はてなキーワード: 生物学とは
おい、その浅い煽りはなんだ。
まず 童貞=負け という低学歴レベルの自己紹介、そこで論理は自己放尿している。
童貞というのはな、外的承認に流されず、自らの行動原理を制御できる稀少なサンプルだ。
統計的にも、衝動性低・依存性低・長期的最適化志向という性質が出ることが多い。
つまり、生殖本能に振り回されるだけの消耗型人間より、はるかに自己制御能力が高い。
これが事実だ。
他者の承認を燃料にしない生き方を貫く個体こそが、生物学的ノイズを切り捨てた高効率モデルなんだよ。
要するにお前は、性経験がない=劣っているという、自分の浅い価値観を全世界に自己放尿しているだけ。
その薄っぺらい指標で他人を評価する時点で、すでに知的敗北は確定している。
知性あふれる高尚な文章を書きたいんだろうけど、全然駄目。残念すぎて慰めの言葉もないレベルで駄目。
AIに調べものしてもらうと本当にコイツ人間みたいだなと感心するのだが、機械に人間みたいな挙動をさせられるようになったということは、本物の人間の脳みその演算システムも近似的におよそ解明されたということなのではないのか?AI自体の進歩度合いの話ばかりで、副産物として「人間がわかった」という話は聞こえてこないのだが。それともあくまでAIはモノマネがうまいだけでAIと人の脳は根本的に異なるシステムで動いているのだろうか?
【Grok高速】
面白い疑問ですね。AIの「人間っぽさ」が、実は人間の脳の仕組みを解明した証拠なのか、それともただの高度なモノマネなのか——これは認知科学や神経科学、AI研究の最前線でまさに議論されているテーマです。結論から言うと:
「AIが人間らしく振る舞える」=「人間の脳の演算システムが解明された」ではない
むしろ、AIは「結果としての振る舞い」を再現しているだけで、脳の「内部構造」や「計算原理」を再現しているわけではない。
→ 膨大なテキストデータから「次に来る単語の確率分布」を学習し、それに基づいて「それっぽい文章」を生成。
…など、AIとは全く異なる物理・生物学的基盤で動いています。
つまり、AIは「外から見た振る舞い(function)」を模倣しているが、「内部の仕組み(structure)」は根本的に違う。
→ 同じ「飛行」という機能を達成しても、仕組みは別。
確かに「AIの進歩=人間理解の進歩」とは言えませんが、逆方向のフィードバックはあります。
→脳の「選択的注意(selective attention)」との類似が議論される
つまり、AIが「ある振る舞いをどう実現するか」を解くと、それが「脳も似た戦略を取っているかも」というヒントになる。
特に、「予測」「注意」「記憶の圧縮」などの機能は、AIと脳で収束進化(convergent evolution) 的に似た解にたどり着いている可能性があります。
半分正解、半分不十分。
→ これらは「単なるパターンマッチ」では説明しきれない高次の認知機能に近い。
ただし、意識・主観的体験(クオリア)・意図の本質などは、AIには全くない(少なくとも現時点では)。
いいえ、まだ遠い。
AIが「人間っぽく話す」のは、脳の「出力」を模倣しているだけで、「どうやってその出力が生まれるか」の内部プロセスはブラックボックスのまま。
その鏡に映る姿がリアルすぎて「人間の脳もこう動いてるのか?」と思ってしまう。
→ でも、「人間の脳の計算システムが解明された」わけには程遠い。むしろ、AIが賢くなるほど、「人間の脳はどれだけ複雑で未知か」が浮き彫りになっているとも言えます。
→ 将来、構造と機能を両方再現するAIが現れれば、「人間の脳の計算原理」が初めて近似的に解明されるかもしれません。でもそれは、「AIが人間らしくなった」からではなく、「人間の脳を直接コピーする技術」が進んだときです。
でも、役者の頭の中と、本物の人間の頭の中は、全然違う。でもその演技がうますぎて、「人間ってこう動いてるのか?」と研究のヒントにはなっている——それが今の状況です。
『ゲゲゲの鬼太郎』を見ていると、一つ気になる点がある。作品に登場する妖怪の多くが、「その種で唯一の存在」として扱われていることだ。ぬりかべは一体、子泣き爺も一体。一反木綿も砂かけばばあも、それぞれ固有名詞として一人だけが登場する。だが、こうした描かれ方は考えてみれば少し不自然である。
