はてなキーワード: 老害とは
>それはごく一部というには多過ぎ
SNSのやりすぎでSNSが世界のすべてだと思い込んでる典型的なインターネット正義マン(頭おかしい人)ですね
苦手とかつまらないというのは全然いいよ 俺も小室哲哉の音楽が流行っているときに聞いてなかったから気持ちは理解できる
等と言えば、すぐ老害扱いされる。
だが事実として昨今の若者は「言ってくれなきゃ分からない」の一点張りだ。
いや、理解しようとすらしない。
言わないで察する。沈黙の中に気持ちを探る。語らないことは不親切ではなく、歩み寄ろうとするためのきっかけを作ること。
昔は相手のことを知ろうとする意志があった。だから、たった一つの仕草で人の心が分かった。
そして小津安二郎の映画が教えてくれるのは、まさにそういった人の心だ。
娘は父に「ありがとう」も「愛してる」も言わない。
ただ黙って、お茶を注ぐ。
観客はその仕草の裏を読み取る。「この人は本当は泣きそうなんだ」と。
それを感じ取る力――つまり小津安二郎の映画は機微を感じる力を育てる映画だった。
だが今のドラマは違う。
泣いている人物は大人であろうと一目で分かるほど大袈裟に泣く。BGMが泣けと言う。
そして観客もまた、それを望んでいる。
「わかりやすいこと=正しさ」だと勘違いをしていながら、それにすら気付かない。
説明されなければ分からない人間が増えれば、説明する側が力を持つ。
“この作品のメッセージは○○です”と語る解説動画が作品そのものより人気になるのはその証拠だ。
観る人の人生の数だけ、意味がある。あの沈黙の一秒に、全員の記憶が重なる。
昨今の我々はあまりにも喋りすぎている。
24時間リアルタイムでメッセージが溢れ、状況を説明し、表情を作りすぎている。
小津安二郎は、それを70年前に撮ってみせた。
彼の映画を観るということは、沈黙をもう一度、人間の言語として取り戻すことだ。
だから私はこう言いたい。
ゲートの脇に企業のロゴが並び、仮囲いには安全スローガンが貼られている。重機の音が響き、鉄骨が空へ向かって組み上がっていく。だが、中で働いている人間たちは知っている。どんなに巨大なプロジェクトでも、実際に現場を回しているのは、たった四、五人の「生きた歯車」だけだということを。
そのなかに、たまに現れる。
何も壊さず、何も作らないのに、全体の流れを微妙に止めてしまう人。
私たちは、そんな人を冗談まじりに「ネガ害」と呼んでいた。老害でも、パワハラでもない。もっと湿った、ややこしい存在だ。
「ここ、ちょっと違うんじゃない?」
その一言で、議論が止まる。誰かがフォローしようとするが、もう勢いは戻らない。作業も打合せも、全体が一歩引いてしまう。
翌日、また別の場所で同じことを言う。
そして、さっと姿を消す。
なぜそんなことをするのか。
またある人は「役に立てない自分を、せめて否定の言葉で目立たせたいんだ」と。
大型現場では、余剰要員というものがどうしても出る。実際に一人で現場を任せられるような人は少ないから、組織の隙間に押し出され、名前だけの担当になる。そういう人が、否応なしに「ネガ害」になってしまうこともある。
だが現場は待ってくれない。
だから残りの三人が、すべての穴を埋める。
仮眠室の蛍光灯の下で、誰かがぼそりと呟く。
「なんであいつ、来てるだけなんだろうな」
誰も返事をしない。
けれどその沈黙が、仲間の絆のようにも感じられる瞬間がある。
竣工の日、テープカットの後ろで、あのネガ害はにこにこ笑っている。
「いやぁ、大変だったね」
もう、疲れ果てているのだ。
ただ、心の奥で小さく思う。
――大きな建物は、少数の我慢と誠実さで建っているんだな、と。
光の裏に、必ず影がある。
その影を抱えながらも動かしていくのが、現場の本当の力なのだと思う。
人は壊すためではなく、残すためにそこへ集まる。
たとえば、何か新しい提案が出ても、
「でもさぁ」「無理だよ」「どうせ変わらないよ」と、
