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はてなキーワード: 明治時代とは

2025-11-21

anond:20251121152023

左翼従属が嫌いだから日本支配する(基地がある)アメリカを嫌うし、与党も嫌う。クルド人に対しては、移民人権もあるかもしれないが、少数派で自分の上ではないからというのが実態に近いような気がする。過去には社会主義に憧れた視点ソ連中国を見ていたが現在それら国々が独裁国家であることはもはや誤魔化せず苦い過去になっている。社会主義がなくなったせいで中道自由主義が最左端になってしまった。中国は好きではないが過去戦争の手前を気にして強気にでられない。

右翼上下関係重視だからアメリカ様と与党が大好きで、外国人であるクルド人は少数派の格下だから鬱憤晴らしの道具にする。野党も上様に逆らうから嫌い。アジア日本より下とみなすの伝統重視で明治時代を引きずっているから、経済的にも軍事的にも負けてても見下すことができる。独裁が悪だから中国批判するというのは建前で、本当はピラミッド組織で固まって敵認定した相手国内でも国外でも叩き潰すのが一番気持ちいいと思っているし、人権なんてどうでもいい。

anond:20251120114153

現実的に「正義(の行使)」には核を含む軍事力経済力後ろ盾が不可欠。

アメリカ中国ロシアを見れば分かること。

明治時代の「富国強兵」は、そのまま、経済(産業)と軍事の話。

元々の日本の山の森ってどんなだったんだろう

今って変な時代でさ

江戸時代明治時代は木を全部薪にしてしまっていた時代

それを戦後植林していまの状態があるんだけど

今後メンテナンスがされなくなっていく

って考えるともう山や森は目まぐるしい変化をしているんだよね

2025-11-17

夏目漱石こころ」の先生って、メンクリ行ってたら死なずに済んだよな

夏目漱石の「こころ」読むたびに思うんだけど、あの先生ガチメンタルクリニック行ってたら100%死なずに済んだよな。

頭良すぎて、逆に自分の罪悪感を論理的に組み立てちゃってさ

Kの自殺自分が原因って思い込んで、自分自分を追い詰めてるじゃん

あれ完全に認知の歪みだよ

現代精神科医が見たら、強迫観念抑うつ状態自責思考って即診断して、SSRI出して診断書書いて認知行動療法始めるレベル

まず初診で「Kさんの死はあなたのせいだけじゃないですよ」って言われたら、先生泣いてるだろ。

あなたは裏切ったんじゃなくて、ただ恋してしまっただけなんです」とか言われたら、心がちょっと揺らいだはずなんだよ。

それかグループ療法とかに通って、同じように過去に誰かを死なせてしまった罪悪感で苦しんでる人と話せば、苦しんでるのは俺だけじゃないんだって気づけたかもしれない。

先生って結局、誰とも本音で話せてなかったのが最大の問題なんだよな。

遺書でようやく全部吐き出すとか遅すぎる。

明治時代から仕方ないって言われるけどさ、今だったら普通に生きてられたのにって思うと切なすぎる。

奥さんにすら話せなかったことを、カウンセリングで少しずつ言語化できてたら絶対違ったよ

俺もさ、ちょっとしんどいときにこの話思い出すと、思い詰めるくらいならメンクリ行こって思えるんだよな

みんなもヤバくなったらメンクリ行ってくれよな

2025-11-14

anond:20251114135831

日本領土ということになっているけど、なんにもしてないかロシアにとられそうだってなって、慌てて開発したのが明治時代

清の時代でも台湾は基本放置

でもまぁ日帝なら、江戸北海道に攻め込みそうだけど、特に変化が無いまま今に至ったら、現代人の感覚としてはどうだろうなーてね。

国会図書館デジタルコレクションで見る戦前新撰組の扱い

以前、「国会図書館デジタルコレクションで見る明治時代の新撰組の扱い」という記事を書いた。

その続きとして戦前特に新選組イメージを覆したと言われる子母澤寛新選組始末記』(1928年前後評価を探っていきたいと思う。

関連:新撰組は「悪役」扱いだったか?~彼らの「語られ方」の歴史を検証する - posfie

1926年大正15年)富永堅吾『剣道達人腕比べ』

近藤勇といへば、維新当時、鬼勇とまでいはれた武勇伝中の一人で、今に尚、芝居や講談読物によつて若い人たちの血を湧かして居るが、彼れは若い時分、近藤周斎の門に這入つて剣術を学んだ。

これは古今の剣術家らのエピソードを集めた子供向けの読み物らしい。そのうちの一篇として近藤勇が紹介されている。特に悪い書き方はされていない。

「芝居や講談読物」によって、近藤勇がよく知られていたことが窺える。

1926年大正15年)の村松梢風創作講談』の広告

第一の『近藤勇』は新撰組領袖として目覚ましい大活躍をした幕末史中の花形役者

創作講談』は「近藤勇宮本武蔵一休和尚猿飛佐助清水次郎長紀伊国屋文左衛門」という伝記のシリーズで、1925年刊行されたようだ。

1927年昭和2年雑誌帝劇

勤王、佐幕、そして今の世は勤王劇流行で、勤王で無ければ成らぬ流行中を、我が澤田は新撰組の佐幕劇を以てその隊長近藤勇で見えている

劇団新国劇」についての論評。『新撰組』は新国劇十八番で、たびたび上演されているとも書かれている。

1927年昭和2年雑誌日本日本人』

そこで先づ目に映つたのは、此頃人気を呼んでいる新撰組隊長近藤勇が、大阪富豪鴻池善右衛門加島屋作兵衛、辰巳屋文左衛門外十数名から金を用立てさせた「約定証書」は、鴻池の家蔵品として出品されてあつた。

