2025-11-14

生成AI論争を、技術者クリエイター文化の違いから考える

XのTLを見ていると、AI絵師と呼ばれる人たちとクリエイターたちがよく争っている。

私はクリエイターで、家族プログラマーだ。

イラストデザインに関わる仕事創作をしていて、食卓ではロボットプログラミング機構の話をしている。

どちらの文化にも触れており、この問題価値観の違いがあることを強く感じている。

技術者文化は、技術人類の叡智として共有されるべきという発想を土台にしているらしい。

そしてネットに公開された技術は誰が使っても良いものとして扱われるそうだ。

オープンソース文化がその象徴と言える。

私の家族も、大事に作り上げたプログラムが役目を果たした後、GitHubに上げて「自分技術人類の叡智になる」と言った。

GitHubとは、プログラムを公開したり、他の人のプログラムを見て学べる場所、という感じだ。

ここにアップしたプログラムは使って良い情報として扱われ、それが別の誰かによって改良されることで技術は前に進む。

重要な点として、技術者は共有したくないものネットに上げない。

共有する部分と共有しない部分を明確に分けていて、他人に使われて困るものや、自分けが持っていたいノウハウ絶対に公開しない。

「使われたくないのならネットに上げるな」という言葉は、おそらくこの文化の延長線上にあるのだろうと思っている。

技術者にとっての自然リテラシーなんだろう。

一方でクリエイター作品ネットに上げる。

使ってもらうためではなく、見てもらうためである

絵や漫画デザインは、作品のもの商品であり、表現であり、人によっては自分の一部だったり、子どものような存在として扱われることもある。

勝手に使われては困るし、権利も守られるべきものだ。

しかイラストについては特にデータとして流用しやすく加工も容易だという弱さがある。

ここに技術者クリエイター文化の差がはっきり表れると感じる。

技術者は、公開された情報を使うのは自然なことであると感じているし、共有によって技術が発展してきたと確信している。

からこそ情報技術爆速進化しているのだろう。

クリエイターは、作品を公開するのは見てもらうためであって、他者勝手に使っていいという意味ではないと思っている。

どちらも自分文化に基づいた反応なので、議論のものが噛み合わない。

そこに生成AIが両者の真ん中に出現したために、ギャップが一気に表面化したのだと感じている。

問題さらに複雑にしているのは、AIのものよりも悪意のある人間存在だ。

AI学習をしないでほしいと言うクリエイターの絵をAI学習させ、公序良俗に反する画像を生成し、それを晒し嘲笑するという行為があったらしい。

また、特定イラストレーターの画像学習させて多くのイラストを出力し、それを無許可でグッズ化して販売する話もよくある。

これは生成AI問題というより悪意や倫理権利侵害問題だが、クリエイターからすれば「生成AIに奪われた・壊された」という印象が強烈に残る。

技術者からすれば、AIのせいではなく人間問題なのが、これも文化差ゆえに理解し合うのが難しいのだろう。

技術者クリエイター文化のどちらかが悪いわけではなく、どちらにも正しさがあり必要世界だと思う。

私は対立ではなくすり合わせが必要だと思っている。

技術者である家族と、クリエイターである自分の間にある価値観を行ったり来たりしているのだが、この2つの文化技術本来敵対するものではなく、どちらも素晴らしく豊かな世界と感じているので、両方の世界に関わる立場として、お互いの文化が穏やかにすり合っていく未来を願っている。

  • AIが止まらない

  • 技術者にとっての自然なリテラシーなんだろう。 一方でクリエイターは作品をネットに上げる。 使ってもらうためではなく、見てもらうためである。 絵や漫画やデザインは、作...

  • githubの説明なんかいちいちして内容ふやかさなくていいから… 言ってることは間違ってないんだろうが伸ばしたい欲が見え見えなのが支持できないな

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん