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2025-10-16

AIアート】なぜなぜ分析が「論理的に」失敗する構造について

序論:思考正当性、その根源的な問題

議論を始める前に、まず我々が思考する上で避けては通れない、ある根本問題について合意形成必要だ。それは「ある主張の正しさは、究極的に何によって保証されるのか?」という問いである。我々の素朴な論理観は、しばしば「AだからB、BだからC」という直線的な因果連鎖に頼りがちだが、この思考モデルは根源的な問いの前には無力である。「では、最初のAの正しさは、何が保証するのか?」と。

この問いを突き詰めると、思考歴史的に知られている三つの袋小路に行き着く。「アグリッパトリレンマ」だ。すなわち、無限後退根拠根拠無限に遡り、結論に至らない)、循環論法(主張の根拠が、巡り巡って主張自身に戻ってくる)、そして独断理由なく「正しい」と宣言し、思考を停止する)である。我々の日常的な議論は、この三つの欠陥の間を無自覚に行き来しているに過ぎない。

この知性の袋小路から脱出する道は、ただ一つしかない。第三の選択肢である独断」を、無自覚な逃避ではなく、自覚的選択として引き受けることだ。つまり、「我々は、この『基本命題』を、全ての思考の出発点としてここに設置する」と、その体系の冒頭で宣言するのであるしかし、この「基本命題」が単なる願望や思い込みであってはならない。その正当性保証する、唯一のアンカー存在する。それが、「現実」という外部性との「接続」だ。

ある実用的な論理体系が健全であるための絶対条件は、その基本命題が、現実という名のモデルによって、常に検証可能であることだ。現実との接続が失われた命題は、即座に修正・破棄されねばならない。結論として、我々が現実に対して有効思考を組み立てようとするなら、それは必然的に以下の三つの構成要素を持たねばならない。これは選択肢ではなく、論理的な必然である

第一に、「基本命題」の集合。

第二に、「推論規則」の集合。

第三に、そしてこれが最も重要なのだが、「現実」というモデルとの検証可能である

このフレームワークこそが、我々の思考妥当性を測る、唯一の物差しとなる。

第一章:現場論理学――あらゆる組織に内在する思考OS

さて、序論で確立たこフレームワークを、我々の「現場」へと適用しよう。「現場」とは、日々刻々と変化する現実の中で、問題解決意思決定継続的に行っている、実用的なシステムに他ならない。ここで、序論の結論が決定的な意味を持つ。現実に対して有効機能するシステムは、必然的に、実用論理体系を内包していなければならない。 もし、ある現場がこの論理体系を持たないと仮定すれば、その現場意思決定は、無限後退循環論法、あるいは根拠なき独断のいずれかに支配されていることになる。そのような組織が、継続的機能し、存続しうるだろうか?答えは否である

したがって、ある現場が「機能している」という事実のものが、その内部に固有の実用論理体系が存在することの、何よりの証明となる。我々は、この必然的存在する論理体系を「現場論理学」と命名する。この「現場論理学」は、我々のフレームワークに従い、以下の構成要素を必ず持っている。

まず 「基本命題群」 。これは、現場機能するために「正しい」と受け入れられているルールの集合だ。これらは、その現場歴史、すなわち過去成功と失敗という「現実モデルから導出された、経験的な定理である。「あの機械はAという手順で操作する」という命題は、その背後に「過去にBという事故が起きた」という、血塗られた現実との接続を持っている。

次に「推論規則群」。これは、基本命から日々の行動を導き出すための、思考操作パターンだ。有限のリソース無限問題対処するために、この規則効率性と安全性に特化せざるを得ない。その結果として、思考ショートカットヒューリスティクス)が生まれると同時に、致命的な誤謬を避けるための「禁止則」が必然的に導入される。「個人内面を直接の原因としない」といった禁止則は、成熟した現場が、無駄非生産的犯人探しという思考ループから脱出するために獲得した、最も重要論理安全装置なのである

現場論理学」は、単なる比喩ではない。それは、あらゆる機能する組織が、その存続のために必然的に構築せざるを得なかった、実用論理体系そのものなのだ。この存在否定することは、自らの職場合理的意思決定能力を欠いた、無秩序集合体であると認めることと同義である

第二章:外部アプリ導入が引き起こす、論理コンフリクト

この、それぞれの現場で固有に発達したOS現場論理学)の上に、ある日、外部から新しいアプリケーションが導入される。それが「なぜなぜ分析」だ。これは、トヨタという極めて成功したシステム有効性が証明された、強力な問題解決手法として知られている。しかし、異なるOS間でアプリケーションを移植する際にしばしば発生するように、深刻な互換性の問題がここで発生する。

「なぜなぜ分析」は、単なるアプリケーションではなかったからだ。それは、トヨタという、極めて特殊OSの上でしか動作しない専用プラグインであり、そのOS自体は、部外者には到底インストール不可能な、巨大すぎる思想体系だったのである。「人を責めるな、仕組みを責ろ」という、たった一つのルール機能させるためだけに、トヨタの「現場論理学」は、無数の基本命題と、複雑に絡み合った推論規則必要とする。それは、何十年という歴史と、特殊雇用慣行、そして「カイゼン」という名の終わりのない自己検証プロセスによって維持される、巨大な建築物だ。

