はてなキーワード: フォルマリズムとは
ロマン優光氏(以下ロマン氏)が書いた「椎名林檎とノンポリとサブカルと」という文章を読んだ。フェアじゃないので、まず最初に言っておくが、オレは椎名林檎のファンだ。ほぼ同世代であるということを割り引いても、椎名林檎の登場は鮮烈だった。それ以来、約四半世紀のあいだ東京事変の活動も含めて椎名林檎の楽曲を聴き続けてきた。
ロマン氏の文章は「ファンが旭日旗を思わせるミニフラッグを振っている様子が物議をかもしている」ということに端を発し、椎名林檎が特定の政治的志向を持たないことに触れ、むしろその「無自覚性は時として害悪なのである」としている。オレの意見はまったく逆なので、そのことについて書いてみようと思う。
ロマン氏がいみじくも指摘するように、椎名林檎に特定の政治志向はみられない。ましてや差別意識といったものもない。差別が存在していない状況は何よりではないかと思うのだが、しかし話はそこでおわらない。なぜかロマン氏は、特定の思想の指向を持たないからといって、ほぼ死語になっている「ノンポリ」と単語を使って椎名林檎の思想信条をあげつい始めるわけだ。この人の表現に際しての単語の選択基準の鈍感さにまず驚いてしまうわけだが、それは置いておいて、そもそも魔女がいないのを知っているくせに、無理やり魔女を探してどうしようというのだ。
椎名林檎のライブで無邪気に旗を振っているファンに差別意識なんかないのは明白だし、ロマン氏自身もそのことを認めている。しかし、ロマン氏はその無自覚性が罪悪であるとうわけだ。 ちゃんと旭日旗にまつわる歴史を勉強して、軽々しく扱わないようにというわけだ。その理屈は、まさに鬼滅の刃の主人公の耳飾りに旭日旗と似たデザインが描かれているので、差別的だといっているのと同じだ。言うまでもなく、旭日旗が悪いのではなく、悪いのはそこにある差別意識そのものだ。しかし、差別意識がないにも関わらず、表層的な意匠の共通性だけを根拠に、ロマン氏は「無自覚」な差別意識を見つけてしまう。
ロマン氏の言葉を本人に返すようだが、本人の主観を別にすれば、ロマン氏は批評ということにちゃんと取り組んだことのない人なのではないか。アウトサイダーアートを引き合いにだすまでもなく、むしろそうした既存の文脈と関係ないところから出てきた作品が人々に深い感銘を与えることがある。あるどころか、規定概念にどっぷりつかっているオレたちの凝り固まった感性を揺り動かすには、ロマン氏のような、既存の問題意識をお勉強しただけの、ありふれたつまらない感性から生み出された表現ではなく、その外側からの表現こそが必要だということがわかるだろう。
> 横尾忠則やその影響を受けた丸尾末広、さらにその引用といったものに触発されてとかで、文脈を踏まえて支持しているとか、文脈を踏まえた上で異化しようとしている感じではない。
批評の文脈で言えば、ロシアフォルマリズムが提唱した「異化」こそが、こうした文脈にとらわれた言辞から自由になるべきだという主張であったことをロマン氏はしらないのであろうか。オレは教養主義は好まないが、ちょっと調べれば、ロシアフォルマリズムの提唱者のシクロフスキーが「石」といえば誰もが思い浮かべてしまう固定観念の「石」のイメージから観客を解放させるために「異化」という概念を提出したことが分かる。むしろロマン氏が示すような既存の文脈に回収され、解釈されてしまうような脆弱な表現ではないことこそが、椎名林檎の表現が「異化」に成功していることのなによりの証明になっているのではないか。
>「歌舞伎町の女王」は現実の歌舞伎町とは関係ない、想像上の歌舞伎町の歌であり、想像上の古い盛り場のイメージを歌舞伎町に持ち込んだものだ
だからこそ「歌舞伎町の女王」は素晴らしいのだ。そもそも表現というものは記録作品じゃない。「歌舞伎町の女王」が現実の歌舞伎町に近いかどうかは作品の価値とはまったく関係ないのだ。むしろ現実の歌舞伎町と関係のないところで、だれが聞いても歌舞伎町としか思えない音像を作り出す、椎名林檎の圧倒的な力量を理解できないのであれば、批評の真似事などやめたほうがいいだろう。椎名林檎は、昭和任侠ものの姐さんのような巻き舌で、ゴスロリと大正ロマンを重ねあわせたようなファッションを身にまとい、寺山修司や桑田佳祐を思い出させる和語まじりの歌詞で、架空の歌舞伎町を作り上げた。古臭い盛場のインチキ臭さは、歌舞伎町に多くの人が持っているイメージと、極めて効果的にに重なっていて、作品のリアリティを高めている。これはロマン氏がたかをくくっているのとは真逆で、非常に高度でクリエイティブな達成だと言っていい。
無邪気に旭日旗を模した旗を振る椎名林檎のファンに差別意識などかけらもない。すこし真面目に言えば、不幸にも過剰な政治的意味を担わされてきたシンボルを、風化させ単なる意匠に戻してあげることこそが、差別を解除する最も有効な手法だし、オレのかんがえではそれが唯一の方法なのだ。
ロマン氏が見ているものは、あなたたちこそが懸命に努力して到達しないといけない理想の状態なのだ。しかし残念ながら、ロマン氏はそのことに気がつけない。そこにオレは、思想の怠惰を感じる。歴史的文脈をお勉強して、意識が高くなれば、差別がなくなると考える、あまりに粗雑で乱暴な理屈と、その底にひそむ傲慢な選民意識にうんざりする。
ロマン氏の思想には、差別が無効化された社会とはどういう状態なのかといったビジョンがない。歴史背景を勉強して、差別は良く無いと言っていれば差別がなくなるという、ある意味では最も批評性から遠い貧弱な思想からは、オレたちが目指すべき社会のイメージを受け取ることはできない。ゲイ差別を最も効果的に無効化したのは、ロマン氏のような痩せ細った思想ではなく、マツコデラックスだろう。オレは北海道の田舎に生まれたので、アイヌ差別を身近に体験してきたが、もっともアイヌ差別の無効化に貢献したのはいくつも作られたアイヌ博物館ではなく、ゴールンデンカムイだと思う。旭日旗に背負わされた過剰な政治的な意味を無効化したのは、鬼滅の刃であり、椎名林檎の表現なのだ。
ロマン氏自身はリベラルな考えを持っていると自認していると思うが、オレの目からは旭日旗を振り回すことで真剣に大日本帝国の復活を夢見ている老人とまったく同じに見える。そこにあるのは、この先二度と復活することはない、現実的には完全に無効なお題目をとなえつづける残念な思想の姿である。