大阪朝日新聞社主催・大阪市後援の「大阪史料展覧会」のレポートらしい。

そういうイベント鴻池家が新選組史料を出している、というあたりに「此頃の人気」が窺えるのではないか

続いて子母澤寛新選組始末記』直後の1929年新選組評価をいくつか。

1929年昭和4年文芸春秋社文芸創作講座』

今日大衆文学に行はれている赤穗浪士にしても由井正雪にしても近藤勇にしても、悉く正史よりも寧ろ外傳の史料に拠るものが多い。


1929年昭和4年尾佐竹猛明治秘史疑獄難獄』

剣劇映画大衆文芸に何百回となく描かれて居る一代の剣豪近藤勇も、明治元年正月幕軍の敗走以来、落目となつては為す事毎に齟齬し、四月三日越ヶ谷の官軍本営にて捕はれた。


1929年昭和4年子母澤寛新選組始末記』の広告

時代は常に逆転す!チャンバラ本家新選組だ!現代チャンバラ全盛を地下の近藤勇は苦笑でもやつてるか?明治回天大芝居の其花形新選組の後始末はサテどうなつたか!?


1929年昭和4年)『菊池寛全集』より「後代の人気」

だが、近藤勇のこの頃の人気は素晴らしい。大衆的人気の上で維新の三傑などは、蹴飛ばしいるから愉快である。後代の人気と云ふものは、その時代を作つた人に集らずして、その前代に殉じた人に集るやうである


なお、新選組が登場するフィクションとしては、前回に紹介した講談を除くと、1913年から連載された中里介山大菩薩峠』が一足早い。

そして前田曙山『燃ゆる渦巻』、大佛次郎鞍馬天狗』、白井喬二新撰組』といった人気小説1924年に揃って出ている。

いずれも新選組主人公というわけではないが重要な役どころで登場する。

それを受けてか、1925年から新選組を主役とした映画が立て続けに公開されていたらしい(参考)。

戦後になるが1959年大井廣介ちゃんばら芸術史』から、まとめっぽい記述を。

たとえば、小説では、白井喬二独楽師の角逐というめずらしい題材をとりあげた『新選組』の遠景には近藤勇池田屋斬込みなどが扱われ、大仏次郎の『鞍馬天狗』の最初単行本でも、近藤勇がすこぶる活躍した。劇では、行友李風新国劇に『新撰組』を書きおろし、沢正が近藤勇をやる。映画では、枚挙にいとまないという有様だった。このように、勤皇か佐幕かのチャンバラ新撰組近藤勇がしきりにでてくるようになったのは、『大菩薩峠』や『月形半平太』が既にあるにはあったが、『朝日』の『燃ゆる渦巻』が大々的に口火をきった。


以上からすると、『新選組始末記』以前から近藤勇および新選組は十分に時代劇のスターだったようだ。

維新志士の好敵手として設定されてはいても、しかし「悪役として嫌われていた」という感じではない。

特に1924年ごろから一種の「新選組ブーム」と言っていいような状況だったのではないか

ただ当時は、あくま近藤勇の人気が飛び抜けて高く、次いで土方が知られていたくらいで、沖田などのキャラが立ったのはやはり『新選組始末記』以降だろうか。

1929年には月形龍之介主演で『剣士沖田総司』という映画が作られたらしい)

池田屋で沖田が病気により昏倒する」などのエピソードは、明治末の講談に採り入れられてはいたが、それ以降の作品にあまり引き継がれなかった。

そうした細かいエピソードあらためて掘り起こして、当時大量に作られていた小説映画に新たなネタ提供した、という点に子母澤寛の功績がありそうだ。

2025-11-05

3周回って男性オナニー健全論が出てくる時期だな

明治前まで:好きにすればええやん

 

明治時代オナニーするとバカになるからダメ

 

第二次世界大戦後:女を買うくらいならオナニーしとけ

 

現代:性欲猿キッショ!!!!!

