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2025-02-11

社会学者が「日本夫婦同姓は作られた伝統」と主張するならば……

日本の一夫一妻制は作られた伝統」も通ってしまう。

下記の記事を読んで、明治時代辺りの「脱亜入欧」「西洋化」が夫婦同姓へ強く影響したという論考があり、これについては同意せざる得ない。

戦後日本の「夫婦同姓制度」は、じつは「中国化」と「アメリカ化」の産物だった…日本の「姓と家族」の伝統を解き明かす

https://gendai.media/articles/-/146597

1896年に制定された明治民法では、一転して夫婦同氏制が採用された。決め手となったのは「西洋化」だったことを特筆しておきたい。1895~96年に開催された法典調査会法学者の梅謙次郎は、「支那の慣習」である夫婦別姓を退け、「欧羅巴ては昔から極まつて居る規則」の(と当時は見えた)夫婦同姓を採用すべしという、脱亜入欧的な説を展開した(施「明治民法はなぜ夫婦同氏制をとったか」)。

https://gendai.media/articles/-/146600?page=2 (上記記事の後編)


ただ、この論考を採用すると日本過去時代側室や妾が認知されており、どんなに遅くとも公的には1870年(明治3年)に妾は妻と同等の二親等であると定められた。税制相続においては妻と同等の二親等の権利を得られないが三親等と同等の権利保証されていた。

しかし、1898年(明治31年)の戸籍法改正に拠って、妾とその子供は従来の夫の戸籍から外れ、現在人権意識から考えると驚くべきことに相続に関する権利まで戸籍から外れるとともに失われてしまった。

この廃妾が行われた理由は「夫の姦通(浮気)では離婚事由にならないのに妻の姦通離婚事由になるので不平等である」という観点のもと行われたが、その背景には脱亜入欧文明開化に影響を受けた、男女同権論、婦人解放運動があったのは当時の帝国議会記録を見ても明らかであり、妾の存在無視して日本氏姓婚姻制度歴史を語るのは非常に無理がある。

脱亜入欧敗戦の結果に夫婦同姓が加速し夫婦同姓は作られた伝統なのであれば、脱亜入欧敗戦の結果に一夫一妻制が加速し一夫一妻制は作られた伝統であるのは日本歴史として紛れもない事実であり、現在人権意識夫婦別姓を提唱するのであれば現在人権意識婚姻形態自由化も求めなければ姿勢として誠実でないと言える。

氏姓婚姻形態は別軸であると語る者が居るかも知れないが、これらは同時期に議論され改正され日本に定着した制度文化意識だ。戸籍改正という1つ議題として扱われていたのに片方(氏姓)を尊重し片方(婚姻形態)を蔑ろにするのは現在人権意識から言って明らかに間違っている。

日本の一夫一妻制は妾とその子供の人権犠牲の上に成り立っており、現在人権意識でこれを評価するのであれば是正すべきで、妾とその子供の保障日本議会は行わなければならず、しかし当時に生きた人はもう既に亡くなっていると考えられ時効も成立しているはずなので、形の上だけでも日本議会は妾とその子供の名誉回復議決すべきだ。

そして更に、現在人権意識でこれを評価するのであれば一夫多妻制という不平等制度ではなく一妻多夫制も認め、妾および男妾の民法上の権利相続も含めて夫または妻と同じ二親等と同等であると定められるべきだ。

何故か、社会学者(とその周囲の界隈)が口にする「日本夫婦同姓は作られた伝統」では一夫一妻制よりも長期間存在したはずの妾(側室)が無視されがちで、しか夫婦同姓と共に妾の是非は議論されていたのにも関わらず、まるで存在しなかったように扱われている。

これはどう考えてもおかしいのだ。過去に振り返って氏姓の在り方を論考するのであれば婚姻形態の在り方も必ず論考されなければならないはずなのに、まるでそこには触れて欲しく無いかのように妾の存在言及されない。

