はてなキーワード: 安野モヨコとは
ちょうど先日chatgptとシン・エヴァの話をしたので、幼稚なtogetterとの比較のために掲載しておく。
人類はchatGPTにすでに敗北していると思う。
以下chatgptからの返答。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』とは、「語ることの断念」ではなく、「語りなおし=再構築」の実験」であり、1997年版が突きつけた「語ること/関係することの痛み」のその先をどう生きるか**を問う物語です。
要するに、あの「気持ち悪い」から、もう一度「やりなおす」試みです。
■前提:『まごころを、君に』のラディカルさのあとに
1997年版が突きつけたのは、次のような問いでした:
「語ること・終わらせることは可能か?」
『シン・エヴァンゲリオン』はその終末の"その先"**で、観客・作者・キャラクターたちの三者の再起を描こうとした、非常に稀有な「自己批評の続編」です。
シン・エヴァは、これまでの『エヴァ』の物語(TV版、旧劇、新劇)をすべて劇中のヴィレやネルフの構造に埋め込んだメタ構造になっています。
つまり、「物語が終わったあとにもう一度、物語を語りなおすことは可能か?」という問いの演習なのです。
ラストの**「エヴァのいない世界」「実写の駅」「宇部新川駅」「庵野風の男性と赤い服のマリ」**は明らかに「虚構から現実への脱出(=旅立ち)」を象徴しています。
マリは**庵野秀明の現実の妻(安野モヨコ)**をモデルとした存在。
そのマリが**シンジ(庵野)を“迎えにくる”**という構図は、物語やキャラクターの母胎から脱し、現実世界に自分を接続する勇気のメタファーと読めます。
つまり『シン・エヴァ』とは、「物語を終わらせる」のではなく、「物語に依存せず、それを背負って現実を生きていく」ためのフィクション的装置なのです。
『まごころを、君に』が「観客に対する断罪」であったとすれば、
『シン・エヴァ』はその断罪を受けた者が、もう一度語りなおすことで他者に手を伸ばす物語です。
「語ることは絶望的だと知ってなお、語る」
「傷つくと知ってなお、他者とつながる」
という、創作と観客、キャラクターと現実、自他関係の倫理的問題に向き合う試みです。
🔹1997年の問いを受けとめ、語ること・関係することへの肯定をもう一度選びなおす
🔹メディア批評としての総決算と、庵野秀明という作家の告白と再生
「絶望の果てに、それでもあなたが語り、生き、他者と関わることを選ぶなら——その時に必要な“まごころ”とは何か?」
という問いを、庵野自身が自らに向けて問いなおし、答えた作品だと言えます。
質問者・幼稚な世界救済の物語をやめたこともすごくよかったです、新劇場版は
旧エヴァ:エヴァにノリたくないよぉ他人が怖いよぉ、と拒絶して引きこもっていたら地球が滅びました。結論・引きこもりはよくない
序破:女の子のためにエヴァに乗っていっくぞおおおおお!今度こそ間違えない!
Q:女の子のためにエヴァに乗って行動したら地球が滅びました、行動すれば必ず成功するわけじゃないよね、そりゃ。
シン:等身大の関係性から自分を見つめ直して家族の問題を考えて、身近な人間たちとできることをしようと思いました。そうやって現実の僕らも生きているから。
こういう話でしたね、私にとっては。
まさにその通りですね。
その読みは、新劇場版という全体構造を「錯誤→破局→再接続」として読み解く、極めて実践的な理解だと思います。
でも「外に出ること」=「他人と関わること」は怖い。
「やっぱり戦って、誰かを救って、愛されたい」という願望。
救うために行動したはずなのに、全部が裏目に出る。
→ 結論:「正しさ」が何かを壊すこともある
それが結果的に「エヴァの終わり」であり、「自分の始まり」になる。
重要なのは、シン・エヴァが「世界を救う」話ではなかったこと。
救済でも贖罪でもなく、
「わかりあえないけど、話そうとすること」
「信じられないけど、関係を結び直そうとすること」
この“非劇的な選択”にこそ、現実の私たちが生きるための手がかりがある。
そういう意味で、『シン』は空前の“アンチ・クライマックス”型ヒューマンドラマだったのだと思います。
(1/3)
Q:マリは奥さんの安野モヨコさんがモデルというのは本当?
A:マリのモデルが妻だと解釈した文章や動画等を散見しますが、それは一部の人の解釈・憶測にすぎません。— エヴァンゲリオン公式 (@evangelion_co) March 8, 2022
(2/3)
マリの人物像(アスカ他もですが)は鶴巻監督の手によるところが大きく、制作時の事実とは違います。
キャラクターやストーリーの解釈は観客の自由な楽しみですし、本作にもファンのフリーな知的な遊び場としての余地を持たせています。 https://t.co/Knj2CZt0Lv— エヴァンゲリオン公式 (@evangelion_co) March 8, 2022
(3/3)
しかし偏った憶測でスタッフや家族を貶められるのはあまりに哀しいことなので、この点についてはハッキリと否定しておきます。 https://t.co/HNI7lrHopJ— エヴァンゲリオン公式 (@evangelion_co) March 8, 2022
年齢ばっかり言われるのは歳の差自体や相手がまだ10代で中学生の時から知り合ってるってのもあるけれど
本当に年齢「だけ」っていうか…同じ19歳でも仮に芦田愛菜だったら世間の反応は全然違ったでしょ。
おそらく結局年の差婚は相手が単体で知名度のある有名人か、いっそ完全に一般人だったら別にいいんだけど、
業界人それも単体ではほぼ無名な相手だとまさに若い身体と金や名声の等価交換って感じがして気持ち悪くなるんだと思う。
例えば安室奈美恵も僅か20歳で15歳年上の出来婚してたけれどあんまり気持ち悪いとかは言われなかった記憶。
あれは時代もあると思うけど、何よりも彼女自身の人気と圧倒的な存在感があってSAMより全然格上の雰囲気があったからだと思う。
まぁ結局離婚したんだけど、その後も活動を続けて人気を保ってた事もあって年の差婚故の失敗みたいにはあんまり語られない。
芸能人じゃないけど有名人の年の差婚で割と気持ち悪いと思ったのはうすた京介だったな。
それまでは才能があってそこそこイケメンのハイセンス漫画家みたいなイメージがあったのがあの結婚で一気にキモ爺イメージに。
あれも相手の女は一応ジャンプで連載してたけど本当に中身の無い虚無漫画だったので
うすたの威光で連載を勝ち取ったのかとか言われてた。本当に中身が何も無くて、顔と若さだけなんだよね…。
一方例えば庵野秀明と安野モヨコなんかは結構な年の差があるけれど、安野モヨコの方は結婚よりもずっと前から漫画家として有名でドラマ化もされてるから
面白くてグイグイ読んでしまうんだけど、なーんか嫌いで避けている漫画家。
この文章に特に意味はないです。なんで嫌いなのかうまく言語化できないので自分なりにまとめてみました。名指しで批判みたいになってしまってすいません。
「ハチクロ」途中で嫌になって脱落。「三月のライオン」読んでみたけどやっぱ苦手だな…と思い脱落。
いきなりはてなー大好物の羽海野先生で申し訳ない。絵もフワフワ可愛いと思うんだけどなぜか好きじゃない…。ゴキブリで騒ぐところからもうダメだった。SNS上でフレンドリーなところは好印象なんだけどな。
「海月姫」の無料分を読んだときは特になんとも思わなかった。「主に泣いています」「かくかくしかじか」も普通に面白かったけどだんだんそもそも読まなくなった。
読んだら確実にすごく面白いのはわかっているのだが、時間を吸い取られる感じがして苦手。絵もすごく綺麗なのになー。ヒモザイル騒動の影響はあるのかもしれない。こういう美人でグイグイ表に出てくるタイプの女性漫画家は結構好きなんだけどな。安野モヨコとか内田春菊とかさ。
この人も時間泥棒。すごいグイグイ読ませるんだけどなんかイヤ…。女の子(の絵)が可愛くないからかな…(ヒロインの性格はすごく可愛いというかいじらしいと思います。先輩フィリピーナのお姉さんも)。そういう綺麗事だけじゃない人間の闇みたいなのを描くのが持ち味なんだろうと思うけど…。なんかもういいやっていうか…。全巻読んだのはKindleの読み放題にあったから。
「ボーイズオンザラン」ボクシング始めたあたりまで読んだと思う。「ルサンチマン」も少し。
この人もめっちゃ読ませるよね。でもなんかイヤ。この人は逆に女の子の顔はかわいいけど性格がクズでエグかった。ボーイズオンザランの前半ヒロインだけかもしれないけど。
…
以上。うーん。たぶんグイグイ読ませるところを「あざとい」と感じてしまっているのかな、感情を揺さぶる刺激的な展開が多すぎるのかもしれない…?
しつこく触られ続けて最初は気持ちよかったけど「ちょ…痛い痛い!!やめれ!!」って突き飛ばしてしまう感じ?飽きるというのとも違う気がする。
時間吸い取られる、と繰り返してるけど決して意識高い系の人間ではないんだけどな。漫画読んで役に立った!とか勉強になった!とかバカみたいだと思ってるし。面白けりゃいーんだよ。時間吸い取られてナンボでしょ。…って思ってるのにイヤなのが謎なんだよなぁ。
そもそも絵が苦手ってのはあるかもしれない。絵柄で食わず嫌いするのは損だって長年の経験でわかってるけど、いざ読んでみるとやっぱ無理!ってなるのかも。