そんな視点で以下、自分用のメモとして長文を残す。あえて言論自由の優位性といった憲法理論をガン無視するが、どんな規制が適切かといった考えから離れることで、表現の自由の失われた状況の風景がみえることもある。
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とくに「表現の自由による暴力(不法行為性)」をどこまで許容するかが重要な視点だ。欧米と日本では大きく違う。
フランスでは、あらゆる権利が「尊厳ある生」を守るための抵抗に原点を持つ。
その意味で、社会運動やストライキ(争議権)と、表現の自由は同じ線上にある。たとえば、名画にペンキをかける環境団体の抗議活動。日本では即座に「環境テロ」として報道されるが、英仏では「レジスタンス(抵抗運動)」という言葉がより広く使われていた様子だ。これは体制に対して暴力的に抗う行為を意識しているからだ。
環境問題に限らず、農家などの過激な抗議行動(輸入品増加に抗議した放火・破壊行為など)や、労働争議においても同様だ。フランスでは、国家や大組織による構造的暴力に対するカウンターとしての「市民による尊厳を守るための抵抗」に心情的な理解が寄せられる。犯罪としての側面を否定しないまでも「レジスタンス」は革命以来の伝統という認識をフランス社会は共有する。
その背景には、18世紀、カトリック教会が「真理の解釈権限」を独占していた時代に、啓蒙思想が登場し、科学的合理性を武器に公共空間を構築し、新たな政治制度を模索した原体験がある。「神を冒涜する権利」は、黎明期の政教分離の文脈から分化した表現の自由の形であった。
制度の根幹に「科学的合理性」や「絶対的真理」は置かれていない。むしろ、人それぞれ真理と信じる”信念”があり、誰も完全な真理に到達していない、という前提がある。この考えは巡礼始祖たちの宗教的多様性の中で育まれ、やがてプラグマティズムに吸収され、「思想の自由市場」(O.W.Holmes)という発想へとつながってゆく。
もっともアメリカでも、20世紀半ばまでは「有害言論の内容規制」が志向されたが、判事たちはそのたびに建国思想や巡礼始祖の理念に立ち返り、「有害表現を定義できない」という議論に収まった。1970年代には「社会の不協和音こそが強さの証」とまで言い切る判決(1971)もあった。司法がヘイト規制に消極的かつゾーニング規制にシフトしてゆく歴史がそこにある。
トランプの出現などリベラルと保守のあまりの違い、それでも国家として成り立つ社会。それを支えるのは、「一致しないままでも共存できる」という、個人主義を基盤とした社会の強さだ。
会社でも地域や家庭でも、できるだけ摩擦を避けたい。コロナ禍での自粛違反者への度を越した非難などに表れているように、「他人に迷惑をかけるのは不徳だ」という感情が深く根付いている。
この「迷惑感情」は、表現の自由を制限する根拠として働きうる。憲法学では人権の制限原理は「公共の福祉」として整理されるが、実態としてはその時々の「社会の空気」に左右されがちだ。たとえば、受忍限度論という法理をとってみても、それ自体、迷惑感情の社会的「耐性」の程度を空気から測るものにすぎない。日本人の考える公共はフランス人の考える公共とかなり異なる。
電車内CMの強制音声に対する訴訟「囚われの聴衆」事件(1987年最高裁)では、そうした「空気」に抗う個人の主張が結局退けられた。受忍限度という大義名分の下で、「それくらい我慢しろ」と結論づけられたわけだ。迷惑感情による秩序そのものを否定するわけではないが、空気として内面化されすぎると、異論や異質さの排除へとつながりやすく、かつ世代間、階層間の認識ギャップという課題に直面する。
日本には、フランスのように「尊厳のための抵抗」を肯定する文化がない。絵画にペンキを投げれば即「テロ」として断罪される。暴力的抵抗が「歴史ある社会の声」として認識されることはない。
水俣病初期の漁民暴動、60〜70年代の国鉄や病院のストを見ても、「迷惑感情」が前面に出て、GHQが持ち込んだ争議権は本当の意味では社会に根付かなかった。正規雇用では労使協調路線、非正規雇用は分断が続いているのが現状だ。ストライキがなお社会的に力をもつフランスとは対照的だ。
全農林警職法事件(国家公務員の争議権全否定、1973年最高裁)、75年の国労スト権ストは、日本社会が「暴力的な表現や行動」との距離感を決定づけた分岐点となった。
暴れる新左翼へのストレスが頂点に達し、迷惑を嫌った大衆心理が、最終的に「暴力=容認しがたいもの」と司法と行政に決着を迫った形だ。
こうした着地は、人権を市民一人一人の体験として自ら闘って獲得してこなかったという、日本社会の構造的限界を示しているのだろう。
日本社会における「市民による暴力的抵抗」が断罪されやすい背景には、市民の行動が過激なものに映じるの対して、しばしば国家や行政の抑圧や不作為は、暴力として認識されず、社会の中で可視化されにくい構造がある。水俣病における行政不作為、反原発運動に対する過剰な監視、あるいは災害被害者の声の届きにくさなど、国家による制度的暴力や不作為の積み重ねに対して、市民が抗いの言葉を発するとき、その言葉がときに過激さを帯びるのは当然の帰結でもある。だからこそ、表現の暴力性だけを批判的に切り出すことは、構造的非対称性の再生産になりかねない。
