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2025-01-02

理系池澤夏樹世界文学全集をほぼ全部読んだから五段階評価する⑤

【前】anond:20250102174224

2-07「精霊たちの家」 イサベル・アジェンデ 木村榮一訳★★★★

世代女性たちの年代記であり、「百年の孤独」と対比されるんだけれど、こちらのほうがずっと読みやすい。ちなみにガルシアマルケスコロンビア人で、アジェンデチリ人

しかし、女性物語としての記憶は薄れていて、覚えているのは暴君として君臨していた祖父エステバン・トゥルエバのことだ。彼が地元女性強姦して産ませた息子が、因果が回って彼の孫娘を強姦する。因果というか、悪い行いの結果って一番弱い立場の人に最悪のしわ寄せがくる。しかし、孫娘の嘆きや苦痛強姦の苦しみの割にはごく短く語られている。

同じく、よしもとばななアルゼンチンババア」かなにかで、語り手がいとこに犯されそうになったことをさらりと書いているのだが(そして、そのいとことほとんど恐れもなく顔を合わせるのだが)、性暴力について文学でどう扱えばいいのかは自分はよくわからない。女性からセクハラされた僕だって迷う。性暴力表現するときにどれくらい気をつかうかは、殺人事件よりも慎重になっている印象がある(それだけ殺人が稀になったってことかもしれない)。

書かなかったのか、書くことができなかったのか。アンソニー・ドーア「すべての見えない光」でも、ソ連兵に犯されたドイツ人女性がたくさん出てくるが、彼女たちが戦後どう生きたのかについては、わずしか触れられない。

道徳的理由表現規制されるのは、真実から目をそらすことになる気がするので好まない。一方で、当事者の声を無視しても結果的には良い物にはならない。このあたりは想像力の飛翔との兼ね合いでいつも居心地が悪くなる。「好きなように書かせろ」という書き手としての自分と、「当事者以外が勝手なことを書くんじゃないよ」と別の自分がいつも喧嘩している。

2-08「パタゴニア/老いぼれグリンゴブルースチャトウィン 芹沢真理子訳/カルロスフエンテス 安藤哲行訳★★★★/★★

ブルースチャトウィンパタゴニアを読むと、旅はいい、とため息が漏れる。何度だって書くが、紀行文はいい。定期的に読みたくなる。その土地しかない暮らし風土、それゆえに自分たちと異なった風習を持ち、理解しがたい態度を取る人々。航空機以前のように、数か月の旅を空想するのが好きだ。チャトゥインはオーストラリア舞台にした「ソングライン」もある。アボリジニは他の文化の持ち主には見えない道をたどり、万物名前を付けて大陸中を歩いてきたのだ。

カルロスフエンテス老いぼれグリンゴはあまり記憶していない。モデルとなったアンブローズ・ビアスの書いた「悪魔の辞典」はかなり好きなんだけどな。筒井康隆を始めいろんな翻訳があるのでオススメ

フエンテス短篇集「アウラ・純な魂」のほうがずっと面白かった。老いが迫る男、幼馴染のようにべったりした兄妹の別離、小さい頃に一緒に遊んであげた小さな女の子の末路、鏡のある真っ暗な部屋で魔術によって若さを保つ老婆、それから脱走兵が出てくる。

2-09「フライデーあるいは太平洋の冥界/黄金探索者」ミシェル・トゥルニエ 榊原晃三訳/J・M・G・ル・クレジオ 中地義和訳★★/★★

ミシェル・トゥルニエフライデーあるいは太平洋の冥界」はかなり観念的な話だったと記憶している。文明自然を対比させるために(?)読者に理解やすロビンソン・クルーソーとカオティックな行動をするフライデーが出てくるのだが、舞台ロビンソンが島そのものとの性交子どもが生まれるという神話的な世界だった。これを読んだ後で、理解を深めるためにデフォー原作を読んだのだが、記憶していたような絶海の孤島ではなく、近くに南米大陸がある島だった。そういえば子どものための抄訳版にも、近隣から人食い人種が攻めてくる描写があった。

