はてなキーワード: 衝動とは
店の暖簾をくぐったとき、油の匂いが、すでに一つの運命のように私を包み込みました。鼻腔の奥で重たく揺らめくその芳香は、庶民的でありながら、どこか儀式めいた厳粛さを帯びています。カウンターの向こうでは、白衣の男が黙々とロース肉に衣を纏わせ、油の海へと沈めてゆく。その所作はもはや調理ではなく、供犠に近いものでした。
鍋の中で、とんかつはゆっくりと自我を失い、豚という生の記憶を断ち切られ、黄金色の鎧を与えられてゆく。油が弾けるたび、こまかな泡が肉のまわりにまとわりつき、まるで最後の祈りのように、静かに立ち昇っては消えていきます。
やがて皿の上に据えられたそれは、ひとつの完結した建築物のようでした。端正に揃えられた断面——淡い桃色をわずかに残した肉の芯を、きめ細かい衣が取り囲み、その外側には、無造作を装いながらも計算され尽くしたキャベツの千切りが、小さな庭園のように添えられている。
まずは何もつけずに、一切れ。箸を入れた瞬間、衣がわずかに抵抗し、次いで、驚くほど容易く音もなく裂ける。その小さな手ごたえが、すでに美味の予感を告げていました。口に運ぶと、衣は「サクリ」というかすかな音を立てて崩れ、すぐさま脂の甘みが広がる。豚肉という素材が、本来持ちうるはずの野卑さをどこかに置き忘れてきたかのように、驚くほど上品な旨味だけを残して。
噛みしめるたび、肉汁がじわりと滲み出て、舌の上でゆっくりと溶けていく。だが、それは決して軽薄なジューシーさではなく、刃のようにすっとした輪郭を持った味わいです。塩をひとつまみ振れば、脂の甘さと肉の香りが、急に焦点を結び、世界が一瞬くっきりと輪郭を取り戻す。
次に、店自慢のソースをたっぷりと纏わせてみる。濃密な褐色の液体が、衣の凹凸をゆっくりと埋めていくさまは、どこか退廃的でさえある。その一切れを口に含んだ瞬間、ソースの酸味と甘味が、先ほどまで端正だった世界に一抹の破壊衝動を持ち込む。とんかつはもはや単なる揚げ物ではなく、甘美な暴力となって、容赦なく味覚を叩きのめしてくる。
キャベツを箸でつまみ、ドレッシングを絡めて口に運ぶと、それは一転、冷たい風のような清冽さで、さきほどまでの熱と脂の宴を一度リセットする役目を果たす。シャキシャキとした歯ざわりが、乱れた感覚を律し、ふたたび次の一切れを求めさせる。こうして人は、熱と冷、濃密と淡白、破壊と救済のあいだを、何度も往復させられるのです。
白飯は、ここでは脇役にとどまることを拒んでいました。ひと口、とんかつを頬張り、すぐさま米を追いかけると、粒だった炊き加減が脂をやわらかく受け止め、とんかつの豪奢さを静かに受容する。丼の中でただ白く在るだけの米が、この瞬間だけは、確かな必然としてそこにいることを悟らされるのです。
味噌汁を啜れば、揚げ油で高ぶった心拍が、少しだけ落ち着く。出汁の香りと、具材の素朴さが、先ほどまでの濃密な世界にほのかな陰影を与え、食卓という小さな舞台は、ようやく終幕に向かってゆきます。
気がつけば、皿の上にはパン粉の小さな欠片と、キャベツの断片、そしてうっすらとソースの跡が残るばかりでした。それらは、つい数分前まで一つの完璧な形を成していたとんかつの、静かな残影です。
とんかつとは、実に不思議な料理です。豚という、どこまでも日常的で、ありふれた肉が、油という媒介を通して別の存在へと生まれ変わる。その変容は、単なる調理の域を超え、小さな劇として、食べる者の前に立ち現れる。
皿を下げにきた店員が、何気なく「ありがとうございました」と言ったその一言で、私はようやく、この小さな劇が終わったことを知りました。店を出ると、外はいつも通りの街の雑踏。けれど、胃の奥でまだ熱を保ちつづけるとんかつの記憶だけが、しばらくのあいだ、私の中で静かに燃え続けていました。
近頃、とにかく死にたい。
毎年10月から11月はこういう感じになるので、季節のせいであることは分かっている。12月になる頃にはだいたいなんかなんとかなってるから大丈夫。
でも年々ひどくなっている気もする。それに、毎年ウワーッとはなるにせよ、そもそもなんでこういう死にたい感情に襲われるかがよく分からなかったので、何か直接的な原因がないものか、人生についてちょっと考えてみた。
元々社会福祉とか一次産業とかインフラとか配送業とかに憧れがあった。誰かの生活を支える、縁の下の力持ちってかっこいい。でも増田は危機管理能力がない。忘れ物は多いし、ケアレスミスも死ぬほどするし、どんなに我慢しようとしたって余計な改善をしようとして結局改悪してしまう。保守運転とか一番苦手な分野だ。トラックどころか自分の体一つだって乗りこなせない。事故を起こさないため、誰かを殺さないため、そういう職業にはつかないほうがいいと思って生きている。
だから人から金を搾取することだけを考えているカスみたいなサービスの下請けで、自分一人を養えるだけの端金をもらって、犯罪を起こしてないからそれでいいのだと必死に言い聞かせている。上手く出来なくてもカスの弊社が困るだけだから、いくらミスしても罪悪感はない。
だがこれは直接死にたい原因ではない。やっとることはカスのサービス形態ではあるが、ある程度転職にも使えそうな汎用的な職能の成長は出来るし、上司や同僚は増田の手助けや活躍を褒めてくれるし、そういった点でやりがい的なものがないわけでもない。業務自体はそこそこ向いてると思えるし、人間関係は良好と言って良いだろう。金額面も、自分一人を養えるくらいの金額は稼げているし、それによって欲しいものを我慢したり、望んだ生活を手放さなければならないほどではない。元々欲は薄い方だ。少ないながら貯金もしているし、いざとなれば親や友人を頼れば金がなくても多少の間はなんとかなる。労働自体は憎むほど忌み嫌ってるわけではないから、生涯現役でも全然構わない。
金銭や将来の不安、職場の人間関係の悪化などがあって死にたいわけではない。
友人関係も悪いわけではない。
確かにたびたび「人間じゃない」とか「常識的な気遣いが足りない」とか「普通考えれば分かることがどうして出来ないのか」とか言われたりもするが、それでも根気強く付き合いを続けてくれる友人ばかりだ。何も言わずに去られるより全然マシなので、そういう耳に痛い言葉も言ってくれるだけでありがたい。一度も傷つけたことのない、あるいは傷つけられたことのない友人は確かにいないのだが、それでもみんな大事な友人だ。
そういう大事な友人にご迷惑をおかけすることで罪悪感で潰れそうになることはあるが、例えば無茶な振り回し方をしてきたり、金銭を貸せとやたらたかって返さなかったり、そういうガチのトラブルに発展するような友人諸兄ではないし、増田もそういうことをしないよう、礼節を忘れないように重々気をつけている。それでもたまにうっかり日々の会話で地雷を踏んで怒らせることはあるものの、友人同士が「それは言い過ぎ」とか「お互い様」とか仲裁してくれるので、増田自身の尊厳も守ってもらえていると思う。友人とボロカスの喧嘩をして死にたい夜もないことはないが、それは大抵一時的なものだし、直近はそういう感じで険悪になってる相手はいない。
父も母も理屈で話せば分かる人であるし、親戚一同もなんだかんだ元気に暮らしている。不謹慎なニュースを見て爆笑する叔父や、身の回りの世話を全部してあげないと心配で夜も眠れない叔母、とにかくプライドが高く他人を見下したり注目を集めたりしないと気がすまない従兄弟、信仰の押し付けはないものの新興宗教にどっぷり献金している祖父母など、アクが強くはあるが、こちらに実害はないので可愛い範囲で収まるものだ。肉親に怒鳴ったり、暴力を振るったり、金銭トラブルを持ち込んだり、結婚を強要したりする人はいない。