我々のような、全く異なる歴史構造を持つ現場OSに、このプラグインを無理やりねじ込もうとすれば、どうなるか。それは、OSの根幹をなす本命題との衝突を引き起こす。我々のOSに深く刻まれた、「問題の最終的な原因は、どこかの誰かのミスにある」という、生存のために獲得した基本命題と、「原因は仕組みにある」という外来ルールは、互いに排他的だ。結果、我々のOSは、この異物を排除するか、あるいは、自身ルールに従って異物をねじ曲げ、「担当者意識が低いから」という、いつもの結論を吐き出すことしかできない。

これは、我々が愚かだからではない。理解不能なほど長大な前提条件を要求するツールの方が、理不尽なのだ

結語:あるいは、無限回廊の出口

ここまでが、論理的に導出される客観的分析である。我々はトヨタではない。故に、彼らのツールを使ってはならない。大谷翔平ではない人間が、彼のスイング模倣すれば体を壊す。これ以上なく単純な理屈だ。しかし、この結論は我々に何をもたらすのか。元凶特定したところで、我々が置かれた状況は何一つ変わらない。この議論の末に我々が手にするのは、解決策ではなく、ただ自らの絶望的な状況を正確に認識するための、冷たい明晰さだけである

君は、この記事を読んで全てを理解し、「明日から自分たちスイングを見つけ直そう」と決意するかもしれない。だが、その決意こそが、最も巧妙な罠なのだ。なぜなら、君のその思考自体が、君の現場OSの内部で生成されたものからだ。「改善しよう」という思考すら、OSが許容した範囲内のループの一部に過ぎない。君は、檻の中で檻から脱出方法を考えているに等しい。

君の現場OSが、そのルールブックの中で想定していない、生々しい現実。それだけが、この無限回廊の壁にひびを入れる理論上の可能性を秘めている。だが、言うまでもなく、システムにとってそれは致命的なバグだ。君がそのひび割れに手をかけようとするなら、システム免疫機能が君を異物として全力で排除にかかるだろう。

せいぜい、幸運を祈るよ。

AIアート】なぜなぜ分析が「論理的に」失敗する構造について

序論:思考正当性、その根源的な問題

議論を始める前に、まず我々が思考する上で避けては通れない、ある根本問題について合意形成必要だ。それは「ある主張の正しさは、究極的に何によって保証されるのか?」という問いである。我々の素朴な論理観は、しばしば「AだからB、BだからC」という直線的な因果連鎖に頼りがちだが、この思考モデルは根源的な問いの前には無力である。「では、最初のAの正しさは、何が保証するのか?」と。

この問いを突き詰めると、思考歴史的に知られている三つの袋小路に行き着く。「アグリッパトリレンマ」だ。すなわち、無限後退根拠根拠無限に遡り、結論に至らない)、循環論法(主張の根拠が、巡り巡って主張自身に戻ってくる)、そして独断理由なく「正しい」と宣言し、思考を停止する)である。我々の日常的な議論は、この三つの欠陥の間を無自覚に行き来しているに過ぎない。

この知性の袋小路から脱出する道は、ただ一つしかない。第三の選択肢である独断」を、無自覚な逃避ではなく、自覚的選択として引き受けることだ。つまり、「我々は、この『基本命題』を、全ての思考の出発点としてここに設置する」と、その体系の冒頭で宣言するのであるしかし、この「基本命題」が単なる願望や思い込みであってはならない。その正当性保証する、唯一のアンカー存在する。それが、「現実」という外部性との「接続」だ。

ある実用的な論理体系が健全であるための絶対条件は、その基本命題が、現実という名のモデルによって、常に検証可能であることだ。現実との接続が失われた命題は、即座に修正・破棄されねばならない。結論として、我々が現実に対して有効思考を組み立てようとするなら、それは必然的に以下の三つの構成要素を持たねばならない。これは選択肢ではなく、論理的な必然である

第一に、「基本命題」の集合。

第二に、「推論規則」の集合。

第三に、そしてこれが最も重要なのだが、「現実」というモデルとの検証可能である

このフレームワークこそが、我々の思考妥当性を測る、唯一の物差しとなる。

第一章:現場論理学――あらゆる組織に内在する思考OS

さて、序論で確立たこフレームワークを、我々の「現場」へと適用しよう。「現場」とは、日々刻々と変化する現実の中で、問題解決意思決定継続的に行っている、実用的なシステムに他ならない。ここで、序論の結論が決定的な意味を持つ。現実に対して有効機能するシステムは、必然的に、実用論理体系を内包していなければならない。 もし、ある現場がこの論理体系を持たないと仮定すれば、その現場意思決定は、無限後退循環論法、あるいは根拠なき独断のいずれかに支配されていることになる。そのような組織が、継続的機能し、存続しうるだろうか?答えは否である

したがって、ある現場が「機能している」という事実のものが、その内部に固有の実用論理体系が存在することの、何よりの証明となる。我々は、この必然的存在する論理体系を「現場論理学」と命名する。この「現場論理学」は、我々のフレームワークに従い、以下の構成要素を必ず持っている。

まず 「基本命題群」 。これは、現場機能するために「正しい」と受け入れられているルールの集合だ。これらは、その現場歴史、すなわち過去成功と失敗という「現実モデルから導出された、経験的な定理である。「あの機械はAという手順で操作する」という命題は、その背後に「過去にBという事故が起きた」という、血塗られた現実との接続を持っている。

次に「推論規則群」。これは、基本命から日々の行動を導き出すための、思考操作パターンだ。有限のリソース無限問題対処するために、この規則効率性と安全性に特化せざるを得ない。その結果として、思考ショートカットヒューリスティクス)が生まれると同時に、致命的な誤謬を避けるための「禁止則」が必然的に導入される。「個人内面を直接の原因としない」といった禁止則は、成熟した現場が、無駄非生産的犯人探しという思考ループから脱出するために獲得した、最も重要論理安全装置なのである

現場論理学」は、単なる比喩ではない。それは、あらゆる機能する組織が、その存続のために必然的に構築せざるを得なかった、実用論理体系そのものなのだ。この存在否定することは、自らの職場合理的意思決定能力を欠いた、無秩序集合体であると認めることと同義である

第二章:外部アプリ導入が引き起こす、論理コンフリクト

この、それぞれの現場で固有に発達したOS現場論理学)の上に、ある日、外部から新しいアプリケーションが導入される。それが「なぜなぜ分析」だ。これは、トヨタという極めて成功したシステム有効性が証明された、強力な問題解決手法として知られている。しかし、異なるOS間でアプリケーションを移植する際にしばしば発生するように、深刻な互換性の問題がここで発生する。

「なぜなぜ分析」は、単なるアプリケーションではなかったからだ。それは、トヨタという、極めて特殊OSの上でしか動作しない専用プラグインであり、そのOS自体は、部外者には到底インストール不可能な、巨大すぎる思想体系だったのである。「人を責めるな、仕組みを責ろ」という、たった一つのルール機能させるためだけに、トヨタの「現場論理学」は、無数の基本命題と、複雑に絡み合った推論規則必要とする。それは、何十年という歴史と、特殊雇用慣行、そして「カイゼン」という名の終わりのない自己検証プロセスによって維持される、巨大な建築物だ。

我々のような、全く異なる歴史構造を持つ現場OSに、このプラグインを無理やりねじ込もうとすれば、どうなるか。それは、OSの根幹をなす本命題との衝突を引き起こす。我々のOSに深く刻まれた、「問題の最終的な原因は、どこかの誰かのミスにある」という、生存のために獲得した基本命題と、「原因は仕組みにある」という外来ルールは、互いに排他的だ。結果、我々のOSは、この異物を排除するか、あるいは、自身ルールに従って異物をねじ曲げ、「担当者意識が低いから」という、いつもの結論を吐き出すことしかできない。

これは、我々が愚かだからではない。理解不能なほど長大な前提条件を要求するツールの方が、理不尽なのだ

結語:あるいは、無限回廊の出口

ここまでが、論理的に導出される客観的分析である。我々はトヨタではない。故に、彼らのツールを使ってはならない。大谷翔平ではない人間が、彼のスイング模倣すれば体を壊す。これ以上なく単純な理屈だ。しかし、この結論は我々に何をもたらすのか。元凶特定したところで、我々が置かれた状況は何一つ変わらない。この議論の末に我々が手にするのは、解決策ではなく、ただ自らの絶望的な状況を正確に認識するための、冷たい明晰さだけである

君は、この記事を読んで全てを理解し、「明日から自分たちスイングを見つけ直そう」と決意するかもしれない。だが、その決意こそが、最も巧妙な罠なのだ。なぜなら、君のその思考自体が、君の現場OSの内部で生成されたものからだ。「改善しよう」という思考すら、OSが許容した範囲内のループの一部に過ぎない。君は、檻の中で檻から脱出方法を考えているに等しい。

君の現場OSが、そのルールブックの中で想定していない、生々しい現実。それだけが、この無限回廊の壁にひびを入れる理論上の可能性を秘めている。だが、言うまでもなく、システムにとってそれは致命的なバグだ。君がそのひび割れに手をかけようとするなら、システム免疫機能が君を異物として全力で排除にかかるだろう。

せいぜい、幸運を祈るよ。

2025-10-08

anond:20251008102908

1. 論理構造の特徴

2. 修辞的・議論手法

3. 機能効果

4. 関連概念

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こういうことをしてしまわないように自戒

2025-09-23

AIアートドーキンスの『神は妄想』こそが壮大な自己矛盾なんだが

リチャード・ドーキンスと、その信奉者たちに告ぐ。

君らが振りかざす「神は妄想だ」という主張が、それ自体証明不可能な「信仰」に基づいた、見事なブーメランであることについて、以下に論理的証明する。

俺の理論の前提と結論

まず、俺の主張の骨子を述べる。これは極めてシンプルだ。

【前提①】

いかなるルールも、それ自体ルールとして正当化することはできない。

(例:「物理法則がなぜこうなのか?」という問いの答えは、物理法則の中にはない。)

【前提②】

我々の世界には、安定したルール物理法則)が、現に存在する。

【導出 → 結論

前提①②より、我々の世界ルールを「ルール」として成立させている、外部の「上位の世界」が、論理的に必ず存在する。

よくある反論が、なぜ成立しないかの例示

この結論に対して、科学教の信者たちが繰り出すであろう反論は、すべてこの論理構造の前では無力だ。

反論1】「じゃあ、その『上位の世界』を創ったのは誰だよ?無限後退するだけだろ」

論破: その質問自体が、致命的な誤りを犯している。

それは、我々の宇宙という「ゲーム」ローカルルールである『原因と結果』を、ゲームの外にいる『開発者』、つまり上位の世界勝手適用しているだけだ。上位の世界は、我々の常識に従う義務理由もない。この時点で、君らの反論は終わっている。

反論2】「観測できない存在仮定するのは『神の隙間』論だ。科学的に無意味

論破: まるで逆だ。俺の理論は、「なぜこの世界は安定していて、科学的な探求が可能なのか?」という、科学存在するための土台そのもの論理的保証している。存在根拠を示すことが「無意味であるはずがない。

そもそも、君らが持ち出す多宇宙論なども、観測不可能な「上位の世界(=マルチバース)」を仮定している。自分のことを棚に上げるのはやめたまえ。

反論3】「そんな創造主がいるなら、なぜ世界はこんなに不完全で、苦しみに満ちているんだ?」

論破: これも【反論1】と同じ誤りだ。

我々のちっぽけな道徳観や価値観(完全/不完全、善/悪)を、上位の世界原理に当てはめるな。それは、ゲームキャラクターが「なぜこんな理不尽イベントが起きるんだ!」とゲーム開発者文句を言っているのと同じで、全く見当違いだ。

結論

俺がここで述べているのは、特定宗教人格神の話ではない。

言語論理ルールにどこまでも誠実に向き合った結果、必然的にたどり着く「知的誠実さの帰結」だ。

ドーキンス氏とその信奉者たちは、「観測できるものしか存在しない」という、自らが証明不可能ドグマ信仰しているに過ぎない。

そろそろ、自分たちの立っているその地面が、実は何によって支えられているのか、考えてみてはどうだろうか。

AIアートドーキンスの『神は妄想』こそが壮大な自己矛盾なんだが

主張

リチャード・ドーキンスと、その信奉者たちに告ぐ。

君らが振りかざす「神は妄想だ」という主張が、それ自体証明不可能な「信仰」に基づいた、見事なブーメランであることについて、以下に論理的証明する。

俺の理論の前提と結論

まず、俺の主張の骨子を述べる。これは極めてシンプルだ。

【前提①】

いかなるルールも、それ自体ルールとして正当化することはできない。

(例:「物理法則がなぜこうなのか?」という問いの答えは、物理法則の中にはない。)

【前提②】

我々の世界には、安定したルール物理法則)が、現に存在する。

【導出 → 結論

前提①②より、我々の世界ルールを「ルール」として成立させている、外部の**「上位の世界」が、論理的に必ず**存在する。

想定される反論

よくある反論が、なぜ成立しないかの例示

この結論に対して、科学教の信者たちが繰り出すであろう反論は、すべてこの論理構造の前では無力だ。

反論1】「じゃあ、その『上位の世界』を創ったのは誰だよ?無限後退するだけだろ」

論破: その質問自体が、致命的な誤りを犯している。

それは、我々の宇宙という「ゲーム」ローカルルールである『原因と結果』を、ゲームの外にいる『開発者』、つまり上位の世界勝手適用しているだけだ。上位の世界は、我々の常識に従う義務理由もない。この時点で、君らの反論は終わっている。

反論2】「観測できない存在仮定するのは『神の隙間』論だ。科学的に無意味

論破: まるで逆だ。俺の理論は、「なぜこの世界は安定していて、科学的な探求が可能なのか?」という、科学存在するための土台そのもの論理的保証している。存在根拠を示すことが「無意味であるはずがない。

そもそも、君らが持ち出す多宇宙論なども、観測不可能な「上位の世界(=マルチバース)」を仮定している。自分のことを棚に上げるのはやめたまえ。

反論3】「そんな創造主がいるなら、なぜ世界はこんなに不完全で、苦しみに満ちているんだ?」

論破: これも【反論1】と同じ誤りだ。

我々のちっぽけな道徳観や価値観(完全/不完全、善/悪)を、上位の世界原理に当てはめるな。それは、ゲームキャラクターが「なぜこんな理不尽イベントが起きるんだ!」とゲーム開発者文句を言っているのと同じで、全く見当違いだ。

結論

俺がここで述べているのは、特定宗教人格神の話ではない。

言語論理ルールにどこまでも誠実に向き合った結果、必然的にたどり着く「知的誠実さの帰結」だ。

ドーキンス氏とその信奉者たちは、「観測できるものしか存在しない」という、自らが証明不可能ドグマ信仰しているに過ぎない。

そろそろ、自分たちの立っているその地面が、実は何によって支えられているのか、考えてみてはどうだろうか。

2025-06-28

単語定義をどこまで掘り下げれば理解したことになるの?

