はてなキーワード: 女性学とは
――高市政権の誕生が予感されていた10月上旬、「初の女性首相が誕生するかもしれない、と聞いてもうれしくない」とSNSに投稿されましたね。どのような趣旨だったのですか。
「初の女性○○が事件になる時代は、とっくに終わりました。女なら誰でもいいという時代では、もうありません」
「たとえば女性知事は00年以降これまでに全国で7人誕生しており、首都にも初の女性東京都知事(16年就任)がいます。それらの中にはフェミニストが支持する知事もいたし、しない知事もいました」
――性別で評価するのではなく、個々人の政策や姿勢を見て政治家を評価するべきだということですか。
「その通りです。もし選択的夫婦別姓制度を推進しようとする女性政治リーダーが誕生したとしたら、フェミニストはもっと歓迎したでしょう。それは、弱い立場や劣位に置かれがちな女の声に、積極的に耳を傾ける政治だからです」
「選択的夫婦別姓に反対しており、政策的には、ジェンダー平等への流れをせき止めようとした安倍晋三政権のコピーのような感じです。フェミニストが歓迎する理由はありません」
――とはいえ、国政のトップに初めて女性が就任したこと、それ自体にはやはり意味があるのではないでしょうか。
「世界にはすでに様々な女性政治リーダーがいますが、彼女らは『女性だから』という理由で選ばれたのではありません。また英国初の女性首相はマーガレット・サッチャー(1979年就任)でしたが、私の知る限り、英国のフェミニストでサッチャー政権誕生を歓迎した人はいません」
「2016年の米大統領選で民主党のヒラリー・クリントン候補が『初の女性大統領』になりそうに見えたときでさえ、英国のフェミニストは冷静でした。女がトップになれば希望を持てるという単純な話ではないことを、歴史の教訓として知っていたからです」
「女性政治家に関するこれまでの調査からは、政治家は男女を問わず、ジェンダー政策よりも所属政党の政策を優先する傾向があることがわかっています。女なら誰でもよいとは、もはや言えない時代です」
――高市首相はサッチャー元首相を「憧れの人」だと公言しています。
「サッチャー首相は、市場原理主義的なネオリベラリズム改革をした保守革命の推進者です。優勝劣敗の原則に基づく弱者切り捨ての論理で、福祉を縮小しました。また、南半球にまで軍を送ってアルゼンチンとのフォークランド紛争を戦った武断政治でも知られます。つまり、強さを追求した政治家でした」
――サッチャー氏は「鉄の女」と呼ばれていたことでも知られていますね。
「社会学の理論によれば、少数派が多数派集団に食い込んでいこうとするとき、多数派よりも多数派らしくなる傾向があります。過剰同一化と呼びます」
「サッチャー首相に対しても当時、フェミニストから、男以上に男らしくふるまう傾向が指摘されていました。この理論は、高市首相を含めた今の自民党の女性政治家の多くにもあてはまると私は見ています」
「男並みになろうとか強者になろうとしなくても、女が尊重される。そんな社会をつくる政治の誕生を期待しています」
上野千鶴子さん
うえの・ちづこ 1948年生まれ。東京大学名誉教授(女性学)。認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク理事長。「アンチ・アンチエイジングの思想」「家父長制と資本制」など著書多数。
この意見は近年の国際的な議論と乖離しており、妥当とは言えません。以下に問題点を指摘します。
「表現が穏やかでも、当事者にとって差別と感じられるならば、それは差別である」
→これは**「受け手の主観が絶対的に優先される」という危険な論理**であり、法治主義とは相容れません。
英国最高裁は「性別に関する言語や制度は、主観的な自己認識ではなく、**客観的な基準(=生物学的性別)**に基づいて運用されるべきだ」と明確に判断しました。
差別の有無は「誰かが傷ついたかどうか」ではなく、「合理的区別か、不当な排除か」によって判断されるべきです。
→これは極めて一面的な読みです。英国、フランス、北欧諸国などではすでに「女性専用空間の保護」と「性自認の自由」は調整可能な権利の競合とみなされています。
国際的な潮流においても、性自認の尊重は無制限ではなく、「他者の権利を侵害しない範囲で」保障されるものです(ECHR判例等)。
英国最高裁はまさに、**「性自認の主張が、女性の法的権利を侵食してはならない」**という基準を示しました。
「司会の発言や会場の雰囲気が悪かったので、反論の機会は保証されていなかった」
→これは実質的議論の内容から目を逸らす詭弁です。会場の雰囲気の問題と、報告書の内容そのものの正当性は明確に分けて議論されるべきです。
そもそも「開かれた議論」を否定しているのは、むしろトランス運動の側です。
Newsweekが指摘したように、
「トランス女性は女性である」というスローガンに例外も反論も議論も許されなかった
という状況が続き、異論を唱えた女性たちは「TERF」呼ばわりされ、人格否定や暴力的な攻撃を受けてきました。
これは真に「開かれた議論」でしょうか?