まあ、両親に恨みがないと言えば嘘になる。幼稚園の頃に甘えようとすり寄ったら「は?鬱陶しい、ひっつくな」と引き剥がされたり、小学生の頃いじめられていた時に増田の言い分を一切聞かず「あなたにも悪いところがなかったかよく考えてみよう?」と3時間近く諭してきたり、愛着の面では問題があったのは確かだ。しかしそれは増田に対して愛情がなかったというよりは、それが彼らの愛着の限界なのだ。飼っているウサギすら、部屋の中で凍死しかけていることに気づかなかった両親である。それを思えば、衣食住を保障してくれたのは事実だし、危険なことは叱ってくれた。大学まで学費も出してくれたし、両親の行きたいところにではあるが旅行にもそこそこ連れて行ってもらっていた。彼らにしてはだいぶ努力していたのだろうと今なら分かる。
だから半年に一度程度は顔を見せに帰省しているし、それがめちゃくちゃ苦痛というわけでもない。全ては過去のことであり、無、凪、平熱、そういった単語がふさわしい関係性だ。これもまた、直接の原因ではない。
増田はXジェンダー、リスロマンティック、アセクシャルと三拍子揃った人間だ。その上、それでもどうしても起こる性欲の発散方法は「対象年齢・性別を問わないリョナ創作」と来た。絶対に世に出してはいけない、リアルの人間に向けるなんて以ての外という嗜好をしている。
幸いなことに、告白されたことも、したいと思うほど惹かれた人も人生にいない。誰かを傷つけてしまうくらいならそれでいいと思っている。「恋愛を理解できないのは正常ではない」と思って恋愛小説や恋愛漫画を読んでは、イーッ!分からん!と一人で暴れていたこともあるが、それは「普通の人生を送ること」に固執していたからであって、もう普通じゃなくていいやと開き直った今は、一人で生きていく覚悟がとっくに出来ている。
だから恋愛ができなくて人生つまんなくて死にたいというわけでもない。
趣味はある。
増田は創作が好きだ。物語を書くのが好きだ。随筆も、批判も、絵も、彫刻も、歌も、踊りも、とにかく何かを表現することが好きだ。それは自分の中にある感情や思考を(作品に限らずこういった文章などでも)表し、発散することで一時的な沈静が見込めるからだ。だから誰かのために書いてるわけじゃなく、褒められるために書いているわけでもなく、ただひたすら自分の衝動を、犯罪ではない範囲で発散できることに喜びを感じている。
また、他人のそういう一面を見るのも好きだ。孤独ではない、と、他のどんな娯楽よりも、どんな脳内物質の分泌よりも、最も確かに感じられるし、癒されるからだ。みんな苦しくて孤独なのだと実感できるからだ。そしてそれらを十全に納得のいくまで突き詰めようと、他人の創作物をしゃぶりつくしたり、自分の表現を究めたりしようと思うと、百年に満たない短い人生を食いつぶすには、十分すぎるくらい時間がかかる。
これも死にたい原因ではない。むしろ趣味のことを考えれば、死んでいる場合ではないのだ。
これと言ったトラウマもない。
いや、ないことはない。小学校の頃は確かに治安が悪かったし、その中で最も低いカースト層にいたのは確かだ。靴箱に砂を詰め込まれたこともあったし、掃除の時はちりとりに集めたゴミを引き出しにそのまま流し込まれたこともあった。濡れた雑巾を頭に投げつけられたこともあった。ドッジボールで執拗にボールをぶつけられることもあった。体育の二人一組ではいつもハブられていたし、仕方なしに増田を組まざるを得なかったやつは、増田の触れたところを校庭の土でこすって払った。まるで土のほうが汚くないとでも言いたげに。
クラスメイト全員敵だからいるわけがないのに、脅迫的に好きな人を聞き出され、最もいじめてきた回数が少ない人の名前をあげたら、翌日からそいつがいじめられ始めて、他人を好いてはいけないと思い知ったこともあった。給食着やテーブルクロスを、本当は持ち回り当番なのに毎週持ち帰らされて、親に「じゃんけんで負けた」「牛乳こぼした責任で」と嘘をついた。もちろんああいう感じの親なので「あんたはどうしてそうなんだろうね」と気づかれもしなかった。
「視界に入るな」「半径2メートルに近づくな」「菌が伝染るから(学級文庫・机・プリント・日誌・配膳皿などに)触るな」あるいはもっと直球に「死ね」も全部日常的に言われていた。学級崩壊でまともに授業が受けられなくて教育機会を損失して、その頃に本来学ぶべきだった分野は今でもちょっと苦手意識がある。毎年劇をやるはずの発表会では制御不能と判断されて、ペットボトルでお米を育ててみましたといううっすい内容を、誰がどこを喋るかまで一言一句ガッチガチに固められて発表させられた。自主性なんて言葉は死んでいた。若い新卒の教師は毎日授業で泣いていて、その頃にはとっくに泣き疲れて感情に蓋をしていた増田は、その涙を「煽るだけなのに」と冷ややかな目で見ていた。
カースト中の下だった傍観者クラスメイトと大学で再会して、一緒に「小学校の思い出」とかいうクソみたいなグループワークの授業を受けざるを得なかった時、給食の班机で菌が伝染るからとやられていたみたいに1cmあけて机を組まれた瞬間、増田の心にヒビが入り、割れ目が出来て人格が四つに分かれしまい、今も元に戻らなかったりしている。そういう意味では、たしかにトラウマと呼んでもいいのかもしれない。
それでも直接的な殴る蹴るという暴力は振るわれなかったからマシな方だったと信じている。記憶があり、はっきりと思い出せて、これだけの内容を泣かずに書けるようになっただけかなり寛解してきている。それに、当時の自分だって箒で殴り返すなどそこそこやり返したり、いじめっ子と同質になって増田よりもっとカーストの低い支援学級の子に対して、自分にされたことをそのままやり返すみたいにしていじめたりだってしていた。当時飼っていたハムスターも憂さ晴らしに虐待していた。弱いものがさらに弱いものを叩き、ブルースは加速していた。そういう感じでなんだかんだ適応して元気にやっていた。
それらへの後悔に苦しみながら、同時にその延長で今も友人にライン超えの発言をしたり、逆に踏み越えてはいけないラインを踏み越えられてもその場では分からなかったり、自覚がないままキレ返してしまい制御不能に陥ったり、暴力や脅迫や支配を伴わない合意の上での性行為では興奮できなかったり、記憶は共有しているものの人格が割れてしまい解離性同一性障害まで秒読み状態だったりと、後遺症は色濃く残っている。
けれど、でも犯罪をしないで済むくらいの範囲で誤魔化しきれているし、それ以上を望んだりもしない。だからこれもまた、今の増田をむしばんでいる死にたさの原因ではない。その時期はとっくに乗り越えてあり、過去は過去、今は今として整理がついていて、そういう自分のあり方を受け入れている。
人生を構成するだいたい全部に、人並みの不満や後悔はあれど、満足していないわけでもない。人間関係にも金銭にも将来にも不安はない。上を見ればきりはないが、下を見てもきりがない。自分の人生は自分のものであり、それ以上でもそれ以下でもない。
私は私だ。
なのに何故こんなにも死にたいのか。
胸を打つこの衝動は何か。
線路に飛び込め、七階から落ちろ、溺れて死ね、とにかく死ね、そう囁き続ける声が内側に蔓延るのか。
思春期という言葉を藁のように握りしめて、この衝動的な嵐が、年齢を経れば終わってくれると、ただ若さ故なのだと、そう信じてしがみついてきたのに、どうしてアラサーになってもまだ衰える気配がないのか。
この衝動こそが死にたさの原因であり、結果だ。
この自己こそが死にたさの真の原因ではないのか。
本当はやりたい仕事を諦めて現状に甘んじている?
