はてなキーワード: 慣用表現とは
わけわからないこと言われると何の話っていうの?それどういう意味?なんかの慣用表現?
dorawiiより
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20251113172115# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaRWU/QAKCRBwMdsubs4+ SKPfAQDkI1+Ukfp0YB2DRUWwCcWHJ+wCp77ozcApCMtVp4b9mQEA1LGBhECz2AhG 1r7yuYCmU21qkKAJjM9Be6UPUfz10Ao= =Gf7E -----END PGP SIGNATURE-----
「無言の帰宅」が話題だけど、そういう慣用表現に限らず自分が常識だと思ってる言葉が相手に通用しない時、なんかパラレルワールドに迷い込んだ気分になるというか異文化交流というか、当たり前だと思ってたことを違う視点で捉えられる気がして結構面白い。当たり前に知ってると思ってたことでも改めて説明しようとすると難しかったりするし、逆に相手が当たり前のように使ってる言葉を自分が知らなくてほへーと思うこともある。最近印象的だったのは、イタリアンに一緒に行った友達にカルボナーラってどんなやつだっけと聞かれて、流石にびっくりして冗談とか雑談のフックのつもりかなと思いつつ説明しようとしたら、クリーム系のやつとしか言葉が出てこず自分にもびっくりした。
でも新鮮味があって面白いとはいえ、内容がしょうもなくて、やんわり間違いを指摘しても絶対誤りを認めない相手だと、説明するのもめんどくさくて勘違いしちゃってたのかな〜とお茶を濁すことももちろんある。このパターンで印象的だったのは、カバディのことをガバディだと主張する人で、カバディガバディ言い合うことがもはや面白かった。
父親がアナウンサーの読み間違いやイントネーションのミスなんかに文句つけるタイプで、小さい時から嫌だなーと思っていたけど、いやいやあれで正しくない?とか、あの単語と混同したのかなとか、そういえばあの言葉のイントネーション人によって違うよねとか、話題を広げると嬉しそうに話し出すから、家族とコミュニケーションを取りたくて話題を探してたのかなと思うとちょっとだけ許せるようになってきた。
言葉は移り変わっていくとはいえ基本的には正しく使いたいし、言葉は変わるというのを楯に開き直る人も知ったかぶる人も無知を馬鹿にする人も嫌いだけど、言葉に関する問題はジェネレーションギャップやカルチャーギャップがありつつ個人の尊厳をめちゃくちゃ傷つけるようなものではないから、身近な人とコミュニケーションのきっかけにする上ではなかなか良いトークテーマなのではと思う。
結論から言うと、「エッフェントリッヒゲハイムニス」というカナ表記はおすすめできません。ズレが3点あります(綴り/語形・発音・慣用表現)。
エーフェントリヒ・ゲハイムニス(öffentlich Geheimnis)
※無変化で置かれているため -es は付けません。
エーフェントリヒェス・ゲハイムニス(öffentliches Geheimnis)
オッフェンバーレス・ゲハイムニス(offenbares Geheimnis)
あるいは ダス・オッフェネ・ゲハイムニス(das offene Geheimnis)。
要するに、その本がどの独語表現を想定しているかで最適な表記は変わりますが、「エッフェントリッヒゲハイムニス」は標準的な読みに照らすと適切とは言いにくいです。
→たとえば知恵袋では敬語を使わないとあからさまに浮くしマナーのなってない奴と総叩きにされることもざらではないが、ここでは「敬語を使え」なんて言おうものなら逆に笑いものにされるぐらい、礼節とか考えるのも野暮な場という意味で(ほとんど)無礼講=カジュアルな場だと言っている。
→過去の発言を気にする、と書こうとしたののタイプミス。訂正する。一旦やり取りがひと段落した、そのやり取りとやり取りの間を遡られてもいいように自分の発言に気を付けるほどのことをしなければならない場では増田はないだろう、と言っている。
→過去の発言との矛盾を指摘したり逆にそうした指摘をいちいち警戒するようなあり方、と比べている。
そもそも発せられた瞬間から過去のものなので「する」という行為の意味も不明
→同上
「そこのところ」どこのことか不明
→「そこのところどう?」は全体で「あなたはどう思いますか?」「何か異論はありますか?」の意味。慣用表現。
「どう?」何が?
