はてなキーワード: 全女とは
性産業というと女性問題と捉えられているけど、「一度でも性サービスをお金で買った/売ったことがあるか」で見ると、性産業と無関係な女性が多いです。
AIによるざっくりとした試算だと、日本の男性の70%程度・女性の95%程度は売り手でも買い手でもないので性産業と無関係です。
ホストの10倍の人数の売春婦がいるので、女性はよく売春をしているかのようなイメージを持ってしまっているのでしょうけど、売る女性の25倍の人数の買う男性がいるんですよね。
概算ですが、売る女性は1人あたり月に35人程度の男性を相手しています。そして「ホス狂だから風俗堕ちした」のパターンが多いので買う女性は売る女性と重複してるんです。
繰り返しますけど女性の95%程度は売り手でも買い手でもないので性産業と無関係です。95%が無関係なのに「女性問題」と呼ぶのってどうなの?本質は「3割の男性の問題」では?
というオーダー感になる。
これを重複をざっくり差し引いて整理すると、20〜49歳女性では
というイメージになる。
上の20〜49歳の結果を、「性産業に関わる中心年齢層の傾向」とみなして全人口に緩やかに外挿すると、次のようなざっくりした見積もりになる。
というオーダーになると考えられる。
「日本テレビから国分太一さんの人権を守ろう!」オンライン署名立ち上がるも賛同者数は衝撃の143件…業界内でも薄い反応で復帰は困難か [Ailuropoda melanoleuca★]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1763117123/
「たった4900人では…」 訴訟は回避濃厚も、中居正広氏の“復帰熱望”を打ち砕く「厳しい現実」
https://news.yahoo.co.jp/articles/8d43320530b4b5b0d88347dd59cf43b8b622f556
女性の方が学歴も収入も低いので、同程度の学歴と収入の男性よりも交渉力が高いのです
追記:
意図的に誤読しているのか、統計を読むことができない人なのか、わかりませんが。
上で述べている「女性の方が学歴も収入も低い」というのは、全男性と全女性、あるいは、年齢等の属性を揃えたときの男性と女性の分布の違いについて述べています。(常識的な言葉遣いです。)
また、男性がより低い収入の配偶者と、女性がより高い収入の配偶者と結婚する傾向も、広く知られています。
こうしたことを無視して、初婚時の収入等を比較して(それが正しいのか自体を私は疑っていますが、もしそうなっていたとしても前述の傾向を踏まえれば恣意的な採りあげにすぎません。)
チェンソーマンの世界において、悪魔の強さは人間からの恐怖に比例する。
なぜなら、この悪魔は 全女性から恐れられている 存在だからだ。
女性にとって下方婚とは「自分の人生を台無しにされる」最悪の未来そのもの。
努力して築き上げた学歴やキャリア、社会的評価――すべてを無にする現象。
だから「下方婚の悪魔」は、まさに 女性の人生を全否定する存在 となる。
結果、この悪魔は人類から恐れられている最強の存在にまで成長する。
女性の選択や生き方を支配するということは、社会のパートナーシップを通じて男性すら支配できる ということを意味する。
つまり下方婚の悪魔は、性別を超えて人類全体を操る「究極の概念悪魔」なのだ。
銃の悪魔も、闇の悪魔も、その存在は「死」や「暴力」といった単一の恐怖にとどまる。
チェンソーマンの世界って、悪魔の強さは人間からどれだけ恐れられてるかで決まるんだよね。
人類から恐れられるほど力を増す仕組みだから、全女性から恐れられてる弱者男性の悪魔が最強ってのは納得だわ。
だって弱者男性って言えば、もう「女性を性加害することしか考えていない人類の敵」ってイメージそのものだからね。
実際に「なんで女性を加害するの?」って聞くと、「そこに女性がいるから」って返ってくるのも最悪。