M・G・ル・クレジオ黄金探索者」は姉と弟の閉じた世界が壊れるというか、外部の世界を知るような話だったと記憶している。姉と不可分な存在となって、マダガスカルサトウキビ畑を歩いていた場面があったはずだ。小さな子供の目から見た植民地世界の、どこかに宝物が埋まっているんじゃないかと期待しながらも、閉塞した記憶だ。ラストでは故郷家族恋人黄金もすべて失い少年期が終わる。しかし、不思議と読後感が清々しいのはなぜだろう。まるで、すべてはここから本当に始まるのだ、という気分である

ル・クレジオ難解な作品とそうでない作品の差が激しい。「海から来た少年」はまだわかりやすいんだけれども、太陽を見つめて意図的盲目になる「大洪水」は二回読んだはずなんだがさっぱりわからなかった。

2-10「賜物」ウラジーミル・ナボコフ 沼野充義訳★★★★

一時期ナボコフがすごく好きで、文学講義シリーズも読んだんだよね。前のエントリで書いた「ロリータ」だけじゃなくて、ソ連から亡命した冴えない教授を主役にした「プニン」だとか、架空の国ゼンブラを舞台にした架空の詩と、それに対する真実虚構かわからないような注釈が、見開きの右と左に分かれていた「青白い炎」だとか、そもそも実在する世界舞台にしているかどうかさえ疑わしい兄妹の恋物語「アーダ」だとか、みんな好きだった。で、これらは英語創作されているんだけれど、最後ロシア語で書いたのがこれ。詩人になるまでのお話

難民のように食うや食わずではなかったけれども(そしてそのせいで政治的過小評価されることもあるけれど)、ナボコフはやっぱり偉大な亡命作家の一人だ。でも、ユーモアを忘れていない。

で、本作では片想いをしている女性を思い浮かべながら、どの女性を見ても彼女のことを思い出し、彼女連想できないタイプ女性には嫌悪を覚えたという趣旨のことを書いていて、ちょっとだけ分かるんだけれどひどいことを平気で言う作家だなと苦笑いをした。

フョードルコンスタンチノヴィチに向かってうら若い牛乳瓶を持った娘がやってきたが、彼女はどことなジーナに似ていた。いや、より正確に言えば、この娘には、彼が多くの女性たちに見出しているある種の魅力――それは明確なものであると同時に、無意識的なものであった――ひとかけらが含まれていたのだ。そして、彼はその魅力の完璧ものジーナの中に認めていた。だから、そういう女性たちは皆、ジーナとある種の神秘的な親族関係にあるということになるが、その関係について知っているのは彼一人だったのであるもっとも、その関係の具体的に言い表せと言われても、彼にはまったくできなかったけれど。(ただ、この親族関係の外にある女性たちを見ると、彼は病的な嫌悪感を覚えた)。

僕は基本的に豊かな知識を持ち、普通に文章を書くだけでその該博さがこぼれてしまうために、結果的にひけらかしと受け止められてしま作家が割と好きで、一時期円城塔にもどっぷりハマっていた。一方で、「ロリータ」については、暇なときパラパラとページを開いていると、語り手の身勝手さがだんだんと鼻につくようになってきた。ハンバート・ハンバートって、でっぷりしたおばさんを見て、「ニンフェットの美しい肢体を生き埋めにした棺桶だ」って趣旨のことを平気で言うんだもん。性格悪いよね。

とにかく、前は金に困っていない人間が、道徳を踏みにじっているのを美々しい文章で糊塗しているのが(当時は悪とは何か知りたかったし、悪いことをしている狂った人間の話が読みたかったし、知性を感じる文章が好きだった。そういう意味でも「悪」を扱った遠藤周作がすごく好きだった)面白くてしょうがなかったのだが、いまとなってはそこまででもなくなっており、自分の中で「ロリータ」の魅力が少しかすんできた。それとも僕が少女に心惹かれなくなっただけなのか。

なんにせよ猛烈な魅力を感じていたのにプツンと魔力が消えてしまうことはある。以前は三島由紀夫が大好きだったのに、「豊饒の海」を読む前に魔法が消えた。たとえば「潮騒」を読もうとしたら、彼の文章リズムが心に響かず、全然読めなくなっていた。

少女と言えば、初めて「ロリータ」を読んでいた二十代の頃、一年に数回ほど発作的に年端もいかない少女に対する強烈な憧れが募っていた時期があったのだが、少女と知り合って仲良くなるプロセス現実的に細かいところまで検討すると、真っ当な手段がどこにも存在しないと気づいて、途端にこうした欲望への嫌悪の情が浮かんび、緩解していった。それに、無知相手自分利益のためだけに利用するのは邪悪定義に当てはまってしまうしね。