 

近未来:性加害するくらいならオナニーしとけ

 

オナニー君も大変だよな

時代に振り回され続けてる

2025-10-26

anond:20251026223327

ああ、ひつまぶしのあの感じ、めっちゃわかるわ!かに、立派な一枚うなぎがドーンと乗ったうな重の迫力に比べたら、刻んでごまかしてるみたいでちょっと物足りないよね。しかも、あの変な木箱みたいな入れ物でご飯をすくうの、毎回イラッとするし、三回に分けて「次は薬味! 次はお茶漬け!」って強制的に食べさせられるのも、なんかケチくさいというか、贅沢感が薄れるよな。「お茶漬けで!」じゃなくて、「最初から全部食えよ!」ってツッコミたくなるわ(笑)

でさ、なんでこんな食べ方が生まれたのか、ちょっと調べてみたんだけど、起源明治時代名古屋の老舗「あつた蓬莱軒」らしいよ。当時は出前でうなぎ丼を運ぶのに、陶器の器が割れやすいから丈夫な木製のおひつ(木の飯盒みたいなやつ)を使って、ご飯うなぎを混ぜて運んだのが始まり。 それで「ひつまぶし」って名前がついて、混ぜるのが「まぶす」から来てるんだって名古屋の「もったいない精神」が根底にあって、うなぎの旨味を最後まで楽しむために三回スタイルになったらしい。 お茶漬けの部分は、元々会席の締めとして「ご飯もの出して」って要望があって、最初お茶で試したけど臭みが気になってだし汁に変えたんだと。 つまり、運搬の工夫からまれ実用的な食べ方なんだけど、確かに今どきは「そんな手間かけなくてもいいじゃん」って思うよね。頭悪いってか、効率悪い(笑)

一方で、X(旧Twitter)見てみたら、ひつまぶし大好き勢がめっちゃ多いよ。例えば、名古屋駅近くの店で「黒毛和牛ひつまぶし」食べて「香ばしくて柔らかくて最高!」って絶賛してる人とか、 競馬場ひつまぶし食いながらビール飲んでる人とか、 黒豚バージョン作ってYouTubeにアップしてる料理家さんとか。 みんな「三回楽しめてお得!」って感じで盛り上がってる。批判的な声はあんまり見当たらなくて、むしろ名古屋ソウルフードとして愛されてるみたい。

結局、うな重派の君の気持ち、超わかるよ。シンプルうなぎの脂がジュワッと染みたご飯を一気に頬張るのが至福だもんね。ひつまぶしは「工夫の産物」としてリスペクトしつつ、俺はうな重一択でいくわ! 次はどっち食いに行く? もし名古屋行ったら、両方制覇して比べてみるのもアリかも(笑)

2025-10-21

国旗損壊表現の自由

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.nikkei.com/article/DGXZQOUA209Z90Q5A021C2000000/

日本国旗を対象にした損壊行為刑事罰対象とする国旗損壊罪を制定する方針が、自民党維新の会との連立合意書に明記された。高市自民党総裁としては従前から何度も法案を出してきた悲願の一つでもあり、今の日本において最も早期に行うべき施策の一つと考えているということだろう。その認識自体まりにばかばかしいが、普段創作表現の自由を声高に叫ぶ一部ブクマカ達に安易賛同されている様子で、その変わらぬ権威主義にほっとしたので少し反対意見を書いておきたい。なお、増田確認した時点で人気コメント趨勢違憲可能性を指摘するもの多数派であり、その意味でははてな全体ではまだ正気は保たれているようなので、別にこんなものを書く必要もないが、まあ、必要ものを書くなどという意義のある行為匿名ダイアリーなすべき仕事ではないだろう。

まず、高市氏が従前からしつこく主張を続ける、自国旗と他国旗との扱いの差だが、他国国章への損壊行為犯罪として定められているのは、他国への侮辱を防止することによる外交の円滑や国際的安全性保護などが目的とされており、自国旗にはこのような目的が成り立たないことが当然である以上、むしろ差を設けない方が不自然であると言えるだろう。なお、外国国章損壊罪適用については、条文上、訴追に当該国の請求を要するとされているだけでなく、「国章」の解釈について公的に掲げられたもの限定され、私的な所有物等は対象外とする等、慎重な運用を行うべきと解するのが学説の通説的見解とさており、実務上も事件化には慎重な姿勢が取られているようである

国旗国民統合象徴であるとともに、国家権力象徴ともみなされており、往々にして政治的デモ活動において、破壊行為対象となりがちであることは言を俟たないだろう。その視覚効果はあまりに雄弁であるデモ行為を野蛮なものや、「左翼」がやるようなものとして、自分と切り離している人間であっても、自国政府が例えば全体主義的な政治弾圧活動を行動を行いだし、自身も立ち上がらないといけないときが来た時に、抗議の意思国旗を燃やすという形でやるという考え自体がおよそ理解できないということはないのではないだろうか。この点で、国旗への損壊行為への処罰が、「表現」への規制ではない、国家への批判行為の委縮効果を持たない、というのはおためごかしに過ぎないことは理解できるだろうと思われる(まあ、とは書いたが、「国旗を傷つける必要はない」「むしろ国民のために立ちがるのであれば国旗を掲げるべき」というような反論をして満足する人も実際には多いだろう。する必要がない表現であれば刑事罰による規制をしていいのかは考えてほしいものではあるが。)。