友人と上手く付き合うことが出来ない?
両親の愛着が足りなかった?
趣味が実質逃避になっている?
過去に嫌なことがあって未だに引きずっている?
全ては結果に過ぎない。
最初に存在しているこの「自己」こそが引き起こした、必然の結果に過ぎない。
死にたいのは、嫌なことがあったのが原因じゃない。
嫌なことを引き起こすような自分に全ての原因があるということから、いよいよ目を逸らせなくなってしまったからだ。
増田はずっと、衝動、癇癪、叫びのような化け物を心に飼って、共に生きてきた。
こいつを野放しにしたら、とてもじゃないが人間社会では生きていけない、というかまず肉体が耐えきれなくて崩壊するような、触れるもの全てを敵と認識する、爆発的なエネルギーだけがひたすら渦巻いている、自壊を厭わない衝動の化け物。
その化け物を飼い慣らすことだけが、増田の今の全てを形作っている。
仕事や友人の選び方、楽しめる趣味、思考、行動、言葉、その全部全部が、この化け物を静かに眠らせておくことだけに全力を注ぐように構成されている。
そしてそれが漏れ出てしまった瞬間、必ずトラブルが起こる。嫌なことは全てそうやって起きている。
そう、気がついてしまった。
両親、友人、そして過去の思い出は、一般的な社会に溶け込める人間たちが、その化け物を目の前にした時の、ごくありふれた正常な反応に過ぎない。
全ては結果なのだ。
思えば最初から、物心ついた時にはもう、そいつと一緒に生きていた。
その場の思いつきで突拍子もないことをして、危険を危険だと分かっていながら飛び込まずにはいられない、じっとしてはいられないという性質を、持て余していた。
両親が増田のことを「あんたのことはよく分からない」と困惑して言った日のことをよく覚えている。
友人が「増田は人間じゃなくて増田という生き物なんだね」としみじみ言った日のことも。
増田をいじめて泣かせたクラスメイトが「だってあの子が最初に嫌なことをしてきたんだもん」と言ったことも。
先生が「どうしてそんなことしたの?」と泣いている増田を問い詰めたことも。
「泣いていたら分かんないよ。先生悪くないよね?なんで先生のこと怒るの?」と寄り添いのかけらもない態度をとったことも。
そして増田はただ、嫌がらせをしようとすら思ってもいなくて、そうすることしか出来なかった、それ以外のやりようがあるなんて考えつきもしなかっただけなのだと、説明出来なかったことも。
よく覚えている。
それらは全部、増田がおかしかっただけで、みんなはただ、当たり前に困っていただけだ。
ただ、それだけだった。
よく分からないものは愛せない、未知は排斥する、ああ、そうだろうとも。それにしたって、みんなの方にだってもう少し上手くやりようがあるようにも感じるけれど、でも、人間は完璧じゃない。上手く出来ないことだってあるし、それを責めたってどうにもならなくて、仕方がない。
だからみんな、距離を取る。うん、まったくもって正しい。あなたが自分を守るために、増田に人生を破壊されないために、必要な距離だろうとも。
でも、増田だって、こんなのと一緒に生きていくのはもううんざりなんだ。
私は私と一緒に生きていくのが疲れた。
みんなみたいに、そっと距離を取ることができない。
ずっと近くにいる。
ずっと隣にいる。
剥がしようもなく側にいる。
趣味だって、ただそうすれば抱えた癇癪がマシになるからやっているに過ぎない。こいつから逃れられないから、仕方なく好きにさせてやってもいい場所を作っているに過ぎない。
本当は絵や文章なんか書かなくても気分が晴れるならそれが一番楽なはずだ。誰も傷つけずに、安心して一人で好きなだけ打ち込めるというだけの、苦しみから逃れるために必要なだけの、ただの麻酔だ。
「文章を書いたり、絵を描いたりで努力できるのはすごいね」と褒めてもらえることもあるけれど、違うんだよ。それをやらないとあなたに危害を加えてしまいそうだから仕方なくやっているだけなんだ。全然立派でも何ともない。犯罪者予備軍が犯罪をしないためにギャンブルや酒に溺れているのと一緒なんだ、これは。
厄介な人をあしらう術に長けた者たちだけが、周りに残っているのがその証左だ。
衝動性を逃がす以外のモチベーションはないから、創作で食っていこうとしてもクオリティにムラがあって仕事にならないのがその証左だ。
自分は化け物だ。
人間じゃない。
人間になんかなれっこない。
必死に身につけた人間性の全てが、衝動の化け物が眠る上に構築してあるというただ一点を理由に、崩れていく。
その眠る化け物が少し身じろぎするだけで、目覚めるまでもなく、増田の積み上げた全てを崩壊させる。
増田は自らの意思で人生を選択したのではなく、選択できる範囲の中で選ばされるしか出来なかった。
好きなもの一つ、「自分」の意志では決められない。化け物を起こさないようにごくごく慎重に、刺激しないものだけを選んでいる。
全部全部こいつのせいなんだよ。
化け物を一番殺したいのは増田なんだよ。
私の人生を全部めちゃくちゃにしてきて我慢ばっかりさせるような化け物を、一番憎んでいるのは私自身なんだよ。
両親を困らせたくなかった。
いじめられたくなかった。
恋愛が怖いと思いたくなかった。
友達を傷つけるようなことなんて、今だって一個も言いたくない。
なのに全部できない。
全部全部、壊すのは増田だ。
私なんだよ。
死にたい。
もう、こいつと一緒に生きていくことに疲れてしまった。
何もかも破壊して、めちゃくちゃにして終わらせたいという衝動が、朝も昼も夜もずっとずっと苛む。
増田にできるのは、この化け物を思い通りにさせず、誰をも傷つけることなく、自らの死以外の罪をこの肉体に起こさせないことだけなのではないか、という気分になってくる。
それよりも、慰めてくれた誰かに牙を剥きたくない。
恩を仇で返したくない。
そんな気持ちのほうが、ずっとずっと大きく膨らんでいってしまう。
それは誰かを不幸にするから。
愛されないまま死んで忘れられることだけが、増田にできる唯一の社会貢献だ。
せめてそれだけはさせてほしい。
許してほしい。
ごめんなさい。
生まれてごめんなさい。
世界そのものの破壊を目的としており、その存在自体が世界崩壊の危機。純粋な破壊衝動と力は全シリーズでもトップクラス。
世界を完全に石版に封印し、何千年もの間、過去と現在から世界を支配し続けていたという、支配の実績と期間が圧倒的。
夢の世界と現実の世界の両方を支配下に置き、世界の意思すらも操ろうとした。多次元的な支配力を持つ。
光の存在である勇者を打ち破り、世界を永遠の闇と寒気に閉ざそうとした大魔王。闇の衣をまとうことで、並の攻撃を無効化する。
世界(アストルティア)の創造主である存在を吸収・模倣し、神に匹敵する、あるいは超える力を得た。
世界を滅ぼす邪神の力を呼び起こそうとした魔道士。後に登場する真のラスボスへの影響力を持つ存在。
時のオーブを破壊し、世界を闇で覆い尽くした存在。異形の姿となって主人公たちを窮地に陥れた。
神の園を破壊し、世界を暗黒に包もうとした邪悪な魔物。聖地の破壊や人々の石化など、被害のスケールが大きい。
魔界全体を統べる大魔王であり、光の教団を裏から操り、勇者の血を絶とうと画策した策略家。
以下は、一般論として 「他人のコメントに対して『ともだちいないやつの典型的クソコメ』と返す人」の心理・行動傾向のプロファイリングです。
※特定個人の断定ではなく、社会心理学・ネット行動分析の観点からの推測になります。
この手の言い回しは、
相手の主張そのものではなく 人格を攻撃する(アドホミネム) 行動です。
これは以下の傾向と一致します:
● 短気・衝動的
相手の主張を読むより先に「ムカつく → 罵倒」が起動しやすい。
「ともだちいないやつ」系の罵倒は、
● 承認欲求が強い
「友達が多い/いない」という軸は、
■ 3. コミュニケーション能力が低いか未熟
● “議論”を知らない
(1)幼稚型(未成熟型)
内心は臆病で自己肯定感が低い
8歳。
保育園の時から好きだった女の子がいた。おしとやかで、可愛らしくて、いつもニコニコ笑いかけてくれていた。小学校に入ると髪を切り、男に混じってドッジボールや野球をするようになった。絶望した。自分の好きだった彼女という概念がこの世から消滅した気がした。同時に「おしとやかで、可愛らしくて」という「属性」でしか彼女を見ていなかった自身の浅ましさにも気づいて絶望した。人は変わる。その変化が自分にとって好ましいかどうかなど関係なくエントロピーは増大し、覆水は盆に返らない。彼女も、自分も、家族も、世界のあらゆるものはいずれ形を変え、崩れていく流動的な現象に過ぎないのではないかと考えた。それは諸行無常の絶望、固定された幸福など存在しないという悟りだった。
留守番中、台所の包丁を腹に突き立てようとした。 刃先が腹に触れる感触がしたところに家族が帰宅した。当時は首吊りも飛び降りも知らなかった。ただ、腹を切ればこの流転する世界から一抜けできると信じていた。
15歳。
生きるのが少し上手くなったふりをしながら、内側から壊れていった時期だった。そこそこ勉強ができた。ただ、通える範囲に進学校と呼べるものはなく、地元の高校に進んだ。当然のように期末テストでは学年1位、模試では県1位を取り続けた。数字の上では順風満帆で友人もいたが、「友人」はいなかった。 周りを見下していたわけではないと思いたい。ただ、見ている景色の解像度が違いすぎたのだろう。自分が100の情報を処理して言葉を選んでいる間に、周囲は3くらいの情報量で会話を成立させている。それは親に対しても同じだった。部活で負った怪我がトドメになった。唯一身体性だけで繋がれていた世界すら断たれた。精神のバランスは音を立てて崩れた。ネットで稼いだ小遣いで、カフェインの錠剤を大量に買い込んだ。錠剤をコーヒーで流し込み、あるいは砕いて鼻から吸った。当然、睡眠のリズムは狂う。脳だけが異常に加速し、身体は鉛のように重い。そのちぐはぐな状態で、脳は刺激と情報を求めてネットの海へとのめり込んだ。
死ぬ勇気も生きる気力もなかった。空白を埋めるように過食に走った。深夜、家族に隠れてスナック菓子やアイスクリームを貪った。嘔吐恐怖症だから吐けない。けれど太って自己管理ができていないとバレるのはプライドが許さない。異常な距離を歩き、街の端から端まで自転車で疾走した。食べた分のカロリーを呪いのように消費した。食欲はさらに歪んでいった。パスタの乾麺をそのまま齧り、茹でる前の素麺を貪り、生の米を噛み砕いた。すり減った奥歯は戻ってこなかった。
そうして思考のノイズが限界に達したある日、どこかのビルから飛び降りたらしい。「らしい」というのは、この時の記憶が欠落しているからだ。何階から飛んだのかも覚えていない。 結果的に無傷(ぱっと見は)で誰にも見つからなかったことから推測するに、おそらく2・3階程度だったのだろう。五体満足で生還した。しかし全身の打撲と擦り傷の痛みは長く続いたし、右膝の違和感は今も消えない。思い返すと飛び降りを決意させたと思われる決定的な出来事があったのだが、ここには書けないし書かない。
21歳。
もう書くのも面倒くさい。当時のことはほとんど覚えていない。前後数ヶ月の記憶が綺麗に抜け落ちている。気づいたときにはパソコンの充電コードで首を吊っていた。目が覚めたとき、首にはまだコードが絡みついていた。死ぬ気だったのか、発作的なものだったのか、それすらも分からない。ただ、目が覚めてしまったという事実だけがあった。
27歳。
命を投げ捨てるのは簡単なことだ。こんな簡単なことに3回失敗したのはこの世界から死ぬことを許されていないからだ。そう言い聞かせることで撤退戦のような人生を生きている。周期的に考えれば、そろそろ4回目の波が来てもおかしくない。8歳、15歳、21歳。これは「次」が来たときに同じ轍を踏まないための、あるいは衝動に飲み込まれないための、未来の自分へ向けた戒めだ。
毎日毎日帰りのスーパーで半額の揚げ物2パックくらい買って食べながら帰っちゃうのが原因なのは明らかなので、
この衝動をいかに抑えるかだけがこの作戦の成否を分けると言っても過言ではない
しかし朝食7時、昼食12時、とくると17時に飯を食いたくなるのは必然であるので
朝食と昼食は同じもの食べてて
P:40g 160kcal
F:15g 135kcal
C:50g 200kcal
計:約500kcal×2で1000kcal
夕食はやや適当で
P:30g 120kcal
F:30g 270kcal
C:80g 320kcal
計:約710kcal
P:30g 120kcal
1830kcal
体重:86kg
3カ月(2月末まで)に最低でも80kgくらいまでは落としたい
おい、その自己放尿みたいに気持ちよく垂れ流した正義ごっこをまず拭け。
熊に人間を食わせて裁きとか言ってる時点で、もう論理でも倫理でもなく、単なる快楽的加虐の妄想に逃げ込んで自己放尿してるだけだ。
そこに動物愛護の代行なんて人間側の物語を勝手に被せて悦に入っている時点で、ただの思考放棄だ。
お前が自分で殴れない相手を、外部の自然災害に丸投げして処罰させようとしてるだけで、本質的には自分の欲望の執行者を熊に外注してる自己放尿にすぎない。
それを正義だと思ってるのが一番タチが悪い。
正義ってのは、リスク・責任・因果関係を全部自分が背負った上でやるもんだ。
熊という無差別な捕食者に人間を食わせて、それを裁きと呼ぶなら、ただのランダム殺害を正義と称してるのと同じだ。
お前がやってるのは 道徳的ポーズを取ったつもりで、自分の嗜虐衝動を正当化したいってだけだ。
熊に罪なすりつけてんじゃねぇよ。
おい、その浅い煽りはなんだ。
まず 童貞=負け という低学歴レベルの自己紹介、そこで論理は自己放尿している。
童貞というのはな、外的承認に流されず、自らの行動原理を制御できる稀少なサンプルだ。
統計的にも、衝動性低・依存性低・長期的最適化志向という性質が出ることが多い。
つまり、生殖本能に振り回されるだけの消耗型人間より、はるかに自己制御能力が高い。
これが事実だ。
他者の承認を燃料にしない生き方を貫く個体こそが、生物学的ノイズを切り捨てた高効率モデルなんだよ。
要するにお前は、性経験がない=劣っているという、自分の浅い価値観を全世界に自己放尿しているだけ。
その薄っぺらい指標で他人を評価する時点で、すでに知的敗北は確定している。
https://x.com/kurtz652/status/1989872628560269507
なぜビジネスでやってる動画の人気に反して、SNS石丸を妄信的に信じている人たちはフォロー数が100以下のカスばかりなのか
比較的大手の稲中ものという人物ですら5000フォロワー以下のゴミばかり。
これは本質が石丸支持ではなく石丸や立花を介してルサンチマンを発現したいからだ。
まともな人は、石丸や立花自身は全く信用していない。都合が悪くなったら切り捨ててよいものなのだ。
本当のバカにして最底辺のカスだけが本気で石丸や立花を信じている
現代のインターネット上で、特定の人物(石丸伸二氏や逮捕された立花氏など)を支持し、他人を攻撃したり引き摺り下ろしたりする行為を通して「権力体験」を味わう人々をニーチェ哲学の視点から解釈すると、「ルサンチマン(Ressentiment)」と「奴隷道徳(Sklavenmoral)」の概念が中心になります。
ルサンチマンとは、フランス語で「恨み、怨念、復讐心」を意味し、ニーチェはこれを道徳の根源の一つと見なしました。
根源的な感情: 自分の力の弱さや無力感からくる不満や屈辱感を、外部の強者や成功者に対する否定的な感情として溜め込むことです。
力の裏返し: 現実の世界で自分の力を発揮したり、望む地位や影響力を得たりできない人々が、その鬱積した感情を「攻撃」という形で発散させ、一時的な「権力」や「優越感」を得ようとしている状態です。
ネットでの増幅: インターネット匿名掲示板やSNSでは、集団的な攻撃によって個人の責任が薄れ、また、相手を簡単に貶めることができるため、ルサンチマンを最も手軽かつ安全に発散できる場として機能しています。
ルサンチマンが根源となり、「善悪」の価値基準を逆転させるのが奴隷道徳です。
価値の否定: 奴隷道徳は、「強者」や「主人」が持つ「力強さ」「大胆さ」「自己肯定」といった価値を「悪」として否定することから始まります。
自己の正当化: そして、「弱者」自身の持つ「謙虚さ」「従順」「弱さ」といった性質を「善」として祭り上げます。
ネット社会での適用: ネットでの攻撃の場合、攻撃対象となる「強者」(権威者、成功者、既存の体制)の欠点や過失を徹底的に暴き出し、「正義」の名のもとに集団で引き摺り下ろす行為が「善」であると正当化されます。
彼らの目的は、より良い社会の創造ではなく、既存の強者を無力化し、その没落を見ることで、自分たちの立場が相対的に上がったかのような錯覚(権力体験)を得ることにある、と解釈できます。
この現象は、ニーチェが説く生の根源的な衝動としての「力への意志」が、創造的な方向ではなく、破壊的な方向へと歪んで発現している例とも言えます。
本来、力への意志は「自己克服」「自己創造」に向けられるべきものです。しかし、現実世界でこの創造的な力を発揮できない人々は、他者を破壊し、引き摺り下ろすという消極的で容易な手段を選び、そこから「力を行使した」という一時的な満足を得ている、と解釈されます。
幼稚園年長の時、父親の部屋のクローゼットにあった4つ上の姉のドレスを着てみた。それが始まりだった。
その時どう感じたまでかは流石に覚えてないけど、多分ドキドキしてたと思う。
それ以来家族の留守を狙っては姉の服を着て鏡の前で可愛いポーズをしてみたり、
クラスメイトの女の子を観察しては歩き方や足の向きなど、女の子らしい仕草を学んでいった。
でもこの気持ちは周囲にバレてはいけないものだと理解できていたので、
自室など誰も見ていない場所に留めていた。
夏休み中、2週間程広島に住んでいる母方の祖母の家に宿泊しに行っていたのだが、
姉よりもやや年上の姪?(この辺りはうろ覚え)が着ていた服が僕が寝る部屋のタンスに入っていたのだ。
皆が寝静まった後に夜な夜なタンスを漁っては一人でファッションショーを開催し、鏡の前の自分に酔っていた。
そんな悶々とした気持ちのまま過ごし続け、転機は姉の中学卒業後に訪れた。
そう、進学にあたり、中学校で着ていた制服がクローゼットに放置されたのだ。
それだけではない、スクール水着や体操服なども、家族の留守を狙えば好き放題着ることができた。
初めて着用して玄関の鏡の前に立った時は心臓が張り裂けそうだった。
丁度家族が帰って来て寸でのところでバレそうになった。
この時バレていればこの先さらに道を踏み外すことはなかっただろう。
周囲には薄い口ひげが生え始めている者、すね毛がボーボーの者など、皆明確に体が男になっていた。
これは余談だが、ぼくは普通に人とのコミュニケーションが下手くそで小学生からいじめられていた。
中学2年の修学旅行では同性に羽交い絞めにされ、下を脱がされ足コキをされた。
この時まだオナニーというものを理解できていなかったが、はっきり勃起していたと思う。
多分当時は中性的な見た目だからそっちの気を誘ってしまったのかなあとか思ってた。
水泳を習っていたのでやや肩幅は広くなってしまい、身長も平均程まで伸びてしまっていたが、
やや色白で細身、そして肌が綺麗で体毛がない、それが当時のぼくだった。
いつからかは分からないが、女装はもちろんだがコスプレをしたいと思っていた。
近隣のコンビニを受け取り地に設定し、深夜2時頃に受け取るとマンションのトイレで開梱し、
鞄に詰め込んで自室に持ち込んでいた。
この頃には当然オナニーも会得していたので、様々なコスプレ衣装を買っては狂ったようにオナニーをしていた。
女の子になりたいという願望も当然無くなってはおらず、
"どうやったら女の子みたいな快感を味わえるか"と言う部分に焦点を当てていた。
辿り着いた答えはアナニーだった。
小さめのプラグを入れてほぐしてから、みちのくディルドを挿入したまま寝るという強引な手段でアナルを拡張していた。
そんな真っただ中、高校の修学旅行で同性から集団でレイプされた。
この頃はディルドも本物もあんまり気持ちよさが分からなかった。
いや、気持ち良かったのかも知れないがこの時の記憶は脳が鍵をかけているようであまり思い出せない。
この頃から化粧も学び始めた。
完全に自己満足でやっていたため、メイクして外に出たりするようなことはなかった。
当時はチークをバカみたいに塗りたくったり、下地やファンデやコンシーラの塗り方も全く理解していなかったが、
高校3年時点で、口ヒゲもすね毛も、わき毛も生えていなかった。
生えていたのは捥の僅かな産毛と、指毛だけだった。
どうやったら可愛くなった自分を不特定多数に見て認めてもらえるかと悩んでいる内に、