構造的な非対称に加えて、もうひとつ重要なことがある。それは市民一人ひとりが権利意識を再生産するための「思い出」や過去の教訓を忘却しやすい社会ということだ。
欧米でいう「人権」とは、突き詰めれば「こういう社会には戻りたくない」という歴史体験から生まれる(米仏だけの例で暴論は承知の上)。その教訓を社会を生きる一人ひとりが繰り返し思い出すこと、それが人権のボトムアップ的な再生力だ。
しかし、日本では「権利」は「国家が授けるもの」として明治以来、教育されてきた。敗戦までその構図は変わらず、戦後はアメリカが新しい憲法と人権を与える側に回った。この付与される構造が、今日の日本においてもなお、自由をめぐる議論が憲法の制度論に終始してしまう要因になっている。
だとすれば、今あらためて必要なのは、自由の意義を自分たちの歴史体験として取り戻すことだ。
特に敗戦前後の記憶――若者を人間爆弾にし、それを大人が見送っていた時代。そして敗戦後、手のひらを返すように価値観を変えた、あの社会の激変こそ戦後日本の原体験であり、空気に逆らう力を考える出発点であるべきだ。
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「戦後社会」と呼ばれる時期―おそらく平成初期まで―に見られた日本の映像表現には、大きく三つの傾向があったように思う。
1. 既成の価値観への反抗
戦中派から戦後世代はかつての「正しさ」に対して疑いを抱き、積極的に破壊しようとした。
映像作品での典型例として、岡本喜八を挙げたい。軍や国家権力を風刺し、戦時の空気を相対化する『肉弾』(1968年)は象徴的だ。
表現が体制批判と自己解放の手段だった時代。道徳や国家的価値観への反抗心がそれを後押ししていた。
「反抗」というテーマは、家族内の世代間対立ないし嫁姑問題、80年代の校内暴力と管理教育という軸での「反抗」など形を変えて表現された。
高度経済成長のもと、戦後社会は猛烈な速度で変化し、かつて「当たり前」だった家族のあり方、地域の風景は急速に姿を消した。
そのような変化の中で、新しい「自分らしさ」を探すような表現が生まれた。家族の崩壊と再生を描いた「岸辺のアルバム, 1977」は社会に衝撃を与えた。
山田洋次の『男はつらいよ』では、理想の家庭像を夢見るも決してそこには迎え入れられない寅さんという存在を描き続けた。
倉本聰の『北の国から』では、泥付きの一万円札をめぐる暴力沙汰などを通して、「義理人情」や「恩を忘れぬ人間関係」が描かれた。
「スクール☆ウォーズ」に代表される大映ドラマにおいては、努力・根性・家族の絆といった「倫理」が過剰なまでに押し付けられる一方で、それは裏を返せば、かつては当然のように共有されていた義理人情や倫理が、社会の中で揺らぎ始め、もはや社会がその正しさを自信をもって教えられなくなっていた時代の反映ともいえる。任侠映画の「落とし前をつけさせてもらいます」というカタルシスもまた、現代社会ではとうに失われた暴力的「自力救済」への郷愁でもあった。
この三つ――反抗、自分探し、郷愁――が、戦後日本の表現の中心テーマであった。いずれの表現にもどこかに心情的共感を呼ぶやむにやまれぬ加害を内包していた。そこに着目すべきだ。
この三つのうち、「戦前の価値観への反抗」は、戦前世代が退場するにつれ次第に衰えていった。最後の強烈な反抗例として、敗戦後に上官が行った部下の処刑を告発した『ゆきゆきて、神軍』(原一男1987年)を挙げることができる。
奥崎謙三の狂気。上官を告発し、天皇にパチンコ玉を撃ち込むなど、常軌を逸したようにも見えるが、そこには彼なりの倫理がある。表現行為が、敗戦前後の記憶を呼び覚まし、組織における人間関係―「上官と部下」「国家と個人」―に対して強烈な問いを投げかけていた。
しかし今、このような強烈な表現は久しく見かけなくなった。反抗への共感はある特定世代の記憶に留まり引き継がれない傾向が見て取れる。あたかも社会全体にノイズ耐性が失われたかのようだ。
何かにつけ「コンプラ違反」として簡単に切り捨ててしまう社会。「こんなの今の時代にはムリ」と。例えば、中井貴一がある制作現場で呈した疑問は示唆的で、全体にバイオレンスなドラマなくせに、コンプラ配慮でたばこのポイ捨てシーンだけがNGになったことがあった。それは思考停止ではないか。
奥崎のような過激な手法であっても、そこに社会や権力構造に対する本質的な問いが込められているならば、無視できない重みがある。原一男のドキュメンタリーは、まさにそうした問いを突きつけるものだ。
『ゆきゆきて、神軍』のようなドキュメンタリーなどの手法には、つねに「出演者の許諾は取ったのか?」という問いがつきまとう。
伊藤詩織氏の『Black Box Diaries』に対する映像や音声の使用をめぐる批判が良い例だ。「フェアユースで正当化可能」とする声(中根若恵)もあれば、「権力や犯罪を暴く表現であればOK」という立場(原一男)もある。しかし、原自身も認めるように、たとえ告発目的であってもセルフドキュメンタリーには「現実を自分に都合よく再構成する」危うさがある。無条件の承認はありえない。その語りが私的な物語にとどまらず、社会的な意味を持つためには、他者に開かれた語りに昇華される必要がある。
では、表現行為に内在する「やむにやまれぬ加害」を評価するのは誰か?