→これは、単なる学術的立場や政策的懸念の表明に対して「存在否定だ」と過剰に解釈し、封じ込めようとする検閲的態度です。
英国最高裁が示したのは、「女性とは誰か」という法的・社会的定義が現実的な影響を及ぼすため、曖昧な自己認識ではなく、安定した客観的基準に依拠すべきというごく理性的な立場です。
この判断を「差別」と見なすのであれば、それは女性学、法学、医学などあらゆる分野の自由な探究活動自体を萎縮させることになります。
本論者の主張は以下のような論理的な誤りと危険な傾向を孕んでいます:
合理的異論を「差別」と決めつけることによる学術・表現の自由の抑圧
したがって、「報告書は宣言違反ではない」という判断は妥当であり、むしろ生物学的性に基づく言論を抑圧しようとする風潮こそが、自由で公正な学術の敵であると結論づけられます。
この意見は近年の国際的な議論と乖離しており、妥当とは言えません。以下に問題点を指摘します。
「表現が穏やかでも、当事者にとって差別と感じられるならば、それは差別である」
→これは**「受け手の主観が絶対的に優先される」という危険な論理**であり、法治主義とは相容れません。
英国最高裁は「性別に関する言語や制度は、主観的な自己認識ではなく、**客観的な基準(=生物学的性別)**に基づいて運用されるべきだ」と明確に判断しました。
差別の有無は「誰かが傷ついたかどうか」ではなく、「合理的区別か、不当な排除か」によって判断されるべきです。
→これは極めて一面的な読みです。英国、フランス、北欧諸国などではすでに「女性専用空間の保護」と「性自認の自由」は調整可能な権利の競合とみなされています。
国際的な潮流においても、性自認の尊重は無制限ではなく、「他者の権利を侵害しない範囲で」保障されるものです(ECHR判例等)。
英国最高裁はまさに、**「性自認の主張が、女性の法的権利を侵食してはならない」**という基準を示しました。
「司会の発言や会場の雰囲気が悪かったので、反論の機会は保証されていなかった」
→これは実質的議論の内容から目を逸らす詭弁です。会場の雰囲気の問題と、報告書の内容そのものの正当性は明確に分けて議論されるべきです。
そもそも「開かれた議論」を否定しているのは、むしろトランス運動の側です。
Newsweekが指摘したように、
「トランス女性は女性である」というスローガンに例外も反論も議論も許されなかった
という状況が続き、異論を唱えた女性たちは「TERF」呼ばわりされ、人格否定や暴力的な攻撃を受けてきました。
これは真に「開かれた議論」でしょうか?
→これは、単なる学術的立場や政策的懸念の表明に対して「存在否定だ」と過剰に解釈し、封じ込めようとする検閲的態度です。
英国最高裁が示したのは、「女性とは誰か」という法的・社会的定義が現実的な影響を及ぼすため、曖昧な自己認識ではなく、安定した客観的基準に依拠すべきというごく理性的な立場です。
この判断を「差別」と見なすのであれば、それは女性学、法学、医学などあらゆる分野の自由な探究活動自体を萎縮させることになります。
本論者の主張は以下のような論理的な誤りと危険な傾向を孕んでいます:
合理的異論を「差別」と決めつけることによる学術・表現の自由の抑圧
したがって、「報告書は宣言違反ではない」という判断は妥当であり、むしろ生物学的性に基づく言論を抑圧しようとする風潮こそが、自由で公正な学術の敵であると結論づけられます。
いわゆるオタク文化とは直接的には関係しない領域の男性文系研究者(ただいちおう副業的にオタク文化について扱った論文も書いてる)として、以下の記事を面白く読んだ。
「女オタク論」の盛り上がりと、「男オタク論」の方がむしろピンチかもしれない話 - 深紫の雑記帳
なるほど確かに近年は女オタクに関する研究が進んでいるのに対して男オタクに関する研究が進んでいない、という現状認識については同意するものの、増田個人としてはそれが大きな「問題」であるようには思っていない。理由は以下の通り。