女性を見かけるとわざとぶつかってくるし、女をとっかえひっかえして遊んで、レイプして無理やり子どもを作って、挙句の果てには養育費も支払わない。
これは古くて新しい問題というか、かつて「性の解放」の文脈でフェミニズムの内部批判がとっくにあった話だよね
1970年代〜80年代にかけて、「性の解放」はフェミニズム、LG運動、ヒッピー文化の潮流の中で重要なキーワードで、性を抑圧から解放し、女性も主体的に性を楽しむべきだという主張だったんよ
しかしこの「解放」は、フェミニズム内部からも批判の対象となった
・商業ポルノ産業が「性の解放」を巧妙に取り込み、むしろ女性の性的搾取を助長した
→ 女性の裸体や性行為を「自由」として売り物にすることで、男性の欲望を満たす装置に変貌
→ 特に職場や大学などで、「オープンな性文化」のもとにハラスメントが横行した例も
・上流階級・白人女性によるフェミニズムが「全女性を代表する声」とされたことへの批判
→ 実際には、育児労働、家庭内暴力、性産業への従事といった問題が一般女性に集中していた
このような問題提起から出てきたのが インターセクショナリティ(交差性) の概念やね
・1989年、キンバリー・クレンショウ(Kimberlé Crenshaw) によって明確に理論化
→ 黒人女性として、白人女性中心のフェミニズムでも、黒人男性中心の反人種差別運動でも「見えない存在」にされてきたことを批判。
インターセクショナリティは、性別だけでなく、階級、人種、性的指向、障害の有無などの複数の差別軸が交差することを問題にする
つまり、「上流階級の白人女性のフェミニズム」が主流を占めていた時代に、性の解放=自由であり善であるという前提が、階級・人種的に周縁化された女性の現実をまったく反映していなかったという批判がインターセクショナリティの視点からなされるようになったわけよ
トランスジェンダリズムも結局はこの枠組みの中の問題だったってことやね
快活クラブのフラットシートで座禅を組み始めて一年。アラフォー独身で弱者男性の俺が、一発逆転を狙ってやり始めた座禅だったが、とうとう解脱したようだ。
おれは童貞だが、悟りを開いた今は、全女性と合一している。迷いも雑念もない。もはや俺は童貞ではないのだ。
解脱した高揚感を抱きながら、ソフトクリームを食べる。うまい!解脱後のソフトクリームは格別だ。調子に乗って快活カツカレーを頼んで食べてしまった。
悟りを開くとはこういうことか。全能感が体を駆け巡る。今なら俺はモテモテだから、隣のブースの女性に声をかけても一瞬で恋に落とせるだろう。
みんなも快活クラブで座禅しよう!漫画も読み放題、ドリンクも飲み放題で、ソフトクリームもあるから、座禅の合間に休むことができるぞ。
女が8割ぐらいの職場で働いてるが、女と働くことの厳しさにはマジで共感する。
なんというか、とにかく「コミュニケーションコストが高すぎる」の一言に尽きると思う。
何か仕事を依頼するにしてもありったけのクッション言葉を挟まないと「あの人、感じ悪くない?」となって全女性社員から嫌われる羽目になるし、雑談にも適度に付き合わないといけない。
かといって雑談で深入りしすぎると地雷を踏んで嫌われる(しかも何が地雷かは人によって違う)から、基本的に聞き役になりつつ相手が話したそうなポイントを見つけて相づちを打たないといけない。
もはや仕事よりコミュニケーションに疲弊してる今日このごろである。
それでも自分は男ということもあって上記のようなコミュニケーションをわりと免除されてる感があるけど、女性同士だとこういうコミュニケーションを避けるのって難しいだろうから疲弊しやすいんじゃないだろうかと思う。
1970年代〜80年代にかけて、「性の解放」(sexual liberation)はフェミニズム、LGBTQ運動、ヒッピー文化、反権威主義の潮流の中で重要なキーワードでした。特にウーマン・リブ運動の一部では、性を抑圧から解放し、女性も主体的に性を楽しむべきだという主張がありました。
しかしこの「解放」は、しばしば次のような批判の対象となりました:
商業ポルノ産業が「性の解放」を巧妙に取り込み、むしろ女性の性的搾取を助長した
→ 女性の裸体や性行為を「自由」として売り物にすることで、男性の欲望を満たす装置に変貌。
→ 特に職場や大学などで、「オープンな性文化」のもとにハラスメントが横行した例も報告されています(例:セクハラという言葉が1980年代に米国で普及)。
上流階級・白人女性によるフェミニズムが「全女性を代表する声」とされたことへの批判
→ 実際には、育児労働、家庭内暴力、性産業への従事といった問題が一般女性に集中していた。
このような問題提起から出てきたのが インターセクショナリティ(交差性) の概念です。
1989年、キンバリー・クレンショウ(Kimberlé Crenshaw) によって明確に理論化
→ 黒人女性として、白人女性中心のフェミニズムでも、黒人男性中心の反人種差別運動でも「見えない存在」にされてきたことを批判。
インターセクショナリティは、性別だけでなく、階級、人種、性的指向、障害の有無などの複数の差別軸が交差することを問題にします。
つまり、「上流階級の白人女性のフェミニズム」が主流を占めていた時代に、性の解放=自由であり善であるという前提が、階級・人種的に周縁化された女性の現実をまったく反映していなかったという批判がインターセクショナリティの視点からなされるようになったのです。
アンドレア・ドウォーキン(Andrea Dworkin)
→ ポルノグラフィを性暴力の一形態として厳しく批判。ポルノ産業が「性の解放」を利用して女性の搾取を正当化したと主張。
キャスリン・マッキノン(Catharine MacKinnon)
→ 性的自由の名のもとに、女性の身体が公共空間で商品化されることに警鐘。
→ 黒人女性にとってのフェミニズムと、階級・人種を無視した主流フェミニズムの限界を指摘。
bell hooks(ベル・フックス)
→ 白人中産階級のフェミニズムに対し、「抑圧されているのは白人女性だけではない」と再三批判。とりわけ「性の解放」が階級間で異なる意味を持つことに注目。
性的自由を掲げた70〜80年代のフェミニズムの一部は、今でも「セックス・ポジティブ」な運動として評価されていますが、一方でポルノ・売春・性の商品化をめぐる議論は今なお分裂的です。
インターセクショナル・フェミニズムは現在の主流理論となっており、「誰の自由か」「誰の声が抑圧されているか」という問いが常に問われるようになりました。
性の解放は一枚岩ではなく、誰にとっての自由か? 誰の犠牲の上に成り立つのか? という問いがいまもフェミニズムの核心にあります。
X等で散見される女性嫌悪語としての「女さん」は、まとめブログの収益化に問題があるので書き換えられたもの。
まとめ元のスレッドでは元々「まんさん」「ま~ん」と書かれていたのが、そのまま使うとアドネットワークの収益化に差し支えるので、まとめブログが「まんさん」部分を「女さん」に書き換え、それがX等で使われるようになっている。
「まんさん」「ま~ん」が使われ始めたのはなんJなどではなく、元を辿れば同性愛サロンで、女性に対しての蔑称としてゲイが使用し始めたのが最初。
同性愛サロンに腐女子のネナベが潜入し、明らかに本物のゲイではなく腐がなりすましているのがバレバレの書き込みがあったため、ゲイがそうした女を「腐マンコ」「まんこ」「ま~ん」と呼び始めたのが始まり。
ルーツを辿っていくと、同性愛サロンに凸した腐女子の気持ち悪さがゲイの中から女性蔑視語を生まれさせ(これについては腐女子がゲイにセクハラしている・一方的に性的対象化しているのでゲイが嫌悪するのも当たり前と思う)、
なんJなどのミソジニストのノンケ男も多い場所にゲイがルーツの女性蔑視語が浸透、まとめブログによる「まんさん」→「女さん」言い換えを経てXで幅広く蔓延、という感じ。
つまり腐女子による同性愛サロンへの迷惑行為が、ノンケ男を経て、全女を馬鹿にするワードとして広がったのが現実なんだよね。最初は誰が悪かったんでしょうか?っていうと、これ、凸した腐でしょ