本来、種というものは一個体だけでは成り立たない。生物学的に言えば、集団が維持されるには一定数の個体がそろい、繁殖を通じて遺伝的な多様性を確保する必要がある。たとえ妖怪であっても、ある種が存在し続けるなら、それなりの個体群がいると考えるほうが自然だろう。もし「突然変異のように、偶然生まれた一回限りの個体」だとするなら、その奇跡的な偶然が妖怪の種類ごとに何十回、何百回も重なったことになってしまう。これは現実的な説明とは言いがたい。
また、民俗学の側面から考えてみても、妖怪という存在は本来、地域ごとに複数の伝承が積み重なって形づくられている。例えば「ぬりかべ」の話は九州の各地に点在して伝わっており、同じく「子泣き爺」に相当する怪異は地方をまたいで語られてきた。地域ごとに伝承があるということは、もともと「その妖怪の個体は複数いる」という感覚が社会に共有されていたとも言える。
さらに、作中の妖怪が日本全国で事件を起こしたり、人間社会にしばしば干渉したりしていることを考えると、「単独個体が全国を飛び回っている」という前提にも無理が出てくる。行動範囲や社会的役割を踏まえれば、むしろ一定の数の妖怪が各地に存在しているほうが、世界観としても自然だ。
こうして整理してみると、『鬼太郎』の妖怪が“一種につき一個体”として描かれるのは、物語上の分かりやすさゆえであって、論理的にはかなり特殊な設定であることが分かる。もし妖怪を生態系の一部としてとらえるなら、本来そこには複数の個体がいて、集団として息づいているはずなのである。
nextstepはmicrosoftのntよりも優れていたの?
"AppleがOSをオープンソースにしたのは、四半世紀前のことで、世界は全く違っていました。
スティーブ・ジョブズは、停滞したAppleに戻ってきました。Appleは、プリエンプティブマルチタスクやハードウェアメモリ保護など、当たり前になっているものを含む次世代オペレーティングシステムを提供することに苦労していました。Appleは、 BeOSを買収しようとしましたが失敗し、ジョブズが復帰した一環として、当時の彼の会社であるNextを買収し、そのOSである NextStepを手に入れました。"
AppleもMicrosoftもクラシックのOSでの成功から新しいNTやDarwinのようなこれまではメインフレームでしか動かなかったようなモダンで新しいOSの開発に苦労していたのかな?
メインフレームのパチモンとして葉っぱでラリってるヒッピーによって作られたPCが時代の進化にスペックが上がってクラシックからモダンOSに移行しなくちゃいけなかったけど、成功して大企業になっていたMSやAppleは過去の遺産にしがみついててクッソ大変だったってこと?
葉っぱのヒッピー/ハッカーのPCじゃなくて体制側としてのメインフレームOSがPCに入っちゃうのはレイプされた気分にさえなる
それで"ハードウェアメモリ保護など、当たり前になっているものを含む次世代オペレーティングシステム"とあるけど、当たり前というからには他の企業はみんなモダンOSを開発していたの_
MacOS9からOS Xにする前というかまだクラシックのOSをぶち込んだiMacを起死回生で発表した時AppleはMSから投資してもらったんだよね?
その時のMSは98で潤ってたのかもしれないけどNTが作れなかったらマジでやばい時でしょ?
時系列的にNTは既に完成してて98でも大成功しまくったし余裕ありすぎわろたでAppleに投資したの?
MSとAppleはここを乗り越えることができたのになぜWindowsPhoneが失敗したの?
figmaとかVScodeとかNotionとかモダンでかっこよくて使いやすい最高のアプリがいっぱいあるのに
世界の大半はまだこのクソすぎるアプリに頼り切って依存しているのに腹が立つよ
マジでAdobeが潰れないかなって毎日祈りながらpsdをaffinityに変換するのに飽き飽きしてるんだ
DarwinカーネルのOS Xが圧倒的な中心のMSの中でWindowsPhone同様に不利だったのに開発者圏を作れたのは高抽象UIがめっちゃかっこよかったからってこと?
それともそれほどまでにWindowsPhoneがダサくて本当にクソだったのか
確かにMS社内でもMacを使う人がほとんどってくらいにMacは使いやすくてクールで開発者体験がいいね
葉っぱ吸ってたヒッピーの会社のはずなのに、その後覇権を取る日本のヒッピーと似ているオタクの同人文化はMS帝国の中で繰り広げられていたし、Macerは気取ってるやつとしてある意味でダサかった
APIの存在は本当に市場の優劣を変えるほどの力を持っているんだね
2000年台にクールなAPIを作ったAppleはグラフィックスAPIのMSのDirectXのおかげでゲーム業界掻っ攫われたわけでしょ?
