この記事は雑誌ナショナル ジオグラフィック日本版2025年6月号に掲載された特集です。定期購読者の方のみすべてお読みいただけます。
臓器移植のドナー不足を解消するために、ブタの臓器を役立てることはできるか? 研究の最前線を追い、実際に移植を受けた患者たちの声を聞く。
そこに立ち入るには入念な準備が必要だった。事前に説明書を渡してほしいと思ったほどだ。まず警備員の詰め所で署名をする。入り口で靴を脱ぎ、ロッカールームに入ってシャワーを浴びる。丈の長い手術用ガウンを着て、膝まであるゴム長靴を履き、最後に安全ゴーグルを装着する。
「いろいろと面倒をかけて、すみません」。案内役のビョルン・ピーターセンが前に進むよう手招きした。「病原体が入らないよう、とても気をつけているので。大丈夫、すぐに慣れますよ」
私はその2時間ほど前に米国中西部の某都市(都市名は伏せるよう求められた)のホテルで目を覚ましたのだった。そして今、ドイツ生まれの科学者であるピーターセンの後に付いて、この極秘の研究施設の廊下を進んでいった。
飼育施設に入ると、何かを期待しているような騒々しい鳴き声と、セメントの上を動き回る足音に迎えられた。十数頭のブタがそれぞれの囲いの端に突進し、鼻面で金属の扉を押して音を立てた。「紹介したいと思いましてね」。ピーターセンはそう言うと、「マルガリータ」という名札がかかった囲いの前で足を止めた。その囲いのブタは彼の手に体をすりつけた。
「マルガリータは最初に生まれた子ブタたちの1頭なんです」。囲いに身を乗り出して、頭の黒い毛をなでてやりながら、ピーターセンは誇らしげに言った。「ここにいるブタのほとんどは同じ細胞から生まれたのですが、最初の子はやはり特別ですよね?」
この施設の責任者を務めるピーターセンは、家畜のクローン作製と「異種移植」の専門家だ。異種移植とは、動物の組織を人間の患者に移植する、最先端の技術である。ピーターセンは四半世紀近く、ヨーロッパで複数の政府系研究機関に勤務した後、米国のバイオテクノロジー分野のベンチャー企業eジェネシスで働くために、2023年に家族とともに中西部に移住してきた。当時、eジェネシスは人間の患者への移植用に遺伝子を改変したブタの腎臓の開発に取り組み始めたばかりだった。ゲノム編集技術と免疫抑制剤の進歩のおかげで、同社はその後まもなく、独自開発のブタの腎臓が霊長類の体内で長期にわたって機能し、同種移植と遜色ないレベルで血液をろ過し、尿をつくれることを実証できた。
子ブタの世話を担当
それから2年たった今、ピーターセンとeジェネシスは腎臓をはじめとする臓器移植の分野に一大変革をもたらす試みの最前線に立っている。現状では世界的にドナー不足が深刻で、多数の患者が腎臓の提供を待っているが、その状況が一気に変わる可能性があるのだ。すでに驚異的な成果が上がっている。霊長類への移植実験から、脳死状態の患者への移植の段階を経て、ついに2024年3月、生きている患者にブタの腎臓が移植されて、世界に注目されたのだ。







