はてなキーワード: コラムとは
2025.11.20 藤原帰一客員教授 朝日新聞 (時事小言) 高市発言と東アジアの均衡 危機を、日本がつくるのか
https://ifi.u-tokyo.ac.jp/news/21398/
藤原帰一先生のコラム読んだけど、「憲法の定めにかかわらず米中の危機が起これば対米協力のほかに日本の選択はない」とアメリカは考えているとのこと。
台湾有事が起こり、アメリカが武力介入したら日本は強制的に参戦。
会田卓司氏のこと
会田氏は元日本銀行職員(日銀出身)で、現在はクレディ・アグリコル証券のエコノミストとして活躍しています。彼の経済分析レポートのシリーズ名が「アンダースロー」(Underthrow)で、主に日本経済、金融政策、日銀の動向をテーマにしています。この呼称は、野球の珍しい投球スタイル「アンダースロー」に由来するユニークなタイトルで、金融市場の意外性や独自の視点を示唆しています。例えば、ZUU onlineで公開される彼のコラムでは、日銀の利上げ観測や家計・企業貯蓄率、信用サイクルなどのトピックを扱い、日銀政策に深く関連づけた分析が特徴です。X(旧Twitter)上でも、このレポート名で言及されることが多く、日銀取材者のアカウントから「気合いの入ったアンダースロー」として評価されています。 日銀の現役審議委員や幹部ではなく、元関係者としての専門家分析家ですが、金融界で日銀の「内部事情に通じた声」として位置づけられています。
【コラム】「世紀の空売り」も恐れるAI減価償却の津波-ブライアント
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2025-11-13/T5KJYNKJH6V400
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC146FG0U5A111C2000000/
これ、S&P500、オルカンはもちろんだけど、FANG+とかM7狙い撃ちの投信買ってる人達はまじで資産が跡形もなく消え去るレベルだろうな
連載「いつでもSF入門」
Author橋本輝幸
LIFESTYLE
育てる
SF研究家・アンソロジストの橋本輝幸による本連載。今回のテーマは「女性とSF」。女性のSF作家の作品はなぜ書評が出にくく、必読リストにも載らないのか。ジェンダーバランスに関する調査結果をもとに、その背景にある文化と構造に迫ります。https://tokion.jp/2021/12/24/expanding-universe-of-science-fiction-vol4-part1/
1953年に創設された、SFファンの投票によって決まるヒューゴー賞をこれまでに受賞した作家の75%は男性だ。2010年以前は8割以上が男性だった。
状況が変わったのはわずかここ10年。2010年以降の男性比平均は55%だ。2019年以降にノミネートされた男性作家は各部門の6~7人の候補者のうち1人か2人で、比率は反転している。だが、このような状況に至るまでの道のりは決して平坦ではなかった。
アメリカSF&ファンタジー作家協会に所属する女性の割合は1974年に18%、1999年に36%、2015年には46%と増加し、各賞受賞者の女性比も増えた。(もっとも2010年以降の変化は女性の増加に限らなかったが——この話はまた別の機会に)しかし変化を許容できない人々の反発が起こり、2010年代半ばのインターネット上には反発と反発への反発によって嵐が吹き荒れた。
例えば、自らを虐待から救出される子犬にたとえ、「サッド・パピーズ」と名乗ったグループは、近年の受賞作は作品の質ではなく作家の思想で選ばれていると主張し、ヒューゴー賞への組織投票を煽動した。なお主導者達は米国のミリタリーSFやミリタリーファンタジーの作家で、前職は軍人や銃の射撃トレーナーだった。
より右派の派生グループであるラビッド・パピーズも生まれ、過去の受賞作や受賞作家を揶揄した。こちらの主導者はその後、共和党支持者としてネットでデマや陰謀論を拡散するようになった。つまりは米国内の政治思想的分断がSFとファンタジーのコミュニティ内で顕在化したわけである。
21世紀になってなお、「女性はSFを書けない」「女性編集者がハードSFをダメにした」といった中傷も続いていた。これに対し、ウェブジン「ライトスピード」は女性特集号を企画した。カナダの批評家ジェイムズ・デイヴィス・ニコールは、2018年からFighting Erasure(消去に抗う)というコラムで1970~1980年代の女性SF作家をひたすら紹介した。こうした地道な対抗活動も陰ながら変化に貢献したと信じたい。
こんにちは、はじめまして。株式会社ライナート編集部の佐久間と申します。
突然のご連絡失礼します。dorawiiさんの発信をいつも拝見しており、社会の片隅にある声や感情を丁寧にすくい取る視点にとても共感しています。
現在、当メディアでは「『普通』の枠からこぼれる生き方」という特集を企画しています。
働き方や人間関係の形が急速に変化する中で、従来の成功モデルに当てはまらない生き方をどう肯定できるか――そんなテーマを、多角的に掘り下げたいと考えています。
もし可能であれば、dorawiiさんの視点で“社会の中でうまく立ち回れない人々のリアル”や“それでも生きていく工夫や希望”について綴っていただけないかと思い、ご相談させていただきました。