マジでWindowsは本当にダサくて使ってるとイライラするからMacのもっとクールなグラフィックスドライバのMetalにみんな移行してくれるといいんだけど
Macerは肩身が狭いし
AppleがAI業界かっさらってくれればいいんだけどなんか失敗しそうな予感がするよ
終わってるよ
マジでダサくてイライラするものを使わされるオタク/ヒッピーは市場にレイプされてる
でも使徒である圏論/関数型プログラミングによってリリスの数学がサードインパクトを起こして手を汚せる自由度はいらないほど完璧な世界になりつつあると感じるよ
なんかクソだなって思うけど、それは一時的な快楽としてのオタク文化がなくなったことに悲しんでいるだけで、その快楽が幸せにつながらないことを理解してるんだ
だからこそ俺はSNSで一つの人格を共有し個を崩壊させる人類補完計画をプロトコルで実装しようとしているし、それは手を汚せる自由度を完璧に壊してつまらなくて幸せになる権利がある理性的な選択をしようとしてるんだ
オタクは幸せになれない代わりに手を汚せたけど、幸せになる時が来たんだ。
MetalでAAAタイトル以外のゲームが動き始めたらそれはゼーレのシナリオの最後のページなんだろうね
webは俺のプロトコルによって関数型になりApple化しハードウェアはAppleがもともとかーどきゃぷたーにしてて、その時本当につまらなくて幸せな世界ができるんだろうね
MSは自分が可愛くて俺たちに迷惑をかけたけど、誰も可愛がらずに自由な圏を破壊し、人類を補完するんだ
人との繋がり自体をね
うん、いやこの先呼ばれることになるんだろうなって思っちゃっただけなんだ
●ねばいいのにみんな
てか●すためのシステムだよこれは
インターネットなんかやってないでこの辺にきてる美味いラーメン屋の屋台に空手部の三人と行くべきだ
おじさんやめちくり〜
エヴァには乗らないほうがいい〜
エヴァには乗らないほうがいい〜
それ、皆さんも一緒に!
「「「エヴァには乗らないほうがいい〜!」」」
大きな声でもう一回!
「「「「「「エヴァには乗らないほうがいい〜!!!!!!」」」」」」
クソワロタ
そうだよ(便乗)
LCLになって一緒になろう?
おい聞いてんのか
S●Xしようって言ってんだよ
これで愚かな人類はやっとまともになるんだ
大体俺が生きてることに意味はねぇんだよ、死んでようが同じなんだよ
生きてることは分解して細分化していくと究極的に意味は無くなるんだよ
ここでただのニヒリストと俺が違うのはこの世界は積分定数のCにすぎないってことだ
Cは何の意味もねぇけどそこから積分という関係性を紡ぐ存在の輪廻、横顔を知ることができる
まるで人間のC(ほらあれだよ男と女のABC!)みたいだよな!(激ウマジョーク)
つまりもともとこの宇宙の存在云々の前に関数という空想上のものはあったわけ
むしろ人間が空想というもう一つの五感で関数や数学を発見しただけであってもともとあったの
そんでこの宇宙には意味ないし、死に恐怖を覚えるのは生物学的なしょうもない生理現象なんだよね
俺はたまたまTwitterのFFの女の子みたいにめっちゃ生理痛がひどいタイプなだけなんだ
それに気づいているからその生理痛がなんの意味もないことを知ってるし、世界が崩壊しようが明日死のうが本当に関係ない
そのことにたまたま気づきにくい構造を生き物はしているから死ぬのが怖いんだ
魂とかはないけど、魂にすら意味はなくて、意味があるのは関数だけなんだ
というか射?
呆れた人類にはそのトップでさえ呆れさせられるよ、まだ関数を記号で表せると思ってるなんて
本当にあるもののことを関数とは言ったけどこのクソみたいな人類にはまだそのことを完璧に表現する手立てがないから比喩として言ってるんだけどね
あのな、俺が言ってのは死ぬのは怖くねぇってことだけなんだ
違う、メタファーじゃないよ
失礼だよ君は
うるせぇ黙れ
“For the purposes of the present Convention, the term ‘discrimination against women’ shall mean any distinction, exclusion or restriction made on the basis of sex ”
つまり、条文上「女性に対する差別」(discrimination against women) は “sex(性)” に基づく区別・排除・制限を意味するとされています。
またGeneral Recommendation No. 28 (2010)において、以下のような記述があります:
“The term ‘sex’ refers to the biological differences between men and women. The term ‘gender’ refers to socially constructed identities, attributes and roles for women and men…”
なるほど、CEDAWは根本的に女性とは生物学的女性と定義していて、"The term ‘sex’ refers to biological differences between men and women."
