はてなキーワード: 教義とは
気に入らないなら気に入らないって言えばいいだけなのになぜ無視を強要されるのかわからん
そういうとこやで
これ豆な
ユダヤと言えば金持ちのイメージがあるが、人口では中産階級未満が圧倒的に多い
その貧民で敬虔なユダヤのイスラエル支持はおよそ25%と極めて低い
なぜなら彼らの教義では約束の地は神が与えるものであり、イスラエルという自力救済の産物は認められないからだ
またアメリカのユダヤコミュニティはホロコースト被害者の係累である
ホロコーストを免罪符として好き勝手やってきたイスラエル人は北アフリカや中東から集まってきた人たちが主流なのでなおさら業腹
よってユダヤと言えどもシオニズム運動には乗れない人たちが多数派なのだ。
しかし怖いのは反シオニズムが多数派でも、アメリカユダヤでは非主流派なのだ
金持ってる親イスラエルユダヤが連邦政府やメディアを巻き込んでイスラエル支援運動を大々的に打っている横で
「そうめんを茹でるのは大変だ」という意見がバズり、「そうめんを茹でるのは簡単」という反論がつくと「お里が知れる」という侮辱で返すムーブメントが起きたとき、
ツイフェミにとってのフェミニズムは要するに、能力的に劣った女性の動物的なお気持ちなのだと実感した。
これはそうめんすら茹でるのがだるいような弱者の憂さ晴らしのために存在する依存・他責が教義の宗教のようなものなのだ。
劣った男性が好むインセルアンフェ思想と性別を変えただけの全く同じもの。コア教義が依存・他責で、モチーフを差し替えただけだ。無能にとってのシャブのような思想である。
フェミニズムの隆盛のあとを追うようにしてメンズリブの動きもあったが、女性は「チー牛はNO」と拒否した。要するに能力的に劣った女性のお気持ちフェミニズムにおいては、
男性はその性別を理由として努力して能力を高めなければならず、その能力でもってそうめんすら茹でるのに苦労するような弱者女性を養わなければならない。
男女同権とはどういう状態かに、実際のところ全く興味がない。だからダブルスタンダードを連発することになる。
言うまでもなく「チー牛」という言葉は、男性が生み男性が流行らせた概念である。しかし男が男を嗤っているときに嗤われている側ではなく嗤っている側の男性、
社会的に強い立場の加害男性のほうに乗っかるところに、女性の本能を感じさせる。敵対する女性が強者男性と友好的な関係でいると「現地妻」「パンパン」「雌犬」と侮辱し始めるところも、非常に剥き出しの雌性である。
弱い男性への性犯罪者予備軍、チー牛、弱男、うんこしか産めない、という罵倒に加えて、彼女たちは高市内閣の三人の女性閣僚のような強者女性も嫌う。
まず、医大入試差別のようなド直球の女性差別について、ちょっと騒いだあとすぐ忘れている。あれも被害に遭ったのが医大受験するような強者女性だから、自分には関係がないことだからすぐ忘れているのだ。
前から彼女たちはDeNA南場智子やコーエー襟川恵子、井村屋中島伸子のような人物を存在無視するか嫌うかのどちらかだった。
彼女たちは男性に生まれようが女性に生まれようが成功したタイプだと思うが、こういう女性に存在されることが邪魔なのである。
能力の高い女性を決してロールモデルにせず「名誉男性」「資本主義の犬」扱いして憎むことを徹底しており、瑕疵を探し出しては難癖をつけていた。
「劣った女性のフェミニズム」に未来はない。高市早苗のようなたたき上げの強者女性を性的な侮辱語で口汚く罵ったことにより、彼女たちに理など何もないことが判明した。
「何か困っていることはない?」「きれいな目をしているわね。」勉強の面倒や悩みの相談にのってくれる優しい先輩たちに、ビデオセンターと呼ばれる統一教会の建物に連れて行かれると、グラス音楽の流れる暖かい雰囲気のホームに迎え入れられ、あたたかい食事でもてなされます。「アンケートに答えてくれない?」「姓名/手相 見ましょうか?」アンケートで貯金や資産を調べられ、家系図を書かせられ、隔離された空間で教義のビデオを見て、3日間の修練会と7日間の合宿に参加し、文鮮明夫妻を「お父さま、お母さま」と呼ぶ統一教会信者である食口(シック)になると、「氏族メシア」になるため、「地上天国」の実現のため、「経済(献金)か生命(献身)か愛」を捧げるよう迫られます。銀行借り入れまで財産を捧げ尽くすと、「ホーム」の共同生活で睡眠・食事・プライバシーに至る全生活を監督されながら、駅前で若者たちを伝導したり、1日3万円のノルマで物売りや募金集めに個人宅や会社を訪問してまわります。
