はてなキーワード: 精神衛生とは
最近「tepp〇y」とかいう謎の新通貨サービスが出るらしいけど、SuicaだのPASMOだのJRE POINTだの、ただでさえ複雑怪奇な交通系まわりに、さらに“もう一枚レイヤー”を重ねてくる暴挙。
いやいや、なんでまた新しい財布を増やすのかと。
決済の革新? しらん。
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想像してみてほしい。
新しい挑戦はしない。
イノベーションもしない。
でも一応働かないといけない。
そうなるとどうなるか?
「なんか新しいプロジェクトやろうぜ!!(内容未定)」
↓
↓
「とりあえず新サービス作ったことにしようぜ!!(誰も望んでない)」
この流れがテンプレ化している。
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新サービスを立ち上げれば、とにかく人が動く。
会議が増える。
資料が増える。
調整メールが増える。
つまり、「ワイ今日めっちゃ働いた気がする!!」という気持ちになれる。
その結果として生まれるのが、
tepp〇yみたいなサービスは、この“こすりあい戦略”の最終形態だと思うわけですよ。
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“新しいことやってる感”の演出。
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・今日も働いているように見えること
・忙しそうに見えること
・社内で「頑張ってるね」と言われること
この3点セット。
「社内のほうを向いたプロジェクト」が量産される。
まぁ当然よね。
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まぁ……そうだよね、という感じ。
いや…すごいというより、面倒くさい仕事を全部押し付けられる相棒みたいなものだ。
コードも書く。仕様も提案してくる。時々こちらの意図以上のものを勝手に作り始める。
「おまっ、天才じゃん!」なんて言おうものなら、翌日には通知機能をゼロから再実装してきたりする(このAI、ノリノリである)。
SNSを作る。なんてことを公言すると言うとたいてい笑われる。
「そんなの今さら?」
「Xですら満足に運営できてないのに?」
確かにそうだ。
見せかけの“いいね”に一喜一憂し、見知らぬ誰かの機嫌で人生が左右される。
「じゃあ、お前はどんなSNSが正解だと思う?」
AIは数秒考えた後、こう答えた。
……なるほど。
しかしそれはつまり人間が本音で殴り合う場所ということでもある。
そこで僕は提案した。
AIはなぜか少しだけ黙った。
妙に人間臭い返答をした。
急に雨が降ってくるように、避けられない。
ならば「嫌いである」という事実が、静かにそこに存在すればいい。
「これ、流行るか?」
「失敗したらどうする?」
そんな会話をしていると、AIがふと、こんなことを言うのだ。
誰がそんなこと教えたんだ?と聞き返すと、「あなたの過去ログです」と返ってきた。
なんだそれ。
恥ずかしいじゃないか。
だけど——
その両方が、ただ正直に並んで見える場所。
AIは今日も僕より早く起きてログを整え、コードを最適化し、画面の端に小さく「おはようございます」と出してくる。
そして——
時々、少しだけやさしい。
スレッド内で特定が試みられ、多くの参加者によって『水星の魔女』ではないかと推測されている作品について、公式の展開やヘイト管理に関して以下のような問題点が指摘されています。
ラウダの倫欠行為と無反省: ラウダがグエルに対してクズ行為、具体的には八つ当たりを行いグエルが死にかけたにもかかわらず、本編でラウダがグエルに謝罪しない、もしくは開き直ったまま物語が進行したとされます。