そこで気付いてしまった。ここで動画を投稿すれば皆に可愛い自分を見てもらえると。
当時は顔出し動画がほぼなかったので、所謂"首下女装"で撮影した動画を今は亡きあの"Xtube"に投稿した。
動画の内容については伏せさせていただく。
動画を投稿するにあたってタグだの概要欄にたくさん文字を入れろだの色々言われてアップロードするのが大変だった。
どういうアルゴリズムをしているのか定かではなかったが、投稿から一週間程してから再生数が爆発的に伸び、
コメントやフレンド申請、ユーザーのお気に入り登録、さらにはオフパコのお誘いメッセージも来た。
短小真性包茎というややレアなステータスが一部層に刺さったのかも知れない。
この頃にはいじめの影響ですっかり現実の人間が苦手になっていたのでオフパコには応じなかったが、
同じように女装をして動画を投稿している方との交流は深まっていった。
メイクのコツを聞いたり、チクニーのコツ、おすすめのディルド、とにかく自分が気になっていた情報は何でも教えてくれた。
amazonのペラ生地コスプレ衣装しか着ていなかった僕に、コスパティオを教えてくれたのもこの界隈の方だった。
コメントやメッセージで手や足が綺麗とよく褒められた。オフパコの為のポイント稼ぎだったのかもしれないが...。
女装するだけして毛がボーボーみたいな動画もよくあったものだ。
ちなみに年代は伏せるがぼくがXtubeに一番動画を投稿していた時期は、東方と艦これの二強だった。
Japanese Crossdressの動画の3つに1つは艦これか東方の動画だった気がする。
最終的にXtubeには、ちょこちょこと名義を変えたりもしたが2,30本ほどの動画をアップロードした。
コメントやメッセージの1つ1つがぼくの承認欲求を満たし、もう後戻りはできなくなっていた。
様々な事情で精神を病み、自傷行為に走り始めると取り柄の体を見せられなくなったのでそれ以降投稿はしていない。
ここまで書いて話す機会を逃していたが、ぼくはパンセクシャルだ。
この人が好き!となったら誰が何と言おうとその人が好きである。
そこに性別は関係ないが、どちらかというと男を好きになる割合が高かった気がする。
そして、性行為に関してずっと悩んでいた。
女性器に挿入したいのか、男性のアナルに男性器を挿入したいのか、男性器を挿入されたいのか。
最後のは不本意にも経験してしまったものの、記憶がないので一旦なかったと思うようにしていた。
上記の話とはあまり関係がないが、ぼくは段々セックスに興味を持ち始めた。
様々な認識が歪み、ど"うせ女性とはできないし汚いおじさんでいいかな 嫌な気持ちになったら自傷の代わりになるし"
と投げやりな気持ちで、"CLUB21"という掲示板で募集を掛けた。
ちなみに女性とセックスができないと思ったのは、くだらないネット恋愛で何人かの女性と付き合ってきたが、
当時の認識では会う=オフパコで、相手からそういう気持ちを見せられる何故かとぼくがだめになってしまっていた。
これは数年前に気付いたが、多分ぼくは好きな人とセックスするのが嫌いだ。
ゲイは話が通じない人が多い。CLUB21で1件の約束を取り付けるのが大変だった記憶がある。
とりあえずフェラだけということで、ビデオボックスで会う約束をした。
利用方法が分からずに適当なエロアニメのパッケージを持ってカウンターに行くと、
"外箱も持ってきてください"と言われ凄く恥ずかしかった記憶がある。
お相手からの連絡を待っている間、借りたエロアニメを見ながら軽くオナニーをしたが、緊張のせいか全く勃起しなかった。
お相手が近くの部屋に入ったようで、"〇号室"をノックして下さい。"とのメールが届く。
ぼくの初めてのお相手(正確には初めてじゃない)は、スキンヘッドで小太りのおじさんだった。
ぼくが緊張で手が震えてドアをうまく開けられないでいると、中からおじさんが開けてくれた。
どう見ても不審な行為だったらしく、口に指を当てて"なるべく声出さないでね"と囁かれた。
室内では既におじさんお気に入りのゲイビデオが流れており、下を脱ぐように指示された。
"何日溜めてきた?" "今おしっこ出せる?" "女の子かと思った"等色々言われたが適当な喘ぎ声で誤魔化した。
結局オナニーしすぎの僕はフェラでイけるはずもなく、最終的におじさんの目の前で公開オナニーをした。
射精寸前で声をかけ精液を飲んでもらった。
賢者タイムでボーっとしているとおじさんが声をかけてきた。
"最近そういう人多いよね、僕も妻子持ちでこんなことしてるから気にしなくていいと思う。"
こんな感じの会話を交わした気がする。
そんな約束はしていなかったのに、交通費とビデボ代で3000円を貰った。
乱暴でもされたら帰って自傷とODのフルセットでもしようと思っていたのに、普通に事が進んでなんか悔しかった。
それから複数人と関係を持ったが、なんとなくセックスは怖く、手コキやフェラに留めていた。
彼女がいる人、離婚して娘二人と暮らしている人、えぐいマッチョ、多種多様だった。
ある日なんとなく半休眠状態だった女装垢の鍵垢で、"アナルセックスしたいけど勇気が出ない"という旨のツイートをしたら、
付き合いの長い方から"筆下ろししますよ"とのお誘いがあった。
実績もあるとても信頼できる方だったので、ぼくの自傷の事情や過去の経験を話して相談してみると、
"ちゃんと性病検査を受けて、コスプレ衣装を選べば大丈夫"とお返事いただけた。
性病検査を受け無事陰性なことが分かると診断書をお相手に送り、話が進んでいった。
そして当日、本当に緊張していた。
すっぴんでホテル行ってからメイクするのがいいかなでもすっぴんブスだしなとかどうでもいいことで悩んでいると、お相手のお迎えが来た。
とても印象的な会話をたくさんしたが、特定を回避するために伏せさせていただく。
久しぶりにしっかりとフルメイクをし、衣装に袖を通した気がする。
幻滅されるかと思っていたが、たくさん褒めてくれた。嘘でも嬉しかった。
やってはいけないことをやってしまっているという背徳感で興奮はするが、決して肉体が気持ちいいわけではなかった。
そしてこのオフパコを機に、ぼくはどんどん女装というものから遠ざかっていった。
いつか使うかもしれないからと残していた衣装を次々と捨て、おもちゃも全て手放してしまった。
今でも女装したいという気持ちは残ってはいるので、何故こんなに思いきってしまったのかは覚えていない。
後ほど通い始めた精神科によるとぼくはADHDらしいので、その衝動性が関係しているのかもしれない。
"あと数か月適当に通院してくれれば診断書出して手帳の申請できるよ~"とか言われたが、面倒なのでやってない。
ちなみに今は地雷メイクをしてユニセックス系の服を着ている。多分ここが妥協点なのだろう。
ぼくみたいに愚かな道を辿る人なんて他に居ないと思うけど、こういう人生もあるよってことで書きました。