→同上
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20250820175520# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaKWNewAKCRBwMdsubs4+ SDnMAP96M1VUzqJsAaB6p0zIoxd1MT5Yb7ZhLlIViFdNOr6gHAEAhK1rvOvUI0fL bDe235Smra8GD4CsXX0LY2NF7OxoqQE= =jeMz -----END PGP SIGNATURE-----
そこのところどう?ってあなたはどう思う?って意味の慣用表現なんだけど。
それがわからなくて代名詞の宛先にこだわるとか日本人じゃないのかな?
イッツレイニーと言われてitは何を指してるのと言ってるようなもんなんだけどねえ
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20250819154044# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaKQh3gAKCRBwMdsubs4+ SHUcAQD1qpihUu3pJM91qGOsIizwMXegd2igeqHk+0W3J10PMAEA5su2fAOR3b5N v2M9R0Y39iFtGv0ihStgROzSg+81Gwk= =Z62s -----END PGP SIGNATURE-----
日本語でおk、だが、この言葉が誕生した文脈は、ウルトラマンが悩みを聞いてあげるスレッドでウルトラマン語みたいな書き込みがされたことに対してウルトラマン役自身が言った言葉から来ているのだから、
まさに「私は日本語が理解できるから日本語で構いませんよ」という「おk」の意味合いがちゃんと活かされた表現になっている。
それをただ「日本語になってない」という事実を言うために使うのは誤用ではないのか。
誤用じゃないとすれば、せっかく由来と表現が一致しているのに、そうでない解釈で使われることがあると覚えなければならないのは面倒。
「勉強する」で「値引きする」という意味を持たせることがあるぐらいの完全な慣用表現として暗記しなければならないのか。
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20250708173908# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaGzZLQAKCRBwMdsubs4+ SIYYAP9EKTg1hf5x9c0zaxSKQIi0hl5GTSdqqRSAGsyt5l2T6QEAkNjdC/sSJi4X 9uJbShViepapWNVUdElURJxNLEgi6AM= =9crN -----END PGP SIGNATURE-----
俺はこれを娘と見ていたのだが、娘が「猫背のまま虎になりたい?どういうこと?」と聞いてきた。
いきなり娘に山月記の話を始める自意識歪めママにはなりたくなかったので「虎みたいに強くなりたいってことだよ」と説明した。
ああ、なんてことだ、本来の意味の3割ぐらいしか伝わっていない。
「猫背のままで?」と娘は返してくれなかったので、ただ「強くなりたい」という歌だと思ってしまったかも知れない。
でもそこで掘り進めるのは感想押し付け狭量ママみたいだから辞めた。
でもそれは弱いままの自分に対して否定と肯定を織り交ぜた強さだ。
李徴のように自意識過剰な自分の存在に対して「心が弱いままでも、物理的には強くなれるなら、そんな不健康な強さを自分のロックとして貫きたい」と宣言している、はずだ。
ギターヒーローとしての強さと、後藤一人としての弱さ、その二つを合わせた自分を「ぼっち・ざ・ろっく」として肯定してくれたことで、走り出した思いを載せた歌詞、のはずだ。
だから「虎」が意味しているのは「強くなりたい」では不正解なのだ。
「猫背のままで」と合わせて2回分の弱さと1回分の強さで、2:1で弱いに偏ったままの歪な強さ、それしか出来ないならそれを目指すという決意なのだ。
たとえば世の中によくあるのは「健全な精神と健全な肉体の両立。つまり強くなることで両方手に入れる!」という完全に前のめりな精神、最終的に0:1で強さが圧勝する強さ、それを目指すことが肯定されがちだ。
そんな世界に押しつぶされ、自分を偽りながら手に入れた見た目だけは0:1だけど実際には1:1の強さなギターヒーロー、そして結局残った1:0で切り捨てた弱さばかりの自分の心、それらを混ぜ合わせて生まれる2:1の弱さ多めの強さ。
「ぼっちちゃんのロックを」と背中を押されたことで、弱さ成分多めなままの自分を光の下に曝け出すことを選らんだから手にした1:0じゃない自分、それが「猫背のままで虎になりたい」なんだって、俺は思ってるから。
でもこんなこといきなり言われても相手は困るだろうな。
一生始まらないんだ。
なんてことだ。
ブコメに誹謗中傷や罵詈雑言を書くブクマカがヤバいヤツであることは当然わかるのだが、言葉自体は普通なのに何故かヤバいヤツしか使わないフレーズってのもあるよね。なんだろうねこれ。
1. 〜した方が良い。
求められてもないのに急にアドバイス口調になる系ブコメ。そのアドバイスの内容も珍奇な事が多い
2. 〜しましょうね。
急に幼児を諭す口調になる系ブコメ。書いた本人は揶揄のつもりなのだと思うが、99%スベっている
3. だんまり
「何も言わない」でも「黙ってる」でもなく「だんまり」、これは特定の感性をお持ちの方に特有のチョイス
4. したり顔
何故かもはやヤバい系のブコメか三面記事でしか目にしないフレーズ
5. 馬脚を現す&尻尾を出す
普通の慣用表現ではあるのだけど、普段から陰謀的な世界観に浸かってない限りブコメでこのフレーズは出てこない
なお、よく槍玉にあがる「何度も言うけど」「いつも言ってるけど」あたりは単にちょっと自意識過剰なだけで人格的には特にアレではないかと思う。
「上澄み」とはもともと、液体中の不純物が下層に沈んだあとの、上層に近い綺麗な部分のことを言う。そこから比喩的に「全体における良い部分」のことを指すようになった。
ところが、そうした用法は近年広まった誤用である、という主張がある。「上澄み」はネガティブな意味で使われるべきだ、というのである。
上澄みをさらう(すくう)、といった慣用表現があり、それは「表面的な理解」といった意味と認識していた。
用例:そんな上澄みをさらった程度で○○を理解できたと思うなよ
しかし最近よく聞く誤用なのか拡張なのか…逆の意味で使われているのをよく見る。
用例:葬送のフリーレンのクヴァールって、序盤に戦ったキャラなのに実はめちゃくちゃ強かったんだな。こいつ魔王軍の中でも上澄み中の上澄みだね。
「クヴァール 上澄み」で検索するとめちゃくちゃ出てくるこの用法。
強さの評価で上澄み、と言われると表層に位置する浅い存在、すなわち弱い存在のように感じたのだが、明らかに上澄み=みんな気づかなかった強いヤツ、みたいな意味で使われている。
おそらく字面のイメージで澄=よいこと、上=位置的に上、つまり上位であることという意味でポジティブに使われている。
液体の上澄みは、底に沈澱したものがあり、それを本質と捉えて「上澄み=表層的な浅い理解」と喩えた慣用表現だったはずが、完全に逆転してしまっている。
とりあえず葬送のフリーレンのクヴァールについて語る人以外では見たことがないのだが、クヴァールについて語る人はみんなポジティブな文脈で上澄み上澄み言ってるので気になっている。
この用法はすでに定着しているのでしょうか?— た介 (@BigotVinus) November 19, 2023
しかし、たとえば酒造や製油などにおいて「上澄みをすくう」のは、多くは底に沈む不純物を除くためであって、不純物を得るほうが目的だということは少ないだろう。その語源を考えれば、「上澄み」をポジティブな意味で捉えるほうが自然だと思うのだが。