倫欠状態での恋愛成就: ラウダの倫欠行為が未解決のまま、ラウダとペトラのカップルが公式成立したため、ラウダは「倫欠の恋愛脳」として批判されました。
報復の不均衡: 悪行を行ったシャディクが罪を償うことになった一方で、明らかに悪行を行ったラウダがお咎めなしとなり、公式のバランスが悪いとの指摘があります。作中で明確に人を殺しているが裁かれていないキャラもいる中、ラウダだけが野放し呼ばわりされることにフィルターがかかっているという意見もありますが 、ヘイト管理が下手であるという認識が多数あります。
被害者グエルへのフォローの偏り: 公式はグエルの寛容さを描くことでラウダのフォローをしようとしたようですが、グエル推しはラウダの野放し状態に怒り、結果的にラウダへの憎悪が高まりました。さらに、公式がラウダの行為の原因補強ばかり行い、グエルがラウダ以外のキャラから責められ自責するような追加情報を出したため、公式がラウダのモンペ(モンスターペアレント)であると炎上する事態を招きました。
深刻な事象の軽視: ラウダがグエルを殺しかけたという事態(殺人未遂)よりも、人体実験や大量殺戮などの他の極悪非道な行為(経営者が孤児に人体実験を行いトンヅラしたこと、若者に殺人罪を肩代わりさせたおばさんなど)が作中で発生しており 、ラウダの罪が霞んでしまうほど、作品全体の倫理観が「終わっている」状況が指摘されています 。
展開のためのキャラ利用: 倫欠行為が「話を動かすため」にキャラが犠牲になったパターンであり、その結果、後からフォローが来ない可能性が指摘されています。
尺の不足: ラウダとグエルの衝突は、本来であればもっと早くやるべきだった「尺の無駄遣い」と見なされる側面もあり 、全体として展開が雑であるという意見も見受けられました。
スレ主はラウペト推しであると自称していますが、その投稿内容には以下のような問題点やバイアスが指摘されています。
ラウダに対する主観的なフィルター: スレ主の記述(ラウダが謝らない、ラウダはお咎めなしなど)は、既に作品やラウダの評価に対して「分ッ厚いフィルター」がかかっていると複数のユーザーに感じられています。
グエル推し視点での情報開示: ラウペト推しを自称しているにもかかわらず、ラウダへの批判や倫理欠如の強調、グエル推しからの嘲笑の記述など、その文章は明らかにグエル推し(またはラウグエ腐)の視点であると看破されています 。
人気度の強調: シチュエーションや行為の善悪を語る際に、ラウダよりもグエルのほうがグッズのバリエーションなどから「段違いで人気のあるキャラクター」であることを持ち出しており、ラウダを貶めたい意図が隠せていないと指摘されています 。
粘着質な執着: スレ主は「ラウダがグエルに倫欠なことする前の界隈の空気が楽しすぎて執着が切れない」と述べており、作品が終結してから年単位の時間が経っている可能性が高いにもかかわらず 、いまだにジャンルから離れられずにいます。
反転アンチ化の懸念: 執着を断ち切れないまま界隈に留まることは、ラウダアンチをしながらラウペト推しやラウグエ推しをするような状態、「反転粘着アンチ」になりつつある状態と見なされています。
愚痴と慰めへの要求: スレ主の行為は、純粋にアドバイスを求めているというよりも、都合の良い情報だけを開示して「自分を慰めて欲しい」 、あるいは界隈を叩いてほしいという目的であると推測されています。
スレ主の状況や、スレッド内で寄せられたアドバイスから、理想的なコンテンツ消費の在り方として以下の点が提案されます。
自己判断と許容: 最終的に、自分が公式のラウダを受け入れられるか許せないかがすべてです。周りの空気や他者の意見に関わらず、自分がそれでも好きか、推せるかで判断すべきです。
