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連載「いつでもSF入門」
Author橋本輝幸
LIFESTYLE
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SF研究家・アンソロジストの橋本輝幸による本連載。今回のテーマは「女性とSF」。女性のSF作家の作品はなぜ書評が出にくく、必読リストにも載らないのか。ジェンダーバランスに関する調査結果をもとに、その背景にある文化と構造に迫ります。https://tokion.jp/2021/12/24/expanding-universe-of-science-fiction-vol4-part1/
1953年に創設された、SFファンの投票によって決まるヒューゴー賞をこれまでに受賞した作家の75%は男性だ。2010年以前は8割以上が男性だった。
状況が変わったのはわずかここ10年。2010年以降の男性比平均は55%だ。2019年以降にノミネートされた男性作家は各部門の6~7人の候補者のうち1人か2人で、比率は反転している。だが、このような状況に至るまでの道のりは決して平坦ではなかった。
アメリカSF&ファンタジー作家協会に所属する女性の割合は1974年に18%、1999年に36%、2015年には46%と増加し、各賞受賞者の女性比も増えた。(もっとも2010年以降の変化は女性の増加に限らなかったが——この話はまた別の機会に)しかし変化を許容できない人々の反発が起こり、2010年代半ばのインターネット上には反発と反発への反発によって嵐が吹き荒れた。
例えば、自らを虐待から救出される子犬にたとえ、「サッド・パピーズ」と名乗ったグループは、近年の受賞作は作品の質ではなく作家の思想で選ばれていると主張し、ヒューゴー賞への組織投票を煽動した。なお主導者達は米国のミリタリーSFやミリタリーファンタジーの作家で、前職は軍人や銃の射撃トレーナーだった。
より右派の派生グループであるラビッド・パピーズも生まれ、過去の受賞作や受賞作家を揶揄した。こちらの主導者はその後、共和党支持者としてネットでデマや陰謀論を拡散するようになった。つまりは米国内の政治思想的分断がSFとファンタジーのコミュニティ内で顕在化したわけである。
21世紀になってなお、「女性はSFを書けない」「女性編集者がハードSFをダメにした」といった中傷も続いていた。これに対し、ウェブジン「ライトスピード」は女性特集号を企画した。カナダの批評家ジェイムズ・デイヴィス・ニコールは、2018年からFighting Erasure(消去に抗う)というコラムで1970~1980年代の女性SF作家をひたすら紹介した。こうした地道な対抗活動も陰ながら変化に貢献したと信じたい。
伴名練編『日本SFの臨界点』恋愛篇・怪奇篇に収録された全20篇のうち、91年~99年初出の作品は
・岡崎弘明「ぎゅうぎゅう」
の6篇。
ここで、伴名練からは京大SF研の先輩(たぶん)にあたる曽根卓が出した『架空アンソロジー 年間日本SF傑作選91~99を編む』という同人誌がある。
タイトル通り、対応する書籍がない90年代の年間SFベストを選出する企画だが、上に挙げたうち「G線上のアリア」以外の5篇がこっちでも名前が挙がっている。(高野史緒は代わりに同年の「未来ニ愛ノ楽園」が選ばれている)
曽根卓は年十数篇ずつの名前を挙げているから、この年代の名作を選べばかぶるのは当然、という考え方もあるかもしれない。
しかし、ここに挙がっているのは先行アンソロジーとのかぶりを避けた、「定番」とはほど遠いセレクトばかりだ。
また各作家は当時のSF分野を支えていた存在で、どれも該当期間に相当数の作品を発表している。そこからのセレクトが共通するのはまったくの偶然だとは考えにくい。
ほかの年代については、2010年に京大SF研の会誌『WORKBOOK』に載ったという「年間日本SF傑作選を編む00~06」が入手できないので検証不可能。
でも、曽根卓のブログ記事(https://sonesuguru.hatenablog.com/entry/2019/04/04/211833)で藤田雅矢「奇跡の石」扇智史「アトラクタの奏でる音楽」が、
ツイートで中島らも「DECO-CHIN」(https://twitter.com/sonesuguru/status/780075409459118081)、
中井紀夫「死んだ恋人からの手紙」(https://twitter.com/sonesuguru/status/866997074612465670)、
中原涼「笑う宇宙」(https://twitter.com/sonesuguru/status/635871919695265792)が、
同じく曽根卓が編集した同人誌『新・旧ハヤカワSFコンテスト総解説』内の文章("城内首夫"なる書き手の詳細不明)で谷口裕貴「貂の女伯爵、万年城を攻略す」が、言及されているのを見ても
(しかも口ぶりからすると、SFファンならだれもが知っているというわけではなさそうだ)、伴名練とはかなり知識と評価軸が共有されているのが予想できる。
そう、知識と評価軸の共有だ。埋もれたSF作品に対する伴名練の知識量と熱意はもはや広く知られているが、それは孤独な読書で培われたのではなく、導き、導かれ、ともに歩く仲間があってこそだったらしい。
ちょっと調べたら、当時の京大SF研が猛者揃いで、伴名練がそこで揉まれたのは周知の事実だったようだが、自分はこれまでいまいちピンと来てなかったのでここに書いておく。