実際にどういう使われ方をしてきたのか気になったので、比喩的な意味で「上澄み」を使っている古い用例を探してみた。
古人の名作 皆な下習いが有る 紫式部の源氏物語も 家筋だけに一体能文のうえ 日記も作り 歌の詞書もし 其外文や雑文に筆を練り 学は元より日本記の局と呼るる程までなり 其の上澄が彼の大作となッたのだ
調べたかぎりでは最も古い用例。上澄みが「良い部分」を指している用法だが、文章全体では上澄みを生むための「下習い」の重要性を説く。
アア世間は泥なるかな泥なるかな、吾独り澄めりと云う者も、矢張り泥の中の上澄を吸うの人なるのみ
上澄み自体は「良い部分」を指すが、文意としては「綺麗な上澄みも所詮は泥の一部にすぎない」といったところ。
明治39年 虚心窟主人『酔醒禅』
同じく泥と上澄みに喩えた用法。
然るに学期を分ち、試験を行い、小刀細工に類する形式的堀割を通して、之を流し込もうとすれば、肝腎な熱流の熱が失せ、有益なる含有物は途中に沈殿してしまって、児童の頭に這入るものは、ただ水のような上澄ばかりとなる。
翻訳書。上澄みよりも沈殿物のほうが有益だというので、明確に上澄みを「悪い部分」としている用法である。
常時百余名という寄宿制も、実は変らぬところは六七十人の堕落書生で、濁った水の上澄を酌むように、余の三四十人は、毎日新陳代謝、だまされて入社し、裸になって退社する者等を総称して見た話して、頭数は百でも二百でも其中に書籍を読む者は、只の一人もないので、只稼いで喰って寝て居るのと、只喰うや喰わずに寝起して居るのと、人の物を盗って喰って居るのと、夫等が下方の沈殿物で、入社即退社が上水の澄んだ所なのだ。
沈殿物が酷すぎるが、上澄みが優れているという書き方でもない。どちらかというと「上層は流動的・下層は停滞的」というイメージか。
快楽の上澄をのみ飽まで飲んで、渣滓の苦きには吸い至らず、花婿の其当夜に死んだ彼は永久に花婿である、彼を人生の最も幸福な者というも、強ち不当でない。
「美味しいところだけ味わって死んだ」という話で、やや皮肉めいた書きぶりだが、上澄みを「良い部分」とした用法ではある。
極端な理想主義と極端な現実主義の上澄みを取る、という話で、ちょっと独特の用法な感じがする。「良い部分」ではあるか。
苗字もなく、生きて居るのさえうんざりした者達の集って居る、暗い罪悪にまみれて居る世界では、そのような事は何でもない。三面記事にさえ、載せきれない「彼らのいがみ合い」の一つとして、世の中の上澄みは、相変らず、手綺麗に上品に、僅かの動揺さえも感じずに、総てが、しっくり落付いて居たのである。
上層は綺麗で上品で落ち着いているが、それは下層の濁りが上層まで伝わらないからだ、という用法。
単なる表層・深層の言い換えだが、「上層は流動的・下層は停滞的」のイメージが入っているかも。
とりあえずこのあたりで。
以上から考えるに、「上澄み」の用法はさらに4つに分類できる。
1. 上澄みは全体のなかの「良い部分」である。
1-a. 上澄みは「悪い全体」のなかの「良い部分」である。
2. 上澄みは全体のなかの「悪い部分」である。
3. 上澄みは全体のなかの「流動的な部分」である。
「上澄み」という語のイメージは「良い部分と悪い部分が上下に分離している」といったものであり、単純には1の用法なのだが、1-aの用法だと「実は悪い部分が底に隠れている」「実は沈んだ部分のほうが本質である」という逆張り的な文意になることが多いため、次第に「上澄み」自体に「うわべだけで本質的でない」ような印象がついていった、ということだろう。それが極まったのが2の用法。3の用法だけは独自な感じ。
最初の話に戻ると、
というのは2の用法であるが、これが「本来の用法」「正しい用法」であるとは言い難いと思われる。少なくとも、さらに古くから「上澄み=良い部分」とした用法は存在してきたわけで、今となってはどちらの用法も定着していると考えるべきだろう。