すぐに“否定の霧”を撒く。
その人自身が悪意を持っていなくても、
結果として、周囲が「やる気をなくす」という被害を受ける。
これは、宮部みゆきが描く「静かな悪」に近い。
直接誰かを傷つけるわけではないのに、
そして本人はそれに気づかない。
でも本当は、**現実的という名の“絶望の伝播者”**なんですよね。
けれどネガ害は、“何もしていないのに何かを奪う”。
まるで空気を少しずつ淀ませるカビのように。
ただ、宮部みゆき流に言うなら――
「そういう人たちも、きっと昔は希望を持っていたんだと思う。
でも、何かの拍子に信じる力をなくしてしまった。
それだけ「まだ生きて信じている」証なんだと思います。
思うんだけど、ここ最近で日本の接客のレベルって著しく下がったよね
以前はコンビニや飲食店のホールともなれば、逆に対して愛想良く丁寧に接するのは当たり前で、客から質問されようものならそれはもう誠心誠意籠めて応えていた訳だけど。
それが最近は客に対して笑顔も見せず仏頂面で、ぞんざいだったりぎこちなかったりする店員が増えて、質問されても要領を得ない応えで済ます店員が多くなった
ああいう態度の店員は自分達の頃だったら絶対店長に怒られてたし、それでも改善しなければクビにされて別の人間が雇われていただろう
つくづく2000年代とは様変わりしたもんだ。
いや、最低賃金スレスレで高度な接客を期待される方が本来はおかしいし、
賃金に見合った仕事しかしないというのは健全な事なんだとは思うんだよ
でも氷河期世代としては思うんだよねー
あんな適当な態度でも働く事が許されるなら、自分らの苦労は何だったんだと。
だから老害と言われる同世代に対して一概に責める気持ちにもなれないんだよね。
自分は責任のある立場に付けていないからそんな権力を振るう事はできないが、
今の若い世代は人口そのものが減ったから貴重な労働力として大切にされ、適当な態度でも許されているのだとしたら、やはり氷河期世代のように人数が多いと大切にされないし少子化は正しい事だとしか思えないんだよな。
10年・20年・30年・50年・100年と物差しのスケールを切り替えればそれはわかること。
そのへんの歴史的俯瞰の視点があれば、意識なんて簡単にアップデートできるんですけどねえ。
はてな界隈には、
大好きな人が多い。
その割には、実際の自分の価値観とか、そういうものに対しては、俯瞰的な視点を持てない人が多いんだよなあ。
最近、少しだけ話題になった「ちゃん」づけで他人を呼ぶことなんて、まともな企業ではこれからは使えなくなるという話、とかは簡単に理解できることのはずなんだけどな。
どういうわけか、スッと納得できる人が多くない。
あれは、〇〇というケースであって、なんたらかんたらで、あるから、、、とかなんとか理論武装「っぽい」ことを主張しだす。
なんだかなあ、、、と思う。
世の中の流れとして、考えられないのが、とても不思議。
俯瞰的な視点で見れば、どんどん窮屈な方向へと社会は向かってるんだから、人の敬称とかもどんどん制限がかけられていく社会になるのは当然。
そういう流れの中で「ちゃん」づけは不適当である、ということが社会に認識されればどうなっていくのかはわかりそうなもの。
でも、なかなかどうして、頑固な人はそれが理解できない。そして、老害へ、、、。
自分がどう思うかよりも、社会がどう変化するのか?頭は柔らかくしてかないと、ね?
とはいえ、未来はがどうなるかはわからないというのも事実なんだけどね。
価値観のアップデートの反動みたいなものが来ることだってありえるから。
トランプみたいな人が日本にも現れて、行き過ぎた価値観のアップデートをダウングレードさせる方向へと持ってく可能性だってある。
それはそれとして、あるのはあるけど、まあ現状はどんどんと息苦しくなる方向へと向かってるという認識は持たないと。
いけないんじゃないですかね。