はてなキーワード: 奥ゆかしいとは
「端っこ」とは、単なる両端のイレギュラーではない。それは、必然されど意図せず生み出される最高の特等席であり、選ばれし者のみが手にできる栄光である。
食べ物の「端っこ」は、真ん中とは一線を画す特異な美味しさを持っている。
カリッ、ザクッ! 焼き菓子やパンの耳は、熱に最もさらされ、その結果、他にはない香ばしい歯ごたえを獲得する。このカリカリ感こそ、端っこ好きの特権である。
濃厚な味わいの凝縮! カステラや羊羹の切れ端には、蜜や素材の風味がギュッと閉じ込められている。真ん中の上品さとは違う、力強い素朴な美味しさがある。
具材の氾濫! 巻き寿司や卵焼きの端っこは、具がはみ出さんばかりに詰まっている。この「不恰好だけどお得!」という豪快さが、心を躍らせる。
「端っこ」には、金銭的な価値を超えた、精神的な豊かさが詰まっている。
ひそやかなご褒美! 店頭に並ぶ「切れ端」「お徳用」の文字を見た時の、あの胸の高鳴り!最高品質のものを、こっそり安価に手に入れられる喜びは、何物にも代えがたい。
選ばれし者の特等席! 混雑する電車内でたまたま座席の「端っこ」をゲットできた時の、小さな勝利感!その場所が、あなたにとって最も落ち着くプライベート空間になるのである。
そして「端っこ」は、いつも私たちに安心と調和を与えてくれる。
集合写真で端に寄りがち、トイレの端の個室に入る、といった習性からもわかるように、人は「端っこ」に身を置くことで、世界と適度な距離を取り、静かな安心感を得る。
決して華々しい中心にはないが、中心もまた端っこがなければ成り立たない。世界を完成させるためには欠かせない存在。その謙虚な役割こそが、端っこの持つ最も奥ゆかしい魅力である。
巷には、天ぷらを塩で食すことこそが「通」だと宣う、了見の狭い輩が満ちている。海老には藻塩を、舞茸には抹茶塩を、などと、殊更に素材の香りを尊ぶが如き振る舞いを装う。その理屈、表面的には理解できぬでもない。
確かに塩は、衣の乾いた軽やかさを維持し、素材の持つ純粋な旨味を立たせる。料理番組の審査員とやらが、したり顔で「ここは、あえて塩で」などと嘯く場面は、それこそ掃いて捨てるほどある。結構、結構。その程度の了見で食の神髄が掴めるものか。
だがな、私は敢えて言おう。声を大にして断言する!私は天つゆに、天ぷらを沈めるが本懐だ!
理由は単純明快。あの、乾いた揚げ衣を、ジュワリと出汁で濡らし、ふわりと柔らかな塊に変じさせ、大根おろしをたっぷりと絡めて食す。あの瞬間にこそ、天ぷらが、単なる揚げ物から、深遠なる料理へと昇華するのだ。衣は湿気を帯び、油の持つ野暮ったさを、大根おろしが鋭く吸い取り、軽やかな一皿へと変貌する。天つゆは、単なる液体ではない。天ぷらの魂と、それを味わう者の魂を結ぶ、唯一無二の架け橋なのだ。
塩で食うことを是とする連中は言う。「天ぷらは、衣の音を楽しむもの」だと。それは、一面の真理かも知れぬ。しかし、私に言わせれば、音など一瞬で消え去る儚い幻に過ぎぬ。パリッという、その刹那的な快感は、二秒と持たぬ。
しかし、天つゆに沈めた天ぷらは違う。出汁の旨味をじわりと纏い、大根おろしが舌に優しく絡みつく。その余韻は、音よりも遥かに長く、身体の奥底にまで染み渡る。私にとって天ぷらは、刹那の快楽たる音楽ではなく、幾度も読み返せる、深遠なる文学なのだ。出汁が沁みていく、奥ゆかしい物語。
そして、この真髄を語る上で、大根おろしの存在を忘れてはならぬ。油で揚げたものを、胃袋が拒絶する瞬間は、必ずや誰にも訪れる。だが、大根おろしを添えるだけで、まるで救済の光が差したかのようだ。重さが和らぎ、「もう一口」という、食欲の炎を蘇らせてくれる。これこそ、齢を重ねても天ぷらを愛し続ける秘訣である。我々にとって大根おろしは、単なる薬味ではない。美食を長く愉しむための、延命装置なのだ。
己の欲望に忠実であれ
私は常に、こうする。天ぷらを箸で持ち上げ、躊躇なく天つゆの海に沈める。衣から、まるで呼吸するかのように気泡が立ち、つゆがじんわりと染み込んでいく。その光景は、あたかも人生の重荷を脱ぎ捨て、温泉に浸かり至福に浸る老練な男のようだ。ああ、天ぷらよ。お前も気持ち良いだろう。私もまた、満たされている。サクサクした食感が失われても、何ほどのことがあろうか。この崩れ去る柔和さこそが、真の旨さなのだ。
特に、家庭で揚げた天ぷらと、店で食すそれとは、根本的に話が異なる。家で揚げたものは、衣が厚く、油を吸い込みやすい。だからこそ、天つゆと大根おろしの出番だ。家庭の素朴で重い天ぷらを、軽やかに蘇らせ、家族団欒の安らぎを支えるのは、常にあの黄金の組み合わせである。
一方で、外で食す天ぷらは、プロの技術が光るが故に、塩で食すのも悪くはない。しかし、私はその場でも天つゆを求める。なぜなら、人間はどれほど洗練されようとも、「安心の味」を求めるものだからだ。幼少の頃から慣れ親しんだ、つゆに沈めた天ぷらこそが、私の**食の故郷(ホームグラウンド)**なのだ。