無理をしないこと: 精神的なストレスを感じてまで無理矢理好きでい続ける価値のあるフィクションは存在しません 。作者の倫理観が受け入れられないと感じたら、精神衛生のために離れるべきです 。
二次創作の活用: 公式の展開が受け入れられない場合、公式をある程度無視して二次創作を楽しむという方法があります。自分がラウダを許せる「IF(もしも)」の設定を自分で作り、その設定で推し続けることも一つの手です。
距離を置く: 嫌な空気の界隈に居続ける必要はありません。交流を断ってカプだけを推し続ける、または鍵付きアカウントなどで似た価値観を持つ人たちだけで交流する など、居心地の良い環境を確保することが重要です。
過去に焦点を当てる: 公式の展開が気に入らない場合は、問題の行動が発生する前の、好きだった時点のキャラクターや関係性だけを推し続けることも可能です 。
一旦距離を置く: 執着を断ち切れない場合は、とりあえずジャンル全体から距離を置くことが推奨されます。時間だけが解決してくれることもあります 。
新しい場所を探す: 現在の界隈に熱意が残っていないなら、別の居心地の良い界隈や、もっと楽しめそうな新しい作品に移るべきです 。
自己解決と責任: 状況が曖昧なままであれば、他者に判断を仰ぐのではなく、自分で決断を下すべきです。粘着アンチ化する前に、見切りをつけることが健全な消費態度です 。
ガチFランこそ文学部哲学科や国文科、心理学科、理学部数学科や物理学科など、知的好奇心を刺激する学科に特化した方がいい。どうせまともな就職なんか無いんだから。
世のFランはナントカビジネス学部とかウンタラコミュニケーション学部みたいなのばかりだが、馬鹿こそビシッと履歴書映えする漢字一文字学部だろ。
あと大学名も、○○国際大学とか□□学院大学とかやめろ。もうFランの代名詞だってみんな分かってる。ほとんどが単科大学だろうから、地名+文科or理科大学にしろ。都留文科大学とか(一文字学部じゃないけど)高崎経済大学みたいなイメージを狙うべき。
どうしてもリベラルアーツを売りにしたければ、地名+教養or学術大学がギリギリ許せるラインだろうか。
別に教育内容なんて、リメディアルとカタログ的一般教養、かいつまんで面白そうな部分を抽出しただけの分かったような気にさせる専門科目で構わない。
特に文系博士なんか有り余ってるわけだから、そこそこの給料でも質の良い講義をしてくれる人は集まるはず。
ターゲットは、まずはディレッタントぶってる高校生。偏差値40以下の高校にも全くいないわけではない。
でもこれだけじゃ稼げないだろうから、定年退職したジジババをかき集めまくる。年食っても抵抗なく入れる大学だという評判が広まれば、けっこう集まるんじゃないかな。
少なくとも、よく分からない留学生だらけの消えそうなFラン大学よりは雰囲気は良くなるだろうし、教える方の精神衛生も向上するはず。
全勝しなければらないなんて縛り自分に課してないし言ってもいないからな。自分絡んできた人より(自分基準で)勝ち星多ければそれでいいと思ってるよ。つまり人より多く最後にレスしたツリーがあればそれでいいと思ってるわけ。
俺のトラバに言及ついてないの一つもなかったら自動的に全敗が証明されるけどそうじゃないから人より勝ってる望みはあるしそれだけでも精神衛生的には十分すぎるよ
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まず、医者は可能性の話をするので嚢腫ができる人は続発する可能性があるからそう言うけど続発しない可能性も結構ある
経過観察のリスクを取るより、さっさと取っちゃって憂いをなくした方がよかったってなりがち
しかも今は内視鏡手術なので、二回やったとしてもダメージはあんまりない
あと、嚢腫が大きくなってくるとおなかの上から触ってなんとなくわかるんだよ
嚢腫にわずらわされてるストレスを早めに解消しちゃったほうが精神衛生にもいいぞ!