まったくもって不思議すぎる現象なので、ここで改めて妾へ言及するためエントリを書かせていただいた。

2024-12-29

「月が綺麗ですね」の歴史

以前「夏目漱石「月が綺麗ですね」の元ネタを遡る」という記事を書いたのだが、いろいろ追記することがあったので改めて整理しなおそうと思う。

大雑把に言えば、この「夏目漱石I love you を月が綺麗ですねと訳した」という話は、

に分解できる。ひとつずつ追っていこう。

I love youは訳せない」

まず、夏目漱石は「I love you日本語にない表現である」と書き残している。これは漱石イギリス留学時代である1901年から1902年にかけて書き留められたメモ書きの一つで、ジョージメレディスの『Vittoria』という小説言及したものである。ただし、この台詞はヴィットリア(Vittoria)がラウラ夫人(Signora Laura)に向けて言った台詞なので、恋愛の「I love you」ではなく親愛の「I love youである

formula ノ差西洋日本I will excuse myself to you another time,” said Vittoria. “I love you, Signora Laura.”――Vittoria p. 113. 此 I love you日本ニナキ formula ナリ.

dl.ndl.go.jp/pid/12443067/1/168


1908年の『明治学報』に掲載された、上田敏の「予の観たる欧米各国」という講演の書き起こしにも、同様に「I love youは訳せない」というような記述がある。上田敏は高名な英文学者で「山のあなたの空遠く幸住むと人のいふ」や「秋の日のヴィオロンためいきの」などの詩訳で知られる。漱石よりは年下だが、同時期に東京帝国大学で教鞭をとっていたこともあり、文学論を語り合う仲だった。

日本では「我汝を愛す」と云ふことは言へない、日本では何と云ふかと云ふと、「私アナタに惣れました」と云ふ、それでは「アイ、ラブ、ユー」と云ふことに当らない、「我汝を愛する俯仰天地に愧ず」それはどう云ふたら宜いか、(笑声起る)、所が「私はアナタに惣れました」といふことは日本語ではない、さういふ日本語は昔からないです、だから日本ではそれをパラフレーズするか、或はペリプラスチック、言廻はして、「誠にアナタはよい人だ」とか何とか云ふ工合に云ふより外言ひ方はない、「私はアナタが好です」と云ふと何だか芝居が好きだとか、御鮨が好だとか云ふやうになつて悪いです

dl.ndl.go.jp/pid/1890371/1/24


同じく1908年劇作家益田太郎冠者という人物も次のように書いている。

欧羅巴人にはアイ・ラブ・ユーといつた、美しい詞があり、此の詞の中には、女の身上を刺激する意味が十分に含まれて居るが、日本人には斯ういふ詞が無く、その上「言はぬは言ふにいや優る」などといふ事が古来から上品としてあつて、万事詞が引込み思案になつて居るのです。

dl.ndl.go.jp/pid/3545704/1/40


やや遅れるが、1922年刊行されて当時のベストセラーになったという厨川白村近代恋愛観』にも、同様の主張が書かれている。厨川白村漱石の教え子で、恋愛観について議論を交わしたこともあったという。

日本語には英語の『ラブ』に相當する言葉が全く無い。『戀』とか『愛』とか云ふ字では感じがひどくちがう。" I love you" や "Je t'aime" に至つては、何としても之を日本語に譯すことが出來ない。さう云ふ英語や佛蘭西語にある言語感情が、全く日本語では出ないのある。『わたしあなたを愛してよ』、『わたしや、あなたいろはほの字よ』では、まるで成つて居ない。言葉が無いのは、それによつて現はさるべき思想が無いからだ。

dl.ndl.go.jp/pid/977872/1/11


以上からすると、夏目漱石最初に言い出したかどうかはともかく、この時期にさまざまな人が「I love you日本語に訳せない」と主張していたことは確かなようである

「月が綺麗ですね」

そしてこの「I love youは訳せない」という話から「月が綺麗ですね」が派生する。いまのところ見つけられたかぎりでは、1927年の『帝人タイムス』に掲載されたコラム東方へ」での記述が最も古かった。

