はてなキーワード: 呉越同舟とは
1955年に二つの保守政党「自由党」「日本民主党」が合体して「自由民主党」が誕生した。
その10年前、敗戦直後の1945年に、非共産党系の革新政党が集合して「日本社会党」が生まれている。
この社会党の伸長を警戒した保守派が、呉越同舟で集まったのが自民党だった。
それ以降、自由党系と日本民主党系が派閥争いを繰り広げながら、自民党は党勢を拡大していった。
結党直後は鳩山一郎や岸信介など、日本民主党系の総理大臣が続いた。
しかし、そこから池田勇人・佐藤栄作・田中角栄など、自由党系の首相が続き、大勢を占めるようになったため「保守本流」と呼ばれた。
この記事では以降、自由党系=保守本流=「自民党左派」、日本民主党系=保守傍流=「自民党右派」と書く。
「日米安保と憲法9条を利用して軽軍備を保ち、浮いた軍事費を経済発展に回すぞ!」
という感じで、「保守本流」という字面に反して現在の「リベラル」的なイメージに近い。
「アメリカに押し付けられた憲法を改正して再軍備するぞ!経済は自由市場に任せるぞ!」
という感じでネオリベ的であり、現在の「保守」のイメージに近い。
その後、ロッキード事件で田中角栄が失脚、リクルート事件により竹下登が失脚、佐川急便事件により金丸信が失脚。
自民党左派の大物が次々と失脚し、自民党に厳しい視線が向けられるなかで、結果的に左派の重鎮・小沢一郎などが離党。
そうした自民党からの離党者が中心となって新党ブームが起こり、1993年に政権交代、1955年以来の自民党体制は崩壊した。
その後、非自民政権が終わり、自民党が政権復帰すると、右派の森喜朗が総理となる。
続けて右派から小泉純一郎が総理となり、高支持率を背景にネオリベ的な政策を実行していった。
左派の離党と小泉旋風の二つの要因により、自民党左派の影響力は縮小し、右派が力を持つようになった。
2009年の政権交代を経て、自民党右派の隆盛が極まったのが、岸信介の孫である安倍晋三政権だった。
しかし直近では、統一教会問題で右派は逆風に立たされており、左派の岸田文雄・石破茂が続けて総理になっている。
かつての民主党は、自民党から離脱した左派がその中心を担っていた。
いまでも立憲民主党の枝野幸男や、国民民主党の玉木雄一郎などは、保守本流の後継を自認している。
それは安倍政権下では「反自民」として機能していたが、現在の左派回帰した自民党との差異化は難しくなっている。
昔なら俺もはりきっていろいろ意見してたけど昨今は(ましてド直球の法律の話だからな)何か言ったらすぐスラッペ訴訟される風潮だから何も言わない。
実際あれを批判してる人の側にも裁判官への誹謗中傷でしかない言葉を平気で投げる(しかも他人へのリプライの形で)のが大勢いて、大スラッビョ訴訟時代に突入してるのいまだに気づいてないのはヤバすぎるだろ。
それでもやはり居丈高に「日本は法治国家なんでちゅよ~」とか煽り散らすヤツらにムカついてたまらない。
さらに普段はリベラル( )だったりフェミ( )だったりするインテリ系インフルエンサー達が「どんな人にも人権ガー」のリベサヨ理論で抗議者の口を塞ごうとし、普段はそのフェミやリベサヨを攻撃してる男尊ネトウヨが呉越同舟の大同団結して国民全員で女叩き。
もうやだこんなの。
「法律を勉強してから言え」とか「三権分立ガー」とか言うけどさ、法学部卒を除く圧倒的多数の法律知らん系の一般国民のあれやこれやを世話するのが法律関係者の仕事なんだからさ
一部の法律界隈の常識と圧倒的多数の一般国民の常識が著しく解離してたんじゃダメだとわからないのかな?