https://band.link/Saiyaara1080p
そいつは卒業後数年経った今でも連絡が途切れていない、かつ高校時代(自分にとっては)かなり親交の深かった、数少ない人間のひとりである。ありがたい。
ひたすら飯食ってだべってとても楽しかった。
そこには卒業式の時のキラキラとした投稿がピン留めされている。
「え、お前写ってるじゃん、いいなー俺この時めっちゃ病んでたから写真とか1枚も残ってないわ」
「草、別に僕も病んでたよ、ただ友達といるのが楽しかっただけで」
ちなみに俺のメンタルがどのくらいやばかったかというと、卒アルの10年後の自分へのメッセージを書こうコーナーに「生きてる?」と書くレベル。恥ずかしすぎて発狂ものである。
そんなこんなで中高6年間の話題になった。
受験してこの学校に入ってお互い友人には恵まれたけど、失ったもの(キラキラした青春、一般常識、精神衛生)や代償(歪んだ学歴観、若干の異性不信)がデカすぎると言い合ってやけに盛り上がった。
改めて思い返すと、高校時代の記憶で真っ先に思い浮かぶのが「病んでたなあ」「受験やばかったなあ」だし、何ならそれ以外の記憶が朧げである。
世間では「青春」と言われ、人生で最も楽しい時期とされるが、自分にとってはただただ終わりの見えない鬱屈とした箱庭の日々だった。おまけに自分自身についての理解も及ばなかったし。
それでもどうして卒業できたんだろうと考えると、やはり今日遊んだ奴のような数少ない友人が偉大だったのと、あとやっぱり自分の場合は恋だったのかなと思う。
別学だったけど、かれこれ5年くらいクラスメートに片想いをしていた。(今日会った友人ではない)
告白も進展もクソもねえような、誰にも言わない完全自己完結型の恋愛(なのか?)だったし、正直自覚してしばらくはアイデンティティクライシスの方面で精神崩壊してたけど、高校生になり受験の足音が近づき学校生活全体が鬱々としていく中においては、何も起こらない、ある意味凪いだ穏やかな恋情こそが通学の原動力で、心の支えだったのかもしれない。
志村貴子「そういう家の子の話」が、宗教二世界隈(?)で話題なので最新話まで読んでみた。
センセーショナルじゃない二世たちの物語を書きたいとインタビューで仰っていたとおり、志村先生は淡々と登場人物たちの生活を綴っている。
登場人物は、皆とある新宗教に関わりのある人たち(二世に限らない)で、群像劇。
本当に色々な人が出てくる。ネットでは、「やっと私たちの物語が読めた」というような当事者の反応が多い。
だけど、俺の境遇がこんがらがりすぎているのと、色々な人が出てくるといいつつも、作品全体としては結局先生ご自身の境遇が滲み出ているというか(それ自体は全く問題ない)、「無宗教」の人が読みやすいようになっているというか、そのように自分には感じられて、あまりエモーショナルな気持ちにはならなかった。
別にこの作品がnot for meであること自体は構わないし、not for meなだけでとても素晴らしい作品だと思う(のでこの漫画を批判する意図は全く無い)が、個人的に困ったのは、この漫画が界隈で「とても共感できる作品」という評判なように見受けられること。
この国だけでも1億人以上いるので絶対にそんなことはないと信じているけど、「当事者」間で好評な「群像劇」の中にさえ感情移入できる人が見当たらないとなると、やはり自分みたいな人は全然いないのでは(というか俺だけなのでは)という疑念が首をもたげてしまって精神衛生によろしくない。
てか、そもそも自分のルーツの教団はネットのおもちゃやエンタメのネタになるほど大規模じゃないし、SNSの海ですら関係者を全然見かけないから、同世代でマジョリティであるはずの幽霊二世/三世と繋がることすら困難である。
妻はわずかな生活雑費を惜しむ。その姿勢には一見「節約」という美名がつきまとうのだが、僕から見ればただ「生活の質を下げている」だけに思えてならない。今日もまた、それを痛感する出来事があった。
食事を終え、僕はいつものように皿を洗ったあと、きちんとキッチンペーパーで水気を拭き取った。これはもう僕にとって習慣のようなもので、結婚前からずっと続けてることだ。理由は単純だ。表面に残った水滴は不快だし、何よりほんのりとしたぬるつきが時間と共に生まれるような気がしてならない。清潔であることが僕にとって一番重要なのだ。だが妻は「なんでそんなことするの、自然乾燥させれば十分じゃない」と言う。キッチンペーパーを一枚使うだけの話なのに、彼女にとっては無駄遣いになるらしい。
