると考えられているか、主な点を説明します。
* 元の研究では、「大部分のアウトカムにおいて、最高の心血管疾患(CVD)リスクが最も低い追加糖摂取カテゴリー(非アルコール性エネルギー摂取量の5%以下)で認められた」と報告されています [5]。
* 論評では、このようなU字型やL字型の曲線は、既知の生物学的メカニズムが説明できない場合、または示唆されたメカニズムと逆の場合に、逆因果関係によって発生する可能性があると述べています [5]。
* 追加糖の摂取量が最も少ないグループ(サンプルのおよそ21%)は、極めて特殊な行動(追加糖のほぼ完全な排除)をとっており、このグループで観察された有意な健康リスクの増加は、**健康状態の悪化が食生活改善の決定(追加糖の削減)を促した**と解釈する方がより plausibility が高いとされています [5]。
* つまり、低糖摂取が病気を引き起こしたのではなく、病気(または病気のリスク)が糖摂取量を減らす決定の理由となったという可能性です [5]。
* 元の研究では、がん、自己申告による糖尿病、または特定の8種類のCVD(虚血性脳卒中、脳内出血、くも膜下出血、心筋梗塞、心不全、心房細動、大動脈弁狭窄症、腹部大動脈瘤)の既往歴がある患者はベースラインで除外されました [6]。
* しかし、論評では、この除外リストには、末梢動脈疾患や冠動脈疾患など、他の一般的なCVDが含まれていなかったと指摘しています [6]。そのため、研究のサンプルには、研究対象とは異なるものの、一般的なCVDを持つ人々が最初から含まれていた可能性があります [6]。
* さらに、肝臓関連疾患や腸関連疾患など、CVDリスクを高め、かつ食生活改善の動機となる他の様々な疾患も除外されていませんでした [7]。
* 別のメカニズムとして、**選択的な過少報告**という現象が考えられます [8]。健康問題や医療上の推奨がある場合、被験者は追加糖の摂取量を過少に報告する傾向があるため、見かけ上の低糖摂取グループが実際にはより多くの糖を摂取していた可能性があります [8]。
* 研究では、高血圧、血糖値、ナトリウム摂取量、脂質レベル、家族のCVD歴、経済状況などの重要な因子が制御されていませんでした [9]。
* 例えば、高血圧はCVDの頻繁な原因であり、同時に高血圧の診断は追加糖摂取量の削減など、食生活に大きな変化をもたらす可能性があります [9]。これらの制御がなければ、最低糖摂取量の回答者が単に病気の人々であるかどうかを判断することは困難です [9]。
* 元の研究では、週に14回以上甘いお菓子を摂取するグループの方が、週に2回以下のグループよりもCVDリスクが低いという、さらに説得力のある逆因果関係の証拠が示唆されています [10]。
* 特に腹部大動脈瘤のリスクに関して、最も極端なケースでは、週に14回以上摂取するグループのリスクが最低摂取グループと比較して0.5であり、これは甘いお菓子の「魔法のような保護効果」を示唆しているように見えますが、同じ研究の全体的な追加糖モデルでは高摂取でリスク増加の傾向が示されています [10]。
* この矛盾は、逆因果関係と、健康に悪いイメージのある食品(甘いお菓子)の系統的な過少報告によって最も plausibility が高く説明できると論評は述べています [10]。
* 元の研究で実施された感度分析(追跡期間の最初の3年間に発生したCVD症例の除外)は、一部の逆因果関係を軽減したかもしれませんが、ベースライン除外の不十分さや、高血圧などの他の重要な要因の制御不足といった、より重要な逆因果関係の要因は感度分析でも残っていたと指摘されています [11]。
論評では、アルコールと健康に関する過去の研究が、逆因果関係の問題により、少量のアルコール摂取が非摂取よりも著しく健康的であると誤って示唆した例を挙げています [12]。近年のより堅牢な研究手法(メンデルランダム化など)により、この問題が緩和され、「少量のアルコールの保護的価値」は存在しないか、当初考えられていたよりもはるかに小さいことが判明しています [12]。
したがって、逆因果関係の問題は、研究の解釈において**慎重な検討が必要**であり、誤った結論を避けるために、研究デザインや分析方法を改善する必要があると強調されています [13]。
ほんまや余裕で一万超えてるやんけ!誰も何も信用できねぇ!
