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2025-04-28

X1過去現在未来徳間書店テクノポリス」1987 年 8 月号掲載

X1過去現在未来を知りたければ、開発者に聞くのが1番! そこでシャープ株式会社電子機器事業部第4商品企画部の鳥居部長お話をうかがった。この鳥居さんこそ X1/turbo、そして X68000 の産みの親なのだ

X1 について

 クリーンコンピュータにしておいてよかったなあと今になって思います。当時はテープトロトロして見えたけど、フロッピー時代になってみると、クリーンコンピュータがいいに決まってますね。だから結果論ですけど、ふりかえってみますと、そういうクリーンコンピュータ思想しかり、スーパーインポーズしかり、テレビが映ることしかり、けして間違ってなかったなあとわれわれ思いますね。

 今でも現行機種として生きていられるのは、そういう思想と先を見た先取りのおかげでね。グラフィックも当時としては強化してあるし、PCG も積んであるし。将来考えられることを想定して、先取りして、ちょっと早いけど入れて作ったのがよかったんですね。X68000 だって将来考えられることがいま全部入っているわけですが。

X1C について

 X1マニアタイプを発売させていただいて、それから 11 ヵ月後に C と D というかっこうになりました。当時、マニアタイプディスプレイ本体と G-RAM で、ちょうど 30 万円だったんですね。それで、もう少し安く買っていただけるようにしないと、どなたにでも手軽に使っていただけるようにはならんだろうと考えまして。で、マニアタイプマニアタイプで置いておいて、安い C を作ろうやないかということでやらしていただきました。

 それで、当時は一体型がはやっていたんですね。FM-7それから PC-8001 がありましたんでね。それじゃあ、われわれのほうもコンパクトにして、一体型のものをやろうじゃないかと考えました。

 そのときの苦労いうたら、やっぱりどうやって目標とする手頃な値段に落としていくかいうのが一番しんどかったですけどね。それとともにやはり、マニアタイプの約 1 年後に出すんだから技術進歩に合わせてバージョンを上げたらどうだとか、いろんな付加価値を付けたらどうかという話もあったんです。そういう話をおさえてソフトフルコンパチというのがいか大事かというのを周囲に納得してもらうのに非常に骨がおれましたね。ここで X1ソフトフルコンパチ路線が決まったというのが、実態ですね。

 APPLE が――当時 APPLE Ⅱでしたけど――あれもずーっとソフトコンパチブルで来てましたな。よし、X1日本APPLE にしようじゃないか、というふうな考え方でやってきたんですよね。

X1D について

 それともうひとつ、あのときプロフェッショナルタイプといったと思うんですが、X1D。やっぱりフロッピーディスクというのはこれからの主流になってくるだろうから、やらなければいかんだろうと。ただ、家庭で使うから 5 インチペラペラフロッピーじゃダメだろうと。開発当時は 3.5 インチがなかったんですよね、まだ。だからやむをえず 3 インチを選んだというのが実情なんですね。

X1Cs、Ck について

 X1C、D と F の間にひとつX1Cs と Ck が入ってまして、これは X1C とほぼ同じものなんだけど、拡張 I/O ポートを付けたことと、それから漢字 ROM を積んだこと、それが違いなんですね。

 ちょっと早い登場だったんだけど、X1C を作るときに値段をみなさん方の期待に近づけるために、I/O ポートをとっちゃって、そのかわりプリンタが入るようにしてあったんですね。ところがどうもプリンタより拡張スロットのほうがいいみたいだということで、ここでちょっと切り換えたんですね。

X1turbo について

 最初は 200 ラインパソコンでやってましたけど、このあたりからパソコンワープロができるぞ、ということがかなり現実的になってきたわけですね。そういうふうなことから考えて、200 ラインのでかい漢字出してたらあかんぜと。普通ワープロ――当時高かったけど――くらいの文字で、品位がよいものを作らなけりゃいかんぜというふうなことで、400 ラインのもので、しか漢字テキストで扱えるもの、それこそ日本人のパソコンだと、そういう考え方ですね。そういう考え方から turbo の基本思想は生まれてるんです。400 ラインしますと、グラフィックも強力に、細かくできますしね。

 だから turbo の一番の特徴は、やっぱり日本人として日本語が自由に使える 8 ビットパソコンということですね。

X1F について

 X1F で本格的に 5 インチフロッピーを 1 基内蔵しましてね。でも 2 基は付けられるようにしとかないと使いものにならんと、そういう意味で 2 基は付けられるような配慮をして作ったということなんですけどね。1 基付を出している関係で、ワープロなんかも 1 基で使えるようなソフトも出てきましたね。

