はてなキーワード: 霊柩車とは
オカルト系の創作とかこの数十倍の文章量のも結構読んだことあるけどなあ
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身内の死比較漫画(1日限定公開全編公開)https://x.com/tokitadesu/status/1964290371191787825 が流れてきたのをきっかけに(今日コミティアだから公開なのですね)。
昨年夏に母方叔母(母の妹)の孤独死がありました。本人80歳過ぎ、夫逝去済み、子なし、認知症入り始めてたと思うが診断降りておらず、ケアマネ等地域医療にもつながっておらずで死後1か月未満で発見。
・発覚=悪臭がたちこめ、管理会社が警察に連絡。マンション(持ち家)の鍵が開かず、最終的にはしご車でベランダから立ち入り。一夜経ち、本人居住の警察署から親族経由で自分が警察署に電話を折り返す。土曜日。※この時の消防車の請求はきてません
・1時間後に警察署到着。本人確認できる状態ではないため、室内にあった写真で「あの住居に住んでいたのはこの人ですね?」と誰何され、まぁ確定
・「検死に回すので9万円必要になります、葬儀会社が当座払うので後で精算してください(神奈川県なので)。葬儀会社には『警察案件なので』と伝えてください」と言われる
・「小さなお葬式」に電話して「警察案件なので、よろしくお願いします」と伝える。斎場が決まり一報。「検死の終わりがわからず、そちらへの到着が月曜以降になるかも」と前振り
・兄と合流して管理会社に向かう。ここではしご車の話、半年分滞納していた管理費の話(いまどき手渡しで、未納を指摘されても対応できなかったらしい)をされる。特殊清掃会社も紹介してもらう
・特殊清掃会社の担当者が1時間後に来てくれて内見。1KD50㎡の見積もりが2日間作業で133万円。相みつを取る余裕もなく(ご遺体はもうないがニオイがすごいので。虫もすごかったはず)、言い値で承諾、鍵を預ける。一連の費用は母が払うことに
・自分とのやりとりで「匿名にしますので会社の宣伝で作業の様子をYOUTUBEにアップするのOKしてくれたら3万円値引きします」と言われ、一瞬迷ったが断る。兄にバレたら面倒だったので
・土曜中に検死が終わりましたと日曜午前に警察から一報あり。時間を合わせ、母、兄と共に斎場にかけつけたが叔母は専用の袋に密封された状態で納棺され、棺自体も蓋をしたまま。顔を見てお別れどころの騒ぎじゃない。泣き崩れる母。たしかここで死亡診断書をもらったような。
・命日は推定。死因は持病(がん)由来の炎症。この記述があって、がん保険が満額出た
・いわゆる「葬儀」はできません、「直葬」です、と斎場から念を押される。3日後の火葬までの間に、駆け付けられる親族を一堂に集めて、平服でお別れの会を20分設ける。線香をあげられるタイミングはここしかなかった
・火葬の際にお坊さんに念仏を唱えてもらうことに決定。「小さなお葬式」に宗派をつたえて戒名をオーダー。位牌を作るつもりはなかったがプランの中に含まれていたのを見逃しており、後日突然宅急便で届いて慌てた(返品もできず)
・火葬日当日、我が家は斎場に向かい霊柩車に伴走する形で火葬場入り、他親族&僧侶は直接火葬場集合。火葬炉に入る直前、お棺に花を入れさせてもらえることになったが、蓋を開けたら白い布団がかけてあり、ご遺体の様子はまったく見えず
・待つ間に通夜ぶるまい(のランチ)。食後、骨上げ。叔母の私物は、特殊清掃会社担当者が内見の際にピックアップしてくれたスマホと、使っていない財布しかなかったので、自分が持っていた祖父の形見(竹尺)を骨壺に入れる。
・使っていた財布やマイナンバーカードは見つからなかった。警察に「亡くなった時に着用していた衣服は処分しますね」と言われたが。いや本人が外で落としたやもしれず、いずれにしろ口座は早くに止めたので特に問題なし
・親族はここで解散。我が家は、叔父が眠っている合葬墓に向かい、その足で納骨。葬儀関連はここで終了
・室内のものは衣服・家具等すべて処分(くどいようだがニオイがすごいので)。作業終了後の立ち合い&鍵を引き取るために叔母宅へ。後日・通帳、保険証書、公正証書等財産関連書類 ・アルバム、手紙 ・アクセサリー が宅急便で送られてきた。段ボール2つ分
・都市銀行、地方銀行各1行ずつと、ゆうちょ銀行の通帳が見つかった。また、投資信託をしていることは聞いていたし、この世代の人なので生命保険にも入っているだろうとは思っていた。で、最終的に追加で都市銀行2行、金投資1社、生命保険2社が見つかった
・通帳があるものはHPで専用連絡先(相続窓口)を調べ、封書が残っているものは「お客様番号」的なナンバーを探しつつ本人死亡を伝え、口座ストップ or 死亡保障受取の手配を行う。「すべての財産は姉(自分の母)に」と、生前に公正証書を残してくれていたのが大変ありがたかった
・とはいえ「その公正証書、最新のものですか?」を証明するために公証役場に行き、必要書類を提出した(手続き人である自分と叔母とのつながりを証明するため、祖父母までさかのぼった戸籍を取り寄せた)。公正証書のコピー提出を求めた企業は多かったが、「公正証書の証明書」の提出まで必要だったのは金投資だけだった(確か。記憶曖昧)。
・母も80歳オーバーで自力で解約手続きができず、「お電話は相続人ご本人様から承ります」という企業がほとんどだったため、有休を取って実家に戻り、スピーカーにして電話連絡をする×手続き件数分。母はインターネッツをやっていないのでそもそも実家に回線はなく、リモート云々は無理筋だった
・銀行、生命保険は書類が残っていても問い合わせたら解約済みというケースが複数回あり。逆に書類が残っていなかったのに「マイナンバーのご提出をお願いします」「支店が移転します」の通知で初めて存在を知ったパターンがあった。この連絡が来なければ、叔母が口座を持っていたこと自体知らないままだった。仮に取りこぼしがあっても借金と異なり、調べる手段がない(と思っている)。叔母の財政上、無借金はほぼ確なのでそこは心配していないがマイナンバーで管理が簡単になるとよいと思う
・郵便物が残っていない各所引き落とし先を探すため、残高証明書と同時に過去3年分の出金記録を取り寄せて、片っ端から潰していった
・相続税算出に当たり、命日時点の残高が必要だったが最新の残高を調べてしまったので、残高証明書については二度手間になった
・郵便受けの鍵が見つからず、鍵屋を読んで錠前を壊してもらう。現場で「身分証明書と、故人とのつながりがわかるものを見せて」と言われ焦る(叔母あての郵便物をたまたま持っていたのでギリセーフ)。鍵は後日、初期のうちに確認した印鑑群の中から見つかった
・昔の人らしく「通帳ごとに印鑑を変える」で印鑑は複数あったが、手元に残っていたどの通帳とも合致するものがなかった。まぁもう印鑑なくても手続き進められましたが…
・長年通っていたカルチャーセンターに挨拶に行き、同窓会に差し入れのお菓子を持参し、8通ほど届いていた年賀状に訃報を返信。これでひととおり周知は終了(スマホは個人情報で開けられず退会のみ。紙の連絡帳は残っていなかった)
・靴のかかとを踏んだまま歩き、加齢臭が漂っていて、身だしなみが整えられなくなっており、認知症の前段として「ものわすれ外来」へ誘導するなどしてみた。が、CTスキャンで異常が出ず長谷川式もクリア。そうなると「私はまだ大丈夫」とケアマネ等の地域医療に繋がってくれなかった。もし繋がっていれば「死後しばらくしてからの発見」にはならなかったのでは
・母と叔母、姉妹で同じ養護老人ホームに入るべく下見をスタートした2週間後の急逝だった。何度も何度も入居を勧めたため、一度「私の友達で、そんなとこ入っている人ひとりもいない!」と返された。「その人たちもひとり暮らしなんですか?」と喉まで出かかってやめたが、今となっては言っておいた方が自分の気は済んだと思う。何かあった時のために管理人の連絡先を教えてくれ、合鍵をくれetc.、何を頼んでも一顧だにされなかった。靴は一緒に買いに行った
・半年ほど前から「スマホがみつからない、どこかで落とした」。しかし実際は家の中の目につくところにあったらしく、特殊清掃の人が内見後に「とりあえずお手元にあった方がいいと思って」と渡してくれた。既にスマホが認識できなくなっていたのだ
・もう1人の兄弟と不仲だったせいで、公正証書を作成していた(兄弟は遺留分を請求できないので、そのガードのため)。これがあって、もろもろの手続きを我が家で一手に引き受けられたのは幸いだったし、なければ「相続人全員の同意」が必要だったため、ものすごく時間がかかったと思われる(代襲相続含め、対象者はあと4人いた)
・銀行、年金、生命保険etc.の書類はすべてまとめて1つのカバンに入れる。エンディングノートも書いた。サブスク関連もまとめて記入
・銀行口座は2つに、生命保険は1つに絞った。印鑑も1つに。解約した銀行や保険の書類は捨てた
・家に入ってすぐの引き出しに現金10万円を入れた封筒を準備。家の鍵の予備、宅配ロッカーの共通キーも封入し、封筒には郵便受けの開け方(右に2回、左に1回まわす的なやつ)を書いた
・独身の自分もこうなる可能性があるので、後に残る人が困らないようにせねばと強く思った。以上、お読みいただきありがとうございました。
風を起こすのは、他ならぬ自分だ。鼻の穴近辺を、鼻毛がちょろつく時期となった。
布団から起き出し、毛抜きを手に洗面所に向かう。鼻腔の平穏を乱すものはどれか、どれかと目を剥き鏡を凝視しあたりを付ける。
キングクリムゾンのアルバムジャケットのような表情。ほどなくして、首謀者と思しき獲物をキャッチする。
コツは、無理に引き抜かない事だ。掴んでテンションを掛け続けると、向こうが根負けしてくれる。
召し取った獲物をティッシュの上に置き、定規と合わせて撮影する。
「今日はまずまず。長さはめぼしくないけど、先端が白くなってハーフアンドハーフなのはレアかな」
コメントをつけてSNSにアップする。フォロワーが投資で成功し南国で暮らしているらしいブロガーただ一人の、
今日の調子なら、来週ぐらいに大物が捕れるかもしれない…。鼻毛は群生する。そして白髪になると自律を失い
出勤時間を確認するためスマホを見ると、SNSの通知が来ていた。
「この程度でレアとかwww義務教育からやり直しレベルじゃんwwwwww」
引用リツイート。誰だ?発信元を見に行く。フォロワー10万の鼻毛アカウントだった。製図用の定規を隣に、毎日のように
アップされる鼻毛。太い。これはひじきではないのか?驚愕で汗の滲んだ手の中で、スマホが震える。
「ごめんねえ。急で。」
父親が心不全で倒れた。ICUの前で母と落ち合う。一命は取り留めたが、しばらく一般病棟での入院が必要との事だ。
「携帯の充電の線とか分かるかしら?あと枕元にあるラジオも持ってって」母に促され、十数年ぶりに父の部屋へ入る。
煙草と、名状しがたい臭い…。父の余命がいくばくもないように感じる。ふと目が留まる。机の上にSNSで見た製図用の定規があった。
…まさかな。病院に戻ると、父は寝入っていた。実家から持ち出した父の一式を置き、踵を返すと、懐かしく厳しい声がした。
「太さは…」
「え?」
父は目を閉じて続ける。
「太さは、葉巻タバコを吸う事で養われる。安い…安いものでいい。たくさん吸い込み、鼻から出す」
3日後、父は容態が急変し死んだ。鼻毛アカウントの更新は倒れた日を最後に途絶えた。
父の鼻の穴には今、ひじきと見紛うような業の塊ではなく、白い綿がしおらしく詰まっている。
波が引いたような気がするが、乗ってみる。
スタンダードを作った車、塗り替えた車からの選択の10選は、選外を含めてそれほど異議はない。
しかし自分なりに選べば違う別の10選ができるかも、と思ったが……
選ぶべき「スタンダード」が多すぎて収拾がつかなくなった。
方針転換して、「どんな車がスタンダードなのか」にしたら、若干は絞り込みやすくなった。
知名度・生産期間・累計生産台数・派生車種の多彩さを考慮して選考。
ライセンス生産車も同じ車種として扱い、シリーズ終了年もそっちの方を採用。
もちろん独断と偏見だが、ほぼほぼ定番の車ばかりなので、技術的な解説は無し。
生産台数はそれなりだけど、頑丈で車両寿命が長いので、時代を超えちゃてる。
ヘンリー・フォードはモデルチェンジを一切認めず、生産設備等をこのモデルに全振り。
長寿車になってしまったのは、第二次大戦後の復興期にモデルチェンジが後回しされたため。
とはいえ、外観は古風だが、性能的には最終期まで競争力が有った模様。
エンジンとトランスミッションはHトラックに転用された(物理的にも180度回転させている)
メキシコは1955年のノックダウン生産開始から2003年の最終モデルまで、ずっと作り続けていた。
同国でも「国民車」
ライバル車は、車オタじゃない一般人にとっては「ベンツのジープ」「トヨタのジープ」「イギリスのジープ」だ。
ライセンス生産を最後まで続けていたのは、インドのマヒンドラ社
自社ブランドのマヒンドラ・タールは、外観・装備をラングラーに寄せているが、中身はおそらくそのままだろう。
現在の売れ筋であるRV・ミニバン・SUVは、そもそもが素人お断りな「はたらく車」がルーツ。
アメリカだと税金の安さもあってピックアップトラックも含むが、「はたらく車」を「自家用車」的に使う人が多数存在した。
メーカーがそれに気づいて一般向けに再開発した、という歴史があるのでジープと共に選出
公式では、ブラジル生産のコンビ(KOMBI)2013年モデルで生産終了とされているが、個人的には2006年空冷エンジン廃止で終了な印象
ベースは1956年英国のモーリス・オックスフォード シリーズⅢなので、この位置
自動車産業黎明期から人々はレースで競い、「スポーツカー」というジャンルも早々に誕生。 皆が公道最速最強を目指し、開発を続けてきた。
エンジンを大きく、空力ボディ、軽量化、効率的な駆動方法、サスペンション、タイヤなどに最新テクノロジーを詰め込んでいくのが定番、と思っていたら…
当時のレーシングカーを公道仕様にしたら、究極のスポーツカーになった
ライセンス生産した国は ソ連/ロシア・インド・マレーシア・スペイン・ブルガリア・トルコ・韓国・エジプト
ソ連/ロシアのラーダVAZ-2104ステーションワゴンが最終モデルらしい。
あれこれを全部足すと、生産台数はフォードT型を抜いて単独2位
都市伝説だが…
フィアット社がイタリア共産党の仲介でソ連とライセンス契約を結んだとき、ソ連産の鉄鋼をイタリアに安く輸入できる契約も同時に結ばれた。 その鉄の質が悪かったため、イタ車は錆びるようになった…
正体は7代目サニー(B13)
FF化された5代目サニーをメキシコ工場で作ったのが初代ツル。 3代目までは普通にモデルチェンジされてきた。
しかし8代目サニーは北米と同じセントラ(Nissan Sentra)を名乗り、4代目ツルにはならなかった。
2階建てパワートレイン・ラバーコーンサスペンション・10インチタイヤは、「スタンダード」とはちょっとちがうのでわ
イランで最近まで生産されていたが、昨今の経済制裁の影響で終了した模様(フランス語Wikipedia情報)
・DSは1962年にド・ゴール大統領を救ったエピソードが好き。
インドのアンバサダーやメキシコのツルは、ほぼタクシー専用車。
増田は90年代初頭には6人時代のSMAPにキャーキャーしてたり、90年代後半には木曜の怪談観て滝沢秀明の美しさと今井翼の可愛さに心を撃ち抜かれたり、銀狼怪奇ファイルを毎週観て金狼はお前だったのかとテレビに突っ込んだりと人生の大半を緩くジャニーズ番組で過ごしてきました。
滝沢氏がジャニーズアイランドを退社して新会社を立ち上げた当初は頑張れという気持ちもありました。
ただここ数ヵ月の騒動を見てるとこうなることを見越して逃げたのかなと思うようにもなりました。
在籍中にTOBEの屋号取ってるし。
井ノ原快彦新社長のインタビューを読んで引き継ぎもせずに会社を去ったことを知り、一社会人としてそれはあまりにもおかしいと思い始めました。
霊柩車で遺影を持ちジャニーイズムを引き継いでジュニアの育成をしていた彼がもう別会社だからとなにもコメントを出さない、マスコミも取り上げないのはなぜでしょうか。
会社が違うからだとしても一番そばで見ていたのは彼なのだから。
彼は長男として色々な期待と重圧を受けながらも、両親からとても愛されて育ってきたのだろう。
従兄弟だった彼は、幼かった頃は隣県に住んでいた事もあり、盆や正月には叔父と共によく遊びに来たものだし、私達も両親と一緒に遊びに行ったものだった。
ところが私が中学に上がった頃、叔父の転勤と共に簡単に往復できる距離ではなくなったことから、“もっとも、当時の我が家の状況を鑑みると、理由はそれだけではないようだが”彼との音信は完全に途絶えてしまい、無事就職が決まって今は勤務先の新潟に居るらしい、という事を叔父から伝え聞いていただけだった。
彼の訃報を受け、私は両親と共に叔父の元へ赴くことになったのだが、私達が斎場へ到着した時にはまだ親族関係者の誰の姿もなかった。
斎場の職員に案内された通夜会場には故人の亡骸が納められた棺だけがあり、叔父の到着を待たずに棺の窓を開けて故人と対面した。
驚いたことに、十数年振りに見る故人は少なくとも私の記憶にある幼い丸顔の彼ではなく、彫りが深くてひげの濃い、独身だった頃の私の兄と瓜二つの容貌だった。
甥の顔を久しぶりに見た両親も、死に化粧の所為かもしれないが、と前置きしつつ、本当に寝ている兄のような顔だと。
気がつくと叔父は私達の後ろに立っていた。
正確に言えば会釈するまで、“少なくとも私は”叔父だということに気づかなかった。そのくらいにやつれてしまっていたのだ。
故人の仕事を後押しして遠方に送り出した叔父は、何度も何度もうわ言のように後悔の言葉を口にするばかりで、先に到着していた私の兄と叔母の弟に辛うじて支えられているような状態だった。
その日の夜行われた通夜には、身内だけだと言いながらも、叔父夫婦の関係者のみならず、沢山の故人の同級生や友人達が訪れ、予想していなかったのであろうか、叔父は引きつった表情ながらも、その日一度だけ笑顔を見せた。
通夜が終わった夜遅くに私達は叔父夫婦に家へ招かれ、二人は故人の思い出話、そして故人の最後と、再び自分の後悔の言葉を口にした後で、長男に先立たれた現実を、まるで自分達に言い聞かせるように話してくれた。
実は私の両親は、今日まで叔父の家を一度も見たことがなかった。
叔父には、一度だけでも兄夫婦に自らが努力の末に築いたささやかな城を見て欲しい、そういう思いがあったのかもしれない。
実は数年前、私は一度だけ妹を連れ、叔父の家に遊びに行ったことがある。その時故人はおらず、叔父夫婦が私達の相手をしてくれた。
当時の記憶は薄れ掛けていたが、部屋を案内されて少しずつ思い出してきた。
しかし、リビングやキッチンに荷物が散乱した様は几帳面な筈の叔母のそれではなく、二人の心境をそのまま表しているのが見て取れた。
その後、叔父は一人葬場へ戻り、冷たくなった息子と一緒の最後の夜を過ごした。
翌日の告別式の席上、叔父は喪主挨拶の途中で言葉を詰まらせ号泣したが、振り絞るような声で最後まで読み上げ、叔父、叔母、叔母弟の家族一同で深々と弔問客へ頭を下げた。
皆で献花台の花を分けて棺に詰めて故人を飾ったのだが、沢山の花と思い出の品で個人の顔以外が埋め尽くされた棺の蓋を、叔父夫婦は中々閉じることができなかった。
火葬前にもう一度お顔を見られますから、と葬儀屋に促されてようやく蓋を閉じ、友人と親族で棺を黒い霊柩車まで運んだ。私も棺を持った一人なのだが、両手で抱えた棺は青年となった故人が納棺されているとは思えない程に軽かった。
故人と喪主は黒い霊柩車に、その他はマイクロバス揺られ、住宅街を抜けた郊外にある広い霊場に到着した。
途方も無く広くて、幼い子供たちが芝生の広場で遊んでいる、公園と見紛うような穏やかで緑豊かな風景が.だからこそ余計に、冷たい打ち放しコンクリートの壁で覆われた霊場の中で、故人の棺を囲む我々との落差を大きく感じさせる。
最後に皆で別れを告げ、叔父夫婦もしばらく名残惜しそうに棺の蓋の窓を開けて顔を見つめていたが、叔父が意を決したように閉じ、そのまま故人は荼毘に付された。
火葬が終わった後に行われる骨上げは、当然ながら丁重に死者を敬って厳かに執り行われる儀式であるが、この霊場における骨上げは、霊場の職員がステンレス製の台に乗せられた遺骨の部位一つ一つを細かく説明しながら骨壷に納めていく、という正直なところ厳かとは少々距離を、いや、ある意味では場違いなエンタメ性すらも感じさせるもので、さながらテレビで見る検死のワンシーンか、解剖実習のようにも見えた。
詰め込み始めて間も無く、若かった所為もあって立派な故人の遺骨は骨壷に納まりきらないだろうことが、誰の目にも明らかに映った。
目の前で全てを納めるように親族一同懇願したのだが、霊場の職員は、納めるには遺骨を砕くしかないですが、と説明し、少々躊躇った後で、遺骨を擂り粉木のような棒を使ってバリバリ音を立てて潰しながら骨壷に詰め込み始めた。
“恐らくこれは霊場ではよくある光景に違いない”とはいえ、私でさえギョっとしたそれは、叔父夫婦にはたまらなく暴力的に映ったのだろう、叔母は声にならない悲鳴を上げて顔を真っ青にし、叔父はたまらず席を外してしばらく骨上げの場に戻れなくなってしまった。
しかしながら、骨になって無残に打ち砕かれた息子に背を向けて震える叔父にも、今にも卒倒してしまいそうな叔母にも、声を掛けられる者は、私を含めて誰も居なかった。
ただ骨を潰す不気味な音だけが響き、霊場の職員は黙々と骨壷に遺骨を詰め込み、皆無言のままそれを見つめる他無かった。
来場した時と同じバスに揺られながら、来た道を骨壷を抱えて斎場まで戻るとすぐに、父は叔父夫婦に手短に別れの挨拶を告げ、足早にその場を後にした。
時間が迫る訳でも無い筈。いくらなんでも実の弟になんと冷やかな…そう私は思いながらも叔父達に頭を下げ、父の背中を追って車に乗り込んだ。
すると父は、私の気持ちを察したように車内で私と母に、こう諭した。
冷たいかもしれないが私達が居ても何の慰めにもならない。他の親族の足止めになるだけだ、と。
実は、集まった親族の顔ぶれは叔母関係者が中心を占め、叔父側で駆けつけたのは私達と兄だけという、どちらかというと叔母側の意向が強く見て取れる葬儀と、叔父夫婦の現在の関係性は薄っすらと私にも理解できていたが、父はこの場においてもその事について一切触れなかった。
そして悲嘆に暮れる弟に対する同情の言葉を口にし、人のために涙する父の姿を生まれて初めて見た。
故人の命日は何の因果か誕生日の前日、24年と364日の本当に短い人生だったが、彼にとっては辛くて長い戦いの日々だったのかも知れない。
実家に戻ると家を空けていた間に、少々痴呆気味で放って置けない祖父の面倒を見ていてくれていた妹が迎えてくれた。
両親に促されて、“もっとも、父も母も叔父と会話できるような心境になく、私にこの役目を押し付けただけなのかもしれないが”無事帰宅したことを叔父に電話で告げると、本当に良かった、と喜んでくれたが、これから色々と大変でしょうが…と言ったきり私は言葉が続かなかった。
私の様子を察したのか叔父は、今日はありがとう、それじゃあ、とだけ言い、電話は切れた。後日私の兄から聞いた話では、電話の後すぐに叔父は眠ってしまったらしい。
叔父が長男との淡い思い出を夢に見ながら目を閉じたのか、それともこれから差迫るであろう、暗い現実を想像しながら横になったのかは、私にも分からない。
歩くし健康にいいかなと思っていたけど、歩きスマホするので妹から怒られて7年経ってる。
で、自分の母を運ぶ救急車の中でも、母が亡くなった霊柩車の中でもしてた。引いた。
でも たしかに自分はすることがない時間だし「ちょっとしたスキマ時間にしてるだけ」とも考えられる。
が、マナーは悪い。(これを「マナー」と言っていいのかどうかもわからないけど)
ただ、父は発達特性持ち的なところもあるので「マナー悪いから」の説明だけでは スマホゲームを止められない。
孫といる時は「おじいちゃんと手を繋ごうね」と促して 歩きゲームをさせないようにしてるけども。
どうしたらいいんだろうな…。
お正月の歌と言えば、これ。
『お正月』
もういくつねると お正月
こまをまわして 遊びましょう
はやく来い来い お正月
この歌、子供の頃からずーっと思ってたんだけど、「お正月の数日前」の歌なんだよ。
なんでこんなことになってんだ?バグか?
そう思って少し調べた。
まずこの曲の作曲者は、あの瀧廉太郎!(名前だけはなんか知ってる!)
どうやら、荒城の月や花(春のうららの〜隅田川〜)などの作曲者みたいだ。
なんかすごい。
東くめとその夫、あと瀧廉太郎らが「子供でもわかりやすい歌を」というコンセプトで作ったようだ。
120年以上も前!歴史あるんだなぁ。
今まで文語体だった子供向けの歌を口語体で作ったという、当時としては画期的な歌だったそうだ。
だからお正月と誕生日が同時に来るので、子供はことさら楽しみだったみたいだ。
数え年ではなくなったことも一つの理由だが、大きな理由はこれらしい。
1904年に銀座の明治屋がクリスマスツリーを店頭に飾り、1910年に不二屋がクリスマスケーキを発売。
その後昭和初期に、大正天皇の誕生日である12月25日が休みになった。
(それなら今の12月23日と合わせてクリスマス連休にしてほしいところだ)
つまり、クリスマスを祝う慣習が生まれたので、お正月の歌詞は現実から離れていったようだ。
こう見ていくと、お正月の歌が年末しか歌えないのはバグではなく、時代の流れだということが分かる。
瀧廉太郎は無実だった。誰も悪くなかった。
もういくつ寝ると お正月
お正月には餅食って 腹を壊して死んじゃった
不謹慎すぎてひく。ここに書くのもためらったが、当時のオリジナリティを尊重して載せた。
これも今じゃ子供も歌わないだろうな。
https://anond.hatelabo.jp/20221121085518
あっというまに、2週間が経ってしまった。
忌引で仕事を休んだりしたのでまあ周りも知っていることなんだけど、あんまり気を遣われたくなくて、でも誰かに聞いてほしいのでつらつらと書く。おじいちゃんは本当に最後までマイペースだったし、面白い人だった話を、どうか暇な人は読んでいってほしい。
突然つれあいをなくしたおばあちゃんは、久々に孫であるわたしの顔を見て笑ってくれだけど、足取りがおぼつかなくて、ただでさえちっちゃい(身長、145センチしかない)身体がますます小さくみえた。「おじいちゃん、座敷にいるから会ってあげて」と言われたので向かう。布団に、顔にかけられた白い布。それを見たらぐっと目が熱くなった。布を取ると、眠ってるみたいなおじいちゃんの顔。この家で夕ご飯を食べると、おじいちゃんはお酒を飲んで、その後一緒にテレビを見てるといびきをかきながらうたた寝をしてしまう。そんな時の顔だった。声をかけたら起きてくれそうなのに冷たかった。
その日の夜、おじいちゃんの家でお通夜をした。数人だけど親戚も来るということで、玄関を掃いておこうと、箒を探しに納屋に入ると、使いかけの肥料や、明らかに「まあどうせ明日も使うしここら辺に置いておくか」って感じで適当に置いたらしい鍬、何日に白菜を収穫するとか来年の作付をメモしていたホワイトボードがあって、ああ、おじいちゃんにとってもこれは急なことだったんだなとぼんやりと思った。
枕経に来た菩提寺の住職さんは、わたしとそう歳の変わらない、若いひとだった。お経をあげてもらい、納棺をする。旅支度をさせて、花をいれて、孫全員(私含め6人いる)の手紙をいれ、お気に入りだったシャツをいれ……その過程で、ずっとぼんやりしていた祖母が棺に取り縋って泣き出した。まだ祖父が死んだ実感が薄かったわたしも、さすがにその姿を直視できなくて目を逸らしたとき、視界の端で住職さんがしきりに鼻をすすったり、マスクを直すふりをして目元を拭ってるのが見えた。なんでも、婿養子として今の寺に来た時に、ちょうど祖父が檀家の総代をしていて、祖父はそれこそ孫と歳の変わらない若い彼のことを気にかけて可愛がっていたらしい(親戚談)。きっと仏門に入った人にとって、通夜も葬儀も日常茶飯事だろうに、その人がそんな感情に呑まれるくらい、祖父は面倒見のいい人だったらしい。妹や従妹もその住職さんが泣いているのを見たらしく、後々孫の間で「もしかしたら他所にも孫みたいな人が他にもいるのかもね」なんて話した。
その翌日は友引で、葬儀は次の日に延ばし、火葬だけを行った。この日もおじいちゃんはなかなかやらかしてくれた。おじいちゃんを乗せた霊柩車が家を出る時は、集落中の人(ガチの限界集落である)が見送りにぞろぞろと集まって、見送ってくれた。ちょっと壮観だった。
本来こういう時は霊柩車の後ろに、参列者を乗せたマイクロバスがついてみんなで火葬場に行くものだと思う(というかわたしが経験した葬式ってそういうのしかない)んだけど、コロナ禍だし、あとあんまりにも急すぎて来れる人も少なかった(田舎だし、みんなお年寄りなので、足が確保できないと来れないのだ)ので、うちや叔母の家の車3台に分乗して、火葬場に向かった。
しかし、せいぜいどんなに安全運転しても20分くらいで着くはずの火葬場になかなかつかない。道中の信号がうまいこと全部赤で引っかかるのだ。わたしの母は三姉妹の長女で、まだ心ここに在らずな状態の祖母と連名で喪主をしていたため霊柩車に乗っていたが、わたしが「おじいちゃん、よっぽど行きたくないんだな……」と言うと父は「だろうな……」と深く頷いていた。
30分以上かけて火葬場に着いた。そこからはさすがの祖父にももうどうにもできず(?)あっという間で、その後2時間もしないうちに、祖父は骨になった。若い頃(といってもわたしが見た記憶があるのでめっちゃ若いわけではない)に建築業についていて、屋根から落ちて骨折した時に手術していれたボルトがしっかり焼け残っててびっくりした。手先、足先の細かい骨は、年齢もあってさすがに……だったが、大腿骨や肩の骨はがっちりしていた。祖父はこの年齢では背の高い人だった(たぶん170センチ越えてた。祖母と並ぶと身長差がすごかった)のに、結局のところ、最後には母が抱えられるサイズの骨壷におさまった。「こんなに小さくなっちゃうんだね」と母がつぶやいた時は、なんで言っていいのかわからなかった。
帰りはそんな祖父を抱えた母もうちの車に乗って、また3台の車で祖父の家に帰った。霊柩車で来る時に通った道を避けて帰る、ってのは全国共通の風習なのかな……?だから、来る時よりは少し遠回りになる……はずだった。でも20分で帰れた。なんせ信号、全部青。骨壷を渡された時の母の顔はさすがに見ていられなかったけど、祖父の家の屋根が見えてきた時に母は、「帰りはあっという間だったね……」と困ったような笑みを浮かべていた。おじいちゃん、どんだけおうち好きだったんだよ……。
家族葬だったけど、焼香をしにたくさんの人が来てくれていた。みんな、新聞のお悔やみ欄で見てとるものもとりあえず大慌てで……って感じで来てくれていた。「入院してたのか?!聞いてないぞ!」と言う人もいた。病院には1泊しかしてない、本当に急だったということを何遍も説明する母は、最後のほうはさすがに疲弊していた。ちなみにこの日は大雨だった。無口な従弟がぼそりと「未練あり過ぎだろうが」と言っていた。それな、と返した。
式自体は身内だけで行って、このご時世だから会食は無しで折り詰めを持って帰ってもらい、また骨と、遺影と、白木の位牌と一緒に祖父の家に帰った。
とりあえず自分達も折り詰めを食べながら、母は葬儀屋と四十九日の日程をつめ、その後も墓石屋や位牌の手配、この後家に直接弔問に来てくれる人への対応の打ち合わせを叔母たち(と、まだどこか虚ろな顔をした祖母)がやっている時、まだ細々とやることは残ってはいるがひとまずは一通り終わったね、お疲れ様だったね、という空気が流れつつあった。
でも、ここで終わらないのがおじいちゃんだった。突然この家の固定電話が鳴った。
母が電話を取ると、相手は伯父(父の兄。他県で父方祖母と一緒に住んでいる)だった。葬儀に花を出してくれたり香典も出してくれたから、今日が葬儀だったことはわかっていたはずだし、なんだか様子がおかしい。泣いてるのか笑ってるのかわからない声で喋っていた(母談)らしく、何かあったのか母が(たぶん疲れもあって)少し強い口調で問うた。その返事は、
だそうだ。
祖父は交友関係は広いがそれぞれ相手にマメな人だった。うちの父方の親戚に対しても、季節の果物や特産品なんかを折々に送っていた(向こうからもよくお返しも来ていた)。この時期は林檎(ほぼ出身地がバレるな……)を、他県の親戚や知り合いに毎年毎年手配して贈っていて、それが、葬儀をやって当の本人を極楽浄土に送ろうとしていたっていうのに、それがちょうど終わったタイミングで相手に届いた、ということらしい。……それは普段無口な伯父さんも、反応に困っただろう。「○○さんからの最後の贈り物だから美味しくいただく。冬にはこっちから蜜柑を送るからよろしく」ということで電話が終わり、私たちは大きく溜息をついた。「たぶん、この調子だともう何軒か送ってそうだなぁ……」とみんなで笑い合った。
さすがにちょっとしんどかった。
あまりにも急すぎた。呆然とした祖母を見るのが辛かったし、その祖母の代わりに喪主の仕事を引き受けるためにずっと張り詰めた顔をしていた母を見ているのも胸が痛かった。出来ることしか手伝えなかったけど、母から葬儀が終わった後に「あんたら(私や弟妹)がすぐ飛んできてくれて本当に助かった」と言われた時の弱々しさが心配で、結局今いる自分の家に戻って来れたのは11/25だった。
だけど、そうして過ごす中にも、ふと思い出す祖父の話(孫相手に遊びにムキになったり、高校生の叔母が夜遊びしてぶっ飛ばされた話だったり)や、こうして亡くなった後にもなんだか面白いことをしてくれるおじいちゃんのことを話せる相手は、なかなかいない。
でも、顔を知らなくて、こんな長文をここまで読んでくれる人に、ちょっとでも聞いてもらえたらなんだか心持ちが楽になる気がして、あと、悲しいだけではないって気持ちになれると思ったので、こうして文章にしてみた。
読んでくれて、おじいちゃんのことを知ってくれて、ありがとう。
余談。
わたしが今の家に戻る前日、仏具屋に母と行って、位牌のカタログをもらって祖母の家に行った。その後数日、祖母はカタログを見て、あと母が撮っていった店頭にあった位牌の写真も見て、散々悩んだけど、そのお店で一番よく出回る、スタンダードなものを選んだらしい。「それでいいの?」と母が訊いたら、「わたしが死んだ時は、お父さん(祖父のこと)とお揃いの位牌にしてほしいから。これならすぐお揃い作ってもらえるでしょ」と言ったそうな。お揃いの位牌。ちょっとパワーワードだな、なんて思った。でもさぁおばあちゃん、そんな早くいったらおじいちゃんたぶん額に青筋立ててめっちゃ怒るから、もう少し一緒にいてほしいな。お正月には会いに行くからさ。
奈良県立医科大学附属病院→静岡県内を走行中はリンカーンだった
https://www.youtube.com/watch?v=7R3gbWTRdto
https://www.youtube.com/watch?v=DokuWw2WIG0
自宅到着時はベンツ
https://www.youtube.com/watch?v=2HOnS5Ia08c
これ、どっかで検死したときに載せ替えた?