つまり、一般庶民の当たり前の日々の営みから生まれるいろんな出来事を積み重ねていって「これはこうしたほうがいいんじゃないかな」という話し合いを社会全体で何世代にも渡って議論してきた結果で法律というルールが出来るのではなく、一般社会から隔離されたエリートだけの身内の論理で勝手に作った非現実的な法律を愚かなシモジモの庶民どもに上から目線で押し付けてやるって形だからこうなるんだよ。
「無罪とは一般的に「潔白」という意味ではなく」ってそれは一部の法律界隈の中だけでの「一般的」であり、本当の「一般的」な大衆は「無罪」といったらそのまんま「罪が無い」という意味にしか受け取らないよ。
法律用語はこれだけじゃなく一事が万事の勢いで悉く一般的な意味とは違う使い方するからキモいんだよ。
「有罪かもしれないが有罪と確定するほどの証拠が無い」というのは逆に言えば無罪と断定する証拠も無いんだから「無罪」じゃなく「非有罪」ぐらいにしとけよ。
震災間もない頃、福祉の大学に通う被災者女子学生が避難所運営に携わりつつ災害状況を積極的にSNSに発信していた
やすこの「ボランティアは迷惑」発言がありネット上でボランティア叩きが盛り上がる中で、
「何十人もいるのに水がもう2リットルペットボトルだけ、ボランティアの人来て」と助けを求め、多くのボランティアが彼女のもとへ訪れた
ボランティアは他の避難所にも行っていたが、「ボランティアを受け入れたら世間に叩かれる」と断られて、
他へ回す予定だった物資を彼女のいる小学校に持ってくるケースもあった
小学校にばかりボランティアのキッチンカーや物資支援が集まった結果、「あの避難所だけずるい」という他の被災者による叩きが発生した
元々は顔出しで友人たちとやりとりするためのアカウントだったので彼女は身バレしている状態で、
名指しで「体売って食べ物をもらってるんだろ」という中傷もされ、被災者や部外者にバッシングされるようになり、発信をやめるようになった
その子が消えた後でも、「県の外の人助けて!見捨てないで!」と「耐え忍ぶべき!騒ぐな!」という考えが対立し能登県民たちは争っている
@notosuzudesu
そろそろ精神的にきついです
このアカウントは会社や商売でやってるわけでもなく私は公務員でもないただの一般人、一個人です
名前を出しては勿論、暗に批判する行為、反論意見、中傷はお止めください
私がブロックしているアカウント、又はその者のサブアカウント、新アカウントからの引用やスクショを用いての批判、中傷行為、意見される事も精神的苦痛ですのでお止めください
前の炊き出しでも精神的に苦痛で眠れず、熱中症になり倒れたりの実害が出たり
こちらは精神的苦痛により「ブロック機能」という防御策を取リますので、絶対に、暗にも話題にされないよう、宜しくお願い致します
このようなポストは本来好きではありませんが、本当に辛くて…すみません
https://x.com/notosuzudesu/status/1826197849140596847
@oic_kanazawa
そりゃ事ある度に訴訟をチラつかせていたら普通の人は怖くて表立って批判はできなくなりますよ。
私は中立な目線で見ていますが、全てがおいこらさんへの中傷行為とは私は見ていません。むしろまっとうな批判である意見が多いです。貴方が訴訟を匂わせるようになってからは。
私も以前おいこらさんを応援している投稿をして、ずいぶん能登の方々を怒らせてしまいましたが私はそれで一向に構いません。
私は今でも、おいこらさんを志は違えど能登の方々のために動く同志として見ています。たとえそれが呉越同舟であったとしても。
ですが、何度も言いますが一度考え直して欲しいです。ことX上の石川県民に限って言いますが、貴方に賛同している人は数人しか存じ上げません。一方で、貴方に反発し、忌み嫌い、拒絶する人が石川の支援者だけでなく能登の被災者にもこれほど多い理由を考えたことがありますか。
そういう人たちは決まって「支援そのものは否定していない」と言います。私もそうです。すべてはおいこらさんの発信スタイルに非難が集まっています。今のその投稿方法で理解と賛同を得られるのは、発災後の能登に足を運んだことがない、県外に住む人だけです。