X1turboⅡ、Ⅲについて

 やっぱり一番難しいのは、コストをどれだけダウンしてみなさんによろこんで買っていただける値段にするかというところなんですね。ハードメーカーとして、コストダウンにはたいへんな努力をしているんですけどね。それと、コストダウンをしても機能は上げていかないといかんという両方をうまくバランスとらんといかんですからね。

X1G について

 X1G はできるだけコンパクトにしたかったんですね。そこで最小の寸法で試作して、ディスプレイを上に置いてみたら、ディスプレイのほうが大きいわけですな。よし、タテ置きを考えようやという話になりましてね。横にも置けるし縦にも置けるというのがいいに決まってますし、やっぱり省スペースも考えられますし。

 ずんぐりむっくりやと最初はいわれたんですけど、やっぱり慣れていただくと小さいほうがいいですな。

X1turbo Z について

 X1 turbo Z の特徴は、FM 音源 8 和音を中へとりいれたということ。映像アナログ化、多色化をやったこと。現在ハードウエアのアーキテクチャとかコンパチビリティがくずれない範囲でうまく 4096 色を出そうという新しい試みをやったこと。それからアナログ映像をそのままリアルタイムにとりこんで加工ができるカラーイメージユニット、そういうものを全部中に入れたことです。turboときにすでにデジタルテロッパーも中に入れてあったから、これですべての周辺が中にとりこめましたね。

 しかマウスを標準で装備し、FM 音源入れたしグラフィックも強化したからそのツールソフトウエアとしてちゃんと同梱したというふうなことですね。こういうふうな、集大成をした商品にしたつもりです。だから、ぼくらが今考えるところでは、一応 8 ビットではこれで充分じゃないですかね。そりゃあ、もっといろんなことをやれるでしょうけど、やっぱりアーキテクチャスッキリさしておかなきゃいけませんし、使いやすパソコンでなかったらいけませんからね。

 そういう意味で、ある程度完成された品物だなあと思ってまして、で、“Z”ってつけたんですけどね。

X68000 について

 X1 シリーズとのコンパチビリティという点では、16 ビットは“とんだ”んですよ、わざと。8 ビットソフトをひっぱっていったって、16 ビットを買う意味がないもの。やっぱりとばないと。それも中途半端なとび方じゃなくて、ブワンと。それがかえってよかったんじゃないですかね、結果的には。

これからX1 について

 そこがちょっと答えにくいところですね。今年の年末になったらわかるんじゃないでしょうか。どちらかといったら X1 シリーズ全体は強化の方向にあるでしょうね。それとやっぱり、できるだけ手頃な値段にという……。それはやはりメーカーであるかぎり宿命ですわな。

2024-09-25

anond:20240924185654

FM-77 を富士通は「セブンセブン」と読ませたんじゃ…

ださい。ものすごく。

でも買ったの。20万円だったかな…

大学入学新幹線上京して東京駅から秋葉原行ってツクモで買ったぉ…

40年前かよ…

なにもかも皆、懐かしい。

2021-11-15

マイコンの話しようぜ!

FM-7とか、PC-8801とか、X1とか。

俺は親がFM-NEW7買ったのが初めてのマイコンだったが、今考えると変わった親だよな。

2021-10-27

anond:20211026193844

ハードの性能だけに目が行ってるようだが、この手のガジェットキモアプリだろ

1機種でのシェアで圧倒的=安定してアプリ供給されるiPhone環境から乗り換える気はないね

最初に買ったPCFM-7に負けたPC8001mkⅡ

次に買ったPCが3.5DDなんぞ積んでたために98の潤沢なソフト資産埒外だったおっさんが得た一生の教訓だよ

2020-12-15

懐古に浸る

MZ-2000FM-7PC-8001 mk2 だのの80年代マイコン」の広告画像ネット検索したりしている。思い出すI/Oカラーページのインク匂いマイコン誌の厚み、Oh!Mz のペラペラ具合。クリーンコンピュータと称して、起動のたびにカセットテープからBASICを読み込む仕組み。昔ベーマガゲーム投稿して、「明日プログラマ」コーナーに名前が載ったこと。こんな非生産的なことに時間を費やす人生折り返し地点。