https://stopcovid19.metro.tokyo.lg.jp/cards/number-of-confirmed-cases
流石に、このエントリーに500近いブクマが集まっていて、賛同の声しかないというのが、はてな民の頭の悪さを象徴してると思うよ
根拠が示されてないにもかかわらず、受け入れてるあたりが本当に知能が低い。この半年の間に1万人を超える感染者を出したことはないはずだし
ワクチン接種は日々進んでいるなどの条件の変化も日が進むごとに起こるし、シミュレーションするにしても従属変数がおおい難しい時期なのにこれ。
この条件下で短期間にこれほど悪化すると予想するのならば、明確にシミュレーションの条件や計算式などの再現性があり、検証可能な条件を提示すべき。
予想を出してる方も低脳だが、受け入れちゃうのは更にやばい。こいつらは論理的思考を必要とするような仕事出来るのか不思議。
はてなーって、単純労働者が主要構成員なんじゃなーのかって思える
自分の不安なお気持ちに迎合するから、ただしい予測だと感動しちゃう、こういう非科学的な連中がプラグを抜こう運動に参加してんだろね
何も根拠が示せないのであれば、せめて予想が外れたら腹を切るくらいの事はしないとねw
ついでに消えてた元増田をgoogleキャッシュ(http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:https://anond.hatelabo.jp/20210622093917)から転載
念のために前置き。まず、痴漢を無くさなきゃならないのは当然の前提。
で、痴漢対策は確かに今の段階では女性専用車の設置は簡便で効果があるのかも知れない。
でも、各アクターの利得を見てみると
鉄道会社:低コストで痴漢問題解消に努力しているというアリバイ作り。
男性乗客:潜在的加害者視されて排除されるが、一人一人のコストは比較的小さい。
不満はあっても、それに抗議するのはブコメのようなラベリングがされるリスクがあるので割に合わない。
結果として、男性乗客にしわ寄せをする形で状況が均衡して、これ以上の変化が起きないようになってしまっている。
差別性がある、ってこと認めれば均衡が動揺するので、この状態を改善できるか、
もっとよい方法はないのかを論じることもできるようになるんだけど
例えば、ブコメにもあったが、監視カメラ増設の「痴漢対策車両」導入したりする方法を鉄道会社に要求するとか。
コストが掛かる以上、鉄道会社は自分からはやろうとはしないわけだし。
痴漢冤罪問題も同じ構造で、いつまで経っても被疑者への駅員の雑な対応が変わらないのは、
男性乗客がびくつきながら乗車する状態を放置して、時に冤罪を作っても、
今の状態で充分に低コストノーリスクで痴漢の被疑者を排除できるわけだから、新しい仕組みを作る気にはならないだろう。
抗議している男性も、この不平等で男性乗客の尊厳を傷つける「均衡状態」に無力感を感じて反発しているのであって、
その違和感をずっと考えてたんだけど「子供は自分たちと同じ程度に裕福な生涯を過ごせなければならない」って前提であるんだと気が付いた。
「いやいや、自分の子供の幸せ願うのは当たり前でしょ?」っていうのは、まあ、感情としては理解できる。でもしかし、その天秤の反対側に「じゃ産まない」ってのが乗っかるのはどうなんだ?
っていうのは、個人の能力や努力とは無関係に、国家が下降潮流にはいるってことはあるでしょう? そういう時代の中にあって、もちろん子どもの才能や運不運や相続の影響はあるけれど、全体のトレンドとして「子供時代の生活は今より厳しくならざるを得ない」という時代。その時代になったら、みんなが同時に子供なしなしやめ! って判断になるの? そしたら本当に国滅んじゃうよね。少子化による消費人口低下云々じゃなく、本当に人種絶滅的にいなくなっちゃうでしょ。
もちろん、自由な個人の家庭の運営判断をないがしろにするわけじゃない。子供産むよりも自分の生活優先っていう、トリアージが行われるのも理解できる。子供の幸福と国の浮沈という二者択一は個人の判断の手に余る(それに自分一人が子供産んだ程度で景気良くなるとは限らんわけだし)。
しかし一方で、その判断ってなんだか非常に気持ち悪い部分を内包しているのも事実だ。そもそもなんで「子供は自分たちと同じ程度に裕福な生涯を過ごせなければならない」なんて前提が置かれているんだ? 子どもに幸せになってほしいという感情は肯定するが、しかし、多少歴史を学べば景気の上昇も下降もあるし、日本にいるとリアリティはないけれど、ある世代では隣国と戦争になったとか、領土が減ったり増えたりとか、そういうのすらあり得るのが「時間の流れ」なんじゃないのか? この世界はそういう世界だと考えるのが当たり前じゃないか? 「景気はずっと上昇していくし、そうでなければおかしい」ってのは非常に傲慢で気が狂った意見に思えるんだけど、どうだろう?