この質問は、定義無限後退という問題に関連しています。数理論理学では、この問題解決するためにいくつかの方法や考え方があります

1. 原始概念

理論理学特に公理集合論形式体系)では、すべての概念定義しようとすると無限後退に陥るため、いくつかの基本的概念を無定義、すなわち「原始概念」として受け入れます

これらの概念はそれ以上定義されず、公理によってその性質規定されます

例えば、ユークリッド幾何学における「点」「線」「平面」などがこれに当たります

これらは定義されず、公理(例:「異なる二点を通る直線はただ一つ存在する」)によってその関係や振る舞いが規定されます

理論理学文脈では、例えば「集合」「要素」「論理結合子(AND, OR, NOT)」などが原始概念とされることがあります

2. 公理定義

原始概念は、直接的な定義ではなく、公理によってその意味性質が与えられます

公理とは、その体系内で真である仮定される基本的命題です。

これらの公理を通して、原始概念間の関係や、それらから構築される概念性質が暗黙的に定義されます

例:ペアノの公理自然数論)

自然数「0」、後者関数「S(x)」を原始概念として、以下の公理を設定します。

1. 0 は自然数である

2. 任意自然数 x に対して、S(x) は自然数である

3. 任意自然数 x に対して、S(x) ≠ 0 である

4. 任意自然数 x, y に対して、S(x) = S(y) ならば x = y である

5. 任意の集合 K について、0 ∈ K かつ「任意自然数 x に対して x ∈ K ならば S(x) ∈ K」が成り立つならば、すべての自然数は K に属する。(数学的帰納法原理

これらの公理によって、「自然数」「0」「後者関数」という概念が間接的に、しかし厳密に定義されます

3. 循環定義回避形式

厳密な形式体系においては、循環定義無限後退を避けるために、定義階層を明確にすることが重要です。

4. 基礎付けの概念

現代の数理論理学特に集合論では、ツェルメロ=フレンケル集合論(ZFC)などの公理系が、数学ほとんどすべての概念を基礎づけるものとして広く受け入れられています

ZFCは、「集合」という原始概念と、いくつかの公理外延公理空集合公理、対の公理、和集合公理、冪集合公理無限公理、置換公理、基礎の公理選択公理から構成されます

これらの公理によって、数学対象(数、関数関係など)がすべて集合として構成され、その性質集合論の枠組みの中で厳密に記述されます

まとめ

X1とは?」「X2とは?」といった定義無限後退は、数理論理学においては、最終的に原始概念に到達し、それらの概念公理によってその性質規定されることで解決されます

まり、すべての概念定義し尽くすのではなく、一部の基本的概念を無定義として受け入れ、その関係性を公理によって厳密に定めることで、論理体系全体の基礎を築いています

2025-01-07

anond:20250107132249

いいだろう。ではお前のことを認め、まともに話してやろう。

 

あのな、「政治監視必要」とはどこから出てくる話か?

代議制・官僚制批判からくるんだよね。

民主主義理想です。でもギリシャポリスみたいな直接民主制は無理なので、間接民主主義、代議制を現代では採用しています

でも代議制だと、代議員、すなわち専業政治家が権力をつかって不正をする。

制度で防ぐ? 制度をつくるのは政治家なのに? 

ここで「政治監視」が出てくる。監視部分に代議制をつかわなきゃいいじゃんって訳。

これは、直接民主主義部分的復活なんだよね。

 

それは、無理があるよ。

そもそも直接民主主義が無理だから、代議制なんだっつーの。

一部復活とかできるわけないだろ。 

 

で、どうなるかというと民衆監視は諦める。

次に出てくるのは「マスコミによる監視」だ。政治とは別に監視も代議制で間接でやろうってわけ。

これは、腐敗したよね。

あたりまえ。代議制だと腐敗がおこるからその監視をするんでしょ? マスコミ監視をしてないと、次はマスコミが腐敗するでしょうが

次はどうすんだ? プロ市民代議にマスコミ監視を任すのか。無限後退だね。

 

俺が思うに、市民政治参加だとか、市民による政治監視部分的直接民主主義の復活で政治正常化を図ろうとする、その試み自体に無理があるよ。直接民主主義が無理だって最初に言った。無理なもんは無理なのだ

それにだ、代議制・官僚制には、もう一つの側面がある。分業制度としての側面だ。

言うまでもなく、分業は、社会近代化を実現した大きなパワーの一つだ。政治学の祖と言ってもいい、Mウェーバーも言っている。代議制=分業を放棄して直接民主主義に戻ろうというのは、近代化放棄に等しい。

お前、頑張ってるじゃん。政治情報めっちゃくちゃ追っている。それが出来ているのはなぜ?