おそらく、当時の自分が憧れていたのは現実少女ではなく、思春期の頃に空想するような、成長の痛みや性の悩みに寄り添ってくれる同い年の少女で、その記憶を引きずっているに過ぎないのだ。つまり、幼馴染への憧れだ。そういう少女思春期の頃に出会えるはずはないし、自分問題自分解決しないといけない。そのうえ、よしんば実在したとしても、そんな少女とは「ノルウェイの森」のキズキと直子や、「海辺のカフカ」の佐伯さんと彼女恋人のように閉じた関係になってしまうだろう。結局は、成長の痛みを引き受けないことによる歪みを必ずや生み出すだろう。そういう空想上の女の子自分自身の鏡像ユングのいうアニマで、つまるところこれは自己愛である。今はむしろ年上好きである

(どうでもいいけどウィキペディアロリコン写真集記事、内容がやたらと詳しいんだがこれって倫理的にどうなのよ。誰かが興味持っちゃったらどうすんの)

2-11ヴァインランドトマス・ピンチョン 佐藤良明訳★★

ピンチョンはよくわからない。陰謀論ネタにしているんだろうが、直接扱ったエーコフーコーの振り子」のほうがエンタメとして好き。陰謀論的な思考ちゃんと茶化しているしね。個人的にはエーコが作中で既存の有名どころの陰謀論をすべて統合したオリジナルの壮大な陰謀論を作り上げているあたりがヤバい。あるいは架空史の仁木稔の「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」か。困ったことに、これらの作品が発表されてから陰謀論ネタとして面白い物から現実の脅威となってしまっている。

エーコが楽しめてピンチョンにピンとこなかった理由を考えてみると、たぶん元ネタとなる知識をどれくらい知っていたかに尽きる気がする。自分キリスト教やオカルティズム、カバラや魔術については多少わかるのだが、六十年代アメリカポップカルチャー現代エンタメには詳しくない。だが、この作品は実際、死をもたらすツボ押しマッサージが出てきて「あと何日でお前は死ぬ」みたいな「北斗神拳」っぽいネタを扱っている。なんせこの爆弾を埋め込まれるのが日本人サラリーマンなのだ

2-12ブリキの太鼓ギュンター・グラス 池内紀訳★★★

文庫本にして三冊の本を無理やり一冊に押し込んで、小さな活字二段組みなので読むのがしんどいし、「早く読み終えなきゃ」って焦ってしまった覚えがある。馬の生首のシーンが有名だよね。

三歳で成長するのをやめたダンツィヒ回廊生まれ少年主人公の癖に、義母を寝取って子どもを産ませているんだから、とんでもない話だ。純粋無垢なままでいるために三歳よりも大きくなるのをやめた話と思わせて、実は様々な女性恋愛遍歴をしている。家族が次々と殺されて行ってもね。

そういえば、さっきモテる奴の話を読んで何が面白いのかと書いたけれども、舞台現代日本でなければ別世界ファンタジーとして享受できるらしい。幼馴染のロマンスだって、別の国や時代舞台ならまだ受け入れられる。たとえばロンゴス「ダフニスクロエ」だけじゃなくてコレット青い麦」も割と好き。どっちも少年側が人妻に性の手ほどきを受けるので、これで多少性癖が歪んだ気がする。村上春樹海辺のカフカ」と合わせておねショタに目覚めてしまった。あと、青春物があまりきじゃないのに、「十三機兵防衛圏」はプレイできているの、あれが一つは君と僕みたいだけみたいな閉じた雰囲気じゃなく、感傷ダダ洩れの地の文章が無く、群像劇からってのもある気がする。

話を戻す。うじうじしているくせに、本当はモテることにすごく憧れているただ。だが、十五分の自慰行為あいだならエロ漫画主人公と同一化できるかもしれないけれど、数時間かけて読む文学では自己同一化魔法は解けてしまう。細かい設定があるのだから自分との差異がどんどん強調される。自分は到底なれそうにもない、かっこいいキャラモテても、ちっとも面白くないのであるしかしこんな話を聞かされる読者も面白くないだろうしこのあたりで切り上げる。小説ダメ人間、僕が先に好きだったのにという人間にならなんとか自己同一化できたのである(余談だが、かつての週刊誌の中づり広告のようなエロス無法地帯ウェブ広告で「カラミざかり」が出てきたとき主人公の来ている服のロゴに「cuckold」と書いてあったが、これは英語で「寝取られ男」という意味である。そういう芸の細かいところ、わかる人にはわかる小ネタは好きよ)。