「景気はずっと上昇していくし、そうでなければおかしい」ってのに対して「そりゃ変だろ、歴史の立場に立てばいい時も悪い時もあるよ」っていう人が大半だと思うけれど、なぜその同じ人が子育てに関しては急に「子供は自分たちと同じ程度に裕福な生涯を過ごせなければならない」って目を三角にするんだ? 「子供(に限らず個人の)の裕福さ」なんてのは時代の景気の従属変数に過ぎないというのに。
そもそも、子育てに関して、20年でン千万必要です、とか語ったとして、教育制度や教育費、そして貯金の価値が不変だとなんで信じられるんだ? たかがこの10年で年金の支払額やその可能性が取りざたされているこの現在、なんでそんなに「2016のたまたまの今の常識」を無謬だと信じられるんだ? たとえば、その学資保険はある日紙くずになる可能性だってあるし、大学の学費が大幅に値上がりする可能性もある(未来は不確定という意味では同様に大学無償化の可能性もあるけれど、値上がりのほうが蓋然性は高そうだ)。
30歳から40歳の人間は携帯連絡手段のない時代、ポケベルの時代、PHSやガラケーの時代、スマホの時代と目まぐるしい移り変わりを目にしたと思うけれど、にもかかわらず「2016年の常識がずっと続く幻想」があるんじゃないか? 正確に言うと2016年じゃなく「今この瞬間が過去も未来も延長されているという歴史認識」に近いと思うんだけど。べつに、だから「貧しくとも子供を産め」みたいな話じゃなくて、その(どうにも奇妙に思える)常識感覚を神格化してる部分が気持ち悪いと思う。
結局、子供を産まない、あるいは生活に余裕がないと感じているその感覚の正体は「日常的に下流たたきをしている自分のエンタテイメントスタイル」が逆照射して「下流だと叩かれる恐怖におびえる、あるいは恐怖から目をそらすために必死になる」みたいなものなのじゃないかと感じる。
ただもう、時代は昭和じゃないわけで、多様化するライフスタイルの中で、ある部分の豊かさを守るために、どこか別の部分は切り詰めるというような時代になってるんじゃないのか? そして今この国の文化の中では「家族と一緒に過ごす、子供に囲まれた生活を送るために、子供の豊かさはある程度あきらめる」というのが許されないようになっていると思う。その種の選択は「子供を不幸にする重罪人」としてすくなくともはてブではフルボッコだ。
しかし「富裕層であろうとそうでなかろうと、子供を作り囲まれて過ごすのは幸福の中心である」という判断は国や文化によっては当たり前だ。「多少裕福とは言えなくても子供を産んで育てるのは当たり前だ」という国のほうが世界では多数派だろう。世界の多くの国において「貧困層が子供産むなよ迷惑だ」とか「貧困層に生まれた子供はかわいそう」なんて糾弾は、まったく常識的ではない。
少子化の背景は、国の支援不足のはるか以前に、「子供は自分たちと同じ程度に裕福な生涯を過ごせなければならない」っていう無意識の変な前提と、「一定以上の金額を投資してもらえない子供はそれだけで不幸だ」「投資できないのに産んだ親は子供に対する愛情がない」と断罪する、ある種の下流たたきエンタテイメントなのではないのかな? そういう意味でこの国の少子化は、経済的な問題では全くなくて(だって日本より不景気な国いくらでもあるでしょ)、先進国共通の社会構造の変化部分を除けば、国民の国民たたきの結果に思えて仕方がない。
元来学業において適用されていた偏差値の概念を主観の多々入り交じる顔面の美醜という対象において摘要した点で顔面偏差値という素晴らしい概念は誠に高く評価できるものである。
偏差値とは統計的概念であり母集団の分布における統計値(確率変数の値)の高低を示すものであり、50を平均値とし10を標準偏差として算出される。
つまり60なら高め、70ならかなり高い、80ならレアアイテム、90なら激レアとまあこんな調子である。
顔面偏差値はあくまで主観的なものであるがアンケートの実施(統計調査)をすれば、客観的に扱えるようにはなる。それが美醜を客観的に正しく表しているいう意味ではなく、あくまで扱いが客観的になるだけであるが。
たとえば心理統計によくある「非常にそう思う、そう思う、どちらでもない、そう思わない、全くそう思わない」のような五段階評価を「この人が美人・イケメンだと思いますか?」という質問に対して回答させれば良いのであるから実に簡単な話である。
この方法を駆使すれば顔面偏差値と同様にさまざまなパラメータを個人に与えることもできるだろう。
また、わざわざ大がかりな統計調査を実施しなくても、人々から受けた評価をその都度反映させていくことも可能である。例えば、他人からうけた扱いや評価を主観的に5段階評価して、統計処理を行うだけのことであるから何も難しいことはない。
こうしてさまざまなパラメータが客観的に扱えるようになることそのものが実は非常に有益なことなのである。これは我らがmankogaiも再三言っていることであるが数値化しなさいと。
なんでも数値化しなさい。数値化の精度(例えば美人度70と評価したことが客観的に正しいのかといったこと)は多少ファジーであれど数値化すること自体に意味があると。そういうことを言っている人は数多い。
フェルミ推定が重視されているのもそうしたバックグラウンドがある。当のグーグルの起業家がフェルミ的な思考法を常としたことで大成功を収めたのは言うまでもない。
なのだから、常識で考えて数値化は非常に有益というのが我々の最終結論である。
数値化のいま1つのメリットは数値の変化に敏感になることである。体重を毎日量っている人は例えば体重に敏感だから食事に気をつけようという意識が違ってきますもの。
また1つのメリットは数値の上下を支配する従属変数が見えてくることでもある。bという変数が従属変数とし、a1, a2, a3, a4, ... , a10といった独立変数がbに影響しているか確認したい。
統計処理にかければこんなものは一発である。どれとどれが相関が強いのか。scilabなどで線形システムを仮定して検証するのが一般的であろう。
シストレをやっている知人がよくそんなことをやっていた。彼が言うには顔面偏差値という偉大な発明をなぜ他の人物パラメータにも摘要しないのかと。まったく同感である。