文体や切り口は自由で構いません。コラム、エッセイ、体験談など、dorawiiさんらしい表現でまとめていただければ嬉しいです。
[B! 人生] 飯野賢治はいつ “クリエイター飯野賢治”を演じ始め、そして演じることをやめたのか?飯野賢治生誕55周年トークライブから見えたこと【飯野賢治とは何者だったのか】 | Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.gamespark.jp/article/2025/10/11/158293.html
kuruse_haya 飯野賢治は当時のゲーム雑誌でのインタビュー記事が圧倒的に面白かったんだよね。ゲームは二流・三流なんだけど。だから、飯野賢治を語るには彼のゲーム作品ではなく当時のゲーム雑誌から語る必要があると思う
飯野賢治を理解するには当時のゲームメディアを知る必要がある。
90年代の日本は雑誌文化の最盛期( https://current.ndl.go.jp/ca1697 によれば1996年に1兆5,984億円。この年は『エネミー・ゼロ』の発売年だ)で、もちろんゲームの情報もゲーム雑誌から入手するのが主流だった。セガサターンに限っても、ソフトバンクの『セガサターンマガジン』、徳間書店の『サターンFAN』、毎日コミュニケーションズの『グレートサターンZ』、メディアワークスの『電撃セガEX』/『電撃セガサターン』、さらにCD-ROM付きのアスキー『TECHサターン』があった。
飯野はゲームのスタークリエイターであったが、まずなんといってもゲーム雑誌におけるスターであった。
SFC時代まではゲーム雑誌でおなじみの人気クリエイターといえば、堀井雄二、糸井重里、さくまあきら、広井王子といったフリーランスの人が多く、ゲーム会社に所属しながら彼らと同等レベルで扱われるのは、宮本茂や坂口博信といった上澄みも上澄みの人間に限られていた。SFC時代までに岡田耕始と金子一馬が『ファミ通』に揃って登場した回数は2度しかない(それも他の人間を加えた座談会形式のものであった)。メガドライブ以前のセガハード専門誌を読むと驚かされるのだが、中裕司や鈴木裕クラスですら滅多に誌面には登場しない(PCエンジン専門誌だと割とハドソンの人が出てたりはするのだけれど)。
ゲーム雑誌においてゲームクリエイターの露出が広まったのはPS1時代というのは間違いないだろう。
――他に音楽業界の手法で言うと、クリエイターのクレジットをちゃんと出す流れも、丸山さんのときに生まれたものですよね。
川上氏:
当時は、みんなゲームクリエイターの名前は隠していましたからね。
丸山氏:
でもさ、レコードや映画はクレジットを作るのが当たり前だし、あれば頑張る気になるじゃない。それに名前を隠すのはそもそも不自然だし、親しみも湧かないでしょ。だいたい、高橋名人【※】みたいにプレイヤーのスターがいて、クリエイターがスターじゃないというのはヘンじゃない。だから、メーカーはみんな嫌がったけど、「名前を出した方がプロモーションしやすいよ」と説得したんだ。
※高橋名人
1959年生まれのゲーム関係者。本名は高橋利幸。ファミコン全盛期にハドソン(現・コナミデジタルエンタテインメント)所属のファミコン名人として一世を風靡した。ゲーム機のコントローラのボタンを1秒間に16回押す「16連射」が有名。
実際、これは有効なんだよ。だって、普通に紹介したら雑誌で2ページ程度しか取れない作品でも、クリエイターが登場して苦労話を喋って、カメラに向かってポーズでも取ってくれたら、もう5ページくらいに露出が増えるわけ。どんどん可能なことが増えていくんだよね。
――つまり、音楽プロモーションの「人を立てていく」手法を持ち込んだということですか?
丸山氏:
PS1では現在でいうところのインディーゲームのようにいろいろな変わったゲームが登場し、フロム・ソフトウェアをはじめとする聞いたこともない会社がゲームを出すようになり、そして専門誌ではページを埋めるために開発者のインタビューを大々的に載せるようになった。そうやってソニー・マガジンズの『ハイパープレイステーション』に頻繁に取り上げられていたクリエイターの一人が(セガサターン移籍前の)飯野賢治だった。
飯野賢治のなにが良かったか。まず見た目がインパクトある。ほかのゲーム開発者がいかにも会社組織に所属するサラリーマンやオタクのような風貌のなか、巨体かつ長髪で眼光が鋭い。そして話すことが面白い。しがらみなく同業他社のゲームに言及するし、『ファミ通』のクロスレビューのありかたも批判する。ゲーム雑誌なのにビョークや坂本龍一の話をずっとしてたりする。セガサターン移籍前なのになぜかセガサターン専門誌で連載記事を持ってたりする。FMラジオのMCもやっていたし、大阪ではピエール瀧と一緒にゲームバラエティ番組もやっていた(これ結構面白かった記憶あるんだけどネットで動画上がってるの観たことないな)。『ゲーム批評』にいたっては飯野賢治だけの別冊号を出した。あと飯野賢治の奥さんがゲーム雑誌に連載コラムを書いていた。
彼はトリックスターとして面白かったし、次々に新しいなにかを起こしてくれるという期待があった。勢いのある深夜ラジオのパーソナリティや、現代ならばSNSのインフルエンサーのような受容をされていたといえば伝わるだろうか。