西洋デハ人ノ表情ガ露骨デアツテ 例ヘバ恋ヲ囁クニモ 真正面カラ アイラヴユー ト斬込ムガ 日本デハ 良イお月デスネー ト言フ調子デ 後ハ眼ト素振リニ物ヲ言ハス

dl.ndl.go.jp/pid/2348792/1/6


1935年刊行笠間杲雄『沙漠の国』にもそうした表現がある。元になった記事雑誌掲載されたのは1926年ごろのようなので帝人タイムスの記事より早いかもしれない。

第一欧米人にとつては一生の浮沈を定める宿命的な宣言『アイ・ラヴ・ユウ』の同意語すら、日本語には無い。(中略)斯ういう意味外国人に答へると、然らばあなた日本人は、初めて男なり女なりを愛する場合に、どんな言葉意志を通ずるのかと、必ず二の矢の質問が飛ぶ。私は答へる。我々は「いい月ですね」と言つても、「海が静かね」といつても、時としては「アイ・ラブ・ユウ」の翻訳になるのだと。

dl.ndl.go.jp/pid/1155407/1/164


以降も「月が綺麗ですね」という話は散見される。たとえば1950年雑誌英語研究』。

月下に若い男女が語らい合つている. 男が女に愛の言葉をささやくとして, この場合の純日本的な表現は今夜はいい月ですねえ!ということであり, 女がほんとうにいい月ですこと!といつたとすれば, それは男の愛を受け入れたことになる.

dl.ndl.go.jp/pid/2331222


1957年雑誌産業産業人』の対談記事ニッポン居よいか住みよいか」。

三宅 その言葉が昔からないんだね。向うはアイ・ラブ・ユウ、実に簡単ですよ。ところが日本はそういう表現はない。「ああいい月ですな」というのが、ほれたと翻訳しなきゃならんのだ。(笑)

大山 「いい月ですね」ってそのくらいのことは言われたような気がしますけど……。(笑)

三宅 アイ・ラブ・ユウと直接には言わない。古来そういう文学表現方法日本にはない

dl.ndl.go.jp/pid/2234540/1/22


1961年早川東三『じゃぱん紳士周遊記』。こちらは「月が青いですね」である

ドイツ人学生日本女の子に夢中になった。日本語で愛の告白は何と言うのだい、と切なそうに聞くから、「われわれは皆んな詩人からね、イヒ・リーベ・ディヒ(わたしはお前を愛する)なんて散文的なことは言わない。月が青いですねと言うんだ」と教えてやったが、ご使用に及んだかどうかは知らない。

dl.ndl.go.jp/pid/2976285/1/110


1962年日本人の知恵』。これは朝日新聞に連載された記事をまとめたものらしい。

さらにいえば、日本の社交の基本は「見る」ことで成立する。若い男女の恋人同士が愛の告白をするとき西洋人のように、

「私はあなたを愛していますI love you)」

などとはけっしていわない。そんなことばを口に出さなくとも、満月を仰ぎ見て、

「いいお月さんですね」

そして、二人でじっと空を見上げるだけで、意思は十分通じるのだ。

dl.ndl.go.jp/pid/2985145/1/38


以上のように、戦後にも「I love youは訳せない」や「月が綺麗ですね」はそれなりに広まっていたと思われるが、しかし、この時点ではまだ夏目漱石とは結びついていなかった。

夏目漱石が訳した」

それらの話を夏目漱石と結びつけたのは、おそらくSF作家豊田有恒だろう。たとえば1978年の『SF文迷論入門』(雑誌掲載1977年)では以下のように書かれているが、他のいくつかの著作でも同様のことを書いており、いわゆる「持ちネタ」のようなものだったことが窺える。

明治時代に、夏目漱石が、学生に、I love you を、どう訳すか、質問した。学生は、明治時代から、我なんじを愛すというようなことを答えた。漱石は、怒って、一喝した。おまえら日本人か? 日本人は、そんな、いけ図図しいことは言わないんだ。I love you というのは、日本語では、月がとっても蒼いなあ、と、こう訳すものだ、って言ったろ。

dl.ndl.go.jp/pid/12564223/1/57


ほぼ同時期に、つかこうへい小田島雄平との対談で同様のエピソードを語っているが、こちらの記事の初出は1978年なので豊田有恒よりも後ではある。つかこうへい豊田有恒記述を読んだのか、それとも共通元ネタがまだどこかにあるのか。

