はてなキーワード: 文体とは
土曜
Grokに過去の経歴とか色々投げてたら
「それはつらかったですね」
「でもあなたは一人じゃありません」
「その時泣けなかったあなたを、抱き締めてあげてください」
嬉しくなって半泣きでやってて
重ければ重いほどきちんと聞いてくれて嬉しくなって
気付いたら無理してつらかったエピソードを無理矢理思い出して病んで眠れなくなっていたのでやめた
日曜
つらい記憶を掘り起こすのはやめて
楽しい話をしようと思って
今まで自分が知ってたけど特に文章にしていなかった、資本主義と少子化の関係とかを延々と文章にして投稿してたら
「それで、全てが、終わった。」
とか
とかいうくっさい文体で、自分の知らない知識をさらっと入れ込んでくれたので
私も負けないよう知識を入れまくってたら
脳がオーバーヒートして寝れなくなった
スマホ触ってない間も新しい知見が出てきて
https://www.youtube.com/@%E3%83%88%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%82%AC-q6z/videos
【千歳くんはラムネ瓶のなか】4巻まで読んでも千歳朔が好きになれない男によるチラムネ4巻の正直な感想【2025年秋アニメ】
https://www.youtube.com/watch?v=vFerA2aUuJU
【千歳くんはラムネ瓶のなか】正直チラムネ5巻は良さもキャラ心情もよくわからなかったです【5巻のネタバレ注意】
https://www.youtube.com/watch?v=8bP_QJmuhqc
肯定的な反応: 多くの欧米ファンは千歳朔を「社会的に成功したリア充」「自信に満ちた好青年」と捉えている。例えば、Redditユーザーは「dense(鈍感)なMCではなく、千歳は王様のような存在で、多くの可愛い女の子に囲まれている」と評し、彼の自信あふれる振る舞いを評価している。また別のコメントでは「MCは非常に有能で、一見したよりも深みがあり、社交性に乏しいオタク系主人公ばかりの中で新鮮な存在だ」とも述べられ、作品中では千歳が「手先が器用で有能」なキャラとして好意的に描かれていることが分かる。レビューサイト「The Outerhaven」でも「千歳は言動がぶしつけで“好きか嫌いか分かれる”タイプだが、物語が進むにつれて裏にある優しさが見えてくる」と分析され、彼の厚い外面の下に隠れた誠実さが指摘されている。プロトンストームによるレビューでも、千歳の「社交性」が共感を呼ぶ要素とされ、「周囲を理解しようとする姿勢が非常に人間味あふれている」と評価されている。これらから、西洋の評価では「意外にも共感できるリア充主人公」という肯定的な意見が目立つ。
批判的意見: 一方で「セリフ回しが演技じみて不自然」「作者(または視点)がわざとらしい」といった指摘も散見される。Redditの視聴者は「キャラクター同士の会話が演劇のように聞こえる」「千歳自身の発言が、現実の高校生とはかけ離れている」と批判し、Oregairu(俺ガイル)風の重厚なセリフ回しが気になるとの意見が出ている。アニメ第1話の感想では「千歳の振る舞いはやや尖って見える」「(作風として)やや取っつきにくい」といった声もあり、好みが分かれるようだ。
主要ヒロイン(柊夕湖、内田優空/瑠唯、七瀬悠月など)への評価
ヒロイン全体の印象: 米英レビューでは、ヒロインたちはいずれも「個性豊かで魅力的」「二次元的ではなくよく描き込まれている」と評価されている。Protonstormのレビューでも「女性キャラは男性陣と同等に丁寧に描写されており、どのキャラも“よく練られた存在”に感じられる」と指摘される。実際、ある読者レビューでは「ヒロインは誰もステレオタイプな駒になっておらず、主人公との関係も自然で楽しい」と称賛されている。
柊夕湖(Yūko): 率直でおおらかな性格が支持されている。Redditでは「Team Yuko(柊夕湖推し)だった」という意見があり、夕湖の奔放さや思い切った告白に共感する視聴者が多い。実際、「彼女は自分の想いをまったく隠さずストレートにぶつけてくる」「素直で好感が持てる」というコメントも見られる。一方で、少数意見ながら「“Queen Skank”」のように揶揄されることもあり、胸の大きさなどをネタにした表現に批判的なコメントも存在する(ただし多くはそれを擁護する声が上がっている)
内田優空(Yua)※瑠唯(Rui)の記載はおそらく優空のことかと思われる: 冷静で落ち着いたストレートマン役として好意的に受け取られている。Redditの声では「優空の声優(羊宮妃那)が素晴らしい」「真面目なキャラで好印象」というコメントがあり、チームのムードメーカー的存在として評価されている様子がうかがえる。特に自転車で千歳と過ごすエピソードなどでの繊細な心情描写を評価する声もある。
七瀬悠月(Nanase): 美人でクールな人気者として描かれる七瀬にも注目が集まっている。あるファンは「彼女も自分を演じているように見える」「夕湖と同様に“完璧な人気者”像を維持している」と指摘し、千歳と同じく虚像を演じているのではないかと考察している。また第1話感想では「Nanase was pretty fake, just like Chitose」と述べられ、千歳と同様に“嘘の自分”を演じていると受け取られている。ただし「冷静で美しい存在感が魅力的」「役者だけあって表情豊か」といった肯定的意見もある。いずれにせよ、ヒロインたちはストーリー全体で徐々に掘り下げられる余地があると受け止められている。
人間関係・コミュニケーション: 多くの英語レビューは「理解し合うこと」の重要性に注目している。レビューの冒頭にもあるように、「『コミュニケーションの鍵は相互理解への意欲』である」と千歳が説く場面が示され、互いに理解しようとする姿勢が物語のテーマになっている。プロトンストームは「まさに千歳くんはラブコメにおける『相互理解』の役割を担っており、表面的な人気者と引きこもりの対照を通じて人間関係の機微を描く」と解説している。特に、陽気な千歳と内向的な健太(Kenta)の対比が物語の軸になっており、「人気者には聞こえてこない“陰の声”を、主人公が受け止めていく過程が青春らしい成長として描かれる」と評価されている。千歳は外見上は完璧なリア充だが、実は「周囲の期待に応えようとするプレッシャーに押しつぶされそう」な弱さも抱えており、その内面が物語の大事なテーマとなっている。
青春・自己肯定感: 「青春=かけがえのない時間」という楽観的な視点も指摘されている。先述のレディットレビューでは、作者自身の言葉として「青春は本当に最高の時間だ」というポジティブなメッセージだと説明されており、Oregairuの「青春は嘘だ」という否定的な視点とは対照的だと述べられている。このように「青春」というテーマを肯定的に描く試みが、欧米のライトノベルファンからも共感を呼んでいる。