『マンガ研究』や『コンテンツ文化史研究』みたいなオタク文化の歴史に焦点を合わせた査読誌はいくつかあるし、国文学関係の学術誌を眺めていると現代サブカル作品についての研究が載ってることは普通だし、吉田正高『二次元美少女論』(二見書房、2004年)や玉井建也『幼なじみ萌え』(藝術学舎、2017年)のような記念碑的研究もなされていて、オタク文化の歴史に関する体系的記述は歴史上類がないくらい充実しているわけだから、男オタク個人として不満はあまりないんだよな。まだまだ未解明の史実とか未発掘の作品とかそういうのはあるだろうけど、こういう流れが続けばいずれ研究されるだろうし。
もちろん、これは増田が文献の読み込みを主としたブッキッシュな手法を専門にしている研究者であり、インタビューとか参与観察とかを駆使した社会学的・人類学的・心理学的研究にあまり馴染みがないことから生じているバイアスに過ぎないかもしれない(好みの問題であって善し悪しの問題ではない、念のため)。しかし、まずもって目の前の素晴らしい文化を愛するからオタクなのであって、オタクの感情とかオタクのコミュニティとかそういった問題にはあまり興味が持てないのだ。歴史の話なら面白いんだけどね。黎明期のコミケはどんな感じだったの、とか、そういう。でも現代オタクの生態やら感情やらに関しては、自分が当事者として生きているわけで、それを客観的な研究に落とし込もうという気にはーー少なくとも増田はーーなれない。だって、自分が当事者じゃないから研究は面白いんじゃないか(これは人それぞれだと思うので、同意できない人もいるだろうけれど)。
いやー、そりゃ男オタクの界隈もtoxicなところはいっぱいあるけどさー、現在の女オタク論界隈は別種のtoxicさが蔓延してると思うのよね。
だって、いちおう大学出版会を標榜するところからジャニーズファンについての研究書が出てるのよ? 定評ある出版社が出してるジェンダー史学についての入門書にも「ジャニーズと戦後日本」ってコラムがあるんだよ? さらに、本文中で挙げられてる『BL進化論』の著者さんって、「トランス役はトランスの役者がやるべき」と主張して盛大に叩かれてたよね(anond:20200816115435)。これらがフェミニズムや女性学の観点からみて誇るべき研究成果っていうことでいいの? 本当に?
いやもちろんナチス研究者はネオナチではないわけだけど、それは彼らが必死に「ナチスは絶対悪です!」ってあちらこちらで言ってまわってるから「そりゃそうだ、研究者と研究対象は別だもんね」っていう反応になるのであって、「当事者による研究」を標榜してる分野でこんな有様だったら言い逃れできないでしょ。このへんってぜんぜん燃えないね。いや、別に燃えなくてもいいと思うけど、これが燃やそうと思えば燃やせるっていうのはわかってもらえるよね。
「女性の趣味」だからという理由で、圧倒的マイノリティである男性同性愛者の客体化(BL)や常習的レイプ組織への支援(ジャニーズファン)が研究され、フェミニズム視点に基づく女性文化の研究で~す! っていうていで流通していたわけじゃないですか。これが倫理的に破綻した話なのはたやすく理解できると思う。男オタク界隈はそういった進歩的な視点から目を背けてきたきらいはあるけど、それは同時にダブルスタンダードからの自己防衛にもなっていたわけで。しょうじき、元記事で言われてる「女オタクの学術的自己客観視」は「全然できてねえじゃん!」って思いますよ。だってどう見ても問題を直視できてないもの。直視してたらそもそもBL研究なんて大真面目にできるわけないし(当事者重視とか性的客体化はダメとかいった進歩的な理論から「女がBLを書くのはけしからん」という結論が導かれるのは自明の理なので、進歩的な理論に基づくBL研究はぜんぶ崩壊するか、研究対象を口を極めて罵るナチス研究スタイルに移行するかのどちらかの末路しかありえない)。もちろん直視しないのは自由だけども、さも自分たちは問題を直視してます面をするなら、まあ揺り戻しは来ますよね。
(ちなみに『BL進化論』の著者さんはオープンリー・ゲイの小説家に意味不明な絡み方をして論破されてるんだよね→https://kakuyomu.jp/users/Mark_UN/news/1177354054917237182。BLがいかに真摯に当事者と向き合ってきたのかがよくわかる話です)
そういうわけで、男オタク論の欠如は別に問題とは思わないし、女オタク論も足下すくおうと思えば結構すくえるよね、という話でした。まあn=1の話なのでそんな真に受けないでもらえれば。