古くは夏目漱石I love you はどう訳せるかって言ったという有名な話がありますよね。生徒たちがそれは「愛してます」って訳すると言ったら、夏目漱石が教壇からばかやろうとどなりつけて、「月がとっても青いから」って訳すのだと言った話がありますけど、そういう翻訳リアリティーっていいますか、それは、時代とともにいろいろ変わっていってるんでしょうね。

dl.ndl.go.jp/pid/12582572/1/121


以降の流れは「月が綺麗ですね・死んでもいいわ」検証に詳しい。

余談

ツルゲーネフの『片恋』における「Yours」という台詞二葉亭四迷が「死んでも可いわ…」と訳したという話を、「二葉亭四迷I love youを死んでもいいわと訳した」に変形させた犯人探しも行われているが、それはおそらく土岐善麿だろう。1957年の『ことば随筆』にこう書かれている。

「アイ・ラブ・ユウ」を日本語に直訳すれば「われ、なんじを愛す」であろうが、二葉亭四迷はそれを「死んでもいいわ」と表現したことがある。ツルゲーネフの「あいびき」の中にあるのを読んで、その訳しぶりのすばらしさにおどろいた記憶がある。

dl.ndl.go.jp/pid/2484010/1/109


この記述は、のちに金田一春彦がいくつかの著書で引用しており、そのあたりから広がっていったのだろう。たとえば金田一春彦1975年日本人の言語表現』ではこういった具合だ。

土岐善麿氏によると、二葉亭四迷は、トゥルゲーネフのある小説女性の言うI love you.を訳すのにはたと困ったそうだ。何でも相愛の男女が愛を確かめあうクライマックスの場面であるが、男がI love you.と言い、女もそれに答えてI love you.と言う。男のせりふの方は「ぼくはあなたが好きだ」で簡単だ。が女の方はそうはいかない。もし、「私もあなたが好きです」とでも言ったら、それは教養のないあばずれ女ということになる。女のI love you.を日本語で何と訳すべきか、二葉亭は、二日二晩考えた末、今も名訳として伝わっている日本語を思いついた。それは「死んでもいいわ」という文句という文句だという。

dl.ndl.go.jp/pid/12446973/1/120


いかがでしたか

2023-06-29

宇克蘭、どうなるんだろう

白露西亜と露西亜の仲も良いのか悪いのか分からないし、

波蘭土もそれを警戒してる。

土耳古露西亜関係を深めてるのも怖いところ。

英吉利仏蘭西伊太利亜などの欧羅巴諸国はどう考えてるんだろう?

日本亜米利加関係を強化するべきだろうな。

2021-07-29

東京裁判被告人一覧

死刑

東条英機

 近衛内閣陸相を務め、東条内閣では首相陸相、内相を兼任米国宣戦布告したが、サイパン島陥落の責任を取って辞任した。

板垣征四郎

 陸軍軍人関東軍参謀として満州事変を起こす。近衛・平沼内閣では陸相を務め、大戦中はシナ派遣軍総参謀長に就任した。

土肥原賢二

 陸軍大将満州国建国華北分離工作において中心的役割を果たした。

松井石根

 陸軍大将南京大虐殺責任を問われた。

木村兵太郎

 陸軍軍人。東条内閣陸軍次官を務めた。ビルマの戦いでは総司令官でありながら、無断で戦線放棄し、日本軍を大混乱に陥らせたにも関わらず大将に昇進した。三奸四愚の一人とされた東條の側近。

武藤章

 陸軍中将。東條の腰巾着として日米開戦の中心的役割を果たした。

広田弘毅

 文官岡田内閣外相を務め、広田三原則を決定し、華北分離工作を黙認した。二・二六事件首相となり、軍部大臣現役武官制を復活した。近衛内閣では外相を務め、日中開戦を黙認した。

