はてなキーワード: からすみとは
「酒に合うつまみ」、酒盗とか、チーズとか、生ハムとか、なんでもいいんですけど。
そういうつまみは美味しいしお酒も進むんですが、当然塩っ気が強いものが多くなるし、自ずと酒量も増えるし正直それだけではきつい。。
極端なところでは「塩だけで飲める」という人もいるとは聞きますが、食事を楽しみたい性格の自分が美味しく飲むためには「刺身のつま」や「からすみ大根」的な、「酒のアテ(刺身、からすみ)を受け止めるアテ(つま、大根)」が重要であり、友人と深酒しても「結局キャベツ一番食べてたね」みたいなこともしばしば。
「もろきゅうのきゅうり」
「揚げ物の千切りキャベツ」
塩味の受け皿というか、「酒のアテのアテ」とも呼べるような淡白なつまみのバリエーションを広げたい。
「ドイツ車本社幹部が日本の暑さを思い知らされた」という都市伝説、の話の調べもののメモを書きましょうね。
X(旧Twitter)で検索して見ると2020年頃から急激に語られてるようになっている。
それ以前はTwitterでも他サイト、個人ブログやまとめサイトなどでもぱっと見た感じではちょっとまだ見つけられていない。
■目的
①ソースは存在するのか?完全に創作の都市伝説なのか?何かの逸話に尾ひれがついたのか?
②どのようにこの都市伝説が広まったのか?
車で似たような話を聞いたな。
ベンツの本社の偉い人が「日本向けにエアコン強化は不要」と言って聞かないので、その偉い人を『真夏日真っ昼間の東京』にご招待して、羽田空港から『ドイツ仕様ベンツ』で日本支社まで送迎。
自分が聞いた話だと、真夏の首都高に乗り入れて、マイスターたちが「窓を開けてくれ!」と懇願するのを「天下のベンツが冷房が効かないということを見せるわけにはいけません」と汗だくになりつつ日本支社の人が返してそのまま押し切ったとか。
BMWのバイクの「シート高低くして」って要望を「日本人足短過ぎw」と一笑に付してた本社役員を自社製品(GS)による都内ツーリングにお誘いしたら、翌年より日本向けアンコ抜きモデルが登場するなど。
昔(1970年代)、BMWだったかベンツだったか忘れたけど夏の東京でオーバーヒートに起因してクーラントホースの長さが足りなくて(どこかの部品が熱膨張でずれる)、ホース外れる案件が多発したけど、本社に改善申し入れても「ドイツの設計が間違っているはずがない、お前らの整備不良じゃ」と(続く
承前)取り合わないので、東京に呼び寄せて、夏の東京の渋滞を経験させたら翌年モデルからなおってたなんてはなしも。
アメ車が日本で売れないのは非関税障壁のせいだとぐだぐだ言ってた時も、自分で都内運転してみろという意見が割と出ていた(が、ネット以前の時代の話なので半径50mだ
自分が見つけた中で最古はこれになる。意外にも車の話ではない。
車で最古だと、これに引用RTする形で前述の「車で似たような話を聞いたな。~」のツイートがされていたものが私が見つけた中でもっとも古い。
横からすみません。
日本での故障頻発でその度にシーメンスの技術者呼ばなきゃならない上に「我々の製品は完璧だ」とのたまうので運行に支障をきたし、怒った日本側技術者が朝の300%近いラッシュにドイツ技術者を押し込んだってw
フォルクスワーゲンなら。
確か80年代に入ってからだったと思いますが、あちらの偉い人が真夏の日本に滞在して、「ヤナセの言っている事は本当だ。日本の夏は辛い」と言ったらそれまで対策されなかったクーラーの効きが改善されたという話があります。
うーん……NAVI誌というのは初めて知った。今はもうない車の雑誌と。2010年休刊。①について示唆を与える情報だ。
インターネット上にすべての情報があるわけではない。当たり前のことです。
しかしこの話は、②のTwitterで2020年から急に定番ネタになったのはなぜ?という話には回答を与えない。
■背景情報
・1970年頃まで、ヤナセという会社がいわゆる外車を輸入する代理店だった。
・日本だと1955年くらいからカークーラー市販化されたっぽい。
・なので、何か一次資料があるとすれば、1970年以前であればヤナセ関係者の回顧録とか?
・1970年以後であれば外国車メーカー各社の社史や関係者の談話か?