飯野のゲーム雑誌への露出が極まっていたのが『リアルサウンド 〜風のリグレット〜』のときだった。映像のない音声だけのゲームである同作では、画面写真が使えないものだから、そのぶん誌面を文字で埋めるしかない。だから飯野がインタビューに登場する。ほかのゲームがせいぜいゲーム紹介記事1P+開発者インタビュー1Pという構成であったりするところを、『リアルサウンド』は飯野のインタビューが2Pまるまる載る。そしてそれが毎号続く。もはやハックと言っていいだろう。誌面埋めのために飯野のインタビューを取る→宣伝になるから飯野がインタビューに出る→読者ウケがいいからまたリアルサウンドの記事が載る、というサイクル。『セガサターンマガジン』は一時期は刊行ペースが週刊になっていたものだから、誌面を埋められる人材は重宝されまくった。
いま飯野賢治を振り返ろうとすると、どうしても成果物(ゲーム)をとっかかりにしてしまうが、あの時代における飯野賢治の受容を理解するには、それよりも当時の『ファミ通』、『ハイパープレイステーション』、『セガサターンマガジン』、『ゲーム批評』を読むほうがいいんじゃないのという話。
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参考までに1990年代のソフトバンクのセガハード専門誌からスタッフインタビューをリストアップしてみた。32ビット(64ビット級)時代になった途端に開発者が一気に表に出てくるようになったのがわかるだろう。
ファンタシースター ~千年紀の終りに~ - 小玉理恵子、津川一吉、西山彰則(セガ)
重田守(セガ)
●セガサターンマガジン 1996年12月27日号(エネミー・ゼロ表紙)
ファイターズメガミックス - 片桐大智、片岡洋、光吉猛修(セガ)
デイトナUSA CIRCUIT EDITION - 瀬上純、澤田朋伯(セガ)
ときめきメモリアルSelection藤崎詩織 - 流石野考(コナミ)
新世紀エヴァンゲリオン 2nd Impression - 小林正英、茂木幸樹(セガ)
御意見無用 - 池袋サラ、新宿ジャッキー、ブンブン丸、柏ジェフリー
EVE burst error - 藤田正人、野口征垣(シーズウェア)、鈴木達也(イマジニア)
電脳戦機バーチャロン - 亙重郎(セガ)
セガサターン用ワープロセット - 大鹿敏宏(光栄)、中村憲二(エルゴソフト)
サクラ大戦 - 田中公平、牧野幸文(セガ)、原太郎(ティーズミュージック)
電脳戦機バーチャロン - 亙重郎(セガ)
Digital Dance Mix Vol.1 - 安室奈美恵 鈴木裕(セガ)
●Dreamcast Magazine 1999年12月31日号(D2表紙)
シェンムー 一章 横須賀 - 松風雅也、安めぐみ、岡安啓司(セガ)
電脳戦機バーチャロン オラトリオ・タングラム - 小林健太郎(セガ)
スペースチャンネル5 - 水口哲也(セガ)
セガ ソフト7研 - 大場規勝、小玉理恵子、伊藤知行、瓜生貴士、大原徹、西山宗弘、松浦剛、西野陽
プロ野球チームで遊ぼう! - 瀬川隆哉、地宏之、加藤真樹、石原学(セガ)
ROOMMANIA #203 - 牧野幸文、佐々木朋子(セガ)
爆裂無敵バンガイオー - NON、MURATA(トレジャー)
まだ正式に首相になったわけでもないのに、もう円が動いている。
「高市政権」への期待――いや、むしろ“懸念”といったほうが正確かもしれない。
市場はすでに彼女の登場を織り込み始めており、その期待値が円安を加速させている。
そもそも高市早苗といえば、かの「利上げはアホ」発言でおなじみだ。
金融政策を「庶民目線」で語るのは悪くないが、通貨を扱うにはあまりに軽い。
実際、この発言のあとからじわじわと円が売られ、為替市場は“次の首相”に神経を尖らせている。
市場は言葉に反応する。政治家の一言が信用の天秤を傾ける――それが現実だ。
だが中身をよく見ると、やろうとしていることはほとんど逆効果だ。
これ、要するに“需要を増やして物価をさらに押し上げる”政策なんですよね。
言ってることとやってることが真逆。
「庶民のため」と言いつつ、結果的には庶民の財布を直撃する構図が見えている。
しかも問題なのは、日銀のほうも政治家の“空気”を読みすぎていることだ。
物価が上がり続けているのに、利上げどころか腰が引けている。
「政治的に波風を立てたくない」という忖度が、インフレ対応をどんどん後手に回している。
まるで、国全体が「トラスショック」の序章をスローモーションで再現しているかのようだ。
円安は確かに輸出企業には追い風だが、庶民にとっては完全に逆風。
輸入品は高騰し、実質賃金は下がり続け、生活は苦しくなる一方だ。
でも現実には、外国人観光客の波で家賃は上がり、地元住民は押し出され、バイト先は人手不足。
誰がこの国の“安さ”の上に立って儲けているのか、もう一度考えたほうがいい。
そして今、政府は国民に「NISAで投資しよう」と呼びかけている。
だが、円安で割高になった株を高値掴みさせられる構図は否定できない。
結局、金融緩和で吊り上げた相場を“庶民の貯蓄”で支えることになる。
もしこのまま日銀が政治の空気に縛られ、インフレを放置し続けるなら、
「トラスショック」は再現どころか、もっと静かで長い形で日本に定着するかもしれない。
見た目は穏やかでも、気づけば通貨も生活もジリジリと削られていく。
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ご希望があれば、
はてな匿名ダイアリー向けにもう少し“個人の感想っぽい語り口”(たとえば「自分もNISAやってるけど…」みたいな)を加えたバージョン
のどちらにもできます。どちらに寄せて仕上げましょうか?