これは悪口では全然ないという前提なんだが、お前に政治を追えるのは、お前が暇だからなんだよね。仕事してないか政治の話が追える。社会分業において、お前は政治役割を進んで担っており、それは他の人にレストランウエイトレスタクシードライバーを仮託しているということなのだ。

 

 

これらを前提に、能天気に「日本国民はアホだから政治監視していない」などと主張するのは、はっきりと誤りだ。

それはシンプル不可能だ。日本以外の、お前の理想を実現している近代化国家存在しない。

もっと別の可能性が模索されねばならないんだ。

模索せねばならないってのは、答えはまだ見つかってないってことでもあるけど。

でもおまえは「俺は答えを知っていて、他の奴は知らないからアホ」だという。それはやめろ。

2024-11-27

anond:20241127111816

その方針で進むと、メディアフレームときに騙される市民がアホ、市民への啓蒙教育が不十分な知識人がアホ、知識人を図に乗らせている我々がアホ……などと無限後退がお前自分のところまでたどり着くんですが。

それででいいのか。

 

もともとは誰が悪いとか言い出すのがもうアホなんだと思うわ。

2024-10-18

anond:20241018151452

この状況に対処するためには、論理的アプローチを用いることが効果的です。「間違いであると証明できないなら正しいと考えるべき」という主張は、一般に「証明責任の転換(burden of proof)」や「無知に訴える論証(argument from ignorance)」と呼ばれる誤謬に該当します。この誤謬に基づく議論に対して、次のような方法反論することができます

解決方法

1. 証明責任所在確認する

一般的なルールとして、ある主張がなされる場合、主張した側がその主張を証明する責任を負います根拠がない主張については、その正しさを示すのは主張者側の役割であり、「間違いであると証明できない」ということだけで正しいとするのは論理的に不十分です。

2. 無知に訴える論証の指摘

• 「間違いであると証明できないなら正しい」という論法は、「無知に訴える論証」として認識されています。これは、あることが反証されていないからといって、それが真実である結論付けるのは誤りです。このような論法は、科学論理基本的原則に反しており、検証不可能な主張を真実と見なすことができません。

3. 代替仮説の提示

• その主張に対して対立する仮説を提示し、それもまた「間違いであると証明できない」ことを示すことで、相手論理がどれほど根拠に欠けているかを明らかにします。これにより、証明できないことをもって真実とする考え方の不合理性を浮き彫りにできます

4. 証明無限後退を指摘

相手の主張に対して、証明できない事柄を正しいと考えるのであれば、他の多くの事柄も同様に正しいと見なされてしま可能性があることを示します。これにより、その論理がどのように無限に続いてしまうかを指摘し、主張の不合理さを強調します。

実例

例えば、「宇宙人存在しないことを証明できないから、宇宙人存在する」と主張された場合、以下のように反論できます

宇宙人存在を主張する側が証拠を示す必要がある。

宇宙人存在証明できないことが、その存在証明する理由にはならない。

• 「存在しないことを証明できない」ことを理由宇宙人存在を信じるなら、同じ論理で多くの他の未証明事柄も信じざるを得なくなる。

このような方法を用いることで、相手の主張に対して論理的かつ合理的反論可能になります

2024-07-04

anond:20240703231040

批判者の言う「ゾーニング」は社会的抹殺婉曲表現なので、妥協点を探ろうとしたところで「ゾーニングが不十分」と言われて無限後退を促されるのがオチ

空気を読んで社会的自害するか、正面から対立するかの2択しかない

2024-05-07

anond:20240507211238

論理はどこかで無限後退に陥るから真理は常にトートロジーにならざるを得ないんやで

2024-03-21

anond:20240319114431

自由の拡大は最大限主張すべきだが、一般人への迷惑行為普通に敵作るだけで害しかないやろ。

元々男性嫌悪かに染まってる連中への迷惑は考えなくていいが(あれらの要求に際限はないので無限後退をさせられるだけ)。

酪農家が頑張って作った牛乳ぶち撒けたり、文化財ペンキ巻いたりしてる海外活動家連中見ててアイツラの要求を飲もうとか思わんやろ。

しろ徹底的に反発したくなるくない?

2024-02-17

anond:20240216220017

で、右や左を厳密に定義できましたか

私はあなたの言う通り「イメージをよりどころにしたら無限後退する」から、そして数学もまた原理的にどこかでイメージによりかかざるを得ないので、数学定義は厳密ではないと言っている。

イメージをよりどころにしたら無限後退するからイメージをよりどころにするのは間違ってるんだという主張をされてもそりゃ永遠に平行線しかならんよ。

だいたい意味を見たら行われるイメージは、その意味を満たす対象のなかで自分にとって対象的なものを描く確率が強いってだけでしょ。

不等辺三角形でも直角三角形でも正三角形でもある、量子力学的な?イメージの基?みたいなのがあって、実際その言葉を見たとき自分にとっての代表的イメージが高い確率で描かれるという感じ。