いったんここまで。
①の次の方針はNAVIのバックナンバーを見る方法を探すのと、載っていたとしてどの時代なのかあたりをつける、か。40年くらいの歴史がある月刊雑誌ということは単純計算で40*12=480。
あるいはシーメンスの話が実話かどうか調べるとか(たぶんこれも見つからないだろうけれど)
②についてはいったん保留。Twitter発なのか他に都市伝説としてのこの話の源流があるのか、まだ不明瞭。調べ方が悪いだけかもしれない。
Twitterとかでイラストを描く人はWIPと称して描きかけイラストをアップロードするが、調べもの日記においてもWIPと称して書きかけ日記をアップロードしてよい。自由だ。
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個人的には、村上春樹さん(以下、「春樹さん」といいます。)の作品で好きなのは、「風の歌を聴け」「ノルウェーの森」「ダンス・ダンス・ダンス」「遠い太鼓」、そしてこの「スプートニクの恋人」です。「ねじまき鳥クロニクル」や「海辺のカフカ」、「1Q84」も読みましたが、あまり印象に残りませんでした。
一番最初に読んだのが「風の歌を聴け」だったのですが、この作品で印象的だったのは、語ること・書くことそれ自体が小説となっているというところです。
つまり、この作品で主人公である「僕」は、「今、僕は語ろうと思う」と宣言する。作中に出てくる架空の作家、デレク・ハートフィールドは、いわゆるB級SF作品を大量に書く作家です。それにも関わらず「文章を武器として闘」った作家として「僕」に高く評価されます。そのデレク・ハートフィールドは、最愛の母親が亡くなった後自殺します-多分その「死」について文章を書けなかったからかもしれません。
何も言うことはなくても、何かを語って良いのだーそれは若い自分が感じ、勇気づけられたことです。初期の春樹さんの作品の良さはそこにあるのだと思います。春樹さんがチャンドラーの翻訳をしたことは象徴的です。ハードボイルド小説は、まさに「語る」ことの小説だからです。
ここで、「僕」が「語ろう」とし、デレク・ハートフィールドが「文章を武器」とすることの対比は、興味深いです。「僕」は「語り」、デレクは「書く」。この作品でも、「僕」の友人は小説を書きます。しかし、「僕」は本を読むだけ、そして、「語る」だけ-理不尽な世界に自分の置場を見つけるため、気になる女性に不誠実な男と思われたくないため。様々な理由で、「僕」は語ります。それを春樹さんが書きます。「語ること」そのものを書くこと、それが初期の春樹さんの文学だったのかもしれません。
春樹さんの作品は、このデビュー作から、主人公の軽妙な語り-会話であれ、モノローグであれ、が魅力的です。世界の理不尽に抗い、傷つきやすい自分を守り、誠実であることを認めて貰うために。
しかし、一貫して春樹さんの主人公は「語る」けど、書きません。書きませんでした。いや、本当はそうでないかもしれない。「羊を巡る冒険」を私は読んでません。「1973年のピンボール」は読みました。しかし、どうもぼやけた印象です。
ただ、「ノルウェーの森」の「僕」は、フィッツジェラルドを読むけれど、何も「書かない」。彼は書かずにただ、「語る」だけでした。
「ダンス・ダンス・ダンス」において、「僕」は、「文化的雪かき」と自嘲するコマーシャルライティングの仕事に従事しています。ここで「書く」ことが出てきますが、やはり主眼は「語り」です。というか、この作品こそ、春樹さんの作品の中で最も「語り」が冴えたものだと思います。警察の取り調べに対抗するために、五反田くんのことを知るために、羊男と対峙するために、ユキの職業的ボーイフレンドとして、そして、ユミヨシさんと近くなれるために、「僕」は言葉を尽くして語り続けます。しかし、その最後は空虚なものでしたー羊男のいなくなったドルフィンホテル。「僕」は札幌に引っ越して小説家になろう、と思いますが、具体的には何もなしとげないまま、ユミヨシさんと結ばれることが物語の結末となりました。
「本を読み、料理を作り、しゃれたやりとりで語り続ける」主人公の「僕」―初期の春樹さんの主人公の典型的なイメージは、若い読者の自意識に強く訴えかけます。ただ、他方で、とても空虚なことは否定できません。「僕」の周りは死に満ちています。「僕」は誰も救えない。結局、「語る」ことは、「僕」を生かしはするけれど、直子も、レイ子さんも、キキも、五反田くんも、誰も救えなかったのではないかーという疑念を抱かざるを得ません。
それは私の後付けの感想かもしれませんが、その後数年間の春樹さんの作品は、どこか力強さを欠く印象を受けました。