これに対し、欧州各国等、先進国も含めた多くの国で自国旗の損壊処罰されていることを根拠に、問題がないという理解をしていると思われるコメントがいくつか見られるが、それぞれの国において当該行為処罰対象とすることにはそれぞれの国の歴史、経緯があるものと思われ、日本に当てはめる根拠とするのであれば、その必要性を別に議論するべきだろう。性的表現について規制をするのであれば科学エビデンスを出せという言論がよくもてはやされるが、その理屈を借りれば、日本において自国旗の損壊行為処罰すべき立法事実存在するのであれば、その「科学エビデンス」を上げるべきである日本人の名誉感情が当然害されるのだからそれでいいというのであれば、非実在児童ポルノ一般人性的羞恥心を著しく害し、性道徳を乱すのは当然であるので刑事罰対象としてもいいという暴論と変わらないだろう。まして、「外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試み」た日本歴史を振り返れば、他国比較しても、国粋主義的な高まり批判するための自由が確保されることに、やり過ぎということはあり得ないのではないだろうか。なお、他国国章損壊罪に該当する規制明治時代から存在していたようであるが、これに対応する自国旗への損壊刑事罰は当時から存在していなかったようである

言論多様性はそれが保障されなければ消えてしまうかもしれない少数派、反体制派に対してこそ与えられるべきものであり、体制象徴である日本国旗を損壊する行為への規制は、そのような行為に出たくなる気持ち理解できない人であればこそより慎重に必要性を検討するべきものである。それを犠牲にして、一時的な国粋的な感情や、あるいは、「左派」を懲らしめてやったという感情を満足させておきながら、表現の自由重要性を恥ずかしげもなく掲げ続けるというのは私には理解できないところではある。

2025-10-10

anond:20251010141607

ばけばけを時代劇って言ってるの他でも見たけど

明治時代舞台なのを時代劇って言うのどうも抵抗あるんだよなあ

それだと坂の上の雲やいだてんも時代劇になってしま

まあばけばけは士族の話だしチョンマゲもしてるしだから時代劇って言われちゃうのかなあ

anond:20251010122627

逆だよ

江戸時代は「留(お留さん)」「梅(お梅さん)」という名前だったのが

明治時代にそこに「子」をつけるブームが来て「留子」「梅子」になったんだ

トメ」「ウメ」が前提で「トメ子」「ウメ子」は後付けな

2025-10-09

anond:20251009105239

俺は江戸時代明治時代庶民雑談とか読めたら嬉しいし、そんなのが残ってたら研究者も涎を垂らして喜ぶだろうと思うよ。

逆に江戸時代庶民が「俺の日記なんて価値ないだろ?」とか言って燃やそうとしてたら必死に止めるだろうね。

2025-10-01

anond:20251001100834

何で捕まえたの解放したがるのか意味不明なんだが

普通に適切な刑受けさせろよ

明治時代

2025-09-28

anond:20250928164343

# 郵政思想とは?

郵政思想(ゆうせいしそう)とは、郵便事業郵政サービスが持つ社会的役割価値観を重視する考え方を指します。日本では特に明治時代近代郵便制度確立した前島密(まえじま ひそか)が提唱した理念に根ざしています。彼は郵便を単なる通信手段ではなく、国家統一国民利便性向上、情報流通の促進を通じて社会の発展に貢献するものと考えました。

## 郵政思想の主な特徴

**国民全体へのサービス提供**

郵便都市部だけでなく、離島僻地にも等しくサービス提供することで、地域格差をなくし、国民平等情報アクセス保証する。

**公共性信頼性**

郵便国家社会インフラとして、信頼性が高く、公平で安定したサービス提供する使命を持つ。

**国家の発展への貢献**

情報物資流通を通じて、経済活動文化交流を支え、国家近代化や国際競争力の強化に寄与する。

**民間との協調**

郵政事業は政府が主導するが、民間ニーズ技術革新を取り入れ、効率性とサービスの質を高める。

## 歴史的背景

日本では、1871年前島密西洋郵便制度を参考に全国的郵便ネットワークを構築し、郵便局を「国民のための公共機関」と位置づけました。この思想は、郵便だけでなく、貯金保険事業(後のゆうちょ銀行やかん生命)にも広がり、郵政事業が国民生活に深く根付く基盤となりました。

## 現代における意義

現代では、郵政民営化2007年)以降、郵政事業の公共性民間企業としての効率性が議論の焦点となっています郵政思想は、単なる営利追求ではなく、地域社会国民全体への奉仕という理念を維持する重要性を強調します。特に過疎地域での郵便局の役割や、災害時の通信網の確保など、社会的責任が再評価されています

## 関連する議論

**民営化公共性バランス**

民営化により効率化が進んだ一方、僻地でのサービス縮小や利益優先の懸念が指摘される。

**デジタル化への対応**

インターネット時代において、伝統的な郵便役割が変化する中、郵政思想をどう現代適応させるかが課題

> もし特定の側面(例えば歴史現代課題)について深掘りしたい場合や、関連する資料分析必要場合は教えてください!

