2025-11-04

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大型現場ネガ

――宮部みゆきエッセイ

 大きな現場というのは、外から見ると華やかだ。

 ゲートの脇に企業ロゴが並び、仮囲いには安全スローガンが貼られている。重機の音が響き、鉄骨が空へ向かって組み上がっていく。だが、中で働いている人間たちは知っている。どんなに巨大なプロジェクトでも、実際に現場を回しているのは、たった四、五人の「生きた歯車」だけだということを。

 そのなかに、たまに現れる。

 何も壊さず、何も作らないのに、全体の流れを微妙に止めてしまう人。

 私たちは、そんな人を冗談まじりに「ネガ害」と呼んでいた。老害でも、パワハラでもない。もっと湿った、ややこしい存在だ。

 ネガ害は、人の作ったものに小さな指摘を残していく。

 「ここ、ちょっと違うんじゃない?」

 その一言で、議論が止まる。誰かがフォローしようとするが、もう勢いは戻らない。作業も打合せも、全体が一歩引いてしまう。

 翌日、また別の場所で同じことを言う。

 そして、さっと姿を消す。

 なぜそんなことをするのか。

 ある人は「自分の居場所を確かめたいんだろう」と言った。

 またある人は「役に立てない自分を、せめて否定言葉で目立たせたいんだ」と。

 大型現場では、余剰要員というものがどうしても出る。実際に一人で現場を任せられるような人は少ないから、組織の隙間に押し出され、名前だけの担当になる。そういう人が、否応なしに「ネガ害」になってしまうこともある。

 だが現場は待ってくれない。

 工程表毎日、分単位で進んでいく。

 だから残りの三人が、すべての穴を埋める。

 昼は打合せ、夕方業者対応、夜は設計変更の整理。

 仮眠室の蛍光灯の下で、誰かがぼそりと呟く。

 「なんであいつ、来てるだけなんだろうな」

 誰も返事をしない。

 けれどその沈黙が、仲間の絆のようにも感じられる瞬間がある。

 不思議もので、そういう現場ほど最後には完成する。

 ギリギリの人数で、どうにか形にしてしまう。

 竣工の日、テープカットの後ろで、あのネガ害はにこにこ笑っている。

 「いやぁ、大変だったね」

 その言葉に、誰も反論しない。

 もう、疲れ果てているのだ。

 ただ、心の奥で小さく思う。

 ――大きな建物は、少数の我慢と誠実さで建っているんだな、と。

 どの業界にも、ネガはいる。

 けれど、あの巨大な現場の中ほど、それが際立つ場所はない。

 光の裏に、必ず影がある。

 その影を抱えながらも動かしていくのが、現場の本当の力なのだと思う。

 人は壊すためではなく、残すためにそこへ集まる。

 そして今日も、どこかの現場で三人が肩を寄せている。

 沈黙のまま、確実に工程を進めながら。

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