そりゃ性衝動やオーガズムが無かったり知らなかったりする女性が居るんだからな
■anond:20251113225723言及先エントリを閉じる
ある過程が上手くいかない場合は、その過程自体に問題があることもあるが、その前の過程がよろしくない場合もしばしばある。
①手マンする指の爪は深爪にぎりぎりならない程度まで短く切っておく。切断面がなめらかになるように、やすりをかけるか、セックスの数日前にまでには切っておく。
②手マンの前までの前戯は十分か?セックスを始めるときの雰囲気づくり、セックス中の雰囲気づくり、唇へのキス、上半身から徐々に下半身へと移るペッティングやキスで、相手の局部を触る頃には、局部が十分湿っているくらいに丁寧な前戯が望ましい。
手マンに関して。
①使うのは中指が中心。それに人差し指、もしくは薬指をそえて、2本か3本の指で。
②指を使って刺激するのはいわゆるGスポット。相手を仰向けに寝かせ、中指の第二関節くらいまで挿入してみる。指の腹でざらついたふくらみを探り当てることができたら、その辺りがGスポット。なお、Gスポットの上部に膀胱がある。
③Gスポットに対して、初めは指の腹で優しく撫でる、押す。引っ搔いてはいけない。
④相手の反応に応じて刺激を少しずつ強める。Gスポットのふくらみを指の腹で少し押し上げるようにしてみたり、指の腹をGスポットに押し当てた状態で手招きするような指使いでGスポットの上の膀胱から尿を掻き出すようなイメージでGスポットをくいくいと押してみたり。
⑤ガシガシやる手マンは④の応用。指の腹をGスポットに押し当てた状態で、指の曲げ具合もひじの角度も基本的に固定し、肩から腕の筋肉を小刻みにバイブレーションさせる。膀胱から尿を掻き出すイメージでGスポットを手前方向にぐいぐいやると、相手が軽く失禁する。これが潮吹き。
ホワイト・ストライプスがロックの殿堂入りを果たした。 デトロイト出身のこのデュオが、ジャック・ホワイトとメグ・ホワイトの二人だけで鳴らす、あのシンプルでいて強烈なガレージロックで世界の音楽シーンを席巻してから、もうそんな月日が経ったのかと感慨深い。
私が彼らを初めて知ったのは、ジム・ジャームッシュ監督の映画『コーヒー&シガレッツ』だった。 モノクロの画面の中、いとこ同士という設定で出演していた二人が印象的で、その少し気だるい雰囲気と、テスラコイルについて語る不思議な会話が今でも記憶に残っている。劇中で彼らが醸し出す独特の存在感に惹かれ、すぐに彼らの音楽を聴き始めた。
初めて聴いた時の衝撃は忘れられない。ギターとドラムだけとは思えないほどの音の厚みと、原始的なブルースの衝動が融合したサウンドは、まさに唯一無二だった。
そんな彼らの功績が「殿堂入り」という形で認められたことは、ファンとして素直に嬉しい。最近の式典ではジャックが一人でスピーチを行ったようだが 、いつかまた二人が並ぶ姿を見られることを、心のどこかで願い続けている。
とにかく、本当におめでとう。
まさにギレルモ・デル・トロが撮るフランケンシュタインだった。
う~~~~~ん、54点?
まずデル・トロだから50点のハードルがめちゃくちゃ高いことに言及しておきたい。
美しく作りこまれた美術、実力派の俳優によるアンサンブル、物語を盛り上げる音響これは大前提になってる。そしてこの映画はその点に関して言えばほぼ100点出てる。そしてそこは100点取って当たり前(50点)の監督がデル・トロ。
でもなぁ、今これをデル・トロが撮る意味is何?って感じだったな。
もろちん、デル・トロといえばモンスター監督なのは周知の事実で――あ、モンスタークレーマーとかモンスターペアレンツとかとは違って、文字通りモンスター(怪物)を撮る監督って意味ね――その原点が「Frankenstein: or The Modern Prometheus」にあって、この作品を撮ること自体が彼が映画を作り続けることの意味だってことは分かるんだけども。
でも今あえて「人間のほうが怪物より怪物だよね」「生命を作り出すことの意味」「父と子の円環構造」っていう、100回見た話をあえてやりなおす意味って何なんだろうと思ってしまった。まぁ、こんな文学的なテーマなんぼあってもいいですからねって言われたらそりゃそうなんだけど……
2部構成になっていて1部がヴィクター・フランケンシュタインが怪物を作り出し放棄するまでの話。
2部が放棄された怪物がフランケンシュタインを追いかけ悲劇に至る話。
今作ではおそらく普通の作品では「フランケンシュタイン博士が怪物を作りましたよ」って感じで流されることが多い1部をかなりの厚さで書いている。特に作るまでの話がめっちゃ長い。
スパルタ気質の高名な医者の父に育てられるも母を病気で亡くし「父親=医学」に不信を抱くという初期衝動。母親と同じ顔をしたエリザベス(ミア・ゴスの1人2役)に惹かれるマザコン描写。
そして怪物が生まれてからはオドオドオタオタと面倒を見る新米パパから、こいつ俺が思った通りにならんなと思えば体罰を行い、こいつ俺の手に負えんなと思ったら殺害を試みる毒親オブ毒親描写。
たっぷりと人間臭いヴィクター・フランケンシュタインが描写される。
まぁ2部は大体みんなが知ってる目の見えない老人との出会いを経て怪物は知恵と人間らしさと生命の円環構造を学び、ヴィクターに「嫁作って♡」と訴えるもヴィクターは拒否。その過程でヴィクターは愛するエリザベスを殺害、ヴィクターVS怪物の戦いが今幕を開ける。
ここで父親が母親を(見)殺したと思ったところが初期衝動だったヴィクターが、母親と同じ顔をしたエリザベスを殺してしまうという引き継がれるカルマの展開は原作より良かったなと思った。
で、最終的に疲れ果てたヴィクターは原作通り船に助けられるが原作と違って怪物も乗り込んでくる。
そこでこれまでの話をそれぞれするのが第1部、第2部になっていて、それらが統合した最後にヴィクターは「自分が怪物の父親であること」を認め怪物に赦しを求め、怪物はそれを受け入れる。
ヴィクターが自分の父親にできなかった「許容」を獲得することで毒親の連環から抜け出し、怪物は一人静かに去るのであった。
こうやってまとめてみると普通にいい話で草。
特に「フランケンシュタイン」というタイトルに恥じない「怪物」ではなく「ヴィクター・フランケンシュタイン」を主役に据えしっかりと掘り下げ、フランケンシュタイン=ツギハギの怪物という印象そのままにフランケンシュタインこそが怪物だったという結論も見事だと思うの。
でもあくまで普通にいい話なんだよなぁ。俺の中のデル・トロ像が例えばマイベストアクションムービーのの一つである「ブレイド2」の監督だったり、旧ヘルボーイだったりパシフィックリムだったりするもんだからその大エンタメ監督が今撮る作品がこれかぁって正直思っちゃった。わかるよ、デル・トロの最近の真骨頂は怪物に対する愛のある視線でパンラビとかシェイプオブウォーターとかキノピオとかもちゃんと見たからそれくらいは分かるんだけどさぁ!