日本語に関する本でちょくちょく南伸坊ってやつのコラムがぶっこまれてるのあったけどもっと支離滅裂な文章だったけどな。
新書読んでていちいちどの本だったか覚えてないほど慣用句の誤用も見てきてるしあんま文章の粗って問題じゃないんだと思うんだがなあ。
「求人応募専用ダイヤル」なんてポスターが出回ってるあたり社内の文章担当も結構杜撰な日本語力でもなれるみたいだし。
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森博嗣先生のGシリーズの最新作、ω(オメガ)の悲劇の出版を待っていた。森博嗣先生か連載している雑誌のコラム、道草の道標に森博嗣先生への質問が募集されていたので質問したところ、連載中で以下の回答がなされた。
https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/3913598/3/
以下一部引用
さて、このウェブ連載が始まった最初の2日間に読者から届いた要望、質問が編集部から送られてきた。読者の要求なんて森博嗣がきくはずがないことを、多くの方がご存知だろう。それでも、その壁を乗り越え、もしくは、通りすがりでなにも知らない振りをして、応募して下さった方々に感謝。
詳細で具体的な質問内容やテーマについては、またいずれ。今回は第1回公開の直後だったため、まず自動車に関する質問が幾つかあった。何に乗っているのか。クルマ談義をしてほしい、などなど。また、人生相談もあった。家族のこと仕事のことで悩んでいる、周囲に誤解されている、どうしたら良いのか、などなど。しかし、一番多かったのは、小説をもう書かないという発表に対する反応。これは予期していた。
世間(具体的にはネット)でも「引退宣言」などと呟かれていたけれど、それは15年以上まえに既に発表していて、引退を理由に推理作家協会を脱会したのも、その頃である。その後何度も繰り返し「新しい仕事を受けない」などと方々で書いているので、とにかく「今さら」といえる。蛇足だが、既に執筆済みの新作を出版社が温存しているとか、作者の死後に出版される段取りだとか、といった憶測についても、既にエッセィなどで否定している。微笑みつつご安心下さい。
つまり、Gシリーズ最新作、ωの悲劇は出版されないとの返答である。そのため、Gシリーズは、ω城の惨劇で終わりということみたいだ。ωの悲劇では、真賀田四季側からの視点で森博嗣作品の総括が行われるかもと期待していたが、残念。
五十噸の補助機関つき帆船で海峡植民地から東インド約二ヶ年の予定で一周しようといふ企てがある――計画者は神戸市元町三丁目近江一郎氏でボルネオやインドに久しく滞留、仏教を研究して最近帰朝した岡本春岳師ほか二名の同志の力を得、海外在留民を慰問し、病没者の展墓弔霊燈台守の慰問をなし、併せてわづか五十噸の小舟で南洋を一周すること自体によって海事思想の普及に資し、寄港地では新聞以外に故国の事情を知りたいと希望している人々のためには最近の東京風景や観艦式などの活動写真を見せるとともに故国の発展ぶりや近情を講演し、商品見本やカタログなどを配って行き、簡単な商品見本市を開き希望者には連絡の労もとり、各地にある日本人会の連絡をつけようといふのである。首唱者近江氏の厳父は日露戦役直後東京朝日新聞者がチャーターして満鮮巡遊団を企てた時のロセッタ丸の船長で、今年はその七周忌に当るので、亡父への供養の一端であると大した意気込みで、目下拓務省に補助の支出交渉中であるが、それが纏まり次第四五月ごろには壮途につきたいと、近江氏は語る。
『明中教育十年』より、「明石中學校十年史」の1932年2月1日の項。
直木由太郎編『家信 みとせのはるあき 上』より、1932年の「五月十六日 神戸より」。
臍主義者近江一郎君はまだ知らぬ人だが、其著「小舟を住家に南洋へ」は近来非常におもしろく感ふかく読んだ書物の一であるので一筆書いておく。
第一此書は君が鎮国丸という小船に乗じて南洋に向ふ途中、琉球近くの与論島に於て、船が暗礁に乗り上げ大破、九死に一生を得たこの死線突破の体験を本として、其遭難の顛末と共に南洋開拓に就て、かねて諸方面に就き自ら準備のために取調べた生きた心得の数々を教へ示さんとするもので、世に机上の空論は多くてもこの書の如く命をかけて出来た書物はまことに稀有と云ふべきで、この点に心ひかれるものがあるのである。
『楚人冠全集』より、1937年の杉村楚人冠「バルサ」という記事。
逓信省の船舶試験場で、近頃絶対に沈まない救命艇とかを作った。(中略)沈まない船といふのは、バルサを用材にして作ったとの事だから、何も今に始まった新案でも何でもない、現に私の友人がこれで救命艇を作って、特許を願ひ出た次第は、一昨年の十一月の「グラフ」に私が書いている。彼は特許が許されないので、気前よくその船を私に呉れて行ったので、私はこれを手賀沼に浮べて、時々漕いで出るのを楽しんで居る次第も、その時に書いた。この贈主の名を近江一郎といふ。朝日新聞社で明治三十九年の夏満韓巡遊の船を仕立てて、日本で初めて新聞社主催の団体旅行を企てた時、その乗艦ロセッタ丸の船長だった林橘治君が、即ちこの近江君の実父であった。