2020-10-16

懐古に浸る

MZ-2000FM-7PC-8001 mk2 だのの80年代マイコン」の広告画像ネット検索したりしている。思い出すI/Oカラーページのインク匂いマイコン誌の厚み、Oh!Mz のペラペラ具合。クリーンコンピュータと称して、起動のたびにカセットテープからBASICを読み込む仕組み。昔ベーマガゲーム投稿して、「明日プログラマ」コーナーに名前が載ったこと。こんな非生産的なことに時間を費やす人生折り返し地点。

2018-04-08

anond:20180408113715

何の言語か知らんが、昔もそういう言語はあったぞ。

富士通製のBASICであるF-BASICは、FM-8からどんどん拡張して行った結果、FM-77AV40の頃にはリファレンスマニュアル辞書みたいになってた。

もちろん、マニュアル別売り

2009-05-13

http://anond.hatelabo.jp/20090513123408

そういう最新ゲームを作っているのは、

PC-8001 やら FM-7 やらの時代からマシン語を直接入力してゲーム作成を覚え

今はゲーム作りを生業としている労害世代やその教え子・部下だ。

ガタガタぬかすゲームなんざ取り上げちまうぞ!

2008-11-14

衰退していくIT業界に向けて、30半ばシステムエンジニアが昔の思い出を語るよ 0011

第0001回:衰退していくIT業界に向けて、30半ばシステムエンジニアが昔の思い出を語るよ 0001

第0010回:衰退していくIT業界に向けて、30半ばシステムエンジニアが昔の思い出を語るよ 0010

 中学生になった僕は、マイコン熱がさらに高めていった。その頃お小遣いもそれなりに増え、折りしも、バブル好景気にさし掛かろうかと言う時代、自営業である家業もある程度儲かっていた記憶があって、家の財布の紐はちょっとだけ緩んでいた。

 住んでいる家は それまで通り6+6畳で狭いままだけど、新しいマイコンをねだれば買えてしまう時期だったと思う。狭い借家にマイコンモニタが所狭しと並べられ、家の一角だけは未来的な雰囲気(当時としては)が漂っていた。

 僕は、当時全盛期だったNECマイコンどうしても欲しく、初めて自分のマイコン兄貴との共同出資かもしれない?失念。)を買った。それがPC-6601(1983年発売、定価143,000円)だった。

 当時、マイコン小僧たちの憧れはPC-8801シリーズ(この時の最新機種は、PC-8801mkII。価格は20万前後)で、当然ながら欲しいと思っていたのだけど、やはり値段の兼ね合いから却下されてしまったのだと思う。また、どうしてもやりたいゲームFM-7に無く、PC-6000シリーズにはあったと言う理由もある。(ゲームについては後述)

 PC-6601の売りはなんと言っても3.5インチFDD搭載と言う事。その当時出回っていた5インチフロッピーに比べ、あの完全に磁気面がガードされた3.5インチフロッピーはなんとも先進的で、当時の憧れだった。それから、どう考えても無駄な、合成音声をしゃべる機能があった。

 PC-6601を買ってからの僕は、BASICもまぁ触っていたけど、難しすぎるベーマガBASICプログラムにはついていけなくなり、当時流行り出したアドベンチャーゲームを解く方に熱中していたと思う。

 その頃熱中していたゲームは、ミステリーハウスから始まり、T&Eソフトのスターアーサー伝説I 惑星メフィウスやデゼニワールドをなんかを必死に解いていた。この時代は、途中で詰まってしまったらそれまで、攻略本や教えてくれる人など居ないので、月一に発売される雑誌攻略ページなんかを見て、しこしことゲームをやっていた。当時のゲームの進みはかなり遅かったと思う。1ゲーム解くのに軽く半年くらいは要していたはず。

 そもそも上述した「スターアーサー伝説I 惑星メフィウス」なんかは、とある牢獄から脱出するのに、牢獄のドア、3本の鉄格子の右を3回「タタク」と入力するなどと、おそらく知らなければ永遠に気が付かないような謎解きが平然と混入していた。ゲームバランスなんてあったもんじゃない

 あと描画速度の遅かった事と言ったらない。少し凝った絵だと、1シーン1分くらい描画していたように思う。

 当時のグラフィックスを今見て、すごく懐かしいなと思うのは、当時は表現できる色数がかなり少なかったので、(8色とか16色とか)アドベンチャーゲームなどで人物や背景を表現する為に、2色で細かい縞模様を作り、無理やり中間色を作り出していた。この描画表現を見ると、かなりノスタルジックな気分になる。

 ちなみにその当時、僕はファミコンゲームをかなり軽視していたと記憶している。

 ファミコンが発売されてしばらくの間、ファミコンゲームマイコンゲームからの移植で、機能を制限したものが多かった。なので、しばらくファミコンは自宅に無かったし、見向きもしなかった。