少し現実的に考えてみれば、滅茶苦茶にモテ複数女性から同時に交際を求められたら、しかも好みの相手でなければ、それはそれで面倒そうなのであるが、嫉妬と羨望に狂っているさなかにはそれはわからない。同じく、浅ましいことに3Pとかも憧れるけれど、よしんばそんな機会が訪れたとして、絶対気をつかうし面倒くさい。自分が手に入れられなかったもの理想化されて頭の中で猛烈な輝きを持つが、一度頭を冷やしてみよう。

続く。

2021-03-01

必読書コピペマジレスしてみる・自分オススメ41冊編(2)

戻る→anond:20210301080105

倉橋由美子聖少女

まり男性女性がとは言いたくないのだが、女性作家の描く知的早熟少年たちというのは、エルサ・モランテの「アルトゥーロの島」なんかでもそうなんだが、男性が描くときはまた違った魅力を発する。サリンジャー知的論理的自分を追い詰める子供たちとはまた別の硬さがあってよい。新城カズマサマータイムトラベラー」の高度に知的でありながら情緒は年相応な少年少女もいい。

さておき、これは近親相姦お話なのだが、印象に残っている描写は次の通り。主人公たちの仲間に大食漢の男がいて、しばしば生肉弁当の代わりに食らっている。回りの女子生徒たちも面白がって彼に餌付け(?)していたのだが、ある女子生徒がブルマーを入れていた袋の中に隠していたウサギを、生きたままで彼に与えた。血まみれで凄惨な場面でありながらも、大食漢は実においしそうに平らげていた。

例の文学少女から薦められて読んだことでも思い出深い一篇。

ミラン・クンデラ存在の耐えられない軽さ」

頭が良くてモテる男が主人公なのでいけ好かないモテること、たくさんセックスすることこそが人生の目的になっているような奴は理解できない。なんか知らないやつにいきなり人の部屋をのぞきまれ、「お前の人生にはエロスが足りない!」と叫んで出ていかれるような気分がする。しかし、これもまた祖国を追われた人間が、知性と皮肉現実適応しようとした姿なのかもしれないのだ。

それと、この本で感謝しているのは、さまざまな政治的活動に対して感じていた居心地の悪さを、「キッチュ」をはじめとしたさまざまな言葉言語化してくれたことだ。ポリコレを正しいと信じているのに、そこにあるどうにも解消できない居心地の悪さが気になる人が読むといいんじゃないかな。

あとは頭が良すぎて、多くの人が無視したり忘れていたりしていることが見えてしまい、幸せになれない著者みたいなタイプが読むと幸せになれそう。イワンカラマーゾフとか御冷ミァハみたいに、頭が良すぎて不幸になるというか、自分の知性をどこか持て余してしまタイプキャラクターが好きだ。

メアリーシェリーフランケンシュタイン

死体から作られた怪物がただただかわいそう。容貌醜悪なだけで化け物として追われ、創造主からも拒絶された彼の孤独を考えるだけで悲しくなる。まったく同じ理由で「オペラ座の怪人」も好きだ。どちらも間違いなく殺人者ではあるのだけれども、容姿馬鹿にされたことがあるのなら共感せずにはいられないだろう。関係ないけど、オペラ座の怪人ヒロインから振られたことを受け入れられたのって、やっぱり正面から振ってもらったからだよな、と思う。音信不通フェードアウトされたら怨念はなかなか成仏しない。

それと、これはSF的な感覚かもしれないが、人間離れした(時としてグロテスクな)姿を持つ存在が、非常に知的であるというシチュエーションがとても好きで、その理由から後述の「時間からの影」や「狂気山脈にて」も愛好している。

ロード・ダンセイニ「ぺガーナの神々」

架空神話ショートショート形式で述べられていく。ただそれだけなのにこんなに魅力的なのはなぜだろう。彼の作品基本的に短く、しょうもないオチ作品も割とあるのだけれども、時に偉大で時に卑小な神々の物語は、壮大な架空世界に連れて行ってくれるし、すぐ隣に隠れているかもしれない小さな妖精魔法も見せてくれる。