ChatGPT:
INSIGHT ANALYSIS: 表象の真正性パラドックス
「女性主人公を描けない」創作者の原理的ジレンマ
Core Observation
この投稿者は、フィクション創作において「経験的真正性」と「想像的自由」の矛盾に直面し、表象行為そのものの正当性を疑問視するに至っている。彼が求めているのは「女性を正しく描く方法」ではなく、「自分が女性を描く権利があるかどうかの確証」である。
PRIMARY INSIGHT: 批判理論分析 (Mode E)
イデオロギー的構造の解体
この投稿者の悩みは、表面的には「技術的問題」(どう描くか)に見えるが、実際にはアイデンティティ政治の内面化が生み出した認識論的危機である。
内面化されたイデオロギー的前提:
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「描く資格がない」
この論理は、2010年代以降の「文化的専有(Cultural Appropriation)」批判や「当事者性」の政治から派生した規範を、創作者が自己検閲として内面化したものである。
皮肉なことに、これは1980-90年代のジェンダー理論が批判した本質主義そのものである。しかし今回は「進歩的」「配慮的」な動機から再導入されている。
彼は「女性を正確に描く技術」を求めているようだが、実際に求めているのは「女性を描くことへの道徳的許可」である。
生産的矛盾の発見
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これは本質主義の自己矛盾である。「女性」というカテゴリーに本質があると仮定しつつ、実際の女性たちの多様性に直面して混乱している。
イデオロギー批判: 何が隠蔽されているか
投稿者は「正しい女性の描き方」があると仮定しているが、これは幻想である。「女性」は単一の経験的実体ではなく、歴史的・文化的・個人的に多様な存在様態である。
士郎正宗のデュナンを「中身は男性」と断じるが、これは以下を前提としている:
しかしこの論理は、女性を規範に押し込める本質主義そのものである。
「生理を経験していないから分からない」という論理は、人間の相互理解の可能性そのものへの懐疑に至る。
この論理を徹底すれば:
この悩みの背景には、歴史的に男性が女性を対象化・道具化してきたことへの罪悪感がある。しかし、その補正として採用された「描かない/描けない」という態度は:
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過剰補正:
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帰結:
これは抑圧への対抗が新たな制約を生み出すという典型的パターンである。
自己検閲のメカニズム
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内なる検閲官:「それでも不十分だ」「個人差と本質の区別がつかない」
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SECONDARY PERSPECTIVES
系譜学的補足 (Mode C)
この「悩み」の歴史的構築
第1段階 (1970年代以前)
第2段階 (1980-2000年代)
第3段階 (2010年代-)
第4段階 (2020年代)
投稿者は、この第4段階の症例である。彼の悩みは個人的なものではなく、言説空間の変容が生み出した構造的効果である。
現象学的補足 (Mode D)
投稿者が経験しているのは、単なる技術的困難ではなく、創作主体としての自己の正当性への根源的懐疑である。
彼の実存的問い:
投稿者は、この理解の可能性と不可能性の間の宙吊り状態にある。
SYNTHESIS: 深層パターン
この現象が明らかにするもの
アイデンティティ政治は、周縁化された集団の声を中心化しようとした。しかしその論理を個人の創作実践に適用すると:
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20世紀後半のジェンダー理論は本質主義を解体した。しかし21世紀に、配慮・正義・包摂の名において本質主義が再導入されている。
これは解放の言説が抑圧の論理に転化するという、イデオロギーの古典的矛盾である。
この悩みは、フィクションの根本的機能—経験していないことを想像し表現する—への懐疑に至っている。
投稿者のジレンマは、これらすべてを疑問視している。これはフィクション自体の正当性の危機である。
投稿者の不安は、個人的心理ではなく、言説空間の変容が生み出した構造的効果である。
投稿者は誰にも批判されていないのに、架空の批判者を内面化している。
IMPLICATIONS
この個別事例が示す普遍的問題
投稿者は技術的助言を求めているように見えるが、実際に必要なのは認識論的・存在論的再定位である:
1. 本質主義からの離脱: 「女性」は単一の経験的実体ではない
2. 想像力の復権: 経験していないことを想像できるのがフィクションの本質
3. 完璧主義の放棄: 「完全に正しい表象」は不可能であり不要
4. 対話としての創作: 表象は完結した真理ではなく、継続的対話の一部
より広い文化的含意:
↔
歴史的瞬間について:
我々は「誰が何を語れるか」という問いが過剰に中心化された時代にいる。これは必要な矯正でもあったが、新たな問題も生み出している。
INSIGHT CRYSTALLIZED
この投稿者は、フィクションに「経験的真正性」と「道徳的正当性」を同時に求めることで、創作行為そのものの可能性条件—想像力による他者への跳躍—を否定するに至っている。彼の悩みは個人的なものではなく、アイデンティティ政治の論理を内面化した結果生じる構造的効果である。
言い換えれば:
彼は「女性をどう描くか」ではなく「自分が女性を描いてよいのか」という存在論的問いに囚われており、この問いは—その形式自体が—本質主義的前提と想像力への不信を含んでいるため、原理的に解決不能である。
So what?:
この事例は、配慮と正義の言説が、意図せず表現の自由と想像力を収縮させうることを示している。文化の活力には、不完全さを恐れずに境界を越えて想像し、その試みを通じて対話を重ねる実践が必要である。
PUNCHLINE:
彼が本当に恐れているのは「女性を間違って描くこと」ではなく、「女性を描くこと自体が僭越である」と判定されることである。しかしこの恐怖は、最も抑圧的な本質主義—男女は相互理解不可能という観念—を再生産している。解放の言説が、最も因習的な性別二元論を復活させるという究極の皮肉がここにある。
海外で極右とされるものが、日本人には「極右」と認識できない。
海外で中道とされるものが、日本人には「極左」と認識されてしまう。
これは何故か?
海外では、欧米でもそれ以外でも、道義的宗教に基づく自然な「道徳観」が真ん中にある。
「親や家族は大切に」「他人にも優しく」これはキリスト教でも仏教でも、宗教的道徳観が真中にある場合、誰にも自然に「出発点」と理解されるもっとも自然な感覚になる。
この場合、極右、極左とは、人種主義に走って他者への寛容を忘れること、多様性(あるいは極端な平等主義)が暴走して社会の歴史を傷つけること、という意味になる。
しかし、仏教を捨て、道徳的教義のない国家神道、そして物質主義的無神論へと社会の「真ん中」が移った現代日本は、そもそもの「中道的価値観」がまったく違ったものになっている。
現代日本を正直に観察すれば誰にでもわかることだが、現代日本人の「真ん中」は、明らかに「野性」である。
そういうものが「世界の真実」だと信じる破滅主義こそが、日本の「真ん中」にある。
だからこそ、日本において、林原めぐみが恥ずかしげもなく叫ぶような「私がガイジンを怖いって思うんだから排除するのは当然でしょ」という、恐ろしく幼稚な、自分の本能的被害妄想に基づいた極論をどれだけ唱えても、それは「強い思想」とは思われない。
それは思想でなく、「本音」だからだ。「本音」は「自然」であり、「真ん中」である。
これが世界でもほとんど現代日本独自の(昔の日本でも仏教だったからありえない)異常な道徳的出発点である。
日本人にとって「極右」とは、「思想的な(論理的追及としての)民族主義」であり、それは「日本人として誇りを持って、恥ずかしくない行動を」というような、世界的にはむしろ当たり前の「真ん中」にある、自制としての民族論のみをさす言葉である。