意味を見たときイメージ意味に対する必要十分条件だというような主張が詭弁なのは正三角形イメージした人に対して、不等辺三角形を見せて「これは三角形ですか?」と問うたら当然というように肯定するのが想像されることわかるでしょう。

2024-02-16

anond:20240216124331

感覚によらない「証明」をすることに価値を見出す人が数学をありがたがることがありますが、数学もまた根源的には感覚ありきの理解に基づいていると思うわけです。

この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。


意味の心象説」

言葉意味とは何か」という問いが一般的であることが了解されたとき、それに対して与えられる解答として未だにしばしば出会ものがある。

それは、言葉意味を何らかの心的なイメージ(心象)であるとするものである。たとえば、「赤」という言葉意味とは、この言葉出会ったときに心の中に生ずる赤い(物体の)イメージである、といった具合である

こうした考え方を基礎とする「意味理論」は、その洗練度はさまざまであっても、どれも根本的に誤っている

言葉意味に対するこうした考え方(意味の心象説」とでも呼ぶことができよう)は、ウィトゲンシュタインが『哲学探究』のなかで徹底的に批判したものであり、その批判は決定的なものであるとみなすことができる。

そして、意味の心象説を批判するにあたって、ウィトゲンシュタインフレーゲに多くを負っていることは疑いが無い。


フレーゲが主として問題としたのは、数学哲学特に算術の基礎づけにおいて、心理的な要素を持ち込むという当時の風潮(心理主義)であった。

算術の基礎』においてフレーゲが出した問いのひとつは、「数詞、たとえば『5』、の意味は何か」というものである

言葉意味とは心的なイメージであるとする、フレーゲ以前伝統的であった答え(=意味の心象説)の弱点がもっとも鮮明に現れるのは、フレーゲが出したような問いに、その答を当てはめようとするときである

(言語哲学大全)


実証

さて、元増田は、"語の意味"は究極的には個人経験感覚から想起される心象に基礎づけられる、と主張しているのだから元増田は「意味の心象説」論者です。


意味の心象説論者は、以下のプロセスを経て、言葉意味理解します。

1.何らかの言語表現を(音、または視覚、触覚から)受け取る。

2.言語表現に紐づく心象を、こころの中に想起させる。(この時点では、言葉意味はまだ理解できていない)

3.こころに浮かんだ心象にたよることによって、言語表現が表そうとした"意味"を理解する。


では、元増田は「三角形」をご存じでしょうか?(三角形意味理解しているでしょうか?)


意味の心象説論者は、以下三つのプロセスを経て、言葉意味理解する、という主張に同意するでしょう。

1.『「三角形」をご存じでしょうか?』という言語表現を、視覚から(もしくは聴覚から)受け取る。

2.かつて、どこかで経験した「三角形と呼ばれたなにか」を、こころの中に想起させる。

3.こころに浮かんだ「三角形」を参照することによって、"三角形意味"を理解する。


三角形意味再確認」できましたね?では、あなたが想起させたその三角形は、どのような三角形でしょうか?

もしも、あなたこころに想起させた三角形が、正三角形だったとしましょう。

もしそうだとするならば、直角三角形三角形ではないということになります

なぜならば、

正三角形は直角三角形ではないし、

・「語の意味は個々人がこころに想起させたイメージである」と(『意味の心象説』論者が)主張するならば、

 こころに浮かんだ三角形(正三角形)と異なる図形(直角三角形)は、"意味が異なる"がゆえに、三角形ではないと主張しなければならないからです。


逆も同じです。直角三角形を想起させたのならば、正三角形三角形ではありません。また、「直角三角形であり、かつ、正三角形であるような三角形」は存在しません。

ところで、あなたこころに想起させた三角形とはどのような図形なのでしょう?

仮にどのような"三角形"であったとしても、「その図形と異なるにも関わらず三角形であるような図形」は、容易に示すことができるでしょう。


もしもあなたが「私は、あらゆる三角形を含む集合そのものと、集合に含まれひとつひとつの図形を想起させることができるがゆえに、三角形の正しい意味理解している」などと言い逃れしてみたとしましょう。

その時、私はこのように問うことができます。「あなたこころに想起させた図形の集合の中の、一つ一つの図形すべてが、"同じ"三角形であることをどのように知るのですか?」と。


意味の心象説」論者は、語の意味は個々人の心象に基礎づけられる、などと主張します。

しかし、三角形意味を心象に浮かぶ図形に求めるならば、異なる性質を持つ三角形を示されたときに"三角形意味"を説明することができず、

無限三角形連想できるなどとうそぶいた場合、「では、あなたの(無限の)心象にうかんだうちの、二つの"異なる三角形"が、"同じ三角形である"ことをどうやって知るのですか」と問うならば、

意味無限後退」に陥るのはむしろ意味の心象説」論者のほうであることになります

なぜなら、その人は三角形意味を心象に浮かぶ図形に求めたのだから、心象に浮かぶつの三角形が"同じ言葉(三角形)"に対応することを、またさらに心象に求めなければならないからです。

まりあなたが主張する「三角形意味」=「"三角形の集合"の心象」のなかに、実は四角形がまぎれこんではいないでしょうか?という疑いをどのように晴らすのでしょうか?

(この時あなたは、三角形形式的定義を利用して証明したい、と思うことでしょう。しかし、「三角形形式的定義」に含まれる語彙は、本来感覚によって基礎づけられると主張したのは『意味の心象説』論者自身です。)


ここで示された無限後退は、あくまでも意味の心象説」がもつ問題によるものであり、

言葉意味の厳密な定義を求める方法が、(ほかの)なんであるにせよ、「意味の心象説」がその役目を果たさないことだけは明らかです。

ゆえに、意味の心象説は、根本的に誤りといえるのです。



話を元に戻します。

どこまで突っ込まれても感覚に頼らない定義可能なんですかね?と思います

何をするにせよ、少なくとも、語の意味を(さら限定すると、数学的語彙の意味を)感覚、心象に基礎づけようとする方法が誤っていることだけは明らかでしょう。

2024-02-14

anond:20240214182456

あい人間の態度だと、数学論文を書くときは、論文文章を全て品詞分解して出てくる異なり語全てに対して定義を書かなければならなくなると思うんだが。

そんなわけないというなら、じゃあ定義を書かなければならない言葉とそうじゃない言葉境界はなんだというのか?「余り」「ペアを作る」にすら定義がないと言うやつだぞ?

そもそもこの態度を突き詰めた先には、言葉言葉定義したその定義文に使われている言葉はどう定義するんだ、という循環論法or無限後退に陥るのがオチなんだけど、そこまで想像力働かせたうえで彼はあのような馬鹿げた難癖をつけたのだろうか?

定義が書かれてないっていうなら目の前で「ペアを作る」操作、それによって「余りが出ない」状況を実演してもいいんだぞ?

文章絶対的定義証明として価値を持っていて、動画などは無価値って態度はそれこそ「感覚的」じゃないか???

2023-10-03

必要十分条件だの逆裏対偶だの悪魔の証明だのオッカムの剃刀だのストローマンだの循環論証だの無限後退だのと

いろいろお勉強を積んだ成果が誰の記憶にも残らないレスバトルって

どうなの

2023-06-09

anond:20230609155229

昔と比べたら既にゾーニングされてるのに、ゴールが示されないから「ゾーニングしろ」で無限後退を強いられてる気がする

2023-05-15

anond:20230515102100

見ない人にスカだのグロだの見せたらボロクソに叩かれるわ

無限後退してんじゃねーよカス

2022-06-16

anond:20220616094931

そうなのよ

まあそれ言ってると無限後退していくだけなんで開き直るしかないっすわね!はっはっは

2021-06-03

2は素数っぽくないし数学は分からない

素数の中でも唯一の偶数素数なのに二等分したら整数になる(1717等分すれば1になるが)

二値で真偽、善悪、オンとオフの切り替えをあらわすこともある重要な数ではあるが

存在することをしめすものとして1があって0と1の二値が基礎であるということだったら2も特殊性質があるといえるのかもしれない

平面上で点1つ取ったらそれだけ、点を2つ取ったら関連が出来る、点を3つ取ってそれをもとに直線ひいたら角度が現れるしエリアが出来て面積が出る(曲線でも出るのか)(微分積分の話ではなかったはずなのに)

1は素数ではないが素数らしさというのは存在にかかわるもの(1らしさ)なのか特有性なのか、じゃあビットコイン価値特性か?

(1が「次のものがありますよ」を示すものなら1×1×…は循環論法とか無限後退っぽさもありながら、縦ある、横ある、高さある、動きある、…を続ければ体積っぽさもあるが2の話ではないじゃん)

コインが1枚あったとしてその裏表の2つの顔があったらそれは量子コンピュータ的なのか

2枚の波打ったコインがあったらそれらをぶつけて増幅(特定部位をより曲げる)か減衰(平たくする)かさせるのか

2021-05-18

anond:20210518004702

「何かを盲信しない」とやらを徹底したら無限後退して何も信じられなくなるわけだが、そこから脱するために権威などが必要とされる。

2021-04-12

anond:20210412100948

幸福とは何か、なんて考えだすと無限後退する上に人によって感じ方は違う&増田のいうように環境によっても変化するかもしれない。

定量化の努力には敬意を払うけど、決めつけられるとすごいムカつくというのが個人的感想です。子供っぽいけど。

2020-12-19

anond:20201218190802

・「山尾悠子作品集成」にバベル図書館っぽい話入ってた気がする。記憶違いならごめん。

>一本の円筒形の内部に存在する合わせ鏡の世界、〈腸詰宇宙〉のコスモグラフィーを綴った『遠近法

>黒硝子に封じ込められた世界の中には世界があり、その世界の中にはまた世界が……。無限後退する入れ子構造小宇宙物語『耶路庭国異聞』

ググって出た説明だとこれらかもしれん。

安部公房には『壁 2バベルの塔の狸』ってのがあって、一応塔内部も出てくるけど建物構造はメインではない。

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