近江一郎の著書で、第一神戸中学校のおそらく1935〜1939年頃の同窓会報に掲載されたコラムを集めたものである。内容としては、神戸一中の卒業生がこんなにすごいことをやった、こういう面白いことをやった、といったもので、上記の「中村文夫(日本板硝子社長)」や「川西実三(埼玉・長崎・京都・東京知事を歴任)」なども登場する。卒業生には海軍関係者が多かったようで、特に奥田喜久司とは親しそうな書き方がされている。内容としては、笑いあり涙ありの平和なものだが、支那事変(日中戦争)が始まったことや、誰それが戦死したというようなことが書かれていたりもする。近江一郎自身のことはあまり触れられていないが、母親の名前が「朝子」ということ、娘がいて神戸の野田高等女学校に入学させたこと、第一次大戦の青島の戦いに従軍していたこと、などが書かれている。
1959年『新民』より、寺岡謹平「祖国の礎 特攻観音の縁起について」という記事。
昭和二十一年から、神戸の人近江一郎という老人がおりまして、南洋で貿易をしておったのでありますが、戦争がたけなわになりますと、日本の航空隊では油がだんだんなくなる。潤滑油をなんとかして作ろうということで満州にわたって白樺から潤滑油を作る研究に目鼻がついた、ということを軍令部に進言致しました。そのときには戦争が終ってしまったので、戦争に敗けたのはわれわれ国民の協力が足りないため、ということを考えまして、なんとかして戦死した御霊をなぐさめたいということで、まず特攻隊の遺族を弔問しよう。御霊に参拝しようという念願を立て、二十一年二月から、全国、北は北海道、南は九州のはてから、ずっと単独で廻って歩いた。
(中略)
はじめのうちは簑笠にカーキ色の服を着た坊さんが現れると、これは押売りか物貰いだろうと思って、虐待された。いろいろ考えた末、各県の世話課に頼んで遺族の住所を調べ、予め紹介してもらって参りました。そこで今度は順序よく運んだ。行くと、先ず以て仏様の前にいってお経を読んで焼香をする。そして般若心経を半紙に書いたものを一枚奉納する。
これは神戸の友人で美田禾山翁という書家がおりまして、その人の仏心で般若心経を沢山書いてもらった。海軍特攻隊の遺族は、二五二五名おりますから、美田先生も老齢ではあるし、耐えられなくなった。そこで誰かに書いてくれということで、私も何百枚か依頼されましたが、電報で何枚どこそこに送れと、こういうふうにくる。
(中略)
そういうものをお土産にもって廻って、六年間というものは休みなく廻りました。とうとうしまいには病気になりまして、二十七年一月二十一日に亡くなられた。その間に約一、九〇〇名の遺族を弔問しております。残ったのは東京と東海北陸の一部で、東京都を最後に残したのは、終ったところでお上に特攻隊の遺族の状況を奏上する、というのが狙いでございました。
『吉川英治対話集』より、1959年の対談での吉川英治の発言。
近江一郎という無名の人がいるのです。軍に徴集されて、なにかのことで満州で塾長をしたのです。開拓民の塾長じゃないかと思うのですが、終戦になってこっちに帰ってきて、さる人の紹介で、私が吉野村に疎開していたときに、杖をついて帰還者の服を着たままでやってきましたよ。そのころ、もう年齢は六十近かったでしょうか。
「いったい君はなにして歩いているんだ?」
「私は帰ってきて、たくさんの死んだ兵隊たちの家を一軒一軒歩いて、そうしてそこに年寄がいたら、年寄を慰め、仏壇があったらお線香の一本ずつもあげさせていただくのを生涯の念願にしている」「収入というものはどうしているんだ?」「収入はありません」「じゃ、どうして食べている?」「子どもが一人あって、女房が神戸の区役所の人夫をしている」女人夫ですね。「子どもは小学校に行っている。お父さんは好きなことをしていいと言うから、私はそれをやる」それから復員局で住所を調べましてね、全国を歩いていました。ほんとうに驚くべきものですよ。あるときその男と話をしまして、こういうふうに戦死者の家を歩いていると、ずいぶんひどいことを言われることがあるでしょうといったら、はじめてその男が炉辺でボロボロ涙を流しまして、このごろは復員局で言ってもらえるのでわかってきたけれども、いちばん最初は九州、あのへんの山間を歩くんですね。なにしにきたとどなられる、弟を死なせたという兄貴がヤケ酒を飲んでいるところにぶつかって、「戦死したものの供養にきたと、それで死んだものが生きてかえるか」と上りかかったところを蹴落とされた。そんな目にも会いました。そういうふうにけとばされたり、つばをされたり、なぐられたりするたびに、「これは陛下の罪滅しになると思って私はしのんできました」というのです。
近江一郎というのは私の中学時代のなつかしい同級の剣友であるが、五年の時、神戸一中を去って大阪天王寺中学に転校し、偶然にも、草鹿さん(註:草鹿龍之介)と同級となり、いずれ劣らぬ剣友同士の間柄だったのである。
近江君と私は一年の時からの同級で、しかもふたりは一時、剣道部の両雄として互いにしのぎを削った間柄で剣友として忘れられない一人だが、まことに気骨のたくましい一風変わった偉丈夫であった。それかあらぬか、一時は満州国に行って馬賊になったとまでうわさされたのであったが、敗戦となるや、彼は決然起って、あの戦争末期の花形として雄々しく散っていった海軍特攻隊の遺族を尋ねて全国行脚の壮挙を思い立ったのである。
しかし何分にも当時世をあげて戦後の虚脱状態にあり、特別関係者以外はだれ一人としてこれを支援しようとする者はなかったが、彼は毅然として、すげがさ、負いずる姿のいでたちで、全く乞食坊主そのままの行脚を続け、全国にわたる戦没英霊の実家を歴訪してその冥福と遺族の慰問に精魂を打ち込んだのであった。
戦後の軍当局と連絡をとったものらしく、一地区ごとに行脚を終わると必ず大阪に私をたずねて来訪し、つぶさにその難行苦行の実情を物語ってその感想録と写真を見せてくれたものだが、ほんとうに涙なくしては聞くことも読むこともできなかった。当時在阪の草鹿さんともいっしょに、時々は三人で食事を共にして、近江君の労をねぎらい、かつ旅情を慰めたものであった。