 ファミコンなんかよりもマイコンゲームの方が数倍複雑で楽しいし、ファミコン自体は、所詮マイコンの機能限定版だと思っていた。

 しかし、この状況はすぐに逆転することになる。ファミコンが思わぬ大流行をしたため、マイコンゲーム数は、ファミコンにいとも簡単に抜かれた。仕方なく少し遅れ気味にファミコンを買う羽目になる。

 あの頃やったアドベンチャーゲームには、色々な思い出がある。中間色を駆使したあのグラフィックスをみると、いつでもあの頃の思いが蘇ってきて、なぜだかワクワクしてしまう。

 まだ続くと思います。

2008-11-12

衰退していくIT業界に向けて、30半ばシステムエンジニアが昔の思い出を語るよ 0010

 たくさんのブックマークと期待コメントありがとうございました。続きを書いていきます。

※これは連載です。初めての方は下記から見てください。

衰退していくIT業界に向けて、30半ばシステムエンジニアが昔の思い出を語るよ 0001

 兄貴FM-7で、初めはゲームばかりやっていたのだが、しばらくすると「信長の野望」には裏技存在する事を知ってしまった。裏技を使い、稼いだ金に物を言わせて増兵をしまくり、簡単にクリアできるようになってしまった僕。(ど忘れしたのでどんなのか調べたら、『いったん年貢率を0にしてから収穫前に上げることで米収入が上がり、その米を元手に富国強兵を行うといったテクニック』らしい。)

 その頃やっていた他のゲームは、ハイドライドウィザードリィ、ザ・ブラックオニキス、デゼニランドポートピア連続殺人事件など。自分で買ったゲームがほとんど無いので記憶は薄いのだが、みんなテープ媒体だったように思う。

 一方、兄貴はというと、なにやら熱心に毎月雑誌を買って、どこかへ投稿しようと試みているようだ。当然、それとなくそ雑誌も読んでみる事となる。それが僕と「マイコンBASICマガジン」、そしてプログラム言語との出会いだった。目の前にある機械ゲーム専用機ではなく、自分の思い通りに動かせるのか、と気付いた時の驚きと快感。今も忘れられない。

 前述の通り、その当時のマイコンは、電源を入れるとROMから「BASICモード」がいきなり立ち上がるのだけど、この状態から自力で何かを動かしたい場合、BASICと言われるプログラム言語を実行することにより、色々出来るようになる。

 マイコンBASICマガジン(長いので以降「ベーマガ」)は、主にBASICソースコードが掲載されている専門雑誌だ。基本的に、雑誌の構成は読者からの投稿で成り立っており、自ら投稿したBASICソースコードベーマガに掲載されるかどうかが、その当時マイコン小僧たち最大の憧れであり、ステータスだった。

 ご他聞に漏れず、ベーマガを読み始めてから僕はBASICの虜となってしまい、今までやっていたゲームの頻度は自然と減り、BASIC時間を割くようになった。

 今思えば、兄貴は本気でBASICプログラムを投稿し、掲載される気満々だったので、かなりの難しいコードを書いていたんだと思う。結局、彼の思いが果たせたのかは分からない。掲載されたコードを見せてもらった事が無いし、それなりに競争率が高かったので多分ダメだったんだろうと思う。

 一方、僕といえば、ベーマガで面白そうなゲームソースを見つけては、一生懸命コード入力し、誰かが作ったゲームをやることに専念していた。しばらくの間、記憶する媒体テープレコーダーしか無かった為、目の前にある「ベーマガ」のゲームがやりたければ、一字一句間違えずにソースコードを打ち込まなければならず、何回も何回も間違えながら入力していた記憶がある。テキストエディタなんてものがそもそもなかったので、ただ入力するだけでもかなりの難作業だった。

 そのうち入力しているだけでは我慢できなくなり、なんとなくBASICというものが理解出来て来たので、自力でゲームと言うものを作ってみる。しかし、「作る」と言っても一切の独創性はなく、ベーマガに載っていたゲームアイデアをほとんど流用していた。

 一番初めに作ったのは、縦スクロール型のスキー風障害物除けゲームだった気がする。僕みたいな初心者がこれを選ぶのには理由があって、RND(乱数発生関数)とPRINT(画面表示)だけ知っていれば縦スクロール自体はターミナル勝手にやってくれる為、後は壁の判定処理を入れるだけでよい。特に難しい事を考えなくてもある程度作れるからだ。

