はてなキーワード: ディスクールとは
三年前、渋谷の桜丘町にある古いマンションの一室で月に一度だけ開かれていた読書会があった。
「Books & Beyond」とか「本と珈琲」みたいなカフェが並ぶあの界隈で、オーナーが趣味でやってるようなサブカル風の空間。壁にはカフカのポスターが貼られ、スピーカーからボサノヴァが流れていた。
六畳ほどの小さなスペースに八人くらいが座りそれぞれが持ち寄った本を紹介し合う。それが俺と彼女の出会いだった。
俺がその日持っていったのは『呪術廻戦』の第八巻。ほかの人たちが『中動態の世界』とか『そして誰もいなくなった』とか『サピエンス全史』とかを並べる中で、俺だけがジャンプコミックスを机に置いた。
でも当時の俺はそれを承知の上で、ある種の逆張り的勇気みたいなもので挑んでいた。会社では誰にも話しかけられず、Slackのアイコンもずっと初期設定のまま。それでも自分を注目して欲しいという欲求はあった。
「呪術廻戦のテーマは、“死の受け入れ”よりも“存在の肯定”にあると思うんです」
俺はそう言った。
それに対して、口を開いたのが彼女だった。白いマスクを外して冷静な目で俺をまっすぐに見た。
「でもそれって、“他者を媒介にしない存在”ってことですか?」
唐突にそんな言葉が出てきた。返す言葉に詰まった。彼女の声は低くて落ち着いていた。大学院で哲学を専攻していると言った。
その瞬間、空気が変わった。
みんなが「へえ〜」と頷いて、俺は笑ってごまかした。その笑いが妙に引きつっていたのを今でも覚えている。
そのあと彼女が言った。
「でも、面白いですよね。呪いって、社会の圧みたいなものですし」
その一言に、俺は救われた気がした。
彼女は俺を笑わなかった。
それどころか俺の話を拾って補足し、言語化してくれた。その会の後、俺たちは駅まで一緒に歩いた。
外は冷えていてコンビニの前のホットコーヒーの湯気が白く漂っていた。
「行く」と俺は答えた。
新宿御苑の近くに住んでいて、大学はお茶の水。彼女の持ってくる本はいつも背表紙が硬かった。
『悪について』
対して俺の持っていくのは『チェンソーマン』や『ブルーピリオド』。
彼女はよく笑った。
笑うときに、指先を口元に添える癖があった。
その仕草が上品で、俺はそれを見るたびに自分がどれほど下卑た生き物なのかを思い知らされた。
付き合うようになったのはその年の秋だった。
彼女が修論で忙しくなってから俺の存在が息抜きになったらしい。
「あなたと話してると、時間を忘れちゃう」と言われた夜、俺は人生で初めてコンビニの帰り道が輝いて見えた。ファミリーマートの青い光がネオンのように見えた。俺の中でなにかが初めて肯定された気がした。
イルミネーションが飾られてSNSでは「#冬の光2021」というタグが流行っていた。俺は寒くてポケットに手を突っ込んでいた。彼女は小さな紙袋を下げていて中には文房具店で買ったモレスキンのノートが入っていた。
彼女はそう言って笑った。そして突然立ち止まって空を指さした。
「ねえ、見える?オリオン座」
俺は空を見上げた。
そこには三つの星が斜めに並んでいた。
「……あれか?」
俺は正直何もわからなかった。
星はただの光の点にしか見えなかった。
俺の住んでいた葛飾区の夜空では、星なんてほとんど見えなかった。中学の帰り道、空を見上げてもあるのは街灯と電線だけだった。だから星座の名前なんて知る機会がなかった。
彼女がそう言った。
本当は行ったこともなかった。そんな余裕のある家庭じゃなかった。週末は母親がスーパーで特売の鶏むね肉を買って帰るのが恒例で、俺はその肉を味噌マヨで焼いて弁当に詰めてた。
星よりも肉の値段を見てた。だから空を見上げるという行為が俺には贅沢に思えた。