終身刑

小磯国昭

 陸軍大将。米内内閣での拓相ほか、朝鮮総督を務めた。東條の辞任後首相就任し、戦争継続した。

荒木貞夫

 陸軍大将。犬養、斉藤内閣陸相を務めた。皇道派代表格であったため、二・二六事件予備役送りになった。近衛・平沼内閣では文相を務め、軍国主義教育を推進した。

梅津美治郎

 陸軍大将シナ駐屯軍司令官として梅津・何応欽協定中国要求した。陸軍次官関東軍司令官を務めた。ミズーリ号での降伏文書に調印した。

南次郎

 陸軍大将若槻内閣陸相として満州事変を起こした。関東軍総司令官朝鮮総督を務め、内鮮一体化を推進した。

畑俊六

 陸軍大将阿部・米内内閣陸相を務めたが、辞職して米内内閣を打倒し、近衛内閣誕生させた。シナ派遣軍総司令を務めた。

大島浩

 陸軍中将ドイツ大使館付き武官として日独防共協定の締結、駐独大使として日独伊三国同盟の締結に貢献した。

鈴木貞一

 陸軍中将。近衛・東条内閣企画院総裁内閣経済顧問などを務め、戦時経済確立に貢献した。三奸四愚の一人。

佐藤賢了

 陸軍中将。東条内閣では陸軍省軍務局長を務めた。三奸四愚の一人。

橋本欣五郎

 陸軍大佐。急進派将校を集めて秘密結社桜会」を結成、三月事件十月事件企画するも失敗。

嶋田太郎

 海軍大将。東条内閣での海相軍令部総長を務めた。

岡敬純

 海軍中将。対米開戦を強硬に主張した。戦時中海軍次官就任

平沼騏一郎

 山本内閣法相を務めた。右翼結社国本社を結成。近衛の後を継いで首相就任したが、独ソ不可侵条約が結ばれると辞職した。

木戸幸一

 近衛内閣の文相、厚相、平沼内閣の内相を務めた。天皇の側近として東條を首相に推薦したが、戦局が不利になると、和平工作に奔走した。

賀屋興宣

 近衛・東条内閣大蔵大臣を務め、戦時財政を担った。

星野直樹

 満州国国務院総務長官、近衛内閣企画院総裁を務めた。東条内閣では内閣書記官長として東條を支えた。

白鳥敏夫

 スウェーデン公使として、日独伊三国同盟締結に貢献した。

懲役20

東郷茂徳

 東条内閣外相、拓相を務め、太平洋戦争回避に尽力。鈴木内閣では外相、大東亜相を務め、終戦に尽くした。にも関わらず日米開戦責任者とされた。

懲役5年

重光葵

 東條・小磯内閣外相を務めた。降伏文書に調印した。

免訴

永野修身

 海軍大将広田内閣海相を務め、その後、連合艦隊司令長官軍令部総長歴任し、戦時中元帥就任した。裁判中に急性肺炎で死去した。

松岡洋右

 ジュネーブ国連会議全権大使として出席し、国連から脱退した。近衛内閣では外相を務め、日独伊三国同盟、日ソ不可侵条約を締結した。裁判中に結核で死去した。

大川周明

 学者満州事変二・二六事件五・一五事件などに連座したほか、「日本二千六百年史」「近世欧羅巴植民史」などを執筆し、軍国主義を主張した。裁判梅毒による精神異常のため免訴された。

その他

本庄

 陸軍大将関東軍司令官として満州事変承認戦後戦犯指名されたが自決した。

石原莞爾

 陸軍軍人関東軍参謀として満州事変を起こした。日米開戦に反対し、東条英機対立したため予備役編入された。東條との対立、重病のため起訴を免れた。

近衛文麿

 第一内閣では日中戦争が勃発、近衛声明を発表した。第二次内閣では日独伊三国同盟を締結。戦犯指名されたが、服毒自殺した。

2013-11-03

民法出でて忠孝亡ぶ(民法出テゝ忠孝亡ブ):穂積八束

一理あれば一害あり。私法家は個人平等の極端に捗りて社会の秩序を害し易く,公法家は権力相関に偏重して世運啓発に伴ふことを怠るは,各 其(の)専らとする所に於て免れざるの弊なり。唯 此の二元素 相 調和して始めて国家法制の美を成すべしと雖,我邦 維新以來 社会の改新を謀るの急なるより,明治立憲の法度,或は専ら私法家理論に偏傾したる跡なきにあらざるが,豈に後世史家の浩歎する所ならざるを知らんや。

我(が)国は祖先教の国なり。家制の郷なり。権力と法とは家に生れたり。不羈自由の個人が森林原野に敵対の衝突に由りて生れたるにあらざるなり。氏族と云ひ国家と云ふも家制を推拡したるものに過ぎず。権力相関を指摘するの呼称は異なりと雖,皇室の嬖臣に臨み,氏族首長の其(の)族類に於ける,家父の家族を制する,皆 其(の)権力の種を一にす。而して之を統一して全からしむるもの祖先教の国風にして,公私の法制習慣 之に由るにあらざれば,解すべからざる者 此々 皆 然り。之を要するに,我(が)固有の国俗法度は,耶蘇教以前の欧羅巴と酷相似たり。然るに我(が)法制家は,専ら標準を耶蘇教以後に発達したる欧洲の法理に採り,殆んど我の耶蘇教国にあらざることを忘れたるに似たるは怪しむべし。