私の中学校の後輩で近江一郎という男がいて、父親が船長だった関係もあり、南方の島の資源開発を思いたった。ここが素人の私にはわからないことだが、それには沈まない船をつくらなければならないというので、あちこちに設計を頼んだり資金の相談にきたりした。
この話を川西さん(註:川西清兵衛)が聞いて、近江君を助けてやろうということになったらしい。そして近江君の希望どおり不沈船が竣工して南方へ出発したと聞いた。ところが、どうしたわけか帰りがけに台湾沖で沈んでしまったという。なんともロマンチックな話だ。
あらぬ誤解が発生しつつあるので明記しておきますが、私は京大やレノバを含めた洋上風力業界とは一切関係のない一般人増田です……
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2021年に端を発するためか、そもそも何が起こったのかを知らぬままSNSで騒がれている様子が散見されたので、読みづらくならない範囲でまとめたいと思う。
(三菱商事の社長会見ライブを見ていて、彼らの責任の重さが伝わってこなかったので、書くことを決めた)
洋上風力発電の事業は、基本的に「海域を占有して発電を行う権利」を国が事業者に与える仕組みで進められている。
海は公共財であり、漁業者や航路利用者との調整が不可欠なため、「公募占用制度」と呼ばれる仕組みが導入され、国が事業者を選定する。
流れを単純化すると次のようになる。
つまりこの公募は、一度勝てば1兆円規模の事業権を数十年にわたって独占できる巨大なビジネスチャンスであり、それ以上に今後の洋上風力発電業界を「誰に任せるか」にも影響するという、日本のエネルギー戦略を左右する重大な制度設計である。
その最初の本格的な実施が、2021年12月に行われた「ラウンド1」であった。
このラウンド1は特に注目を集めた。なぜなら、由利本荘(819MW)、能代・三種・男鹿(478MW)、銚子(390MW)という3つの大規模案件を一度に公募という、極めて異例のやり方を取ったからだ。
国の狙いは明快だった。
つまりラウンド1は、単なる民間企業の入札競争ではなく、国家的な産業政策の号砲といえた。
このラウンド1における主人公に"株式会社レノバ"がいるのだが、そもそもその存在を知らない人も多いだろう。
レノバは従業員300人程度の再エネ専業ベンチャーにすぎない。
だが今回の舞台となった地域の1つ、秋田県由利本荘市沖への洋上風力発電事業参入を早期から表明し、2015年から風況観測・地盤調査を始め、2017年以降は環境アセスや漁業者説明会を重ね、さらに2020年にはCOOを常駐させた地元事務所を設置した。
特に2020年のコロナ禍で説明会や対話すら難しい時期も、彼らは現地に足を運び続け、「地元で汗をかいた」という実績がレノバの存在を支える最大の資産となっていた。
漁場などに大きな影響を与えうる洋上風力発電では、通常の公共事業以上に地元との協力体制が実現性を左右するからである。
これら積み重ねに加え、当時の再エネブームやESG投資(Environment, Social, Governance)の追い風を受けて金融筋からも支持を受け、コスモエコパワーや東北電力、JR東日本エネルギー開発との連携につながり、ベンチャーながら由利本荘における“本命候補”と目される素地になった。
しかし、2021年12月に公開された結果は社会に衝撃を与えた。
なんと、三菱商事率いる連合が由利本荘を始めとする3地域すべてを総取りしたのだ。
当時すでに鋼材や資材価格の高騰は誰の目にも明らかで、業界では「12円を切る水準は採算が合わない」という声が多かった。
公募直後の2022年2月からウクライナ進攻が始まったのは運が悪いともいえるが、とはいえ、元々が数十年スパンを見据えた公募である。そのような長期リスクも踏まえて算出された価格であるというのは大前提である。
また、レノバのように事前調査や地元への根回しを十分に行う事もなく、まさに青天霹靂といったダークホース具合だった。
結果として、三菱商事が総取りした事実は、たとえあのまま事業が実現したとしたとしても、制度本来の目的――国内の複数事業者が“並走して”サプライチェーンと人材基盤を育てる――は事実上無に帰した。
特に“実績の少ない市場”の立ち上げ期は、複数の施工・保守プレイヤーが経験曲線を描ける余地が不可欠である。競争の果実を1者に集中させる設計は、調達単価の見かけの最小化と、産業基盤の脆弱化リスクとのトレードオフを過小評価しやすい。
とはいえ、ラウンド1総取りはそのようなリスクも分かったうえで、"あの"三菱商事が総取りを仕掛けたわけで、さすがに何らかの根拠と戦略により、三菱グループという責任を背負って完遂してくれるだろうという淡い期待もあった。
また当然の帰結として、最大6000円超まで伸長していたレノバの株価は、1500円以下まで急落し、3日間で時価総額が1800億円溶けたという報道も流れた。
知っての通り、三菱商事は由利本荘を含む総計1,742MWの3案件(能代・三種・男鹿478MW、銚子390MW)からの撤退と正式表明となった。
こうして大規模洋上浮力発電の2030年運転開始どころか、大幅な遅延が必至となり、三菱商事による根拠不明の焦土作戦の末、国家エネルギー戦略の時間は失われた。
経営判断としてたった数百億で済む現時点での撤退は合理的ではあるが、松下幸之助が説いた「企業は社会の公器である」という理念に照らせば、三菱商事の責任は極めて重大である。