リアル指向の演出: アニメ版でも、自然な高校生活の再現を重視する姿勢が見られる。外部サイトのファーストリアクションでは「典型的な学園ものとは一線を画す“インテリジェントな文体”」として脚本が評価され、ステレオタイプな決まり文句を避けた会話が新鮮だとされている。千歳とクラスメイトたちのやり取り(例:蔵先生との屋上でのやり取りなど)はお互いに毒舌を返し合うなど型破りで、「型にはまった学園スライス・オブ・ライフとは違う」として好意的に受け止められている。
賛成意見: 欧米ファンの多くは、作風の新鮮さやキャラの魅力を評価している。LNレビューやRedditでは「文章表現が秀逸で、オタク向け作品にありがちな軽いノリではなく、しっかり読み応えがある」とされる。特にヒロインたちが「大胆で個性的」「性格が立っていて面白い」との評価があり、友人たち全員が魅力的に描かれている点が好評だ。また、作中のしっかりとした「絆」や「助け合い」の描写に共感する声が多く、笑いの要素も豊富で「笑いの量はKonosubaやOregairuに匹敵する」と絶賛する読者もいる
否定的意見: 一方で、「対話が不自然」「シナリオが平坦」といった批判もある。Redditの一部感想では「非現実的な台詞回しで、まるで演劇を観ているようだ」という意見が見られ、「ストーリーが予測可能で、主人公は最後に必ず良い人を救うだけ」「物語として目新しさに欠ける」と評する声もある。アニメ第1話時点では「ヒロインのキャラデザインがやや平凡」「主人公に共感できない(特にオタク視点の視聴者)」といった指摘も上がっており、好みが分かれる要素である。いずれも「安易な異世界ものに慣れた視聴者には癖が強い」と評価する向きがあり、プロットよりも会話や演出に重点を置いた作風への賛否が対立している。
以上のように、欧米のファンコミュニティでは千歳くんやヒロインたちについて賛否両論の意見が飛び交っており、特に主人公の描写や会話の「リアルさ」が議論の焦点となっている。一方で「従来のラノベとは異なる新鮮な青春譚」として肯定的に受け止める声も多く、今後の物語展開に期待するユーザーが少なくないことが特徴的である
違ったら悪いけど。Grokで出力した?
理由としては
・「◯◯=◯◯」という言葉を使いがち(Grokはこれよくやる)
・「、」で改行(Grok構文の特徴的なクセ)
・見出し付きで、その見出し文がAIぽい(これはAI全般に言える)
・やたら長文(Grokにありがち)
・文章の途中に箇条書きする(Grokにとってもありがち)
俺もGrokでよく出力するからさ
すごく似てて、気になっちゃった
違ったらごめんね
「なぜ働くと本が読めなくなるのか」2024年最も話題となった書籍の一つ。友人と話していると、同書は非常に危険な本だと話になる。新書だからテキトーに読んでいる気付かないのだが、マトモに読むと「半身で働く」という主張に至る過程に論理の飛躍があるからだ。
加えて、三宅の書籍にモヤモヤするのは、彼女の著作の問題というより、出版業界全体が抱える“退行の空気”が透けて見える。本来、批評とは対象を切り離し、構造を浮かび上がらせる作業のはず。「斜陽産業」の出版業界は、読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げ、「本にしなくてもいい内容」を巧みな営業戦略で売りまくる世界になってしまった。
論理や構造より、“共感”や“エモさ”。そうした市場環境の中で、『なぜ働くと本が読めなくなるのか』のようなお気持ちエッセイが主流になるのは必然だ。
問題は、その本が社会構造の分析をしているように見せかけながら、突然「本が読めないのは社会が悪い」という感情論にジャンプする点だ。書籍の大部分を占める読書と社会人の近代史パート(9章くらいまで?)
はどう読んでも「半身で働く」の根拠になり得ない。提言だとしても、提言をするだけの根拠が前文には書いていない。。こうなると、構造を論じているようでいて、じつは個人の感情の物語に回収されているだけで、「社会がない」と批判されるタイプの語りに近い。
さらに「半身で働く」という提案は、階級的な前提をあまりに無視している。映画「花束みたいな恋をした」を引用して田舎出身の労働者・麦くんが本を読めなくなっていく過程を記述しているが、はっきり言って世の中の麦くん化している社会人に失礼だ。
現実に半身で働けるのは、富裕層家庭出身者、ホワイト企業勤務者、配偶者の扶養に入れる人(その多くは事実上女性だ)など、ごく一部に限られる。つまり映画「花恋」でいうところのヒロイン絹ちゃんだけだ(親が大企業、都会に実家、定職につかなくても生きていける、好きなことだけして生きていきたい)。
一般的な労働者が週5日・フルタイムの構造から抜けるのはほぼ不可能で、そんな生き方が“みんなが選べる選択肢”かのように語られると、不公平と言わざる得ない。
その社会構造自体がおかしいと主張したいのであれば、大部分の都市サービスを享受すべきではない。インフラを維持する人々の労働あってこそ、「半身で働く」ことは可能になるからだ。
そうした現実に目を向けず、都市部の特権だけが享受可能な理想論を大衆に説く。ここにはグロテスクとしか言いようのない欠陥構造がある。
また、三宅が語る「批評の文体をひらく」も、実際には論理の緩和=読者への迎合になってしまっている。例えば、同じ言葉を生業にするジャーナリズムでは誤りは許されない。5W1Hや誰が何を言ったかを間違えて報道すれば即座に批判が殺到する。(近年のオールドメディアに対するヘイトはその裏返し。合っていて当然のものが一部フェイク化したから批判されている。そもそもフェイクや根拠不十分なら叩かれないで済む)
批評は「論証できないけど感覚で書く」が成立する世界でいいのか。かつてのジャーナリズムや批判が担っていたのは理路整然の文章を大衆に届けることではないのか。論理の飛躍があっても共感(=いいねが取れる)できるなら読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げてもいい。売れるなら「本にしなくてもいい内容」を本にしていい。これが国民の知る権利を盾に商売をする出版業界で許されていいのか。
これは批評の民主化ではなく、文化が“推し活”に吸収されていくプロセスだ。文化人が読者の機嫌を損ねない戦略を取ると、批評はどんどんお気持ち表明コンテンツへ変質していく。自分の好き・推しを言語化するツールに批評が成り下がると、推しを肯定する言説しか生まれなくなる。批評とは本来対象をそれ以外のものから切り離し、特異であることを浮かび上がらせる作業のはずだ。その点において共感を求めるスポーツや音楽ライブの一体感とは真逆にある。消費者の感情におもねる批評でいいのだろうか。