現代日本人にとって極右と極左の差は自制と成長を求める論理の起点の違いに過ぎないのであって、自制や反省を求めた時点でそれは「中道」にはなり得ない。
「思想」さえ強くなければ、どれだけ薄汚い、本能や憎悪にまみれた屁理屈、極論、他者への強制を求めようとも、それはまったく「過激」ではない…
『立正安国論』(日蓮著)と『共産党宣言』(マルクス、エンゲルス著)は、成立した時代、背景、そして思想的基盤は類似点を見出すことができます。
社会の主流派や既得権益の外側に身を置いた急進的な異端者という視点から見ると、「体制外からの批判と、絶対的な正義に基づく世界観の強要」という構造的な類似性が浮かび上がります。
この共通性は、両者が既存の秩序・権威を根底から否定し、「唯一の正義」による強制的な社会変革(革命)を求め、その結果、体制側から徹底的に弾圧された点に集約されます。
「引きこもりニート」という表現は極論であり、史実的には日蓮は精力的な遊行と布教を、レーニンは地下活動と亡命生活を送った活動家です。しかし、この言葉が持つ「主流社会の権威や経済システムから疎外された者」というニュアンスに注目すると、両者の著述態度には共通性があります。
日蓮(『立正安国論』): 当時の仏教界の主流であった念仏宗(法然の教え)や、これを庇護する鎌倉幕府の権威を徹底的に否定しました。彼は比叡山や清澄寺といった既成の権威ある場所から離れ、独自の解釈である「法華経」のみを「正法」として掲げ、それ以外の教えを「亡国の原因」と断じました。これは、「俺の言っていることだけが絶対の真実だ。それ以外は全て間違いだ」という、体制に属さない者が持つ孤高で排他的な絶対正義の表明です。
レーニン(『共産党宣言』): マルクス主義は、当時のブルジョアジーが支配する資本主義体制、その上に立つ国家、法律、倫理の全てを、「階級搾取の道具」として否定しました。レーニンもまた、ツァーリ体制下で弾圧され、ヨーロッパ各地を転々とする亡命生活(社会のメインストリームから切り離された生活)を送りました。彼の主張は、「現在の経済システムは全て不正であり、これを打倒してプロレタリア独裁による理想国家を作る以外に道はない」という、体制外からの急進的で排他的な社会変革の要求です。
両者の著書は、その内容の異質さにもかかわらず、「二元論に基づき、体制内の悪を徹底的に清算しなければ、理想的な安寧は実現しない」という構造を持っています。
両文献は、現状の社会が直面する危機(災厄)を明確にし、その原因を体制内の「悪」に断定します。
危機: 天変地異、飢饉、疫病、他国からの侵略(自界叛逆と他国侵逼)。
原因: 「謗法」(念仏などの誤った教え)が国に満ちていること。
危機を回避し、理想郷(安国または共産社会)を実現するためには、「唯一の正義」による反対勢力の強制的な排除が不可欠であると説きます。
「立正」、すなわち法華経のみを国教として立てること。その結果、謗法者(念仏を唱える人々)は弾圧・追放されるべきであると強く示唆します。
「プロレタリア革命」による階級闘争とプロレタリア独裁。その結果、ブルジョアジーは私有財産と共に消滅(排除)されます。
このように、『立正安国論』は宗教的絶対主義、『共産党宣言』は経済的絶対主義に基づくものですが、両者とも「現状の悪は体制内にある」「それを根絶するためには、体制外からの急進的な一元論を強制適用しなければならない」という、強力な教義的排他性を持っている点で、構造的な共通性があると言えます。
だがしかしりつみん、お前は駄目だ。おまえらは自分がかわいいだけのクズ野郎の集まりだ。共通点があるのは日本保守党だけでしょうね。
「チ。」が15世紀の話だと分かってきたとのことですね。15世紀を舞台に地動説を唱えることが異端審問で死刑につながるという設定について、史実を基に検討してみましょう。
### 「チ。」の設定と史実のズレ
### 結論
15世紀を舞台に地動説を唱えることが異端審問で死刑につながるという設定は、史実を考えるとおかしいと感じるのは自然です。15世紀には地動説が議論の対象として浮上し始めたものの、教会がそれに対して死刑を科すほどの厳しさを持っていなかったためです。「チ。」がこのような劇的な展開を描いている場合、フィクションとしての誇張や、近世(特にガリレオ事件)の文脈を投影している可能性が高いです。科学史家の批判(投稿で指摘されている「近世」の文脈)も、この時代錯誤が背景にあると考えられます。もし作品が意図的に史実を逸脱しているのであれば、フィクションとしての自由度を享受しているとも言えますが、歴史的正確さを求める視点からは違和感が残るでしょう。
