はてなキーワード: キリギリスとは
アリもいるキリギリスもいる。では高市早苗さんの自主的にワークライフバランスを捨てて働いて働いて働く特攻隊員志願兵長のスタイルを否定できないと思う。
バブル崩壊後、日本は「失われた30年」と呼ばれる長期停滞に陥った。デフレと低金利が常態化し、預金利息はほとんど期待できず、資産を現金で保有していても増えない時代が続いた。
この時代に「アリ」となった人々は、将来を見据え、株式・不動産・外国資産といったリスク資産に投資した。短期的には成果が乏しい局面もあったが、少額からでも積み立てを続け、長期でリスクを分散する姿勢が功を奏した。結果として、デフレ脱却後の株価回復や世界的な資産価格の上昇を享受し、資産形成を進めることができた。
一方で「キリギリス」となった人々は、当時の常識に従い「安全第一」を理由に現金と預金に資産を留め続けた。デフレ下では物価が下がるため、現金の実質価値が維持されることが安心材料となった。しかし、これはあくまで「デフレという特殊環境」が支えた一時的な優位にすぎなかった。
令和に入り、状況は一変した。エネルギー・食料を中心に世界的なインフレが進み、日本でも物価上昇が家計を直撃している。低金利が続く中、預金に資産を置いたままの「キリギリス」たちは、現金の購買力が目減りし、生活水準の維持に苦しむ局面を迎えている。
一方で「アリ」として投資を続けてきた人々は、資産の成長によってインフレの影響を和らげることに成功している。
寓話「アリとキリギリス」の結末は、令和の物価高において現実の姿として現れた。平成不況下における投資行動の差が、時を経て大きな格差となって可視化されているのである。
説明しよう、
とはいえ経済は株価だけでは測れない、マクロな地球全体GDPはざっくり4%成長なのだ。インフレ率と言うても良い。
ざっくりだ、細けぇことはいいんだよ、そんなだからオマエは貧乏で不幸なのだ。
ともかく、今日の100万円は1年後には96万円の価値しかなくなる。
100万円の価値を維持するには104万円になってなきゃならない。
極端な話一ヶ月持ち越すだけで3千円以上の価値を失っている。
2007年1月に初代iPhoneが500USDで発表された。
日本は未発売だったが当時のドル円相場118円で換算すると6万円相当になる。
現在の最新iPhoneは16eで600USD、日本だと10万円だね。
※iPhone指数 その年次の最新iPhone価格をその年次の平均所得(中央値)で割ったもの
簡単に言えば日本のiPhone価格(所得相対値)は17年間で倍近くになり、アメリカ人の感覚で言えば少しお安くなっている。
で、だ、話を戻すと17年前日本の銀行に100万円を定期預金で預けたとしても現時点で100万円(+数千円)にしかなっていない。
額面は変わっていないが価値は半分になっていることを意味する。腐ってるんだ。
間抜け。使え。庶民は手に入れた金はさっさと使うのが正解なのだ。
仮に大病したとする。数千万円の預貯金などなんの足しにもならない。
払う金がなければ行政がきっちりなんのかんのやってくれる、病院から追い出されることは絶対に無い。
ちなみに高福祉国家を謳う北欧の国々の実態を知らない人も多い。
例えばイギリスなどは病院はタダだ。ところが盲腸に罹っただけで死ぬ。
つまりタダなんだけど手術予約は半年後とかだ、抗生物質を処方されるだけで病院を追い出される。普通に死ぬ。でもタダ。
金があるやつは自費で治療を受ける。(まぁこれはサッチャー時代の極端な逸話で現在は少し改善しているがあまり変わってない)
まぁその話はどうでもいい、で、だ、日本で中途半端な預貯金があっても行政はこういう
「自分の金があるならまずそれを使ってください、預貯金、資産、不動産、自動車、生命保険、全てゼロになったら助けて上げますよ」
根無し草で即日公助に頼るか、一年二年後に頼るかの差でしかない。
それよりも健康で稼いでいる間はしっかり働き納税し消費して経済を回すほうが正しい。
イザとなっても自分だけ逃げ切ろう、キリギリスになるまいって、合成の誤謬でググれカス。
てめぇの書いた事業計画書、目論見書が正しければ金なんぞいくらでも集まる。
ともかく、これだけ懇切丁寧に説明すりゃ頭の悪いオマエでもわかるだろ?嫁
貧乏な友人ともう一緒に遊べない
大学時代の友人に会った。
大学時代はお互い貧乏で、たまり場と言えばドリンクバー付きのファミレスか、学内食堂だった。
お金がないお金がないと言いながら、ノートを広げてテスト勉強しているのが常だった。
給与はおよそ2倍差があった。ボーナスもなく、残業代で生活費を稼ぐわけにもいかないらしい。
それはそれで彼女は満足そうに暮らしていたから、私は特に何も思っていなかった。
ただ、この前一緒に遊んで、思った。
金銭感覚が違いすぎる。
彼女はランチにドリンクをつけるかつけないかで5分以上悩み結局ドリンクをつけないし、歩き疲れているのにカフェの値段に文句を言う。
都内のカフェなら安いお店の方が少ないというのに、ひたすらにドトール推しをする。
ドトールが悪いと言っているわけではない。ただ、ドトールは日ごろから行けるものだ。
1年ぶりに会う友人と談笑するために行くお店にしては、非日常感がないし、たばこのにおいは感じるし、いささか心がときめく場所ではない。
彼女は都内に出てくるまでの交通費と時間も惜しむのだ。コーヒー一杯、10円単位でも、妥協したくないのだ。
それが1年ぶりに会う友人との時間であったとしても。
ファッションビルで少し値段の張った服を見たいと思った。でも言えなかった。
結局ユニクロに行った。
ただ「ユニクロしか選択肢がない」遊びのなさに、私は失望した。
たまの休み、非日常的な空間でおいしいものを食べて、心がときめくような服や雑貨を見ることはそんなに悪いことだろうか。
そんなに贅沢なのだろうか。
「高くてコンビニなんて絶対行けない」と言い張り、たまの友達との時間ですら、「お金がないお金がない」と言い続けている。
この人とはもう「遊ぶ」ことはできないな、と思った。
住む世界が変わったのだ。
生活に遊びがないと生きていけない、キリギリスのような私と、貧しさを受け入れて地道に生きているアリのような彼女。
この二人で価値観をすり合わせて「遊ぶ」ことは、学生時代はともかく、今ではもうできないのだ。
「また遊ぼう」というLINEに「遊ぼう」と返信して、「じゃあ何で遊ぶの?」と疑問がこみ上げた。
私がカフェを提案しても、ショッピングを提案しても、カラオケや映画やディズニーを提案しても「お金がない」で終わる。
もう一緒に遊ぶことはないだろうと思った。