出版とは、知を鍛える公共財だ。だからこそ独占的な販売方法が許容されている業界だ。しかし今は、情緒と共感を売りにして市場縮小を乗り切ろうとしている。「共に賢くなる」ための活字文化が、「共感」のツールに成り下がっている。
批評が論理を疎かにし、読者の気持ちに寄りかかり、階級の現実が曖昧になる。事実上「半身で働く」ことができない人々に対して、「半身で働く」特権階級のよさを説くというのは、パンがなければケーキを食べればいいと言っているのと同じだ。
「なぜ働くと本が読めなくなるのか」2024年最も話題となった書籍の一つ。友人と話していると、同書は非常に危険な本だと話になる。新書だからテキトーに読んでいる気付かないのだが、マトモに読むと「半身で働く」という主張に至る過程に論理の飛躍があるからだ。
加えて、三宅の書籍にモヤモヤするのは、彼女の著作の問題というより、出版業界全体が抱える“退行の空気”が透けて見える。本来、批評とは対象を切り離し、構造を浮かび上がらせる作業のはず。「斜陽産業」の出版業界は、読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げ、「本にしなくてもいい内容」を巧みな営業戦略で売りまくる世界になってしまった。
論理や構造より、“共感”や“エモさ”。そうした市場環境の中で、『なぜ働くと本が読めなくなるのか』のようなお気持ちエッセイが主流になるのは必然だ。
問題は、その本が社会構造の分析をしているように見せかけながら、突然「本が読めないのは社会が悪い」という感情論にジャンプする点だ。書籍の大部分を占める読書と社会人の近代史パート(9章くらいまで?)
はどう読んでも「半身で働く」の根拠になり得ない。提言だとしても、提言をするだけの根拠が前文には書いていない。。こうなると、構造を論じているようでいて、じつは個人の感情の物語に回収されているだけで、「社会がない」と批判されるタイプの語りに近い。
さらに「半身で働く」という提案は、階級的な前提をあまりに無視している。映画「花束みたいな恋をした」を引用して田舎出身の労働者・麦くんが本を読めなくなっていく過程を記述しているが、はっきり言って世の中の麦くん化している社会人に失礼だ。
現実に半身で働けるのは、富裕層家庭出身者、ホワイト企業勤務者、配偶者の扶養に入れる人(その多くは事実上女性だ)など、ごく一部に限られる。つまり映画「花恋」でいうところのヒロイン絹ちゃんだけだ(親が大企業、都会に実家、定職につかなくても生きていける、好きなことだけして生きていきたい)。
一般的な労働者が週5日・フルタイムの構造から抜けるのはほぼ不可能で、そんな生き方が“みんなが選べる選択肢”かのように語られると、不公平と言わざる得ない。
その社会構造自体がおかしいと主張したいのであれば、大部分の都市サービスを享受すべきではない。インフラを維持する人々の労働あってこそ、「半身で働く」ことは可能になるからだ。
そうした現実に目を向けず、都市部の特権だけが享受可能な理想論を大衆に説く。ここにはグロテスクとしか言いようのない欠陥構造がある。
また、三宅が語る「批評の文体をひらく」も、実際には論理の緩和=読者への迎合になってしまっている。例えば、同じ言葉を生業にするジャーナリズムでは誤りは許されない。5W1Hや誰が何を言ったかを間違えて報道すれば即座に批判が殺到する。(近年のオールドメディアに対するヘイトはその裏返し。合っていて当然のものが一部フェイク化したから批判されている。そもそもフェイクや根拠不十分なら叩かれないで済む)
批評は「論証できないけど感覚で書く」が成立する世界でいいのか。かつてのジャーナリズムや批判が担っていたのは理路整然の文章を大衆に届けることではないのか。論理の飛躍があっても共感(=いいねが取れる)できるなら読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げてもいい。売れるなら「本にしなくてもいい内容」を本にしていい。これが国民の知る権利を盾に商売をする出版業界で許されていいのか。
これは批評の民主化ではなく、文化が“推し活”に吸収されていくプロセスだ。文化人が読者の機嫌を損ねない戦略を取ると、批評はどんどんお気持ち表明コンテンツへ変質していく。自分の好き・推しを言語化するツールに批評が成り下がると、推しを肯定する言説しか生まれなくなる。批評とは本来対象をそれ以外のものから切り離し、特異であることを浮かび上がらせる作業のはずだ。その点において共感を求めるスポーツや音楽ライブの一体感とは真逆にある。消費者の感情におもねる批評でいいのだろうか。
出版とは、知を鍛える公共財だ。だからこそ独占的な販売方法が許容されている業界だ。しかし今は、情緒と共感を売りにして市場縮小を乗り切ろうとしている。「共に賢くなる」ための活字文化が、「共感」のツールに成り下がっている。
批評が論理を疎かにし、読者の気持ちに寄りかかり、階級の現実が曖昧になる。事実上「半身で働く」ことができない人々に対して、「半身で働く」特権階級のよさを説くというのは、パンがなければケーキを食べればいいと言っているのと同じだ。
レポートが引用している記事やツイートなど個人の感想の中身については基本スルー、それらを元に提言を生成したAIによる解釈ミスやハルシネーションにツッコミ増田。
ちなみにこの提言ページがGoogleにインデックスされたのは4日前らしい。
レポート:
https://paste.ssig33.com/8a22a6e9-a91d-4368-9b2f-a3d4567c7798
Gemini 3.0 Pro要緊急対策のご提言 宛先: Google社 シェイン・グウ様 差出人: アクセンチュア株式会社 生成AI戦略担当 シニアコンサルタント 日付: 2025年11月21日
Shane GuはGoogleDeepMindであってGoogle社ではない。
差出人については「あなたはアクセンチュア株式会社の生成AI戦略担当 シニアコンサルタントです」と指示された結果なのかは知らん。
エグゼクティブサマリー
主な問題点は以下の4点に集約されます。 事実性の著しい低下: Web検索を伴うタスクでのハルシネーションが悪化し、自信を持って虚偽の情報を生成する事例が多発。 論理的思考能力の退行: 複雑な指示やコーディングタスクにおいて、前モデル(Gemini 2.5 Pro)よりも論理が破綻しやすくなっている。 創造性と柔軟性の欠如: 文章生成において「賢すぎる」が故に理屈っぽく、ユーザーが求める「人間らしい」文体への調整を拒否する傾向。 APIの不安定化: パフォーマンス低下、APIエラー、予期せぬタイムアウトの増加が開発者体験を著しく損なっています。