テッド・チャン「息吹」

あなたの人生の物語」とどっちにするかやっぱり迷った。映画メッセージ」の原作が入ってるし、増田で盛り上がってるルッキズムテーマ作品だってある。だが、寡作な人なのでこの2冊しか出していないし、片方が気に入ったらきっともう片方も読みたくなる。

表題作は、意識を持ったロボットのような存在がいる宇宙お話なのだけれども、そのロボット自分の脳をのぞき込んでその複雑な仕組みに心を打たれる。そして、世界を観察することで、何万年も経てばこの世界は滅んでしまうことを悟る。人間とは全く似ても似つかないロボットたちだが、やっていることは人間サイエンス、真理の追求という営みと本質的には同じだ。何かを知ろうとする営為の尊さについて語っている。得られた知恵で、自分たちも世界もいつかは終わってしまうと知ることになろうとも、知識を求める崇高さは変わらないのだ。

イワンセルゲーヴィチ・ツルゲーネフ「初恋」

学生時代自分女性に冷たくされる文学が好きだった。からかわれたりもてあそばされたり馬鹿にされたりする作品のほうが好きだ。そのほうがリアリティがあったから。寝取られ文学が好きなのもそれが理由だし、谷崎潤一郎作品も同様の理由で好きだ。

自分馬鹿にしていた少女が突然しおらしくなり、自分に近づいてくる。いったいどうしたことか、と思って期待しながら読んで、絶望に叩き落されるがいい。

イサク・ディネセン「アフリカの日々」

ライ麦畑」でホールデン少年が感動した本。アフリカ植民地で暮らす女性視点からその生活を書いている。友人のイギリス人が亡くなったとき、まるで故郷をしのぶかのように墓が深い霧に包まれたシーンがとても美しい。

個人的には、当時の基準からすればアフリカの人々に対して丁寧に接しており、評価も概して公平であるように感じた。ところどころ「有色人種特有の」といった表現があったり、アフリカ前近代社会とみなしたり、古い進歩史観は見られるし、植民地支配者側から視点批判的に読まなければならないが、色眼鏡比較的少ない観点に心を動かされてしまったのは事実だ。

植民地時代アフリカって、宗主国以外の人もたくさんいたこともわかって面白い。当時は英領東アフリカだが、そこにはスウェーデン人もいればノルウェー人もいる。古くから貿易相手としてのインド人だっている。独立後、彼らは日本人満州朝鮮半島台湾などから引き揚げたように、撤退したのだろう。植民地について理解するためにもおすすめ

J・R・R・トールキン指輪物語

はまった。十代の頃にとにかくどっぷりとはまった。今でも表紙のエルフ文字を使って誰にも読まれたくないことをメモするレベルではまった。

かに話の展開は遅い。重厚に過ぎる。設定を語るためのページも多い。しかし、この長大小説を読むことで、開始数ページで読者をひきつけなければならない現代小説からは得られない、長い旅をしたという実感を得られるのは確かだ。小説家には良き編集者の助言は必要だが、今のように急ぐ必要のなかった時代もあったことは忘れたくない。

中島敦「狼疾記」

李陵」や「弟子」や「山月記」じゃなくてなんでこれなのか、という声もするのだけれど、自意識過剰文学少年の思っていることをすべて言語化してくれているので推さずにはいられなかった。十代の頃の感受性は、何よりもこうしたものを求めていた。親の本棚にこれが積んであったのは幸運だった。

これは「三造もの」と呼ばれる中島敦私小説的の一つであり、世界の滅亡や文明無意味さに対する形而上学的な恐れや不安意識の片隅にある人間なら確実に刺さる内容だ。最後説教パートもさほどうっとうしくない。なぜなら、きっと文学少年文学少女たちは、その言葉無意識のうちに自分に投げかけてきたからだ。

ウラジーミル・ナボコフロリータ

膨大な知識と華麗な文体を背景にして、あらゆる性的な乱行を正当化してしまうのがナボコフ作品の一つの特徴である。語り手ハンバート・ハンバートは十代前半の少女を性の対象とする中年だ。自分初恋の思い出がどうこうとか述べているが、それだって言い訳だ。