2025-09-19

「末代」を「最後の代」という意味で使うのは誤用なのか

近年、「末代」の誤用が指摘されることが増えてきた。

たとえば「子供ができないので私が末代だ」などの発言に対して「誤用である」と言うのである

「末代」とは自分が死んだあとの「遠い未来」のことであって、「最後の代」の意味はない、というのが誤用派の主張である

しかし、中国語では以下のような意味とされている。

末代_百度百科

末代,汉语词语,拼音mò dài,注音ㄇㄛˋ ㄉㄞˋ,外文名the last reign of a dynasty,原指一个朝代的最后一代,最早记载于东晋王嘉《拾遗记·秦始皇》。

「末代」(中国語の語彙、拼音 mò dài、注音 ㄇㄛˋ ㄉㄞˋ、英語 the last reign of a dynasty)は、もともと一つの王朝最後の一代を指す語で、最初記載東晋の王嘉『拾遺記・秦始皇』に見られる。

王朝最後の一代」を指すというので、まさに「初代」の対義語としての「末代」である

たとえば、清王朝最後皇帝・溥儀を描いた映画ラストエンペラー』の中国語題が『末代皇帝であることからも、そうした意味流通していることがわかる。

ただ、もともとは中国でも「後世」という意味で使われることが多かったようだ。

初出とされている東晋の王嘉『拾遺記・秦始皇』に書かれているのも「末代浮誣(後世のでたらめ)」といったような用法である

「末代皇帝」のような用法は、おそらく明代にはあったようだが、そこからどこまで遡れるかはわからなかった。

明代の『卜筮全書』の注釈に「桀 夏朝末代君主」とあったが注釈が後世のものという可能性はある)

さて、それでは「末代」は日本ではどう使われてきたのか。

「末代」という語は、平安時代から概ね「後世」の意味で使われてきたようだ。

そもそも日本には「王朝」は一つしかない。

王朝の末代」と言う場面がなく「末代天皇」などもいないのである

とはいえ日本に「末代天皇はいなくとも「末代将軍」なら存在する。

実際に、国会図書館DC検索してみれば、明治時代書籍に「足利の末代」や「徳川代将軍」のような言い回しを見つけることができる。

また、中国歴代王朝を紹介するのに、その初代と末代を書き並べているものなどもあった。

であれば「末代」を「最後の代」という意味で使うのも問題はないと考える。

もちろん「あくま日本では『後世』の意味メジャーなんだよ」という主張はできる。

しかし「最後の代」という用法も少なくとも「誤用」ではないし、わざわざ修正する必要もないと思うのである

なお、

死んでからのちの世。

という辞書説明を見て「末代」を「死後の世界あの世)」の意味だと早合点している人もいるようだ。

「末代」を「後世」とするか「最後の代」とするかは解釈問題であるが、「末代」を「あの世」とするのは完全なる勘違いであるので定着しないことを祈る。

2025-09-17

薩摩弁「ちぇすと」の由来について1898年以前の用例から考える

「ちぇすと」の由来については以下のnote記事に詳しい。

[研究] 謎の薩摩弁「ちぇすと」はどのように生まれたか――鹿児島谷山方言とロシア語が結びついて流行語になり、誤解から「興奮とくやしさを表す雄たけび」に変化|mitimasu

(1) 本来、「ちぇすと」は**鹿児島谷山町の方言で、「よっこいしょ」の意味**の言葉

(2) 明治時代の中頃に鹿児島谷山方言の「ちぇすと」と**ロシア語の「че́сть(名誉)」が結びついて称賛としての「ちぇすと」が鹿児島知識人流行語になった**

(3) 島津義弘関ヶ原正面退却や宝暦治水を**称賛する言葉として**「ちぇすと関ヶ原」「ちぇすと松原」(※宝暦治水千本松原のこと)が生まれ

(4) しかロシア語意味がわからない人が、(3)の使われ方から(2)を**悲しいとき・くやしいときに発する言葉だと誤解した**と思われる

(5) これらを踏まえて明治30年ごろに「ちぇすと」が**東京学生青年あいだで「気合を入れる言葉」として流行し**、広く世間に知られるようになった

(6) 流行がしずまり現実では(2)と(5)を使う人は減り、**フィクションの中の薩摩人ばかりが使う言葉になった**

(7) 鹿児島出身作家である**海音寺潮五郎が(4)の意味でさかんに使用**(海音寺氏は谷山から遠く離れた現・伊佐市の生まれ

(8) これが鹿児島県に逆輸入され「ちぇすと」が「くやしいとき気合を入れる時に薩摩人が発する言葉」だと**鹿児島県人が認めてお墨付きを与えてしまう**

(9) 司馬遼太郎をはじめ**多くの作家が(4)の意味使用し、(3)の意味は失われていった**

(10) 結果として「気合を入れるときの雄たけび」と「くやしいときに発する言葉」という**異なる意味が「ちぇすと」の中に共存し、よくわからない**ことになってしまった

(11) そもそも「ちぇすと」は「よっこいしょ」という意味しかない江戸明治期の谷山町の方言なので、**多くの現代鹿児島県人にとっても使わないよくわからない言葉**である

しかし、このnote記事では1936年辞書の「露語から来たといわれる」という一つの記述を、そのまま鵜呑みにしてしまっている。

また全体として推測が多すぎるため、いくつかの情報提示するとともに研究を補強したい。

「ちぇすと」の初出としては、1898年内田魯庵『くれの廿八日』が挙げられているが、これよりも早い用例はいくつかある。

まず、1888年の『青年之進路』。著者は鹿児島士族佐藤良之助とある

猿渡は傍若無人なりステッキを以て力任せに竹藪を叩きながら

然り然り卑怯者奴(め)……無気力(いくじなし)奴(め)チエストー

これは相手馬鹿にして煽っているシーンであり、この「ちぇすと」は少なくとも称賛の意ではあるまい。

ただ、ステッキを振るための掛け声なのか、相手威圧するための掛け声なのかはわからない。

同じく1888年の『女学雑誌』。

「さうダワ」「なくつてよ」のあどけない令嬢のみならんや「チエスト」と罵るこわからしき九州男児も「オオしんど」と言ふ裊娜(たほやか)なる西京佳人も以て一対の主人公なすに足らん