最終的には司法だとしても、まず問われるべきは、共感を持って応える観客であり市民である。
コンプラ違反を恐れて、表現物が公開前に修正されてしまう社会――それが望ましいのか?
私は、暴力性を含んでいても、その中に真摯な倫理があり共感可能性のある表現ならば、それは世間に問うてよいと思う。それを受け止める権利もまた市民にある。内部告発/公益通報もまた、不法行為と公益性のはざまにあるという意味で奥崎謙三の反抗と地続きだ。兵庫県職員の告発とその後の県知事の対応は耳目を集めたばかりだ。
今の日本社会において、「表現の内包する暴力に対する寛容さ」はきわめて低い。
敗戦を体験した世代がいなくなり、記憶として残っているのは「国鉄ストの迷惑」「新左翼の暴力」「オウム事件の恐怖」など、暴力に対するアレルギーばかりだ。
一宿一飯の恩義といった価値観は薄れ、市民は暴力的な自力救済や抵抗運動に共感しなくなっている。
コンプライアンスに敏感な時代だからこそ、私たちはもう一度、「表現の自由とは何か」を原点に立ち返って考える必要がある。
かつてトクヴィルは、革命後のフランスに、公共の名のもとに行われる言論統制など専制を洞察した。一方、アメリカの民主社会には、世論の専制という別の危険をみた。制度的な保障はあっても、多数派が少数意見を排斥するような雰囲気を社会が醸成すると実質的な自由は奪われる、との黎明期アメリカ社会への洞察は、現代のキャンセルカルチャーなどの課題を予見している。
――暴力性を含み得る表現に対して、我々はどのような態度を取るのか。その暴力に倫理的な共感はあるのか。どんな社会を私たちは避けたいと思っているのか――
憲法理論は制度的保障を語る上では有効である。しかし、表現規制論だけでは上記のより根源的で実存的な問いには答えられない。「制度がいかに自由を守るか」ではない議論も必要だ。自由を擁護する倫理的共感の土壌がなければ、制度は簡単に形骸化する。「抵抗」とか「不協和音の強さ」とまでいわないまでも何か核が必要だ。
社会の同調圧力に空気に抗ってその問いを突きつける力、受け止める力が社会から失われたとすれば、それは表現の自由が失われた社会だと思う。
表現の自由だとか言論の自由ってよく議論の的になるでしょ。 でもそもそもとしてどういう状況なら自由であると言えるのだろうか? 例えば何を表現しようが、何を言おうが、それがど...
基本的に表現の自由とか言論の自由は表現や出版が権力者(≒政府)によって検閲されないための権利だよ だから「〇〇を規制しろ」は政府が検閲しろって意味になるからダメなわけ
検閲しろって言ってるやつらって自分たちは問題ない対象外って謎の確信があるアホ多いよね 国がやる以上万人の対して適用されるってそんなに理解しづらい要素なのか知らんが
ほならあの三菱樹脂事件とかどうでもよろしいな
そうだよ。弾圧されなきゃいい 自由というのは、無秩序・自由競争・生存と淘汰が起きる状態のことあって 批判されないとか、誰にも倫理棒で殴られないとか、ストレスなく発言で...
素晴らしい真理が発掘されたら、競争と淘汰、暴言と論争は必要なくなるんですね そんな日が来るときを待っています
いつかは来るかもしれんね。 人類はアホだが、1800年代の人類よりも流石に啓蒙は進んでいるわけで。
こういう話って 憲法の文章一行読めばわかる程度の内容しかなくて バカなんだなぁって感じだ
俺が目指すのは真の自由だ!法の庇護など必要ない! (ダークウェブでなんでもありのフリースペース作ろう)
自ら海外海外言って自ら自主規制の道を進め販路を狭めて悲惨なことになってるdlsiteを見て同じことが言えるのか
海外の法規制に対応するための規制も自主規制に入るの?