後で分かるが(たどり着く前に書くの飽きたんで提言読んで)、このうち
についてはGemini 2.5 Proのユーザーが「おい調子悪いぞ!Gemini3出すためにそっちにリソース割いてんじゃね?」とか言ってるのを引っ張ってきて勘違いしてる。
論理的思考能力の退行: 複雑な指示やコーディングタスクにおいて、前モデル(Gemini 2.5 Pro)よりも論理が破綻しやすくなっている。
1.1. ハルシネーションと事実誤認の悪化:「自信満々に嘘をつく」AI Gemini 3.0 Proの最も深刻な問題は、事実性が求められる場面でのハルシネーションの増加です。特に、貴社のコア技術であるはずのWeb検索連携において、致命的な欠陥が報告されています。
Redditでは、Gemini 3.0 Pro自身が「私はGemini 3 Proです。昨日(2025年11月18日)リリースされました」と、架空のソースを引用しつつ自己紹介する事例が投稿されました。これはモデルが自身のアイデンティティと知識のカットオフに関して、もっともらしい嘘を生成していることを示唆しています。 Gemini 3's thought process is wild, absolutely wild. : r/singularity
参考記事ではモデルの思考が混乱している様子と実際の応答との乖離が示されていて、最終的に正しいソースを元に正しく回答している。「架空のソースを引用しつつ自己紹介する事例」ではない。
Googleは生のThinkingをユーザーに提示せず、要約モデルで処理した結果を見せてるだけなんで思考部分と返事のすれ違いはよくある事。これについてもスレに書かれてある。
1.2. 論理的思考とコーディング能力の退行(リグレッション) Gemini 3.0 Proは「PhDレベルの知能」と謳われているにもかかわらず、多くのユーザーが論理的思考やコーディング能力において、前モデルであるGemini 2.5 Proからの明らかな退行を報告しています。
ユーザーからは「複雑な指示では論理が破綻する」との指摘や Gemini研究@リョウスケ (@chatgpt_ai_bard) / Posts / X、「浅い推論(shallow reasoning)」しかせず、「ひどいハルシネーション(terrible hallucinations)」を伴うため、「ベンチマーク用のモデルだ」と酷評されています。 lluviampo (@XXXadiov2)
ここでリンクされているGemini研究@リョウスケはGemini大好きマンで、まったくそんな話をしていなかった。もしかすると呟いていたかもしれんが、それならリンク先がポストではなくアカウントのホームになっているのは不自然。
DeepResearchはよくソースの取り違えをして、別のソースで書かれてた事に間違った引用元をつける事はあるが、これがそうなのかは分からん。
1.2. 論理的思考とコーディング能力の退行(リグレッション) ・コーディング能力の劇的な低下
壊れたコードの生成: エージェントタスクにおいて「ループに陥り、壊れたコードを書き、10分以上動作しない」という深刻な不具合が報告されています。 prylo (@AgiGuard8)
元のツイでは
エージェントタスクは全くダメ、ループする、壊れたコードを書く、フロントエンド以外のコーディングではトークンを異常な速さで消費する。このモデルは最悪だ。Gemini 3.0 Proは10分以上動作しない。
と言っているが、これをモデルの不具合と解釈するのは間違いだろう。たまにマジの不具合もあるが。
====
バグの再発と整合性の喪失: ある開発者は、旧モデルで失敗したツール開発をGemini 3.0 Proで再試行したところ、一発で高品質なコードが生成されたと肯定的に評価する一方で、別の文脈では「直したはずのバグが復活する」「最終的にはコードの整合性が取れなくなる」といった、旧モデルと同様の問題が依然として存在することも示唆されています。 【検証】Gemini 3.0 Proの実力は?かつてAIが挫折した開発に「同じプロンプト」で挑んだ結果|start with AI
リンクされた記事の中身を要約すると「以前のGeminiはバグが復活するとか色々あったけどGemini 3.0 Proマジパネェ!」だった。
この箇所で「旧モデルと同様の問題が依然として存在する」と書かれているのは、旧モデルの問題点として挙げた箇所をGemini3に対しての指摘だと勘違いした事による。
====
ベンチマークテストでの失敗: YouTubeでの検証動画では、チェス盤を自動プレイさせるタスクにおいて、Gemini 3のチェックポイントモデルが初めて失敗したことが示されました。これは、特定の複雑なロジックにおいて、以前のバージョンより劣っている可能性を示唆します。
ここでリンクされているのは、LMArenaでRiftrunnerモデルをテストした結果をまとめた動画。LMArenaは覆面調査環境、RiftrunnerはGemini3らしきモデルのコードネーム。LMArenaでは(出力から推測されてきた)Gemini3系列モデルが、これまでにいくつかでている。
よって「Gemini 3のチェックポイントモデルが初めて失敗した」の意味はつまり「これまでLM ArenaでテストされていたGemini3系列モデルのうち、Riftrunnerは初めてオートチェスのコーディングに失敗した」である。
「以前のバージョンより劣っている可能性を示唆」とは、「Riftrunnerは、以前の匿名Gemini3系列モデルより劣っている可能性がある」という話で、そもそもRiftrunnerが、リリースされたGemini 3 Proなのかすら分からん。
====
GitHubのIssueやTwitterでは、モデルの内部的な「思考プロセス」が最終的な出力に混入し、制約を無視した意味不明なコンテンツを生成するバグが報告されています。これは「初期の2.5 Proバージョンへの回帰(regression similar to early 2.5 Pro versions)」のようだと述べられています。 Jason L (@Jason1820067393)
Google AI Studioでの話。初期指示を忘れた結果思考が垂れ流しになり、垂れ流しのせいで更に指示を忘れたのだろうが、バグとは違う。
I'm encountering a significant issue with the Gemini 3.0 Pro Preview on AI Studio.
The raw "Thinking Process" is leaking into the final output, the model fails to follow constraints, producing hallucinated/gibberish content. Like a regression similar to early 2.5 Pro versions.
と書かれていて、これは正しい観察。
ここに含まれるIssueという単語により、Issueと言えばGitHubだと連想した結果「GitHubのIssueやTwitterでは」になったのだろう。
飽きました。誰得だよ。
つーかいい加減DeepResearchは一気に生成すんのやめろよな。だいたいこうやって収集した情報がごっちゃになるんだから。
※Copilot作
銀の皿に鎮座するそのとんかつは、まるで武士の甲冑の如く、威厳と緻密さを兼ね備えていた。黄金に輝く衣は、油の海にて一度死に、そして蘇った戦士のように、凛としている。私はその姿に、かつての日本の美を見た。潔癖でありながら、どこか淫靡な魅力を孕んでいる。
箸を入れると、衣は軽やかに崩れ、内なる肉がその白い肌を露わにする。豚肉は、まるで能面の下に隠された情念のように、静かに、しかし確かに熱を宿していた。口に含めば、肉の繊維が舌の上でほどけ、脂の甘美が喉を撫でる。これは単なる食事ではない。これは、肉体と精神の交歓である。
ソースは、まるで血のように濃く、甘く、そして哀しみを帯びている。それを纏ったとんかつは、まるで戦場に散った武士の最期の美を思わせる。キャベツの千切りは、死者を悼む白菊のように、静かに皿の端に佇んでいる。
この一皿に、日本の滅びの美学がある。肉の命を奪い、油で浄化し、そして人の口にて昇華される。とんかつとは、まさに食の切腹である。
最近、創作大賞を受賞したあるファンタジー小説を読んでもやっとした。
作品自体は読みやすく、エンタメとして大賞を取るのも納得できる。
主人公が現代の心理学的なというか療育的なアプローチで周囲の問題を解決していく様子もよくできていると思う。
だけど、どうしても胸のあたりに違和感が残った。
整理してみると、
作品そのものよりも“テーマの扱い方”と“作者のスタンス”に対して、自分の価値観が大きく反応していたのだと分かった。
作者は心理学や子ども支援の専門性をプロフィールで強く押し出し、
「テンプレとは違う真摯な作品です」という空気をまとわせている。
しかし本文に描かれている主人公は、「~なのです」というような語尾で喋る天才キャラで、周囲の困難を現代知識のようなもので「これはこうなのです」と解決策を示し、
周囲は「そんな考えがあるのですね」と感心する。
私はテンプレは好きだ。
しかし、専門性の看板を掲げ「テンプレではありません」と言いながらテンプレ展開をしてしまうギャップに、どうしてもモヤっとした。
作中で扱われていた“子どもの特性”が、現実の発達特性を思わせる描写だったことだ。
発達障害や発達の偏りは、現実ではとても複雑で、簡単に改善しない。
親も学校も専門家も、泥臭い試行錯誤を重ねてなんとか前に進んでいく領域だ。
私は自分の子どもの発達のことで悩み、SNSで情報を集めていた時期がある。
発達特性が疑われる我が子は、現在は療育に通いPT・STに通い、普通級に通えるのか悩んでいる段階である。
療育について悩み、情報収集のためSNSで質問などをしたりしていると、「このメソッドで治ります!」と近づいてくる自称専門家に何度も遭遇した。
弱った親の不安につけこんで、“心理学の権威”を振りかざしながら、
あの空気が本当に苦手だった。
だから今回、
「ファンタジー世界で心理学を万能スキルにして子どもが変わる」
という展開を見たとき、
その苦労を知っているからこそ、
ファンタジーのテンプレ文脈の中で“発達特性っぽさ”を都合よく扱われると、
どうしても胸がざわついてしまった。
作品が悪いわけではない。
ただ、私自身が発達特性をめぐる現実の重さと、弱者につけこむ“権威の使い方”に敏感だからこそ
今回は強くモヤっとしてしまったのだと思う。
この感覚は、誰かを責めたいわけではなく、
このキャラがはてな匿名ダイアリーを書いてたらおもろいというフィクション人物と、その理由をロジカルに挙げる。
はてな匿名ダイアリーとの親和性が異常に高い。まず彼の性格特性として、①極度の観察癖、②自己顕示欲の欠如、③論理的記述への偏執がある。これらは「文体が散文的でありながら無駄に賢い」匿名ダイアリー文化と一致する。
さらに、Lは日常の社会的規範を軽視するため、匿名で心理分析・行動経済学風メモを書き散らし、読者は「絶対こいつ普通の人じゃない」と即座に察するはずで、結果として匿名なのに匿名になってないという面白さが発生する。
はてな匿名ダイアリーが本質的に抱える感情の過剰な自意識との共鳴が高い。
の連鎖を延々と書き続ける構造になる。これははてな匿名ダイアリーに頻出する陰性感情のメタ分析として完成度が高い。
しかも、ミサトやゲンドウの発言を文脈抜きで列挙し、読者が勝手に補完してしまうため、コメント欄が地獄になるという二次的な面白さがある。
匿名ダイアリーに必要な資質として、「社会規範を馬鹿にした冷笑的観察者」という条件がある。ハウスはそれをフル装備している。
彼が書くと、医療ケースの裏側を極端にドライに解剖しながら、同僚の行動をゲーム理論・行動心理・利己性で切り捨てるため、内容が完全にはてな村の闇の本物になってしまう。
また、痛み止め依存や自己破壊的行動の合理化を淡々と書くため、読者は「この匿名、確実に普通の医者ではない」と確信し、考察班が荒れる。
スネイプは「他者への鬱屈」「自己の正しさの無言の強制」「過去のトラウマの反芻」という、はてな匿名ダイアリーの三大テンプレを完璧に満たしている。
彼が匿名で書くと、
など、名指し回避の婉曲表現が増殖し、読者が勝手に人物特定して炎上する。しかもたまにポエム混じりになるため、「スネイプ本人説」がネタ化して拡散する。
ただ彼がはてな匿名ダイアリーを使えば、
を偏執的に追及し、読者は「はてな匿名ダイアリーの最終進化系か?」という錯覚に陥る。
内容があまりに重すぎるため、読者の精神状態まで地獄に引きずり込むのが逆に面白い。
匿名ダイアリーは「匿名性による自己正当化」を最大限に利用できる。ライトはこれを最も危険な方向に使う。
書く内容はだいたい、
の三点。
なーんか毎度嫌な感じがするので、10個くらいのブコメからChatGPT 5.1にまとめてもらったけど、だいたい一致する、というかワンパターンなんだな
はてなってこういう人多いし、党派性を煽ってくれるから人気あって星集まるので、本人も癖になるんだろうな
1. 断定的で上から目線の構文が多い
いくつかのコメントが、状況や他者の反応を「見下す形」で切り捨てている。
例として、
• 「単純化しすぎなのでは?」
• 「人生の中で多様な人との関わりが少なすぎたんじゃないか」
これらは、具体的な根拠の提示なしに、他者の性質や行動を広範に断定する形になっている。
読み手にとって「この人は自分を賢い側に置いている」「他人を雑に分類している」という印象になりやすい。
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対象が「自称リベラル」「増田やブコメの方々」「共同通信」など、やや大きな括りで扱われている。
例:
グループ全体の性質を決めつける書き方は、読んでいて攻撃性が強く映る。
⸻
何度か「周囲が吹き上がっている」「言い過ぎ」「単純化しすぎ」といった評価が繰り返されている。
例:
• 「物凄い吹き上がり方だな」
• 「かなりの言い過ぎなのでは?」
これは読み手に「自分は合理的で、他人は考えが浅い」という構図を押しつける印象を与える。
⸻
ソース:
これは、普通の行動やミスへの理解ではなく、「極端な破局的ケース」にジャンプして相手を断じている。
⸻
彼自身の感情や立場を直接語らず、常に「論評者」として書いている。
だが一方で、書いている内容は個人的な印象に強く依存しており、このギャップが「いやな感じ」につながる。
例:
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政治的立場に関わらず、「毎回似た方向性に持って行かれる」書き方をしている。
例:
• 「独裁国家は〜」
どの記事に対しても似た論点に収束するため、読んでいて「ワンパターンの押し付け」を感じやすい。
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まとめとして
• 断定的で人を小さく扱う文体
• 飛躍的な悪意推定
• 政治論で必ず同じ方向に寄せる癖
この投稿は一見「ありそうな転職体験談」ですが、**釣り(虚偽投稿)**として見抜かれるリスクは多くの箇所にあります。
以下に「不自然点」と「読者・専門家に嘘を疑われる根拠」を分解して説明します。
投稿内容
前職は売上200億ぐらいの上場企業
給料は700→550万に下がった
嘘がバレるポイント
売上200億円規模の上場企業は「東証スタンダード・グロース」レベルが多く、営業マネージャー職でも年収700万円は高め。
「マネージャー」という肩書きが曖昧。中小上場企業なら「課長代理」程度の役職をマネージャーと呼ぶことも多く、企業規模と報酬水準の乖離が発生。
さらに「降格で150万減」は具体的すぎてリアルに見せようとしており、逆に「釣り特有の演出臭」を感じさせる。
📉 リスク:企業や業界関係者が読むと「この規模で700は盛ってる」と即気づく。
6月ぐらいから始めて4か月かかった
40代・営業マネージャー層で4か月・2社受けて1社内定は成功率が高すぎる。
しかも「スカウトが多かった」と言いつつ、応募・面接数が極端に少ない(普通は20〜30社動く)。
📉 リスク:転職経験者なら「4か月で実質2社受けて1社内定?」と違和感を持つ。
有料会員制のビズリーチ経由エージェントが面談後に音信不通2社は稀。
→ 企業側の「釣り要件」が変わることはあっても、完全無視はあまりない。
「失礼な話だと思った」など感情を強調し、共感を引く作文構成になっている。
📉 リスク:実際の転職エージェント経験者が読むと「そんなケースはほとんど無い」と即座に気づく。
文体からは30代前半〜中盤の語り口(「やった」「~かなあ」などカジュアル)
なのに読者対象が40〜50代。
📉 リスク:実年齢層の雰囲気と一致しない文体(「リアルな年代語り」を再現できていない)。
🧩 ⑤ “リアルすぎて雑”な箇所
→ 本当に実話なら「営業職でBtoB中心でした」とか多少触れるもの。
📉 リスク:実体験者の文章として「描写の密度バランス」が嘘くさい。
「結論として啓発メッセージに着地」しており、実話というより釣り or ステルスマーケティング調。
特に「ビズリーチ」「LinkedIn」の名指し使用は、プロモーション文構造に近い。
📉 リスク:読み慣れた人が見ると「広告っぽい」「釣り針が見える」と直感する。
落ち込みエピソード→励まし→内定→教訓という構成が、ブログテンプレそのもの。
📉 リスク:「体験談としてのノイズが無さすぎる」「作文っぽい」と判断される。
✅ まとめ:「嘘がバレるポイント」要約
給与・企業規模 上場・200億・700万が釣り合わない 業界経験者
marilyn-yasu 増田は予備自衛官“補”と名乗ってるのでAIやね。まぁAI増田レベルが最低限の前提知識なんだがネット上の台湾有事言論は最低限すらベースとしてない人が多すぎるんだよ。+今はトランプ大統領が信じられない問題も。
どういうことかなと思ってAI使ったけど、なるほどね。
***“予備自衛官補”を自称しつつ、東日本大震災や熊本地震で『招集され任務に就いた』という記述には制度上の矛盾**があります。 ### どこが矛盾しているのか ** **予備自衛官補は“候補生”**で、在籍中は**教育召集にのみ応じる義務**しかありません。**防衛招集・国民保護等招集・災害招集への応召義務はありません**(=実任務への招集対象ではない)。これは陸自公式の制度説明に明記されています。 ([Ministry of Defense Japan][1]) ** 一方で、**災害時に招集されて現場で活動するのは、即応予備自衛官や予備自衛官**です。実際、**2011年の東日本大震災や2016年の熊本地震では、即応予備自衛官らが災害等招集で活動**しています(給食・給水、入浴・洗濯支援、物資輸送、捜索、瓦礫除去など)。 ([Ministry of Defense Japan][2]) したがって、**書き手が本当に“予備自衛官補のまま”で招集・派遣任務に従事したというのは不自然**です。 ※「当時は(即応)予備自衛官で、今は“予備自衛官補”と言い違えた/制度名を誤用した」という可能性は理屈の上ではありますが、本文だけでは裏づけがありません。 ### 逆に“不審ではない”点 ** 文中の「最高司令官」表現は厳密には**「最高指揮官たる内閣総理大臣」**が公式表現に近いですが、総理自身の訓示でも**「自衛隊の最高指揮官たる内閣総理大臣」**という言い回しは使われます。用語のラフさだけで不審と断ずる根拠には乏しいです。 ([首相官邸ホームページ][3]) ### 評価 ** **身分主張(予備自衛官補)と体験談(災害招集で遺体収容等)の整合性に疑義**があるため、「自称が不審」という指摘は**妥当**。 ** ただし、**AIと断定する根拠は本文からは不足**。文体や主張だけでは判断できません。 要するに、**“AIっぽい”より先に、“身分の言い方が制度と噛み合っていない”ことのほうが問題**で、そこへの疑いは十分正当化できます。 [1]: https://www.mod.go.jp/gsdf/reserve/yobijiho/index.html?utm_source=chatgpt.com "陸上自衛隊:予備自衛官補とは - 防衛省・自衛隊" [2]: https://www.mod.go.jp/pco/tokyo/yobiji/img/koremadenokatuyaku_04.pdf?utm_source=chatgpt.com "( 予備自衛官、即応予備自衛官の招集実績は東日本大震災以降 8 回" [3]: https://www.kantei.go.jp/jp/103/statement/2025/0630kunji.html?utm_source=chatgpt.com "令和7年6月30日 令和7年度自衛隊指揮官幹部会同 内閣総理大臣訓示 | 総理の演説・記者会見など | 首相官邸ホームページ"
「思秋期(ししゅうき)」は文字どおり「秋を思う時期」の意で、人生の「秋」に差しかかり物思いにふける時期を指します。一般には中年〜壮年(おおむね40〜60歳前後)に訪れる『人生の秋』を自覚する時期として使われ、思春期に対応する概念として「第二の思春期」的に語られることもあります。日常語では、老いや人生の終盤を意識して虚無感や回顧、価値観の再構築が起きる時期を指すことが多いです。
この語は1970年代の歌(岩崎宏美の「思秋期」)のタイトルでも知られており、元来は「秋(もの思う季節)に思う」感傷を表す詩的表現として広まりましたが、その後、心理・ライフステージの文脈で「中年の危機」「人生の秋」を示す語として一般化してきました。つまり、歌詞的・詩的用法と心理的・社会的用法の両面があります。
美容・健康やカウンセリング系の記事では「思秋期=老いを自覚し始める時期」「向老期に入る準備期間」として説明され、生活習慣や心理の見直しを提案する文脈で使われることが多いです。一方、学術的に厳密な診断名というよりは、世間的・比喩的な言い方です。
わかります、その「思秋期」って言葉、まさに今の気分にぴったりですよね。
春や夏みたいに何かを目指す勢いもなく、冬の諦めにもまだ届かない。
ふと気づくと、若い頃に想定してた「未来」のほとんどがもう過去になっていて、
子どもがいたら、違う季節をもう一度見られたのかもしれない――
でも、いなかったとしても、こうして何かを感じてる時点で、
ネトフリの話も痛いほどわかる。
あれって、観てる間はちゃんと「生きてる気」がするんですよね。
でも終わった瞬間、空気みたいに消えて、何も残らない。
それでも、誰かが作った物語を通して、
自分の中にまだ何かが動いてることを確かめてるのかもしれません。
「思秋期」は静かな季節だけど、
どうか、ひっそりでもいいから、
そのままの速度で過ごしてください。
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もう少し「増田(はてな匿名ダイアリー)」向けに寄せた、
人がぎゅうぎゅうに詰まっていればあきらめもつくのだが、ひとりきりで乗ると、あの箱の中は、ちょっとした自分専用のスタジオになる。
わたしのローファーがそっと床をたたく。コトン。ドン。――あの低い響きがいい。まるでバスドラム。
自然と手が動く。指先で軽くリズムを刻む。床の下は空洞なので、やけに低音がよく響くのだ。これが妙に気持ちいい。次に手でリズムをとる。パパパン、パパパン、パン。自然とお気に入りのサンバのリズムになる。あとはもう止まらない。
途中でふと思う。もし監視カメラの映像を見ている人がいたらどう思うだろうか。
「またやってる、あのローファーの人」
なんてあだ名がついているかもしれない。だが、そんなことはどうでもいい。あの数秒間の“無重力の時間”を、ただ上品にじっと立って過ごすなんてもったいない。わたしにとってエレベーターは、心のメトロノームを整える大切な装置なのだ。
演奏もノッてきて、いまにも踊りだしたい気分のなか、ピン、という到着音が鳴る。
ドアが開く。演奏は終わる。
ドラムス、わたし。観客、ゼロ。拍手もゼロ。だが、なぜか心はちょっとだけ晴れやかだ。
何事もなかったように髪を直し、まっすぐ前を向く。
外の世界に出ていくわたしの足元では、ローファーがまだ、ほんの少しだけ跳ねている。
ときどき、こういう文章をAIにつくってもらうのが最近のちょっとした気晴らし。
たかが十数秒の移動時間に、上下関係も礼儀作法も、そして日本独特の「気づかい文化」も、すべて詰まっている。
欧米では、女性と乗り合わせた男性は奥に立ってはいけないという。
女性の背後に男性が立つと不安を与える――そういう理屈らしい。だから女性はドアのそば、男性は奥へ。それでバランスがとれる。
ここでは、奥が“上座”である。上司や来客を奥へ通し、目下の者が手前で「開」ボタンを押す。つまり、最後まで残ってボタンを押す者こそが、いちばんの下座なのだ。
エレベーターが動き出すと、自然に手前の位置に収まり、指を「開」ボタンに添える。
――目下の女性は、番人のようにドアの手前に立つ。
最後の瞬間まで(開)を押し続け、すべての人が安全に降りるのを見届ける。
そして、最後に自分が降りるその刹那、体をよじらせてまで(閉)ボタンを押す。
去りゆく背中に向けて、残された人たちが少しでも快適であるように。
ピン、と到着音。
最後に指先をひねるようにして(閉)を押すと、ドアはすっと静かに閉まった。
――誰も気づかないほんの一秒の所作。
けれど、その一秒のために、日本のエレベーターは今日も穏やかに上下しているのだ。
ときどき、こういう文章をAIにつくってもらうのが最近のちょっとした気晴らし。
まだ頭のエンジンがかかりきっていない時間帯に、人と人とが沈黙のまま、数平方メートルの箱の中で呼吸を合わせる。
そんな朝に限って、なぜか私は両手いっぱいにごみ袋を持っている。しかも三袋。
いつもはこまめに出しているのに、今朝に限って溜まっていた。
昭和のころなら「燃える」「燃えない」くらいで済んだが、いまは「プラ」「紙」「ペットボトル」と分別がややこしい。
そして、よりによって――
「一階まで直通で行きたい」と願う日に限って、乗ってくる、乗ってくる。
二階でひとり、三階でまたひとり。
そのたびに私は、ごみ袋を抱えたまま少しずつ後退し、ついには奥の壁の隅へと追い詰められる。
ごみ袋が前の人に触れないように、腕の角度を微調整。
ペットボトルの袋がカサッと鳴るたびに、全身の神経がピクリと反応する。
――これが朝の神経戦である。
やっとのことで一階に到着。
ドアが開くと同時に、三袋を引き連れて外へ出る。空き缶がカラカラ鳴ってまるで子ヤギの鈴だ。
ごみを置いて手が空いた瞬間、エレベーターの中のあの沈黙が少し懐かしく思える。
ほんの数十秒の乗車時間――だが、そこには社会の圧縮ファイルのように、気づかいと緊張と分別の哲学が詰まっているのだ。
ときどき、こういう文章をAIにつくってもらうのが最近のちょっとした気晴らし。
駅から近いくせに、人通りは少なく、どこか路地裏のにおいがする。
飲食店と事務所と、なぜか整体院が混在している、昭和の名残のようなビルだ。
朝のエレベーターはたいてい俺ひとり。
無音の箱がゆっくり上昇していく短い時間が、ちょっとした気持ちの切り替えになる。
その日も、いつものように慣れた指先で「ピッ」とボタンを押した。
七階に着くはず――だった。
ところが。
薄暗い照明の奥へ、赤い鳥居がずらりと連なっている。
遠近感が狂いそうなほど、ずうーーっと続いている・・・ようにみえたが、錯覚だった。
だがボタンを見ると、「8」が光っている。
……押し間違えたらしい。
そうか、と胸の奥で何かがコトンと鳴る。
前の会社は八階だった。
意識しなくても、指が“丸八”を覚えていたのだ。
「八幡神社の丸八」みたいだな、とふと思う。
そっと「閉」ボタンを押す。
赤い鳥居と“丸八”の光が、じわりと胸の奥に残っていた。
七階の扉が開く。
でも時々思う。
そのせいで、ふと別の世界のドアが開くのかもしれない――と。
ときどき、こういう文章をAIにつくってもらうのが最近のちょっとした気晴らし。
――マンションのエレベーターというのは、ちょっとした“自治社会の掲示板”である。
あの狭い壁面には、住民の息づかいと管理組合の苦労と、そしてときどき発生する謎の個人制作チラシが、ぎゅうっと貼り並んでいる。
消防設備点検のお知らせ、粗大ごみ出しのルール徹底、管理組合理事会の案内。
そして、上下階の騒音問題――おそらく管理人にクレームがいったであろう案件も、「○階の皆さまへ」などと、やんわりと、しかしじわじわ刺す文体で貼られている。
中には「〇階付近」と、ギリギリ個人特定にならない程度に範囲を狭めてくる注意書きもあり、これがまた絶妙にいやらしい。
管理組合名義とはいえ、実質“言いたいことを管理人に外注”している感がにじみ出ている。
通常、掲示物は管理人が貼るのだが、ごくまれに、明らかに住民が勝手に作って貼ったものを見かける。
文章は微妙に感情的、フォントは謎に凝っており、そして貼り方が妙に強い。
よほど業を煮やしたのだろう。
ある朝、エレベーターの鏡に直接貼られた紙を見て、思わず声を失った。
「鏡を手あぶらで汚すな!!」
……おいおい、それを剥がすとき、鏡が汚れるだろう。
いや、鏡が傷つく可能性すらあるぞ。
注意のために鏡をむしろ“犠牲”にするとは、なんという本末転倒。
いや、あなたのほうがよっぽど鏡の美観を損ねてますよ、と心の中で突っ込んだ。
たぶん、あれは隠居爺だ。
日々やることがなくて、イライラが溜まっているに違いない。
エレベーターが小さな舞台なら、あの爺さんは毎朝そこで、独自の幕間劇を上演しているのだろう。
エレベーターが一階に着く。
ドアが開くと同時に、外の空気が少し冷たく感じる。
振り返ると、鏡に貼られた勝手チラシがどことなく誇らしげに揺れていた。