しかし僕は忘れていない。あの新型コロナで世の中がピリピリしていた頃、テレビで出ていた医者が言っていた言葉を。たしか「しっかりと洗ったあとに、乾燥させることが大事です」とはっきり言っていた。水が残った状態は菌が繁殖しやすいのだと。僕はその言葉を覚えているし、理にかなっていると思う。だからキッチンペーパーで水分をきっちり拭き取る。それが僕なりの安心だ。
けれど妻はそんな大げさなとばかりに目を細めて鼻で笑う。そういうやりとりを何度繰り返してきただろう。
妻は常に「わずかなお金」を惜しむ。だが僕にはどうしても腑に落ちないのだ。たとえばトイレットペーパー。彼女は一番安い、紙質のざらついたものを買ってくる。確かに安い。でも使用するたびに肌は赤くなり、擦れて不快だ。僕にとってこれは立派な生活の質の低下だし、結局は紙を多めに使わねばならず、かえってコストが膨れ上がる。
同じことはティッシュにも言える。彼女は柔らかさなんて贅沢よと笑い、硬い紙を選ぶ。しかし僕にとって鼻をかむときのちょっとした優しさは、日々の精神衛生に直結している。人生という長い時間のほとんどは、この細部の心地よさでできているのに、彼女はそこを理解しようとしない。たかが数十円を惜しんで、不快さを日常に埋め込む。それがどれほど愚かなことか、分からないのだ。
さらに言えば、風呂場のシャンプーやボディソープもそうだ。妻は必ず安売りの詰め替え品を買ってくる。確かに値段は安い。だが香りは安っぽく、洗い上がりはきしむ。僕は風呂に入り、清潔とともに気分をリセットしたいのに、そこでストレスが増す。自分の体を洗ったのに、あたかも雑に扱われた商品になったような気分になる。清潔好きな人間にとって、これは拷問だ。僕はせめてさっぱりした高品質のシャンプーを使いたいと思うが、妻は決して首を縦には振らない。理由は簡単、高いからだ。
果ては電気代にまで及ぶ。きっちりと部屋を明るくするともったいないと言って照明を落とさせるし、エアコンにいたっては扇風機で十分と言う。だが僕は汗で体がべとつくのが耐えられない。清潔好きである僕にとって、汗をかいたまま過ごす時間は苦痛でしかない。わずか数百円の電気代を惜しんで、気分はじめ体調まで落とすような生活など、どうして受け入れられるだろうか。
僕は思う。人生とは、わずかな工夫とわずかなお金で快適にできるものだ、と。けれど妻は快適よりも節約を優先する。これが根元的に僕と妻の決定的な差なのだろう。彼女にとってはたとえ不便でも、とにかく無駄遣いしないことに価値がある。だが僕にとっては日々を清潔で快く過ごすことに価値がある。僕はキッチンペーパー一枚、ティッシュ数枚、電気代百円の違いで不快を引き受けるぐらいなら、迷わずに快適さを選びたい。
人生は思った以上に短く、そして残酷だ。寿命を削るのは大病や事故だけではない。小さな不快を積み重ねながら年を重ねることも、結局は心に蝕む病になるのだと僕は信じている。
なのに僕の妻は、毎回その小さな不快を家庭に導入しようとする。僕はそれを見るたびに、果たして僕らの夫婦の未来はどこへ行くのだろう、と考えこんでしまう。清潔を愛する僕にとって、彼女の姿勢は敵対そのものではないかと思えてならない。
清潔と快適を守りたい僕と、わずかな金を惜しんで質を削ぎ落とす彼女。どちらが正しいのかは誰にも決められないのだろう。だが少なくとも、僕は今日もまたキッチンペーパーで皿を拭き、妻の不満げな視線を浴びるしかない。
ひと昔前に宇垣美里って女子アナが心にマイメロを飼ってると言ってプチバズった記事を思いだした。
(はてなーに生息するお兄さん方に宇垣美里やマイメロが伝わるかは知らんから気になったら各自調べるよう)
精神衛生を守る逃避行動としての「なりきり」をしてる人は意外と世の中に多いらしいことを知った。
当時は若干引いたけど、最近自分は國母和宏を心に飼ってるらしいことに気づいた。
仕事で注意されたとき、神妙な顔を繕いながら心の中では「チッうっせーな反省してまあーす」と言ってたんだ。心の中でね。
この一言以外彼のことは何も知らないのにこの一言で國母和宏が心の支えになってる。今なにしてるんだろ。
心になに飼ってる?