彼女は俺の顔を見て、少し笑った。
「かわいいね。知らないことがあるって」
それがなぜかすごく悔しかった。笑われたわけじゃないのに馬鹿にされた気がした。
俺は「そうだね」とだけ言って視線を落とした。
地面に落ちた枯葉を踏みつけた。カサッという音が、やけに大きく聞こえた。俺はあの夜自分が一生星座の名前を覚えないだろうと悟った。
通勤電車の窓に映る自分の顔は相変わらず冴えなかった。イヤホンからはYOASOBIの「群青」が流れていた。「夢を描くことが全ての始まりだ」なんて歌詞を聞きながら俺は窓の外を見た。
見たのは空じゃなく、線路だった。
陰キャは夜空を見上げない。
星の位置を覚えられる人間は、いつだって上を見て生きてきた人間だ。
図書館に通い、正しい敬語を使い、誰かに恥をかかされないように育てられた人間だ。
俺はそうじゃない。
俺の星座はコンビニの防犯カメラの赤い点滅と、タワマンの最上階で光る部屋の灯りでできている。
これは遺書だ。
俺はもう彼女と会っていない。
バレンタインだった。俺はその日会社で義理チョコすらもらえなかった。彼女からのチョコを待っていたわけじゃないけど期待してた。
「ねえ、今年はどんな本読んでるの?」
その一言が来るだけで救われたと思う。メッセージはもう既読にならない。
仕事帰りの山手線、品川から田端までの間イヤホン越しに呼び出し音が虚しく鳴った。ワンコール目、ふたつ、みっつ、……留守電に切り替わる。
録音された「この電話は現在使われておりません」という機械音声。それがまるで彼女の声に聞こえた。その瞬間息が止まった。ほんの数秒で胸が焼けた。
どうして?
俺のスマホには彼女の写真がまだある。表参道の青山ブックセンターの前で撮ったものだ。彼女は黒いコートを着て、手に『ロラン・バルト/恋愛のディスクール』を持っていた。俺は同じ日カバンの中に『チェンソーマン』の最新巻を入れていた。
その夜二人で神宮外苑のいちょう並木を歩いた。イルミネーションの下で彼女が「あなたはどんな未来を望むの?」と訊いた。俺は「普通に働いて普通に暮らせたら」と答えた。
俺は夢を語る勇気がなかった。陰キャは、夢を語ると笑われると思ってる。
それでもあの頃の俺は必死だった。休日には「丸善丸の内本店」で彼女が好きそうな本を探した。
『夜と霧』
『哲学の慰め』
表紙をめくっても内容の半分も理解できなかった。けど読んでるフリをすることに救われた。カフェ・ベローチェでブレンドを飲みながらマーカーで引いた単語をスマホで調べた。
「内在性」
「超越」
「主体性」。
どれも俺には関係ない言葉だった。それでも彼女の世界に近づける気がした。
夏になっても連絡はなかった。彼女のTwitterアカウントは鍵がかかりInstagramは削除されていた。
唯一Facebookだけが残っていた。プロフィール写真は変わっていなかったけど交際ステータスの欄が消えていた。俺は夜中の三時渋谷のファミマでストロングゼロを買って歩きながらそのページを何度も更新した。酔いで画面が滲み青白い光が夜風に揺れて、まるでオリオン座みたいだった。
俺は空を見上げた。
もしこれを読んで俺のことだと気づいたのなら、どうか連絡をして欲しい。俺はおまえが好きだ。おまえがいないと俺はもう駄目みたいなんだ。
たくさん本も読んだし勉強した。今なら話にだってついていけるし、楽しませることだって出来る。
これを俺の遺書にはさせないでくれ。
面白い歪みだ。
おそらくは、イメージを、統一的な、ゼロかイチか判別できるようなものととらえているのだろうか?
ディスクールであるとか言説分析ということばを聞いたことはないか?
たとえば、
ありもしない属性⇒ありもしないということを、だれがどのような基準で判定し、どのように関係者に納得させるのか?