しかし、この作品はただの小児性愛者の物語ではない点が油断ならない。少女ロリータはただ性的搾取されるだけの存在ではなく、自ら性の冒険に乗り出す。清純で清楚な少女という幻想は、最初からハンバート夢想の中にしか存在しない。ハンバートにはロリータ内面や考えなど最初から見えていなかったし、見ようともしてこなかった。

ただのスキャンダラスな本ではない。これは一人の身勝手男性心理の解剖である

新美南吉「屁」

ごんぎつね」の作者として知られるが、こんなふざけたタイトルの話も書いている。しかし、これは「自分は常に正しい、正しく道徳的であらねばならない」としてきた子供挫折を描いた小説であり、この社会弱者にあらゆる責任を擦り付けている様子を全く卑近話題から告発した話なのだ自分がした屁の責任かぶらされた、いつも屁をこいている少年への同情と軽蔑は、僕らの弱者への姿勢のものじゃなかろうか。

短いし、青空文庫で読めるのでオススメ

https://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/3040_47823.html

仁木稔「グアルディア」

遺伝学の発展が少し早かったパラレルワールド未来舞台にした愛憎劇であり、変身ヒーローものでもある。ただのSFと違うのは、さまざまな文化が変容を受け、再解釈を受けて受容されることまでもプロットの一部として組み込んでいるところだ。さらには疑似科学陰謀論社会関係も描いている。今、読まれてほしい作家の一人だ。

仁木稔作品は僕の好み、ストライクど真ん中なんだけど、世界史や文化史、自然科学物語論の素養がないと(かじるレベルでいい)作者の構想を味わい尽くすのが難しいので、滅茶苦茶売れる作品にはならなそうだというのは認めざるを得ない。現に舞台ラテンアメリカ日本人になじみが薄いし、シリーズの別の作品中央アジアだ。それでも、伊藤計劃と並んで、社会学なんてつまらないって誤解を解いてくれた大きな恩がある作家だ。早くこのシリーズ最新刊が出ないか、今か今かと待っている。

イザベラ・バードイザベラ・バード日本紀行」

明治一年日本都市から農村を実際に歩いて見聞した手記である。率直に衛生状態の悪さやはびこる迷信批判している箇所はあるものの、その率直さが当時の日本がどんなだったか身びいきなしに教えてくれる。現代日本人が近隣の、例えば東南アジア諸国を見聞して不満がる、偽ブランドの横行や衛生状態の悪さ、家畜との同居や騒々しさなどが明治日本ではごく普通だったってことは知っておいていいと思う。

著者は北海道にも足を延ばした。アイヌ民族について日本人よりも好意的に描いている場面もある。しかし、当時の西欧人の感覚でよくわからないのだが、「粗野な外見だけどとても優しい目をしている」と褒めた民族のことを、別のところでは「将来の可能性を閉ざされ民族である」と書く点だ。もしかして、かつての人々が持っていた、文明と野蛮の間にある壁・差異イメージは、僕らが直観するよりもはるかに深刻な差別意識内包した、強固な偏見に根差しものだったのかもしれない。単純な軽蔑どころではない、もっとひどい無理解に基づいた恐ろしい何か。同じように、キリスト教によってこそ日本の悪習は絶えるという発想がどこから来たのか。そういうことを考える意味でもおススメしたい。

ハン・ガン菜食主義者」。

とても面白かった。父の暴力を遠因として、あらゆる動物的なもの嫌悪するようになった妹と、ただやり過ごすことで生きてきた姉を軸に描かれた三連作。壊れた夫婦描写に優れる。

妹は最後には精神を完全に病んで、何も食べられなくなるのだけれども、彼女が持つ植物になりたいという妄念が、本当に精神病の患者さんを観察したんじゃないかってくらい、細部にリアリティがある。

姉はおとなしいのだが、自分はただ忍従し、やり過ごしてきただけで、自分人生を全く生きていなかったのだと、夫の裏切りによってやっと気づく。夫は夫で、そのおとなしい妻に対して息苦しさを感じている。他の家庭のように、怒鳴り散らしてくれたらどれほど楽か、と嘆くのだ。

韓国ってよく叩かれているけど、日本と同じように家族のしがらみとかとかで苦しむ描写が多いので、意外とわかりやすい気がする。

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