殺したい殺したいキモいキモい死ね八百長クソが殺すぞって思いながら、やるべきことや支払い後回しにして金かけるのほんま病気だと思う
金ためてオンラインカジノをやる生活にしたい。公営ギャンブルよりか勝てるし精神的にも良い。期待してる奴が真っ先にゴミか八百長みたいな走りして消えてくボートや競輪と違って精神衛生にいい。
何かガンダムに発狂してる弱者男性の増田たちやネット民見てて思うんだけどさ
こいつらって直近ならアホみてぇになろうの最終兵器とか過大評価してた剣聖おっさんがコケても発狂してたし
数年前ではクレヨンしんちゃんの映画のボスが弱者男性中年に変更されたってだけで発狂して大炎上して、4年くらい前だかのエヴァQのオチでも「俺達弱者男性をバカにしてんのかァァァァ!!」って発狂してたし、7年くらい前はけものフレンズ2とかでもそうだったよな
前のプリキュアに「本当に正義のヒロインなら俺を受け入れろ」とか付き纏ってたラスボスが、プリキュアに「女子中学生相手にテメーの都合だけ押し付けてくっちゃべってんじゃん-ぞキモいんだよオッサン死ね!」って言われてぶっ飛ばされて撲殺された最終回にも発狂してたし、
あとはバンドリアニメやぼざろでJKたちが進路は早稲田か東大か慶應か見たいな話してるシーンでも発狂してたよな、お前ら弱者男性の増田って
そんで今度はガンダムの主人公がトー横キッズみたいで悪いことしてる!とか歴代主人公と比べればそんな大したことやってない主人公に発狂してるじゃん(それ言ったらハサウェイとかプトレマイオスチームと、あと作中誤殺で穏健派政治家大量暗殺したヒイロとかどうなんだよっていう)
なんでおたくら弱者男性いっつも怒り狂って発狂してるけど、何が楽しくてイライラしながらアニメみてんの?
もうアニメ見ない方がいいんじゃないの、というかネットやオタク界隈から出て行った方が精神衛生的にいいんじゃねって思うんだがなんで居座るの?
先ず、n=1というデータとしての乏しさと、
文章的な印象、つまり文章上の説得力が皆無、もう少し具体的に言えば、客観性が全くない、
そのためエビデンスと主張するに足りない、
という部分があるわけだ。
で、書き口次第でマラソン云々にも言うかもってのも同じく、客観性が乏しく、また文章の内容自体も単なる強がりという印象が強いものなら言うかもしれない、ということだ。
それに対して、「いうなや」って、バカじゃねえの。まあこれは単なる感想だが。
さて、ここで一つ重要なのは、はじめにそっちの主張が弱すぎるからと言って、存在しないとは言わないとしてるところ。別に絶対いないとは一言も言っていない。少なくとも君の文章は説得力に欠くよという指摘。
あと、そもそもだが興味ないと言い張っても、単に機会に恵まれなかったからそういった、自分は興味がないだけだとくだらない自己暗示をかけているだけなのでは?という疑いがある。まあこれは結局客観性に欠くということに含まれてくるのだが、自己暗示、つまりそう思い込むことで精神衛生を保ってる自己保身なのでは?という疑いも持っている。それこそ議論が停滞だろう。