国家戦略の根幹をなす案件を総取りし、他社の芽を摘んだうえで、採算悪化を理由に放り出す。その結果、失われたのは単なる帳簿上の赤字ではない。系統接続枠や港湾整備計画といった公共資源、そして地域住民や漁業者との信頼関係といった“社会的資本”が無為に浪費されたのである。
「三菱なら最後までやり遂げる」という社会的信頼があったからこそ国も地域も委ねた。だがその信頼を踏みにじり、制度全体の信憑性を瓦解させた責任は、一企業の経営判断に矮小化できない。
いま問われるべきは、"三菱"という組織が社会的責任を真に果たす覚悟を持ち得るのか否かという点である。
時を戻して、2023年12月に結果が発表されたラウンド2以前に目を向けよう。
要は、ラウンド1で生じた「安値総取り」と「地域調整軽視」の反省を踏まえた調整だった。
だが同時に、それは元々の制度設計がいかに脆弱で、現実を見通せていなかったかの証左でもある。
併せて、ラウンド2の見直しをめぐり、「負けたレノバのロビイング活動でルールがねじ曲げられた」との論調も当時出た。(まあ、こちらはこちらでかなりの無茶したようだが……)
しかし実際の改定は採点枠組み(120/120)を維持しつつ、総取り防止の落札制限や実現性評価の補正、情報公開やスケジュールの見直し等、市場の立ち上げリスクを減じる方向が中心だ。特定企業の“救済”というより、極端な安値一極集中の副作用に対する制度側のバックストップ強化と整理して良いと思われる。
再エネ議連が毎週、圧力をかけた成果で、5月に入札ルールが変更され、6月に行われる予定だった第2回の入札は来年3月に延期され、審査方法も変更された。野球でいえば、1回の表で負けたチームが審判に文句をつけ、1回の裏から自分が勝てるようにゲームのルールを変えたようなものだ。
http://agora-web.jp/archives/220630094751.html
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/agora-web.jp/archives/220630094751.html
エネルギー素人の池田信夫氏による批判記事と、それに同意するブクマの数々を一例として示すが、三菱商事が自陣の提示した価格の安さで撤退した今となっては笑うしかない。
ここについては2025年視点からの結果論でもあるので、これ以上のコメントは差し控えよう。
ラウンド1の失敗が避けられなくなった結果、この先の洋上風力発電市場、ひいては国家の再エネ政策全体に深刻な影響を残した。
反原発層はここにこそ大声上げるべきだと思うんだけどな。
三菱商事が撤退検討に至ったことで、「三菱ですら無理なら誰がやるのか」という冷笑が広がり、外資や国内他社も日本市場に消極的になった。ラウンド2以降も撤退連鎖が起きる懸念は現実味を帯びている。
本来は「長期的に産業と人材を育てる場」として設計された公募が、逆に「信頼を失わせる負の前例」となってしまった。
安値入札が勝者となったラウンド1に引きずられ、ラウンド2以降も価格面で無理をする形での参入がベースに。市場育成の健全な芽を摘んだ。
ここまで三菱商事への糾弾を重ねてきたわけだが、真に責任を負うべきは、まともな制度設計をできなかったMETI(経済産業省)である。
洋上風力は国家戦略の柱であるはずが、その最初の大規模公募で制度不信を広げ、時間という取り戻せないコストが支払われる結果となった。
必要なのは、第三者機関を交えたラウンド1の反省と、現実を直視した制度設計を国が改めて示すことであると考える。
https://www.econ.kyoto-u.ac.jp/renewable_energy/stage2/contents/column0284.html
ラウンド1当時の批判については、京都大学大学院経済学研究科の講座コラムとして詳細に論じてあるため、興味がある方は是非目を通していただきたい。
10年前に曽野綾子が「無理」とコラムを書き大炎上し国会まで延焼した。
とはいえ叩きの大半は女史の著作どころか経歴も業績も知らず発言の一部分のみを切り取って叩いていたように思える。
あれから10年経ち、日本のあらゆる場所に外国人が覇権を広げている。
スマホに受取用のバーコードを表示させ、店員がそれを読み取り荷物を渡してくれる、ハズなんだが。
店員は「無い」という。
「あるはずだから出せ」と強めに言うと箱を持ってきた。
宛先を見たら俺のじゃねぇ
テキトーに出すんじゃねぇよw
埒が明かないのでロッピーで受取用伝票を印刷し(バーコードはスマホに表示されているものと同じだが)再度レジに持っていった。
バックヤードに探しに行っていたがやはり「ない、これしかない」と先ほどとは別の段ボールを持ってきた。
宛先がちらっと見えたのだが、それであってる、それだ、俺のだ。
ところが女店員は「これは番号が違う」と渡してくれない。
まぁいい、とにかくあるはずなんだから探してくれとしか言えない。
だが女店員は俺を無視し後ろ数組の客をさばくため別のレジを開けてレジ作業に戻る、ふえぇかっけぇなおいw
強く抗議したら別の外国人男が出てきた。
「さっきの荷物を持って来い」と指示し、貼り付けられた伝票と俺の持っている受取伝票の番号が一致していることを確認させた。
ようやく受け取れた
女店員を呼び「いったいどこの数字を見て違うと判断したの?」と尋ねると
送り状伝票には様々な数字が印刷されているが、全く別の数字列を指差し、ほら違うでしょ。だと
いやいやいやいや、ここにもここにも数字列があるよね?なぜそこしか見なかったの?