「国境の南 太陽の西」は自分には、若干覇気の無い「ノルウェーの森」に見えました。
「ねじまき鳥クロニクル」は昂奮して一気に読みましたが、不思議と何も覚えていません。井戸に潜るという主人公の奇妙な行動は「語る」ことの対局にある気がします。作品としては魅力的なはずですが、これまでのものと大きな隔たりを覚えざるを得ません。
そして、「アンダーグラウンド」―この作品において、春樹さんは語り手を「僕」から手放します。語り手はコントロールできない他者であり、春樹さんはそれを伝えるだけの役割になります。。もともと翻訳家としても活躍していた春樹さんですから、作者の「語り」を整え、伝える役割は決して珍しいものではありません。ただ、ここに来て、「僕」という一人称を手放し、もっと多様な「語り」に耳を傾けるものに変化したのではないかと思います。
その空虚さー変化というより、空虚さ、を私は感じました。「僕」はどこに言ったのだろうか。「僕」の「語り」の消滅はどこに言ってしまったのだろう。
そんな春樹さんが次に出したのがこの『スプートニクの恋人』です。私はこの作品がとても好きなのですが、それが何故かというと、この主人公「ぼく」の弱さ、語れなさ、に共感できたんだと思います。
ここで「ぼく」が登場します(「僕」ではない)。しかし、主人公の「ぼく」は何もできない。
「ぼく」が憧れる「すみれ」は、気楽に夜中に泊まりに来たりする。「ぼく」は「すみれ」に気の利いた返しで会話をしますが、それはどことなく稚拙であり、戯画的です。「すみれ」に気があることを隠し、「すみれ」に嫌われないための必死のあがきのように見えます。
そのうち、すみれは「ミュウ」という女性に惹かれ、あからさまな恋心を「語られ」ます。そうしてやっと「ぼく」はすみれに「好き」と言ってもらえるのですが、それに対して「ぼく」が言えたのは「ミュウの次に?」です。それはもう敗北の言葉でしかありません。
この作品-「スプートニクの恋人」の「ぼく」の語りは、奇妙に平凡で月並みで、しかも誰にも届かない。
「どうしてみんなこれほどまでに孤独にならなくてはならないのだろう」
すみれを見つけるためにギリシアまで渡った旅が徒労に終わり、おもわず「ぼく」がつぶやくこのモノローグ、こんな平凡極まりない言い回しを春樹さんが書くのかと、私は驚きました。
話は戻りますが、そのギリシアでは、「ぼく」は、ミュウからすみれとの関係の詳細を「語られ」、あらかじめ「ぼく」に読ませるかのように仕込まれたースーツケースの暗証番号は「ぼく」の市外局番でしたー「すみれ」のディスクには、ミュウへの恋心と、ミュウが語らなかった、悲惨な経験が「語られる」。「ぼく」はそれを読むしかない。
結局「ぼく」は何もできないままギリシアから帰ってくるのです。
いるかホテルや、井戸のような、異界への通り道はない-すみれにたどり着けない
緑やユミヨシさんのような癒やしの存在もない-「ミュウ」はあらかじめその役割を果たせない人として設定されています。
結果、「ぼく」は、すれみにもミュウにもたどり着けず、そして先ほどの「どうしてみんなこれほどまでに孤独にならなくてはならないのだろう」というひどく平凡なモノローグをつぶやくことしかできない。
この「語れなさ」、「語る」ではなく、「語られる」だけの「ぼく」いう存在。架空の作家、デレク・ハートフィールドに託した、「語る」ことの意味、デレクが文章で闘っていたのだとすると、春樹さんは「僕」が「語る」のを書くという行為で闘っていたのだと思います。しかし、「語る」のは「僕」でなくてもかまわない。様々な「語り」を引き受ける「ぼく」という軽やかな主人公の存在は、なさけなくて弱いけれど、とても魅力的な主人公だと思います。
以上
(追記)さっそくのコメントありがとうございます。私はAIではありませんw
(追記2)さっそく「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読んでいます。今全体の20%くらい。ものすごい悪夢感というか、解けない問題集を前にしてパニック障害一歩手前になりそうな息苦しさを感じます。この作品を愛読される方の文学的体力の強靱さには敬服いたします。
愛玩動物をどう生かすか(栄養配慮して長生きさせるor短期的に可愛がるだけでよい)という点においてスタンスが違うだけならそれはそれで歩み寄るか諦めようがあった。(一貫はして欲しい)