能登に住む人。若しくは能登へ足を運び、支援を続けている人たちから多く反発されており、賛同されていない。その事実と向き合い、冷静に自分を見つめ直していただけることを切に望んでいます。
https://x.com/oic_kanazawa/status/1826582505786638794
@notosuzudesu
昨日から一睡もできませんでした…
『貴方に反発し、忌み嫌い、拒絶する人が石川の支援者だけでなく能登の被災者にもこれほど多い理由を考えたことがありますか』
この言葉が胸に刺さり悲しくてずっと泣いてました
しかし、行かないと私が食事を用意する予定で動いてた避難所のお昼ご飯は無くなる事になります
キャンセルにより車ではなくバスで手持ちで行く事になり本来予定していた数は持って行けませんが最低数だけは持って行きます
元気を与える側が目を腫らしたままの顔で行く事になりごめんなさい
持っていけないお寿司を無駄にして捨てる分は会社様にも食べ物にも申し訳ないです
全て私の責任です
https://x.com/notosuzudesu/status/1826748412961980756
おいこらは能登県と国を批判してもっと支援してくれとよく発信しており
国に訴えかけないと見捨てられるVS国の機嫌を損ねると見捨てられる、根源的な見捨てられる恐怖感は同じだ
私は、歴史の専門家ではない一般人です。まず前提として、戦前・戦時中のアジア諸国へ与えた被害、南京虐殺や従軍慰安婦問題、米国人をはじめとする敵国捕虜に対する非人道的行為等々について、日本に責任が有ると考えている者です。
フィリップK.ディックというアメリカのSF作家の小説に『高い城の男』という作品があります。貴方は、これを読まれたことはありますか?もし無ければ、今から粗筋を紹介します。もし、既に読まれたことが有るならば、私が以下に書くことは釈迦に説法ですから、無視して貰って構いません。
= 粗筋ここから =
第二次世界大戦は、枢軸国側の勝利に終わった。世界は、ドイツ第三帝国と大日本帝国という2つの大国に支配され、アメリカも日独による占領・分割統治の下に置かれている(西海岸側が日本により占領されている)。
作中では、大戦終了直前にアメリカが、不利な戦況を覆す為に、非人道的戦術を用いたり、残虐な行為に走ったことなども語られる。しかし、そこまでしても敗戦に終わったことから、アメリカ国民の誇りは打ち砕かれている。西海岸で日本人相手に商売をしているアメリカ人は、敗戦国の人間として戦勝国(日本)に対する強い劣等感を抱いている。
戦勝国となったドイツと日本は、いまだ表面上は友好関係を保ってはいるが、アーリア人種至上主義の国と黄色人種の国は呉越同舟である。ドイツは密かに日本殲滅計画を目論み、日本もまたドイツに対して不信感を抱くようになりつつある。遠くない未来には、2つの大国は衝突を避けられないだろう。
このように敗戦国の人間も戦勝国の人間も等しく、将来に対して不安を抱いて生活しているアメリカでは、奇妙な流行が2つある。
1つは「当たるも八卦当たらぬも八卦」で有名な、古代中国の書『易経』に基づく占いである。物語の登場人物たちは、何か不安に駆られる度にコインを用いた占い(※本来は筮竹を使うが、陰陽2つの組み合わせで占うので、コインでも代用できる)によって『易経』の宣託に頼ろうとする。
もう1つの流行は、地下出版により流通する『イナゴ身重く横たわる』と題された1冊の本である。占領国の官憲により発禁本の指定を受けながらも、アメリカ国民は(そして、取り締まる側のドイツ人や日本人も)厳しい監視の目を逃れて、密かにその本を読み耽る。その本には「本当の歴史」が記されているのだという。「枢軸国側が敗戦国になり、連合国側が戦勝国になった歴史」が。
この本を執筆した作家を暗殺する為に、ドイツ当局の手の者が動き出す。また、この本に書かれたことは「本当の歴史」なのか?だとすれば、如何にして作家はそれを知って執筆したのか?それを確かめる為に、一人のアメリカ人女性も作家の下へ向かう。
「高い城」に居ると噂される作家の下へ。
= 粗筋ここまで =