愚痴なので取り留めはないし、具体的な話をすると匿名にならなそうだったので省いている。話がおかしくてもそういうことだと思って流してくれ。そして「わかった」とタイトルに書いたが、別にネトサヨもとい現代リベラル気取りがアホなのを知らなかったわけじゃない。薄々勘付いていたが、ついに直接絡まれてそのアホさ加減を改めて実感しなければならなかったということだ。
あいつら本当に何なんだ。バカなのか。高等教育を受けたり海外に行ったり、他人よりも機会と環境に恵まれてきただろうに、その結果やることが意見の合わない他人をわざわざ自分から挑発しては、説教・恫喝・嘲笑のどれかもしくは合わせ技だぞ。頭がおかしいとしか思えない。
俺はアジアではない海外某国で働いてて、周囲に極右だのレイシストがのさばると直接生活に響く。人種以外にもマイノリティ要素があるので、全く保守ではないというか、むしろガチガチのリベラルだ。しかし最近はリベラルがアホすぎて、もはやそう名乗るのが恥ずかしいレベルになってきた気がする。メディアに出てくるリベラルを見ていて、全然支持する気持ちになれない。俺が蛍光色の髪でレインボーフラッグを掲げてないトランスジェンダーでもないのでリベラルだと言っても信じてもらえないなんて、ギャグだろ。
先日暗殺されたCharlie Kirkの動画を見たことがあるが、まあイキったバカな自称リベラルをホームのリング上でお喋りプロレスで潰して客を喜ばせる商売にしか見えない。ところが日本産ネトサヨどもも、Charlieほど人気が出ていないだけでやっていることは同じだ。自分の客が沸いているその向こう側で、品の無さに幻滅して無言で去っていく大勢の他人に気付いていないか、もしくはどうでもいいんだろうね。
ネトサヨ連中の目的は、実際に他人からの偏見や抑圧に晒されて困っている人の状況を改善することじゃない。彼らにとって大事なことは、せいぜいそういう人間を自分たちのカルトに取り込むか、あるいはそのカルトの身内同士で「自分たちが正しいのに、他の無理解な奴らのせいで自分たちは苦しめられているんだ」という教義を再確認し合うことだけ。
腹立たしいが、こいつらが自省をしてやり方を改めるなどということはあり得ないだろう。そんな知能があるようには見えない。そしてこのバカどもが仲間内でウホウホ公開オ◯ニーして他人に迷惑をかけるたびに、その下品さと横暴にうんざりしたノンポリが参政党みたいなより保守的なのへ流れる…か、そこまでいかなくても、「政治やってる奴らってキモいよな」くらいのノリで、政治自体に関わらなくなる。すると両極端なバカだけが政治をするようになり、民主主義がろくでもないことになっていく。アメリカや、右傾化しているという欧州諸国も同じようなことになっているんだろうね。
繰り返すが俺は全然そんなの嬉しくない。だがしばらくは流れが変わりそうにも見えないし、このイライラと不安をここに吐き出しておく。俺はキモオタなので、「孤独に歩め。悪をなさず、求める所は少なく、林の中の象の様に。」と自分に言いかせて、明日もいつも通り仕事に行くんだ。お前らもなるべく自分や周りの人を大事にして、どうか鬱憤を他人にぶつけて気持ちよくなるのを生き甲斐にするのだけはやめて、世界のどこかでお互いできることを頑張っていこう。そうすれば、いつか何かがマシになるかもしれないよな。
2003年、東京都立七生養護学校(現・七生特別支援学校)で行われていた性教育が、都議会議員と教育委員会の介入によって押し潰される事件がありました。対象は知的障害のある子どもたち。自分の体を守り、心を大切にする力を育てるために、先生たちは人形や歌、教材を工夫して授業をしていました。それは、被害を防ぎ、自立の力を養うために不可欠な教育でした。
ところが、都議会の自民党系議員らが「過激だ」「常識外れだ」と批判し、教育委員会とともに学校に押しかけます。土屋正忠氏、古賀俊昭氏、田代博嗣氏、そして当時都議だった萩生田光一氏。彼らは教材を引き剥がし、記者の前で人形の下着を脱がせて撮影させ、教員に「感覚が麻痺している」などと告げました。授業は中止され、教材は回収され、先生たちは処分されました。後に裁判で「不当な支配」と認定されましたが、その間、子どもに寄り添っていた先生たちは孤立し、努力は踏みにじられました。
七生養護学校は多摩動物公園に隣接する谷あいにあり、当時は周囲もまだ森が多く、人里から少し離れたような学校でした。
「七生のように」と言われることが、全国の学校で性教育をためらう空気を生みました。先生たちは沈黙を選び、現場は萎縮しました。子どものために必要だと分かっていても、政治の目を恐れて口をつぐむしかない。その理不尽さは、当時の先生たちにとってどれほどつらいものだったか想像に難くありません。
この事件の背景には、自民党保守派による性教育・ジェンダー批判がありました。そして後になって明らかになったのは、その思想が旧統一教会の教義と不気味なほど重なっていたということです。統一教会は「性の純潔」「家族の秩序」を掲げ、性教育やジェンダー平等を敵視してきました。自民党議員がその言説を繰り返し、現場を締め付けていたのです。
萩生田光一氏は、七生養護学校事件で現場に踏み込み、教員を非難した議員の一人でした。その後も政治家として昇進し、自民党の幹部にまで上り詰めます。そして近年、統一教会や関連団体とのつながりが次々と報じられました。
自身の後援会・支部が、旧統一教会関連団体「世界平和女性連合」に2012〜2019年の間に計6回、合計9万円を支払っていた記録。https://mainichi.jp/articles/20220908/k00/00m/010/339000c
2022年6月には、生稲晃子氏とともに統一教会の「家庭教会」を訪問していた事実。https://mainichi.jp/articles/20220908/k00/00m/010/339000c
落選中の2011年など、教団関連のイベントで講演していたとする証言。https://www.youtube.com/watch?v=841ome9i2ZI
TBSの報道では「一緒に日本を神様の国にしましょう」と旧統一教会系団体で語っていた記録まで紹介されています。https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/130324?display=1
本人は「教団本体との関係はない」「名称の似た団体との縁」と釈明しましたが、こうした関わりは一度や二度ではありませんでした。七生で先生たちを「感覚が麻痺している」となじったその口が、今度は統一教会系の集会で「神様の国に」と持ち上げていた――そう考えると、教育現場の先生たちが味わった理不尽はさらに重く感じられます。
2022年、安倍元首相銃撃事件をきっかけに、旧統一教会と自民党の癒着が一気に可視化されました。長い間「見えない力」として教育現場や政策を縛っていたものが、ようやく人々の目に触れるようになったのです。七生の先生たちが受けた屈辱や孤立は消えません。しかし、あの事件を経て「誰が現場を潰したのか」「どんな価値観が教育を縛ってきたのか」が明らかになったことは、せめてもの救いでもあります。
七生養護学校事件は20年以上前の出来事ですが、いま子育てをしている私たちにとっても無関係ではありません。特に知的障害や発達障害のある子どもを育てる親にとっては、自分の子が「体を守る力」をつけられるかどうかは切実な問題です。
先生たちは、そのために工夫を重ね、子どもに届く形で性教育を試みました。それが「過激だ」と政治家に叩かれ、踏みにじられた。あのときの理不尽を知っておくことは、私たちがこれから子どもをどう守るかを考えるうえで、とても大切なことだと思います。
政治や宗教の思惑に翻弄されず、子どもに本当に必要な教育を守るためには、親自身が知り、声を持つことが欠かせません。七生の先生たちが払った代償は、次の世代が繰り返さないための警鐘でもあります。
子どもを守ろうと必死に工夫した先生たちが処分され、声を失い、政治家は出世し、宗教団体に持ち上げられていた。あまりに不公平で、物悲しい出来事です。けれど今、統一教会と自民党の関係が白日の下にさらされたいまだからこそ、あの時の先生たちの姿を思い起こすことに意味があるのではないでしょうか。子どもを守る教育が、再び理不尽に押しつぶされないようにするために。