しかし実際はそこに関してスタンスは一致しており、ただ夫は知識がないので「カロリーだけあたえていても長生きしない」という点を理解できてなかったこと、頭が悪いので「シード過多であたえていたら当然シード優先で食べるので栄養が入ったペレットを食べないし夫から見たらシードしか食べない鳥にしか見えようがない」ということを理解できてなかったこと、わたしの給餌方法ではインコが餓死すると思っちゃってること、これにイライラしちゃった。
考えすぎだね、愛玩動物は可愛がれれば良いという考えの人のケースなんかないでしょ、あったとしてもあなたの夫はそこまで考えて行動する人じゃないのがこれだけで伝わる
イライラするポイントは正確に問題点を捉えてるし、ペレットを工夫して食べさせる過程も経てるのに、そこからシードを出す相手に合わせることを検討するのも譲歩しすぎかなと思う
気づいてからすみやかにペレットを与える必要性と今までの過程を伝えれば良かったし、夫が怒られずに必要な情報だけ伝えられても、問題になってない段階では理解する気がなかったり、心理的に反抗するならかなり今後も色々揉めると思う
彼氏と付き合ってもうすぐ1年になるのに彼氏の性欲(おちんちん)が全然私に飽きなくて嬉しい。
休みの日に会って1日で5回とかして、朝起きてもう1回して、もう出ないね笑って言ってバイバイして、1日働いて夕方会ってぎゅってしてキスしてたらおちんちんがすぐぴょこんってなるの可愛すぎて嬉しすぎてヤバい。ちゃんと出るの凄すぎ。
バツイチなんだけど、元夫は性欲の薄い人で、色々と本当に苦しんだ。レス、妊活、モラハラ、自分の女性としての価値はもうパートナーにとってないものなんだと思ってすごく悲しかった。
今の彼と付き合うまで、わたしは相手に性欲がないと自分も無くなるもんなんだなあって思ってたし、自分は人並の性欲だと思ってた。
でも彼と付き合って自分は性欲が強いのかも?って思うようになった。彼も私と付き合って初めて自分の性欲?精力?の強さに気付いたらしい。
いつも可愛い好きって言って抱きしめてくれて、行動からも言葉からも愛情を感じさせてくれるけど、でも最中に愛されてるな〜と思えるのが彼と付き合って本当に幸せなこと。それまでの私のセックスは、男の人に使われて搾取されている時間だった。けどそうじゃなくなったのが、本当に何よりも嬉しい。
彼とのセックスは、ずーっと与えられている、何を、と目的語を置くのは難しいけど。最中はずっと彼に与えられているなって思う。壊れ物のように扱ってそして壊れないように、私のことをすみからすみまで把握して大切にしてくれる。愛情とか、大切にされていると感じさせてくれることとか、あと史上最高にずーっとめちゃめちゃに気持ちよくしてくれることとか。全部彼から与えられて、私は受け取っているだけでいい、委ねて満たされているだけでいいのが嬉しい。
もう私を女性として無視したり、搾取したりする人はいないんだって安心できる。
脳の錯覚だとしてもいい、ていうか別に今までの別の人とのセックスもちゃんと気持ち良かったけど搾取ではあったから、やっぱり脳の錯覚ではないんじゃないかなとは思う。
1年経っても勢い衰えずに私に性欲を感じてくれてありがとう。
自殺、暴力、麻薬などのコンテンツは性的なコンテンツ以上に厳重なすみ分けを要する。
「悪魔・呪い・鬼のほうが怖いから」などで少年誌に紛れ込みがちだが人間社会には悪魔・呪い・鬼はなく、犯罪を許さないし犯罪賛美も許さない。だからすみ分けはなくならない。
もしおまえが巨乳などの性的な目的での人体拡張表現が嫌いならば
リアルでぺちゃんこで垂れてて毛穴やニキビやシミもある女性の体を、
やはりそれでもきれいなものがあると観賞する高度な芸術を合法にすることからはじめるべきだ。
そうしてこそ差別がなくなるだろう。そのときすみ分けはもちろん差別解消の一助になる。
今のままでは「毛と乳首がうつってないから合法」とか「ランドセル背負ってないから幼女じゃなく合法」などの記号をもちいた屁理屈基準出せ合戦にしかならない。
実写であるがままの女性、脇毛も万げも無駄だろうが普通に生える自分の体を尊重しつつ愛でられる女性、
男性に対して性的に興奮することがある実在の女性、ゴムセックスのほうがリラックスできて濡れる実在の女性。
その存在と表現をまず認めよう。漫画のまるで奇獣みたいな女性表現など真実のまえには無力だ。
そもそもAV業界やソープランドが公的には存在しないからAV女優組合やソープ嬢組合がないんだ。
もちろんすみ分けは重要だ。元増田はすみわけが本質的解決手段でないことまでは見抜いたが、それでもなおすみ分けが社会的に重要だということにまではきづいていない。
子供に対してすみわけなければ庇護されるべき女児や男児や脳内が児童のままの18歳が、大人としての賛美や金ほしさに悪い大人に搾取される。
まさにそれですよねー(横からすみません)