ライブドア騒動に巻き込まれる前は海外販路なんて眼中になかったし海外からのアクセス制限もしてたのでそらそうよ アクセス数だけ見て販路開放してカイガイガーと壊れたように連呼...
最近は一部作品を海外からアクセスできなくしてるじゃん あと国内に閉じこもってもクレカ云々で規制を迫られるんじゃないの?
>あと国内に閉じこもってもクレカ云々で規制を迫られるんじゃないの? まあ2年以上前から警告があってもイケイケドンドンで規約違反を黙認してたのは確かなので 赤字な無駄な事...
少なくとも法律で侮辱だとか名誉毀損が禁じられている(罰せられている)わけだし 一定の場合は他人の名誉を毀損しても良い。 (名誉毀き損) 第230条 公然と事実を摘示し、人の名...
今のところ、表現を規制できるのは公共の福祉と他人の権利と衝突するときだけ。 おそらくこの状態が表現の自由があるといえる最低条件なんじゃないか。 ここに、宗教(国教)や国の方...
有り無しの両極端の二択で考えるのが間違い 権力による取り締まりがどの程度かはグラデーションでしょ
例えばさ、 あなたの発言は青少年にとって過激な発言なので、青少年ネット規制法によってフィルタリングさせていただきます。 みたいな状況があるとする。 これは、表現の自由が侵...
不快だと言われたらよってたかって燃やした放火だと大騒ぎして黙らせようとする連中は、表現の自由を尊重などしていない。彼等が本当の権力=法によって規制されているモザイクや発...
たとえば3月20日に東京の日比谷線築地駅前でオウムソングを合唱してたら警察官に取り囲まれたってのは表現の自由の侵害だろうか。
なんだろうね、こういう手合いのロジックって、いつも自分にとって都合のいい場所でストップさせてる。 とある表現をするのは自由、その表現を批判するのも自由。 ならば、その批...
気に食わないことがあると暴力を振るってくる人間が傍にいて実際に暴力が振るわれたことがあるかどうかで 言論の自由の意味が全然違ったものになってる気がする
実際難しいんだよな表現の自由って たとえば自分の家の塀に猫や犬の惨殺死体の写真を貼って「残酷だ、猟奇的だ」と文句が出るのと 水着や下着の女性の写真やイラストを貼って「性的...
なんでとらわれの聴衆の法理? それは表現の自由の中ではだいぶ傍流のほうの話題だと思うが
表現の自由は好き嫌いの問題ではないんだが…… 人から好かれたければ嫌われるようなことはしないし言わないというのは当たり前のことだし、それによって起こり得るであろう不利...
いや? きさまらハテナーどもがやってるのは 徹頭徹尾、スキキライでしかないぞ? 賢しらぶってるだけで気に食わないやつの自由はアレコレ理屈つけて制限したくてたまらないのがき...
「大勢の人がこの表現を嫌いというが、実際には嫌いという人は少数派だ」という反論はしばしばなされるが、それは「お前はこの表現を嫌ってはならない」という意味ではなく、「お...
表現の自由はそんな万能なもんじゃないんだよなぁw
少なくとも単なる不快だのなんだのでは侵害できない権利なの分かって無い連中がブコメにも湧いてるな
言葉の意味ってのは時代と共に移り変わるんだよ
お前の頭の中ではそうなんだろうな
やれやれ🤦 これだからバカとは会話が成立しない
侵害って何なんだろう 馬鹿にされるのは侵害でも何でもないよ 投獄されたり表現できないようにされたりすることでもなければ何の問題もないのに
ロリコン表現を嫌うなって散々やってる連中なのに詭弁ですね。大多数が嫌いな表現ですよ
キモいって言うな! 不快って言うな! 火をつけた!放火だ!って大騒ぎじゃないの。 はい論破。
しょーもない揚げ足取り 中心的な発言に反論できないからしょーもないところに突っ込んでる。 おそらく根本的な考えはそう変わらないのに、とにかく批判だけしたいからわざわざツッ...
いわゆる表現の自由戦士側から「嫌うな」という要求が出てきたことなんてあるんだろうか? そんならキモがられても文句言うなよ
いわゆる表現の自由戦士側が言ってきたのは「撤去すんな(させんな)」「差別すんな」「法規制すんな」とかでしょ? ロリコンが差別されたことなんかある? 単に多くの人から嫌わ...
大学で憲法を学んだ身からすると、表現の自由の問題って書いてあったので、割と体系的に整理して理解できると思ってたんだけど、マジで無理。 この増田の言っている意味が、まじで...