句読点がないからどこからどこまでが一文かわからないが、ともあれ「ちぇすと」は「罵り」だという認識があったことが窺える。

1889年の同じく『女学雑誌』。

膝ッきりの衣服に高下駄お国書生、是も二人連

「ドウモ奇絶ジャ…」「エライ人が駈をるナ…コレどふする…」

箪笥を擔で来る男「邪魔邪魔ダッ…」

「コリャどふする…エエ」お国訛にりきんでも突飛(つきとば)される「エエ…チエスト」。扼腕――是も苦笑となる。

田舎者上京してきて呆然としているところに箪笥をかついだ男に突き飛ばされて「ちぇすと」と扼腕する、といった場面。

ちくしょう」「なんてこった」などと同じような、思わず出てしまった言葉という感じがする。

1892年罪と罰』。ドストエフスキーの訳書だが、訳者が『くれの廿八日』の内田魯庵である

真向に鉈振上げて、婆アの頭脳を打砕き、腥血淋漓たる中に生血の滴る得物を手にし、錠を破し、金を盗んで、隠れやうとする自己だ。ちェすと!こんな事が出来るか?有るもんか?

英文からすると「ちぇすと」はかなり意訳っぽいが、やはり「なんてこった」という感じだろうか。

1893年『称好塾報』。称好塾は滋賀出身杉浦重剛という人が東京に作った私塾である

此頃より陰雲未た開けずと雖も細雨は既に跡を収め皆チエストと絶叫せり

其佳なる所に至れば「チエスト」と絶叫せしむ

前者は川船を漕いでいるときに雨が上がったところ、後者薩摩琵琶の演奏についての記述で、いずれにしても快哉を叫んでいるようである

薩摩琵琶はともかく、雨上がりに「ちぇすと」と叫ぶのは、すでに鹿児島出身ではない学生たちのあいだでも「ちぇすと」が定着していたのだろうか。

1893年少年子』。

此愉快なる、此呑気なる、此無責任なる、此無頓着なる生活写生に向って毛奴を奔らす、予輩も亦自らチエストー一声の下に案を叩いて四辺を一睨せさるを得さるなり

下宿暮らしの書生はあまり自由気ままだという話のオチの部分だが、よく意味がわからない。

とりあえず、気合を入れるための一声、という感じか?

1895年探偵実話 娘義太夫』。

「左様か教師が左様云ッたか……自分でさへ左様思ふもの……」と言つつ両眼に涙を湛へ「チエストッ鹿児島男児が」と一声高く叫びたり

自分が情けなくなってちぇすと。

溝口は下足番の招き声に風(ふ)と心注(こころづ)きて立止り「チエストー貴様おはん)は偽言と云ひ馬鹿なッ」と言捨しまま元来し道へ駈戻らんとせり

怒りのちぇすと。

彼が情厚の男子と己(おい)どんを今日まで思ッチヨルとは何たる事か夢か誠か、イヤ誠……此文……チエストー、アア愉快愉快ト喜び勇むも実に尤もなり

喜びのちぇすと。

薩摩人の「溝口」が女義太夫の「紋清」に惚れ込んで事件に巻き込まれていく話らしく、全体的に良くも悪くも感情が高ぶると「ちぇすと」と言う描写になっているようだ。

ただ著者は匿名だが、実は高谷爲之という刑事上がりの新聞記者で、東京出身らしい。

1896年『盍簪』「薩摩新風土記」。

チェストー、這は是れ感情鋭烈なる薩摩隼人が何事にか其の心を刺撃せられ感泉俄に湧て抑ゆるに由なく、一條の熱気思はば口端より迸出するの声なり、此感声の発する時、是れ彼れ等が掌を握り肉を震はすの時なり、ステキヲ揮ひ路草を薙ぐるの時なり、実に薩人の感情は激烈なり

ステッキで草を薙ぐというのは『青年之進路』の場面そのままだが、そんなに典型的な行動だったのか?

と気付いたが、note記事でも紹介されていた『薩摩見聞記』にもほぼ同じ文章が出てくるので、この「薩摩新風土記」を本にしたものが『薩摩見聞記』なのだろう。

この『薩摩見聞記』の著者は本富安四郎といい、新潟長岡藩出身だが鹿児島に数年ほど滞在したという。

1897年江見水蔭『海の秘密』。江見水蔭は先ほど出てきた「称好塾」の出身らしい。

「ちえッすと!」

殊に高く響いた此声を最後にして、多くの怪しの人影は散々に大王崎を去つて仕まつて、それからは寂として声が無い。

謎の集団が、その企みが失敗したのか「ちぇすと」と叫んで去っていった、というような場面。

と、こうしたあたりが1898年内田魯庵『くれの廿八日』以前の用例である

明治中期からしか用例がないということに変わりはないが、当初から明らかに「称賛」ではない例が多く見られる。

これは冒頭でリンクしたnote記事説明に反する事実である

薩摩新風土記」に書かれているように「何らかの感情が高ぶったときに出る声」というような説明適当ではないか

また、この頃の方言集や辞書も紹介する。

1906年の『鹿児島方言集』。

ちぇすと てすとに同ジ

てすと 感嘆詞快感

元は「てすと」なのか?