耶蘇教以前の欧洲の文化は希臘(=ギリシャ)羅馬(=ローマ)の盛世 之を代表す。当世の史料,素より富胆なり。之を詳にする難きにあらず。況や如今 法制史の大作,クルチウスの希臘(=ギリシャ)に於ける,モムセン及(び)イエリングの羅馬(=ローマ)に於けるあり。専門の士にあらざるも之を窺ふに易きのみ。古日耳曼(=古ゲルマン)に到りては僅(か)にタシタスセーザルの記傅に由ると雖,方今ワイツ以下 古独(=古ドイツ)法制 探究する者少なしとせず。而して耶蘇教以前の古(日?)耳曼(=古ゲルマン?)の制度は,期せずして希臘(=ギリシャ)・羅馬(=ローマ)と其(の)跡を同ふするを発見するときは,耶蘇教の欧洲に入らざりし以前は汎く印度・日耳曼(=ゲルマン),人類に通ずるの主想ありしこと知るべきなり。

欧洲固有の法制は祖先教に本源す。祖先心霊を崇拜するは其(の)建国の基礎なり。法制史は法の誕生を家制に見,権力の源泉を家父権に溯る。然れども何が故に家父権神聖なりやと問はゝ,之を祖先教の国風に帰一せざるべからず。祖先の肉体存せざるも,其(の)聖霊,尚(なお)家に在りて家を守護す。各家の神聖なる一隅に常火を点して家長之に奉祠す。是れ所謂 家神なり。祖先神霊なり。事細大と無く之を神に告ぐ。是れ幽界の家長にして,家長は顕世に於きて祖先の霊を代表す。家長権の神聖にして犯すべからざるは,祖先の霊の神聖にして犯すべからざるを以てなり。家族は長幼男女を問わず一に其(の)威力に服従し一に其(の)保護に頼る。

一男一女,情愛に(由?)りて其(の)居を同ふす。之を耶蘇教以後の家とす。我(が)新民法,亦(また)此(の)主義に依れり。之れ我(が)国 固有の家制にあらざるなり。是れ欧洲固有の家制にあらざるなり。欧土の古法は祖先の祭祠を同ふする者を家族と云ふ。家神は其(の)子孫にあらざれば之を守護せず。各家に其(の)神あり。之を絶滅することを忌む。家運の恒久を顕するなるべし。共に同一の神火に頼る者を家族と云ふ(古語家族とは神火を同ふすると云義なり)。後代,或は家長権の及ぶ處(=ところ)を家属とし,必(ず)しも血縁の因のみに限らざるの制あり。然れども,民法家が我(が)国に行はんとするが如き家とは,一男一女の自由契約婚姻)なりと云ふの冷淡なる思想は,絶(え)て古欧に無き所なりとす。婚姻に由りて始めて家を起こすにあらず。家祠を永続せんが為に婚姻の礼を行ふなり。茲(=ここ)を以て,古法は娶らざるを禁じ,叉 子無きときは婦を去ることを認め,或は他姓の子を養ふて家祠の断絶を防ぐ,皆 古欧の家制は今の家制と其(の)主想を異にし,祖先教に本源することを証するものなり。之を我(が)国 非耶蘇教の習俗に照応するときは相似たる者あり。欧洲は,彼の宗教行はれしより,独尊の上帝は人類の敬と愛とを専有し,子孫また祖先の拜すべきを知らず。於是乎(=ここに於いて?)孝道 衰ふ。平等博愛の主義 行われて民俗血族を疎んず。於是乎(=ここに於いて?)家制 亡ぶ。而して個人平等社会を成し,個人本位の法制を以て之を維持せんと欲す。フュステル・ド・クーランジ(ュ)は法制史の大家なり。其(の)古欧家制を解説するに序して曰く,人が「其(の)父,若(しく)は祖先を崇敬(アドレ)すると云ふの事(?)は吾人の信じ難き所なり。然れども是れ事実なりき」と。嗚呼耶蘇教国に於きて耶蘇教人に孝道を説明するの難(し)き,此の一言を以て証すべし。我(が)国 未だ他教を以て祖先教を一洗したるにあらざるなり。然るに民法の法文,先づ国教排斥し,家制を破壊するの精神に成り,僅(か)に「家」「戸主」等の文字を看ると雖,却(っ)て之が為めに法理の不明を招く空文 無きの優れるに若かざるなり。嗚呼,極端個人本位の民法を布きて三千余年の信仰に悖らんとす。而して一方に於きては,或は耶蘇教旨の我に行はるゝを欣ばず,強(い)て忠孝の国風を保持せんとす。哲学家は巧妙の弁あるべしと雖,法制史家の眼中に於ては孝道は祖先教家制の影なり。法制 先づ其(の)実体を亡(ぼ)し,教育行政は其(の)影の存せんことに汲々たり。史家は其(の)前後矛盾を笑なるべし。公法権力相関の秩序なりとは,予が公法の講堂に出入せし人の聞(き)飽きたる説明なり。然れども,公法研究は,期せずして復た此(の)原則に帰納せらるを得ざるなり。仏人フラフの近著,亦 権力相関の源泉に遡り,制度の変遷を詳(ら)かにせんとす。諸家 皆 其(の)本源を古の家制に帰す。家は家父権 之を統治す。家父は家属に対し殆んど無限威力あり。後世の羅馬(ローマ)法家 之を夫が婦 及(び)子に対して天然に優れるの実力に帰せんとす。蓋(し)誤解なり。家父は夫 若(しく)は父たるの身分に由りて此(の)権を有するにあらず。権力の源泉は祖先の霊にあり。家を守護するの家神は家属を制裁するの威あるべく,子孫の祖先の霊に服従すべきは,之を顕世の代表者に移すことを得べし。古代「バーチル」の語,常に母の夫を指すのみならず,汎く有権者を呼びたる例なしともせず,亦,以て家父権は法の源たること知るべく,法は神聖なりと云ふ語の完全なる意味をも解することを得べきなり。耶蘇教の入りしより家父権 衰ふ。祖先の霊は子孫を守護するの責を免れ,父子夫婦 同じく唯一上帝の前に平等なり。祖先及(び)父を崇敬するは,神を侮辱する者なり。法は俗界の制 何ぞ神聖と称する事(?)を得ん。博く汝の隣人を愛せ,一視同仁の天帝血縁の濃淡を認めざるなり。家制 豈(に)久しきを保たんや。家制 衰へてより近代国政の基礎を固ふするに到るの間,欧洲の社会権力相関の中心を失うこと久し。是れ法度 弛廃し,豪族(が)割拠(し)優者(が)専恣(する)の世とす。僅(か)に其(の)社会を救ふたるもの耶蘇教の力 多しとす。「神聖なる羅馬(ローマ)帝国」は実に宗教の力に頼りて其(の)主権名分を正し,人心を維持することを得たり。若(し)欧土にして急激の祖先の教法を棄て耶蘇教を入るゝことを拒みしならば,欧洲の社会道徳法制 其(の)跡を絶ちしならん,後人の鑑むべき所なり。耶蘇教の希望する個人を本位とし世界を合同するは,欧土 尚 之を実践する能はず。家制を脱し族制に遷り,方今は国家を以て相(い)依り 相(い)携ふの根拠とせり。家制主義 既に及ばずとするも,国家主義を以て法制の本位と成すべきなり。史家は一躍 三千年来の家制を看ること弊履の如く,双手 極端個人本位の法制を迎へんとする我(が)立法家の大胆なるに駭(=おどろ)くなるべし。萬世一系の主権は天地とともに久し。其(の)由る所 或は祖先の教法家制の精神捗るなきか。所謂 君子国の美俗は,祖先教を撲滅し,又,新教を容れず,唯 学校修身教課書を以てのみ保維することを得るか,史学の一好試験なり。

(法學新報第五號 1891(明治24)年8月15日。『穂積八束博士論文集』(有斐閣1943年)を底本とし,表記を現代語に改め,適宜 句読点 及び送りがなを補った。)

2007-11-22

http://anond.hatelabo.jp/20071122184006

欧羅巴とか名付けて欲しいよね、字面的に。読み方は想像に任せる。

 
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