たとえば、予防論を採る人間にとっては、なにがしかの予兆があればもはや実在に等しい。
判定や納得、議論、といった行為はすべて闘争的だとは思わないか?
イメージについては、個々人が各個に総体的に描き出した上で、個々人が各個で観測した結果に基づき、運動するのがよいと思われる。
賛同者が多ければ事態は動いていくのだろうし、そうでなければ動かないだけの話だ。
あとから大きく振り返った際に、ゼロだった(誤認だった)、イチだった(正当だった)、ということはいえるかもしれないが、
渦中でそれができるとすれば、単に運動に関わっていないだけの話だ。
http://anond.hatelabo.jp/20090514063711からの続き。
新しく来た記事↓が、前回に引き続き色々とアレなので突っ込み。
http://d.hatena.ne.jp/usukeimada/20090515/1242394132
前回は「腐女子は、セクシャルマイノリティと自分たちとを同列扱いしている!」と叩いておいて、今回は自分が同列に語ってるし、前回は「なぜそんなものを、遺伝子のように本質的なものとして背負い込む!?」と言いながら、今回は「おそらくそれらは自分で決めたものではないだろう。いつの間にか、そうなっていたものだ。」と言ったり、もう訳分かんないね。
なんかもう、「セクシャルマイノリティに対して理解ある俺」に酔ってんじゃないのかねこの人。
よくいる、自分の中の差別感情を覆い隠すために「私は差別されてる人の味方よ♪」アピールするタイプなんじゃないの。
こいつにとっては、自分の心の底に抱えているセクマイに対する攻撃性の転化先と、自分が差別と戦う英雄でありたいがための悪役として、オタク・腐女子がちょうど良かったわけだ。
前回腐女子に対して言ってた「「自分は腐女子である」という言明を金輪際を止めればいいのだ。」って、本当はセクマイに対して言いたかったことなんじゃないの?w
案の定今回はそんな内容だし。
もっとも、「消費したもので私は作られる」という後期資本主義社会に位置づけられる今を生きる俺たちが、記号としての消費物からの「名付けの呪縛」から逃れることはできない。逃れることはできないが、それでもなお、その呪縛から自由であろうとする「余地」は残されているはずなのだ。それをなに、自ら積極的に背負い込んで腐女子を語り、腐女子であらざる言説を駆逐しようとするのだろう。
だから、そんなのもの最初から存在しないんだって…。
俺が批判したいのは、こういう背負い込まなくてもいい言説(レッテルといってもよい)をわざわざ背負い込み、なおかつ自虐的に語りさも自分が「虐げられる者」であるかのように振る舞うというその身振りこそが、現代的なナルシシズムの充足形態になっていることであり、そしてそのことを彼ら自身があまりにも無自覚だ、ということだ。
言説を背負い込んでいるのは腐女子じゃありませんから。それお前ですから。
お前が腐女子に言説を背負い込ませ、レッテルを張り、呪縛しようとしている張本人ですから。
それで自由になれとかどういうことなの…? まず相手の自由を奪ってから、「おじさんが自由にしてあげよう(キリッ」ってことなの…?
よっぽど迷える子羊を救う英雄になりたいんですねwww英雄になるためには子羊が必要ですもんねwww
身近に子羊がいなかったら、ヤギを子羊に見立ててしまいましょうってかwwwヤギ超迷惑www
だから、今回あのような発作的、挑発的と思われかねない文章を書いたことは、そういう「好きなもの」を素直に表明できる人たちに対する、嫉妬心や劣等感のあらわれだと指摘されれば、それは否定しようないことなのである、というのは最後に書いておく。
だったら、なんで自分の抱えている劣等感を他人に当てはめるの?
「自分が『好きなもの』を素直に表明できないから、他人の足を引っ張って、表明できなくさせてやりたいです><」ってことですね。
全然自由じゃねーよwwww
そんな偶然的に決まったアイデンティティを、性だからといって自己の中核に据えるよりも、もっと大事なことだってあるのではないか。
それは、何か好きなものについて語る後ろめたさというか、語るということはおそらくいつかうちなる説明しようのない衝動に突き当たってしまうからで、そのことは僕自身にだって土台説明しようがないのだ。
どうやら自分の性質について何かしらコンプレックスがおありのようですから、「もっと大事なことだってある」と思って、偶然的な性質に向き合うことから逃げたいってことですかね?