1912年山田美妙『大辞典』。

すとう[感] 九州地方方言。力ヲ込メテハゲマス語。或ハちえナドヲ添へ、ちえすとうナドトスル。

元は「ちぇ+すとう」なのか?

1933年方言誌』「鹿児島鹿児島谷山方言集」。

エスト よいしょ(掛声)

エツソ チエツソイケ それ見ろ

これについてはnote記事でも言及されていたものである

note記事では「ちぇすと」と「ちぇっそ」は無関係であろう、としていたが、

1977年かごしま民俗探求』の久保けんお「薩摩方言民謡」では、

チェストはおそらくエイクソの転化であろう。エイヨは薩摩ではチェイヨとなる。母音エに子音Tをかぶせてチェとするのであるエイクソがチェイクソとなり、促音化してチェックソ、クを省いてチェッソ…。チェッソを遠くへぶつけるには当然「チェスト」となるはずである


1979年井島六助『出水方言 カゴシマ語の一特異分野』では、

ちぇっそ 感動詞一般に知られているカゴシマ語としては「ちぇすと行け」など言って激励の語とされ、または、思わず感嘆する時の語とされているが、ここでは元来、「ちょいちょい」と同様、「ざま見ろ」という気持ちを現わす感動詞で、これに類する用例は、「ちぇすと行け」多用のずっと南にもあるようである。チェッソ、ユゴトセンモンジャッデ(ざま見ろ、言うようにせんもんだから)。語源については、英語zestからとか、露語yectbからかいうのがある。

説明されており、これらは「ちぇすと」と「ちぇっそ」には関係がある、としている。

これらの説明が正しいかどうかはともかく、多くの異論があるということであり、そのなかで一つの説を支持するならば、何らかの根拠必要になりそうである

2025-09-09

anond:20250909174236

あのねえ、だれでも明治時代偉人じゃねえの

漢訳なんてうかつに手を出しちゃだめなの

文系君はは読書感想文すらまともに掛けねえの

わかる?

2025-09-06

この手のバカってなんで自分が今住んでいる日本と作中に出てくる地域を同一視しちゃうんだろうな

2025-09-05

anond:20250905144911

日本では明治時代にはもうアイスコーヒーが飲まれたから、なんとも

イタリアでも飲まれてたようだけど、1950年代~くらいしか記録がない

2025-09-04

anond:20250904144228

調べたら明治時代から低気圧頭痛がする〜」って言ってるな。日本人軟弱すぎワラタ。

2025-09-01

anond:20250901214056

https://jp.quora.com/%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%81%8A%E9%87%91%E3%82%92%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AE%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%AB%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E6%84%8F%E5%91%B3%E3%81%AE-%E7%9D%80%E6%9C%8D-%E3%81%AF%E4%B8%AD

東海道中膝栗毛に「ちやくぶく」ということばが出てくるようです。ただ、これに「着服」の字をあてるについては、変遷がありました。

以下に古い辞書記載を見てみましょう。

言海日本辞書 1889(明治22)

ちやく-ふく:着服 着タル衣服。着衣。

●袖珍和漢雅俗いろは辞典 1893(明治26)

ちやくふく:著服、きもの、=著衣、きたるきもの

ちやくぶく(する)〔俗〕著腹(私に窃み取るを謂ふ)

●ことばの泉:日本辞典 1898(明治31

ちやく-ふく:着服。ちやくいにおなじ。

ちやく-ぶく:着腹。窃かに、わが有とすること。窃かに盗むこと。

●新編普通辞典 1905(明治38)

ちゃくふく:着腹(窃かに盗むこと)

●大辞典 1912(明治45)

ちやく-ふく(著服)著衣。

ちやく-ぶく(著腹)クスネテ我ガ有トスルコト。

ABCびき日本辞典 1917(大正6)

Chaku-fuku[著服]衣服をきること、ものを身に帯ぶること。

Chaku-fuku[著腹]ひそかにものとすること。ひそかにぬすむこと。

大日本国語辞典 第3巻 1917(大正6)

ちゃく-ふく:著服 🈩 衣服を著ること。著衣。🈔 窃かに取りて我が物とすること。ごまかし取ること。ちやくぶく。

ちやく-ぶく:著服 著腹 前条に同じ。膝栗毛「そっと彼の一本をおのが懐へちやくぶくして、そ知らぬ顔をしてゐる」

●言泉:日本辞典 第3巻 1922(大正11

ちやく-ふく:著服 🈩 ちやくい(著衣)に同じ。🈔 次条に同じ。

ちやく-ぶく:著服・著腹 窃かにわが有とすること。窃かに盗むこと。

「ひそかに盗んで私(わたくし)する」意味では主に「ちゃくぶく」と言い、明治時代には「着腹」「著腹」があてられて「服を着る」意味の「着服(ちゃくふく)」とは分けられていました。「盗んだものをひそかに自分の腹(懐)に納める」とか、そんなような意味なんじゃないかなと思います

それが大正中頃の辞書(上では、大正6年の上田万年松井簡治による「大日本国語辞典」が最初)で、「着服(著服)」に「着腹(著腹)」の意味が含まれるようになり、これを契機として「着腹(著腹)」の表記が廃れていったものと思われます

大日本国語辞典」の1929(昭和4)年版は1917年版と同じく「著服(ちゃくふく、ちゃくぶく)」「著腹(ちゃくぶく)」の両方が載っていますが、1941(昭和16)年版では「著服(ちゃくふく)」のみになっています



まり

着服の前に著服という言葉(密かに盗む意)があり、それが着服とごっちゃになったということです!!!

2025-08-22

anond:20250820123039

そんな話、2000年ぐらい前から繰り返し言われてる。

俺が知ってる例では、西暦20年ぐらいに、ローマ帝国時代クインティアヌスって人が書いた「弁論家の教育」に

最近の若者は長文が読めない、若者教養が無い、と書いてある。探せばもっと古い例もあるんじゃないかな。知らんけど。

日本だと、例えば明治時代ぐらいに、最近の若者は旧仮名遣いが読めないとか、漢文が読めないとか、

インテリ層がいろいろ愚痴をこぼしている。最近だと3行以上読めないとか、ラノベがどうこうとか。

つの時代も、高齢者とかインテリ層はみんな同じこと言ってんだわ。

人類はこんなくだらない事を2000年とかそれ以上繰り返している。

にもかかわらず、今も「最近の若者は⋯」とか言い出すおっさんが一番教養が足りてない。

若者のことをとやかく言う前に、まず自分自身無知を恥じたほうがいい。端的に言うとクソ。

2025-08-18

結局、裸婦像までエロになった

ほらね、ポリコレ社会の行き着く場所がこれですよ。

「何でもエロに見えてくる」

 

むかしは裸婦画や裸婦像なんてハッキリ言ってエロでも何でもなかった。

芸術作品の裸婦で欲情するような男は中高生でもおらんかったよ。

中高生は竹藪の中の雨にふやけたエロ本には勃起するが裸婦像で勃起するようなやつはおらんかったのじゃ。

「ああいうのはエロとは関係ないもの」という文化的意識(まあ常識だな)が一般的だったからだ。

せいぜい美術教科書卑猥落書きをして笑い合う程度だ。シコれたら自慢になるくらいのものだ。

 

それが、まあ、なんですか、こちらのブクマを拝見させていただきますと、

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.yomiuri.co.jp/national/20250818-OYT1T50020/

いいオトナでもけっこういらっしゃるんですなあ。

あいったものにまでエロを感じ取ってしまわれる、わいせつ感度の鋭敏な方々が!

この季節、週末に電車なんか乗ったらたいへんなんじゃないですか?

今どきの若い娘たちはずいぶん薄着になってますからね、あちこち出てて。

裸婦像にすらエロを見出すような人々にとっちゃ、あんな姿はどぎついポルノに等しいでしょう。鼻血を噴いてしまわれるのではないか心配です。

エロくもなんともない裸婦像に文句をつけるばかりで、実際にヘソを出して歩いてる女の子たちには何も言わないんですか?

 

ところで、ある美術館にある裸婦画を展示したら、それがわいせつだってんで警察が出動して裸婦の下半身を布で覆ってしまうという出来事がありました。

有名な「腰巻事件」っていうんですけどね。いつの出来事だかご存知ですか?

明治時代です。

要は、みなさんの芸術への理解度倫理観明治時代レベルに戻ってしまったってことですよ。

日本美術界が、古めかしい倫理観の鉄扉を100年かけてこじ開けて西洋美術伝統常識日本に根づかせたというのに、ずいぶん時計を巻き戻したものです。

女性の肉体に美を認め称揚すること、誰に恥じることなく人目に晒してよいものだと認めることは、とりも直さず女性解放意味するはず。

それがどうだ。

今のポリコレ社会は男女同権を謳うのと同じ口で「女体とはいかがわしきものである。人目に触れない場所に隠せ」と迫る。

そうして子どもたちは女体から遠ざけられ、11PMトゥナイト2も存在しない、日曜洋画劇場で「ナインハーフ」も放送されない世界で育てられる。

「裸を放送しちゃいけないってことは、裸ってきっと悪いものなんだ!汚らわしいものなんだ!」

そりゃあ街角の裸婦像にモジモジしちゃっても無理ないわな。

 

女体表現は悪だが現実の女体は善である、なんて捻じれた主張はいずれ破綻します。

赤らんだ頬やシワの寄ったスカートの絵が許されないならば、そのうち女性だって素肌を見せて外出することが許されなくなるんじゃないですか。

anond:20250816235044

いや、明治時代には牛鍋屋が流行りになってんだから大正なら余裕だろ

庶民が食える食い物だよ

今と同じでホイホイ食えなくとも

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