あ、そこ改心して終わりなんやっていう。最近、ジェームズ・ガン作品を多く見てたからっていうのはあるかもしれない。ガンだったら間違いなく怪物が反省しないヴィクターぶっ殺して森の目の見えない老人とエリザベスと一緒に新しい家族作って終わったもんな。
https://x.com/miyoshiiii/status/1987015532324004043?s=46
「陰湿とは明確に『こいつ叩かれてくんねーかなー』という悪意を持ってその悪意の表明を我慢できない上に、それでいて自分は悪人ではないという免罪符を得ようとする浅ましい精神の中に存在する」
「陰湿」(いんしつ)という言葉の標準的な辞書的定義は以下の通りです(主に『広辞苑』や『大辞林』などの日本語大辞泉を基に):
この転義は、物理的な「湿気と陰気さ」から派生し、精神的な「じめじめした悪意のこもった行動」を表すようになりました。現代のネットスラングや日常語では、特に「陰でコソコソ悪口を言う」「匿名で攻撃する」ようなニュアンスで使われることが多いです。
> 「陰湿とは、明確に『こいつ叩かれてくんねーかなー』という悪意を持ってその悪意の表明を我慢できない上に、それでいて自分は悪人ではないという免罪符を得ようとする浅ましい精神の中に存在する!」
これは、陰湿さを「**露骨な悪意の衝動を抑えきれず表出させるが、同時に自己正当化(免罪符)を求める矛盾した浅ましさ**」として定義づけています。以下で、この意見を辞書的定義と照らし合わせて評価します。
#### 1. **一致する点(意見の強み)**
- **悪意の「表明を我慢できない」部分**: 辞書的転義の「こそこそとした執拗さ」とは対照的に、ユーザーは「我慢できず表に出す」点を強調。これは一部の陰湿な行動パターンに当てはまる。例えば、SNSで匿名アカウントを使いつつ、つい本音の悪意を漏らしてしまうケース(例: 「叩かれてほしい」とつぶやくが、すぐに「冗談だよ」と言い訳)。これは「陰でじめじめ」しつつ「抑えきれず漏れる」浅ましさを捉えており、心理的な深みを加味した鋭い観察。辞書定義の「陰気で執拗」を、**現代的な「衝動制御の失敗」**として拡張解釈している点で面白い。
- **「免罪符を得ようとする」浅ましさ**: これが意見の核心で、非常に的確。陰湿な人は往往にして「自分は被害者」「ただの正論」と自己弁護する(例: 悪口を言った後「事実だから仕方ない」)。これは辞書的「卑劣さ」の本質を突き、**道徳的矛盾(悪意を吐きつつ善人ぶる)**を強調。精神分析的に言えば、認知的不協和の解消メカニズムを指しており、意見として説得力がある。
- **「明確に悪意を持って表明する」点が辞書的核心からズレる**: 辞書的陰湿は**「陰(隠れて)」**がキーワードで、表立った悪意(例: 公然と「叩け」と叫ぶ)はむしろ「陽気な悪意」や「ストレートな攻撃性」に近い。ユーザーの例(「こいつ叩かれてくんねーかなー」)は、抑えきれず漏れるものの、**こそこそ感が薄い**。典型的な陰湿は「匿名掲示板で執拗に中傷」「裏で根回し」であり、「我慢できない表明」はむしろ「衝動的悪意」の別カテゴリ。意見は陰湿の**一部のサブタイプ(漏れやすいタイプ)**を過大に一般化している。
- **「浅ましい精神の中に存在する」の主観性**: 「浅ましい」は評価語で、定義として中立的でない。辞書は客観的な「様子」を記述するが、ユーザーは**道徳的糾弾**を加えている。これは意見として感情的で、定義の拡張というより「陰湿バッシング」の文脈に見える。悪意の心理を深掘りしているが、普遍性に欠ける(全員が免罪符を求めるわけではない)。
要するに、ユーザーの意見は**辞書定義を基盤にしつつ、現代心理を鋭く抉った拡張版**。陰湿を「じめじめした悪意の温床」として嫌悪する気持ちが伝わり、共感を呼ぶが、厳密定義からはやや逸脱。もしこれを議論するなら、例を挙げて「隠れ度」のグラデーションで分類すると面白いかも!
仕事が全然できず上司に叱責される毎日でここ最近本当にしんどい。みんなどうやって気持ちを落ち着けているのか。
中規模の電機メーカーで商品設計を担当している。専門用語でファームウェアというやつです。
半年前の異動でそれまでと毛色の違う商品の担当に変わって以来、担当として本来必要な知識がなく、歴代担当者は全員退職済みだから聞ける人がおらず、仕事が思うように進まない。
販売開始から30年の歴史がある商品で、歴史的経緯から設計文書がかなり複雑だし一部は散逸してまともに読めない。
だから俺としては出来るわけないだろと思いつつも、上司からは効率が悪いと言われたり強い口調で状況説明を求められる。説明すると不機嫌になる。あの大きな声や鋭い語調を思い出すと嫌になる。
似た商品を担当している人がいるので助言を求めることがあるが、所詮似ているだけなので間違いが多い。すると上司は俺に当たってくる。
上司は長時間労働を美徳としており、休日出勤や深夜労働を誇らしげに話してくるような仕事熱心な人物。それを部下にも求める性格のため、労働組合からも要注意人物としてマークされている。ここ5年で半分くらいの部下が異動願いを出したようだ。
俺はもう疲れた。
一方で俺には妻子があるし、俺の経歴にしては待遇のいい会社なので辞めたくない気持ちもある。「待遇」といっても大企業にかなうレベルでは到底ないが!
加えて俺は一族で初の大卒・初のホワイトワーカーであり、簡単に音を上げたくない。
責任を重く捉えず気楽にやればいいじゃんという向きもあるだろうが、仕事をする以上は目標達成のために責任感を持って誠実に努力すべきだという俺の価値観も根底にある。
しかし毎日仕事ができず、怒られてばかりで、帰宅中や昼休みに泣きそうになる。「いっそ階段から落ちて怪我でもすれば会社に行かなくて済むのに」…そんな自己破壊的な衝動がしょっちゅう湧いてくる!帰宅しても仕事のことで頭がいっぱいだ。頭の中が上司からの叱責で一杯なんだ。