表示の桁数も区切り方も違うよね?
シランガナ、みたいな顔しやがった。
んで、これにクレームするつもりもなく怒っても仕方がない。
日本の古き良きサービスをガイジンに期待しても無理だ、もうそんな世の中ではない。
全てが安かろう悪かろうであり、いやなら快適なサービスを受けられる金を出せ、としかならない。
で、言いたいのは
しかし、まだまだこーゆーシーンでブチギレまくっている人たちをよく見る
こんにちは、皆さん! 今日は未来の医療技術について考えてみようと思います。人工子宮って聞いたことありますか? まだ実用化されてないけど、もしこれが実現したら、妊娠の負担から女性を解放したり、不妊で悩む人たちに新しい選択肢を与えたりするかも。でも、待って! そんな革新的な技術が簡単に誰でも使えるようになると思いますか? あたしは思うんですけど、人工子宮が実用化されたとしても、利用の条件は、養子縁組のように厳しく制限されると思うんですよ。今日はその理由を、養子縁組の条件に触れながら、倫理的な視点から深掘りしてみます!
養子縁組って、子供を迎え入れる大事な制度ですよね。日本では、普通養子縁組と特別養子縁組の2種類があって、それぞれ条件が違います。簡単にまとめてみましょう(法務省の情報とかを参考に)。
• 養親になる人は20歳以上で、養子は養親の尊属(親とか祖父母)や年長者じゃないこと。
• 養親と養子の双方が合意すればOK。未成年者を養子にする場合、後見人とかの許可が必要なケースもあるけど、基本的に独身でも可能。特に成人を養子にするなら、結婚してなくても大丈夫。
• でも、相続目的とかで悪用されないよう、家庭裁判所の審査が入ることもあります。経済的な安定とか、養育能力が問われるよ。
• これはもっと厳しい! 養親は夫婦で、結婚3年以上経ってる必要あり。経済的に安定してて、不妊治療中じゃないこと、子供との年齢差が45歳以内とか、細かい条件がいっぱい。
• 養子は原則15歳未満で、実親との法的つながりを完全に切る制度。子供の福祉を最優先に、家庭裁判所の審判が必要。独身じゃ絶対無理で、夫婦単位で審査されるんです。
これ見てわかる通り、養子縁組は「子供の幸せ」を第一に、養親の適格性をガチガチにチェックしてるんです。単に「欲しい」ってだけじゃダメで、社会的・倫理的なフィルターがかかってるよね。
じゃあ、人工子宮に話を戻すと、これって「子供を作る」技術だから、養子縁組みたいに厳しく制限されると思うんです。なぜかって?
養子縁組でも、特別養子縁組は夫婦限定だし、普通養子縁組でも未成年者の場合、独身だと審査が厳しくなるケースが多い。人工子宮で子供を「生む」ってなったら、もっと慎重になるはず。だって、子供の育成環境を考えたら、単独で育てるのってリスクが高いよね? 法的に、夫婦やパートナーシップを条件にするかも。独身男性が一人で使っちゃうと、ジェンダーバランスとか、子供の心理的な影響が心配されそう。
人工子宮の目的は、不妊症の人を助けることだと思うけど、倫理委員会とかが介入したら、「健康な女性が妊娠を避けるための便利ツール」にはさせないはず。不妊証明とか、医療的な必要性を条件にしそう。養子縁組みたいに、子供の権利を優先して、「本当に必要な人だけ」って制限がつくんじゃないかな。過度な人口増加や、倫理的ジレンマ(例: デザイナーベビー問題)を避けるためにもね。
想像してみてよ。もし制限なしで誰でも使えたら、社会がカオスになるかも! 富裕層が大量に子供作っちゃったり、倫理的にグレーな使い方が横行したり…。だからこそ、国際的なガイドラインとか、国ごとの法律でガードされると思うんです。欧米とかでも、代理出産の規制が厳しい国が多いし、日本ならなおさら慎重だよね。
人工子宮はすごい技術だけど、実用化されたら、養子縁組みたいに厳しい条件がつくはず。子供の福祉、ジェンダー平等、倫理的問題を無視できないからね。あたしは、みんなが幸せになるためのツールとして、適切に制限されるのが理想だと思うよ。皆さんはどう思いますか? コメントで意見聞かせて~!
(参考:法務省の養子縁組ページとか、弁護士事務所のコラムから情報を拾いました。実際の法律は変わるかもなので、専門家に相談してね!)