まあ自身について個人的にそう思ってるだけなら自由だけど、それを他人に当てはめて押し付けないでくださいね^^
自分の性質について、逃げずに向き合うことのほうがずっと大事な場合もありますから。
どうもこの人には、自分の抱えている問題や感情を他人に押し付ける癖がありそうだな。
この人の脳内では、腐女子やオタクやセクマイに向かって話しかけてるつもりなんだろうけど、それただの鏡ですから。
鏡に映った自分に対して、独り言言ってるだけですから。
他人に対して言っているつもりの指摘や提案も、全部自分に言っていることですから。
これからは、他人に対して何か言いたくなったら、その前に「もしかしてこれ俺のことなんじゃね?」って考えてみたほうがいいと思うよ。
理論っていうのは、自分の抱えている問題や感情を見つめ、それを体系付けて説明し理解するために使うには良いけど、自分の抱えている問題や感情から、目をそらして誤魔化して言い訳して正当化するために使うと、自分も周りも痛い目にあうから。
フーコーだのディスクールだのやる前に、もっと自分の感情を自覚する努力をしてみたら?
あなたが言及した人の大部分は、あなたよりずっと自分自身を客観的に見ることができる。あなたとは違うんです(キリッ
大体ね、カミングアウトっていうのは、それをする本人の判断でやることじゃないの?
カミングアウトすることで本人が自由になれるんだったらすればいいし、自由になれないんならしなきゃいいだけの話でしょ。
そんなもん、抱えてる問題と状況によって本人の感じ方と周囲の環境が違うんだから、カミングアウトについて赤の他人がしろだのするなだの押し付けるもんじゃないでしょ。
他人に余計なお世話焼く前に、自分のことをなんとかしろよ。
「鯨は哺乳類である」というのと、「中絶は殺人である」というのとは、違う。
殺人という言葉には、通常、すでに「倫理的悪」という意味が織り込まれているからだ。
胎児は(まだ)「人間」ではない。故に中絶は殺人ではない。――
「中絶は殺人である。(殺人は悪であり、故に中絶も悪である)」って言わずに、
どうして、ただ「中絶は悪である」と言わないのだろうか。
もしも殺人という語を価値判断的でなく(哺乳類みたいな言葉と同様に)
分類として用いるならば、
「一般に殺人は悪であるが、妊娠という特殊な殺人は例外的に悪ではない」
なんて主張しても可ですね。
とにかく、まどろっこしい言い方は避けたいですよね、というお話。
グーグルストリートビューの話でも、「あれは盗撮だ」って言って批判する人がいたけど、
「盗撮」の定義だって議論の余地のありまくる話なんだから、
そういう言葉遣いはやめて欲しいと思った。
「被写体の許可を得ずに撮影すること」自体が悪である、なんてことは無いでしょ。
いや、そう主張するならばそれでもいいけど、
はっきりそう書いてくれないと、議論のたたき台としても弱い。
まあ、もっと言えば、「道徳的に許されない」けど、
それでもやるべきことだって、存在しうるんだけども。
上で挙げた二つの例は、どちらも分類の名称と見せかけて、
そこに道徳的に劣った行為であるという価値判断を滑り込ませるってパターンだけれども、
もうちょっと込み入った例もある。
このフレーズは我々を
「自分の力ではどうしようも無いくらいに劣った者」として描くと同時に
「嘲笑されてしかるべき者」として抑圧する。
この背景にあるのが、精神疾患に対する差別・偏見であることは言うまでも無い。
また一方では病気を自称するものに差病の疑いが向けられる。
「かわいそうな弱者」と認定すると同時に
「差別されるに十分な理由があるから差別してもよい者」として叩かれる。
問題にすべきなのは、発話者の意図では無い、とすら言ってよい。