私が知る限りでは、ディックが本物の日本人と実際に交友関係があったという形跡は有りません。しかしディックは、優れた作家が持つイマジネーションの力だけで、敗戦国の日本人の心情を見事に描き出します。「敗戦国の国民となって、戦勝国の日本人に対する劣等感を抱いているアメリカ人」の姿というパロディによって。
『高い城の男』の描く、敗戦国となったアメリカの人々は『イナゴ身重く横たわる』を読みながら夢想します。「非人道的な残虐行為を行わなかったはずの、汚れていないアメリカの姿」や「輝かしい戦勝国となったはずのアメリカ」という「本当の歴史」を。
これらのモチーフや描写を現代の我々が読むと、執筆当時のディックによる意図を超えて、南京虐殺否定論やショア(ホロコースト)否定論に嵌まる人間を傍から見た姿を描く形になっています。
最初に書いたとおり、私は戦前・戦時中の日本による蛮行については、日本に責任が有ると考えています。しかし、日本による南京虐殺等を否定する説や、ドイツによるショア(ホロコースト)等を否定する説を信じる人たちの、それを信じたくなる心情も、『高い城の男』を読んだ私には何となく少しだけ理解できる気もするのです。人間は、弱くて愚かです。ちょうど犯罪加害者の家族が「自分の家族が、そんな酷いことをするはずがない。何かの間違いだ!デッチ上げだ!冤罪だ!」と言いたくなるのと似たような心理なのではないでしょうか。誰でも大なり小なり「祖国に対する愛着の心」が有り、その祖国が過去の歴史の中で蛮行を働いたという記憶は、犯罪加害者の家族の場合と同様「耐え難い現実」であり、可能ならば「違った未来」が実現して欲しかった、「デッチ上げによる冤罪」であって欲しかったという思いを抱かせるのでしょう。
『高い城の男』の詳細と結末については、実際に読んでもらうしかありませんが、それについて少し書きます。ネタバレされるのがイヤな場合、以下の記述を読まないで、書店に向かってハヤカワSF文庫の『高い城の男』をお買い求め下さい。
【【【注意!ネタバレ有り!】】】
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
実は『イナゴ身重く横たわる』に書かれた「本当の歴史」は「『高い城の男』を読む我々の存在する現実世界の歴史」ではありません。連合国側が勝利する歴史ではあっても、現実の歴史とは食い違う記述が有ります。つまり、本作の中で『イナゴ身重く横たわる』を読み耽るアメリカ人たちが夢想している「あり得たはずのアメリカ」は「無い」のです。
SF論としては、作家フィリップK.ディックは「本物と偽物」「現実と虚構」というモチーフを書くことに取り憑かれ続けた生涯で云々と話を展開するところでしょうが、ここでは南京虐殺の否定論やショア(ホロコースト)の否定論に絡めて『高い城の男』の話を持ち出したので、別のことを書きます。
心情的には、否定論にすがる人たちの気持ちも分かるような気がすると、私は書きました。
しかし、南京虐殺否定論やショア(ホロコースト)否定論にすがる人たちの「間違いを犯さなかった、こんな歴史であって欲しかった」と夢想する歴史も、結局は『イナゴ身重く横たわる』の記す歴史と同じく「無い」のです。『高い城の男』は第二次世界大戦を下敷きにしていますが、ベトナム戦争のアメリカをはじめ、おそらく何処の国であっても大なり小なり「別の歴史があって欲しかった」という事は有ることでしょう。しかし、勿論それも日本やドイツと同様に「無い」のです。
では、我々は、どうすれば良いのでしょうか?実は、それを示唆する内容が『高い城の男』には書かれています。
『高い城の男』には、占領軍の日本人将校を相手に「アメリカの骨董品」の贋作を作って売るビジネスに関わるアメリカ人が出てきます。しかし物語の終盤に至ると、彼は「偽の歴史を付与した贋作の骨董品」を作って売るのではなく、新たなオリジナルの創作物を作って売ることを決意します。
『高い城の男』は教訓を学ばせる目的で書かれたとは思いませんが、それでも私は、このくだりを読んで思ったのです。「在って欲しかった歴史」「我々の願望を満たしてくれる、都合の良い現実」など有りはしない。どれほど不条理に感じても、動かし難く消し去ることのできない過去を「我々の現実」として引き受けるところから始めるしか他にないのだ、と。