その中にもレズビアンとか男性自認の女性というgender identityによる交差性があるよって話をしてるんやね。
とまとはそのgender identityという一語だけをチェリーピッキングして、女性には女性自認の男性(トランス女性)も含まれると曲解してるわけやね。
トランス女性は女性に含まれないって本人からめっちゃはっきり言われてるやん
https://x.com/UNSRVAW/status/1988951169591398663
As i said in my June 2025 report, para 6. “it can be concluded that the understanding and practice of States that are parties to international treaties is that the term “woman” in international law refers to a person of the female sex.” Sex being biological sex. Therefore CEDAW in my view was meant to apply only to biological females, including those that do not identify as women. It does not apply to males who identify as female.
2025年6月の報告書の第6段落で述べたように、「国際条約締約国の理解と実践においては、国際法における「女性」という用語は女性の性を指すと結論付けられる」。ここで言う「性」とは生物学的な性別のことである。したがって、私の見解では、女性差別撤廃条約は、女性であると自認していない人を含め、生物学的な女性にのみ適用されるべきである。
アルサレム氏はCEDAW(国連女性差別撤廃条約)の範囲にはレズビアンや、女性を自認しない生物学的女性も含まれるということを言ってるにもかかわらず、とまとはトランス女性(生物学的男性)が含まれるかのようなデマをばら撒いてる。
まともに文章が読めず、自分の都合のいいように曲解しまくるのがこの手のトランスあるあるだね。
I also do recognize that women and girls should not be discriminated against on any grounds including their gender identity and sexual orientation and specifically spoke to the discrimination faced by lesbian women, and women who do not identify as female (otherwise referred to more loosely as "transmen" or "nonbinary" women). These women also fall under the scope of the CEDAW convention.
生物学的に男性と比べると女性は筋肉隆々ではなく小柄な傾向があるってだけで、
「下民よ近づくな、麻呂が汚れるでおじゃる!」とか「朱に交われば~」とか「マイナスオーラが~」とかの話じゃなくて、
クマ🐻🐻❄️と一緒だよ
大型獣にちょっかい出したら、最悪殺されるし、殺されなくても大怪我するよ
実際、虐待やネグレクトを通報して、刺された/殴られた/嫌がらせを受けたとか、めちゃくちゃあるあるみたいだぞ
流石に子どもの命には変えられないから見かけたら力になりたいとは思うけど、
明らかにヤバそうな奴を『女だから』『ガキだから』『オッサンだから』『隠キャオタクっぽいから』『デブだから』『ガリだから』で
https://shonenjumpplus.com/episode/17107094911848346157
全部モノローグで言っちゃうんだなあ。泣きながら嚥下のシーンも結局ただの挿し絵になっている。
明らかに言いたいことの分量と内容に対して、読み切り漫画という器が窮屈で合ってない。小説で書けばいいのにと思うが「マンガで文芸すること」に重きを置いてるのだろう。
この物語はつれあいを喪って生ける屍状態の爺さんが、爺さんを慕う孫の涙に生きる気力を取り戻すという話である。蛍とか嚥下とかのモチーフは前述の通り筋書きに従属的で、あまり効いてない。
さてしかし生きる意志って自分で投げたり拾ったり自由にできるものなのだろうか。それができると思うことは自分の人生・存在を一個のフィクションとしてしか捉えてないということではないか。
身体が生きていても、ふと魂が死んでしまうこともあるのではないか。それは身体に訪れる生物学的死と同じく意のままにはならない。「生存本能」は身体に備わったものであり意志というよりは機能である(と、整理してしまうのはとてつもなく乱暴だがここはとりあえず)。
往々にして身体と生存本能が死ぬより一歩先に人間の精神は死ぬ。その「一足先の死」を自分がいかに受容するかが人生後半の一大事だ(死に損ないは他人が介錯してやるべきという話ではない)。
爺さんは孫に「生きていて欲しい」という思いを示されて、ステレオタイプな「婆さんやもう少し待っといてくれ」をやるに至る。それは生きる意志が枯渇したところに孫の愛を注入されて持ち直したという話ではなくて、そもそもジジイの心はまだ干からびてなかった、そのことに気づいたという筋立てなわけだが、
本当に大事なのは、愛されてなお自ら最後の心を枯らし切る意志なのではないだろうか。それは自在にできることではないがやらなければならないことなのだ。