 当時、知っている命令語のレパートリーは極めて少なかったし、現在webのように、簡単な方法で調べる手立ても無かった。綴りや文法が分からない命令はいちいち調べるのが面倒くさいので、とにかく使わない方針で押し通していた。

 ロジックも見よう見まねで無理やりひねり出してたものだから、乱数が過激に発生して、スキーゲレンデが右側から大きくはみ出して表示がぐちゃぐちゃになったり、両側の壁に隙間が出来てプレイヤーがそこをすり抜けてしまったり。しかし、こういう試行錯誤の中で、ロジックの作り方や、エラー処理と言うものを知った。

 立体迷路とか、横スクロールゲームとか、ベーマガで輝いていたあのゲームを自力で作りたかったけど、その当時はそこまでのレベルに達することは出来なかった。

 ブクマを燃料として書き続けます。

次:衰退していくIT業界に向けて、30半ばシステムエンジニアが昔の思い出を語るよ 0011

2008-11-11

http://anond.hatelabo.jp/20081111053810

おそらくやりたいゲームFM-7しか売ってなかったのだと思う。

テグザーですね分かります。

衰退していくIT業界に向けて、30半ばシステムエンジニアが昔の思い出を語るよ 0001

 昔話をつらつらと書いてみる。僕が子供の頃、コンピューターには夢があった。

 今就いているお仕事は、SE(と言う名のIT雑用係)なのだけど、幸か不幸かこの職種に就いてしまったきっかけを考えるに、昔家に置いてあった『FM-7』と言うマイコンピューターがまず1つの大きな要因なのである。

 兄貴がかなりのそっち系コンピューターおたくで、まず電子ブロックから始まり、自作トランジスタラジオ作成、ワンボードマイコンいじりと家の中には常にそれ系の物が置いてあった。行きたかった秋葉原はうちからは遠かったので、同じ県内にそれ系のショップがあって、バス電車を乗り継ぎ、たまに連れて行ってもらっていた。

 その影響か、血筋か、僕もそれなりにそっち系への興味があって、ハンダゴテをもって基盤を触るまではやらなかったものの、子供の時の遊び道具は、もっぱら電子ブロックだった。

 ワンボードマイコンの時代が終わり、次にやってきたのが、マイコンピュータブームだった。当時、コンピューターと言えば、NECPC-8000シリーズが全盛期で、まず買うとすれば選択肢PC-8801だったのだけど、なぜか兄貴が選んだのは富士通FM-7だった。その理由は定かでないが、おそらくやりたいゲームFM-7しか売ってなかったのだと思う。

 その当時、家は裕福でなく、どちらかといえば貧乏な部類で、6+6畳くらいのフロアスペースに家族5人で住んでいたのだが、その狭いスペースにマイコンディスプレイ一角を占有し、かなりな圧迫を強いられていたと思う。おそらく兄貴に対しては、それなりの期待があり、貧乏ながらもそっち方面の出費は優先的に出ていたのだろう。

 そんなこんなで、僕も暇なときはFM-7を触っていた。Windowsとか、MS-DOSとか無い時代で、立ち上げるといきなり「BASICモード」と言うものが立ち上がる。それがその当時のパソコンスタンダードだった。はじめは「信長の野望」とかゲームだけやっていたと思う。ゲーム媒体テープレコーダー。まず、ゲームをやるのにテープから「ぴーひょろろー」と音を出し、データを全て読み出すのだけど、ロード終了まで1時間くらい掛かる。そこからようやくゲームが始められると言う今ではとても考えられない、壮大な時間が費やされていた。

 それに加えて、テープの調子が悪く読み出しが出来ないときなどはロードの最後の最後で失敗し、結局頭からテープを読み出し直し、半日くらいを費やして、結局ゲームができなかったり、色々面倒だった思い出がある。必死だったけど、楽しかった。

 もし、ブックマークが付いたら続き書いていきます。

続き:衰退していくIT業界に向けて、30半ばシステムエンジニアが昔の思い出を語るよ 0010

2007-05-24

http://anond.hatelabo.jp/20070524103441

俺は「作りたいものをひたすら作り続ける」ってやり方で乗り切ってた。まあ中学生の頃に FM-7BASICゲーム作ってただけだけど。君が言うような鍛錬に近い努力は経験がないなあ。いつも楽しい目標を追ってた気がするよ。

今も仕事が選べるようになってきたのでつまらないものは弾いてるし。そりゃ目標があっても大変だったり単調だったりすることは山ほどあるけど、純粋な苦痛にしか感じなくなったら終わりだ。

Enjoy your hacking!

 
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