私は、歴史の専門家ではない一般人です。まず前提として、戦前・戦時中のアジア諸国へ与えた被害、南京虐殺や従軍慰安婦問題、米国人をはじめとする敵国捕虜に対する非人道的行為等々について、日本に責任が有ると考えている者です。
フィリップK.ディックというアメリカのSF作家の小説に『高い城の男』という作品があります。貴方は、これを読まれたことはありますか?もし無ければ、今から粗筋を紹介します。もし、既に読まれたことが有るならば、私が以下に書くことは釈迦に説法ですから、無視して貰って構いません。
= 粗筋ここから =
第二次世界大戦は、枢軸国側の勝利に終わった。世界は、ドイツ第三帝国と大日本帝国という2つの大国に支配され、アメリカも日独による占領・分割統治の下に置かれている(西海岸側が日本により占領されている)。
作中では、大戦終了直前にアメリカが、不利な戦況を覆す為に、非人道的戦術を用いたり、残虐な行為に走ったことなども語られる。しかし、そこまでしても敗戦に終わったことから、アメリカ国民の誇りは打ち砕かれている。西海岸で日本人相手に商売をしているアメリカ人は、敗戦国の人間として戦勝国(日本)に対する強い劣等感を抱いている。
戦勝国となったドイツと日本は、いまだ表面上は友好関係を保ってはいるが、アーリア人種至上主義の国と黄色人種の国は呉越同舟である。ドイツは密かに日本殲滅計画を目論み、日本もまたドイツに対して不信感を抱くようになりつつある。遠くない未来には、2つの大国は衝突を避けられないだろう。
このように敗戦国の人間も戦勝国の人間も等しく、将来に対して不安を抱いて生活しているアメリカでは、奇妙な流行が2つある。
1つは「当たるも八卦当たらぬも八卦」で有名な、古代中国の書『易経』に基づく占いである。物語の登場人物たちは、何か不安に駆られる度にコインを用いた占い(※本来は筮竹を使うが、陰陽2つの組み合わせで占うので、コインでも代用できる)によって『易経』の宣託に頼ろうとする。
もう1つの流行は、地下出版により流通する『イナゴ身重く横たわる』と題された1冊の本である。占領国の官憲により発禁本の指定を受けながらも、アメリカ国民は(そして、取り締まる側のドイツ人や日本人も)厳しい監視の目を逃れて、密かにその本を読み耽る。その本には「本当の歴史」が記されているのだという。「枢軸国側が敗戦国になり、連合国側が戦勝国になった歴史」が。
この本を執筆した作家を暗殺する為に、ドイツ当局の手の者が動き出す。また、この本に書かれたことは「本当の歴史」なのか?だとすれば、如何にして作家はそれを知って執筆したのか?それを確かめる為に、一人のアメリカ人女性も作家の下へ向かう。
「高い城」に居ると噂される作家の下へ。
= 粗筋ここまで =
私が知る限りでは、ディックが本物の日本人と実際に交友関係があったという形跡は有りません。しかしディックは、優れた作家が持つイマジネーションの力だけで、敗戦国の日本人の心情を見事に描き出します。「敗戦国の国民となって、戦勝国の日本人に対する劣等感を抱いているアメリカ人」の姿というパロディによって。
『高い城の男』の描く、敗戦国となったアメリカの人々は『イナゴ身重く横たわる』を読みながら夢想します。「非人道的な残虐行為を行わなかったはずの、汚れていないアメリカの姿」や「輝かしい戦勝国となったはずのアメリカ」という「本当の歴史」を。
これらのモチーフや描写を現代の我々が読むと、執筆当時のディックによる意図を超えて、南京虐殺否定論やショア(ホロコースト)否定論に嵌まる人間を傍から見た姿を描く形になっています。
最初に書いたとおり、私は戦前・戦時中の日本による蛮行については、日本に責任が有ると考えています。しかし、日本による南京虐殺等を否定する説や、ドイツによるショア(ホロコースト)等を否定する説を信じる人たちの、それを信じたくなる心情も、『高い城の男』を読んだ私には何となく少しだけ理解できる気もするのです。人間は、弱くて愚かです。ちょうど犯罪加害者の家族が「自分の家族が、そんな酷いことをするはずがない。何かの間違いだ!デッチ上げだ!冤罪だ!」と言いたくなるのと似たような心理なのではないでしょうか。誰でも大なり小なり「祖国に対する愛着の心」が有り、その祖国が過去の歴史の中で蛮行を働いたという記憶は、犯罪加害者の家族の場合と同様「耐え難い現実」であり、可能ならば「違った未来」が実現して欲しかった、「デッチ上げによる冤罪」であって欲しかったという思いを抱かせるのでしょう。
『高い城の男』の詳細と結末については、実際に読んでもらうしかありませんが、それについて少し書きます。ネタバレされるのがイヤな場合、以下の記述を読まないで、書店に向かってハヤカワSF文庫の『高い城の男』をお買い求め下さい。
【【【注意!ネタバレ有り!】】】
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
実は『イナゴ身重く横たわる』に書かれた「本当の歴史」は「『高い城の男』を読む我々の存在する現実世界の歴史」ではありません。連合国側が勝利する歴史ではあっても、現実の歴史とは食い違う記述が有ります。つまり、本作の中で『イナゴ身重く横たわる』を読み耽るアメリカ人たちが夢想している「あり得たはずのアメリカ」は「無い」のです。
SF論としては、作家フィリップK.ディックは「本物と偽物」「現実と虚構」というモチーフを書くことに取り憑かれ続けた生涯で云々と話を展開するところでしょうが、ここでは南京虐殺の否定論やショア(ホロコースト)の否定論に絡めて『高い城の男』の話を持ち出したので、別のことを書きます。
心情的には、否定論にすがる人たちの気持ちも分かるような気がすると、私は書きました。
しかし、南京虐殺否定論やショア(ホロコースト)否定論にすがる人たちの「間違いを犯さなかった、こんな歴史であって欲しかった」と夢想する歴史も、結局は『イナゴ身重く横たわる』の記す歴史と同じく「無い」のです。『高い城の男』は第二次世界大戦を下敷きにしていますが、ベトナム戦争のアメリカをはじめ、おそらく何処の国であっても大なり小なり「別の歴史があって欲しかった」という事は有ることでしょう。しかし、勿論それも日本やドイツと同様に「無い」のです。
では、我々は、どうすれば良いのでしょうか?実は、それを示唆する内容が『高い城の男』には書かれています。
『高い城の男』には、占領軍の日本人将校を相手に「アメリカの骨董品」の贋作を作って売るビジネスに関わるアメリカ人が出てきます。しかし物語の終盤に至ると、彼は「偽の歴史を付与した贋作の骨董品」を作って売るのではなく、新たなオリジナルの創作物を作って売ることを決意します。
『高い城の男』は教訓を学ばせる目的で書かれたとは思いませんが、それでも私は、このくだりを読んで思ったのです。「在って欲しかった歴史」「我々の願望を満たしてくれる、都合の良い現実」など有りはしない。どれほど不条理に感じても、動かし難く消し去ることのできない過去を「我々の現実」として引き受けるところから始めるしか他にないのだ、と。
一口にITエンジニアといっても、開発系と運用系は見ている世界が違いすぎて、大きな断絶がある。
ソフトウェアの安定運用とサービス向上という、そもそも相反する要素をタスクとして分担しているがゆえに
「まともに動くかどうかも怪しい代物を作り逃げしていく、胡散臭い奴ら」
「ろくに中身も分かっていないくせに、二言目には手順だマニュアルだとやかましい奴ら」
に見えるわけだ。
ちなみに筆者は開発も運用も経験し、個人的に運用は水が合わなかったというか開発のほうが性に合っている人間だが、
個人的にこの対立は開発側の社会性が幼稚過ぎなのが原因だと思っていたり。
まあそんな「お気持ち」はともかく、両者の対立は組織の大小関係なく、普通にあると。
で、相互理解が難しいとなると「運用が開発を巻き取る」か、逆に「開発が運用を巻き取る」ことで、全て身内だけで完結させるしかない。
そして昨今のクラウドコンピューティングは「コンピュータがコンピュータを制御する」という技術革新によって、開発が運用を巻き取ったことを意味する。
結果、運用系はごく一握りの凄腕を除いて、長い目で見ると先のない業務になってしまった。
もちろん、また別のイノベーションによって運用が開発を巻き取る日が来る可能性もゼロではないし、そうなると次に冷や飯を食うのは開発系。
いずれにせよ両者の断絶が埋まらないまま、ITエンジニアという狭い括りの中でも呉越同舟が続いていくのかよ…とため息が出てしまう。