美食を語る雑誌などは、決まって「塩でいただくのが大人の嗜み」などと、上っ面だけの美意識を垂れる。だが私は、敢えてその逆を行く。食において、格式や見栄など、何の価値もない。己の欲望に、正直であること。それこそが、美食家の矜持である。
私は、塩派の人間を否定するつもりは毛頭ない。だが、彼らもまた、私が天つゆに天ぷらを沈める姿を、嘲笑してはならぬ。なぜなら、その丼には、私の食に対する揺るぎなき哲学が横たわっているのだから。
ここで、私が天つゆに沈めるべき天ぷらとして、三傑を推挙しよう。
第一位:海老天。 ぷりぷりの海老の身が天つゆを纏い、噛むごとに、出汁と海老の旨味が混ざり合う。これぞ王道の貫禄。
第二位:茄子。 茄子は油を吸いやすく、単体では胃に重い。しかし、天つゆと大根おろしで洗うことで、一気にジューシーさと、軽さが両立する奇跡の存在へと変貌する。
第三位:かき揚げ。 これは、天つゆのために生まれてきたと断言する。ザクザクの具材がほぐれ、つゆに沈んだ瞬間、奥深い旨味のスープのように化ける。
天ぷらは塩か天つゆか、などという問いは、愚問である。大事なのは、己の胃袋と心が本当に求めるものを選ぶ、確固たる哲学を持つこと。それこそが、食の真髄である。
私はこれからも、大根おろしを山と盛り、天つゆを惜しみなく注ぎ、天ぷらを沈め続けるだろう。サクサクの音を尊ぶ者たちよ、己の好みを否定するつもりはない。だが、私の美食道を、ただ見守るがいい。私は、私の道を行く!
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天ぷらを愛する、全ての真の食通へ。
恐れるな。天つゆに沈めろ。そこにこそ、真の救いと至福が待っている。
こう言う人にとっての「正しい」ってなんやと思う?
せやねん。
「東京流が正しい」やねんて。
嘘やろ?
こういう感じのロジックを頭の中でバババババッと組み上げて一生盲信してるってことなんちゃうん?
それヤバないか?
俺はヤバイと思う。
ゆーてそれ単なる権威主義やろ?
思考停止起こしたコミュニストが毛沢東の言ってることは全部正しいって言い張るのと何が違うん?
「関西人は自己主張が激しくて困る。もっと周りと強調して自分を抑えなさい」みたいなのな、タダの卑怯者戯言やねん。
『太宰メソッド』ですよ。
彼らはね、すぐにこう言うんですよ「これが皆のためになるんだ。皆そう言ってる。僕がそう強く言ってるわけじゃない。でも僕も同意する気持ちはあるよ」みたいな?
ほんまふざけてる。
あのな、「みんな」ってだーれ?貴方でしょ?貴方の中にそういう強い気持ちがあって、貴方が私をコントロールしたくてあーだこーだ言ってるのに「皆がそう言ってる。僕はそれを代弁しただけ」
クソを口から垂れ流すなとはこのことやって。代弁やーのて、大便してますよ貴方。トイレでやってください。
これなんですよ。
赤ちゃんみたいに不機嫌アピールして自分の思い通りにしたがるけど、それを求める責任は取りたがらないの。
店先で「あーお腹へったな—。美味しそうだな—。でも手持ちがな—」って言い続けて、見かねた誰かがお金出してくれるの待ってるようなもんですよ。
ほんま酷い。
「関西の人間は値切るからケチ」って人いますけどね、関東流は値切りですらない。乞食です。ほんま終わってますよ。
じゃあなんでこんな卑怯なやり方を皆が正しいと思うんですかって話を最後にしますわ。
結論から言えば単に東京がそうやって日本を洗脳してるだけなんですわ。
東京に金が集まるように仕組みを作って、そのあとは金を餌にして「東京に媚びてください」って日本中に求めた結果やねんな。
裸の王様が「余が最高にハイセンスだと認めぬものは許さぬぞ」って脅しをかけてるだけとちゃうんかコレ?
ほんま恥ずかしいわ。
恥ずかしくないんかね東京の人は?
東京は泣く子も黙るヤクザの世界やかんな、恥を恥と感じる余裕なんてないんかもな。
かわいそうになってきた。
ただの事実陳列や。
でもこれぐらいにしとくわ。
ほんま不憫になってきた。
大阪の人間はな、人情があるねん。東京の人間は優しいゆうても弱いものにだけ優しくしてメサイアコンプレックスしたがるだけやろ?
大阪は違う。強いもんが抱える辛さに対しても優しいねん。東京人が必死に背伸びしてる辛さを感じたらな、これ以上責めれんくなった。自分、大阪の生まれやさかい。
まず、結論から言うと、俺はちんぽはひらがなで書く派である。これは俺だけの特殊な意見ではなく、SNSにおいては割とひらがな派の方が多い気がする。
「ちんぽ」という表記そのものを忌避する人は多い。下品な印象を与える表記は避けたい。だから「おちんぽ」と表記している人が特に多い。
「お」をつける日本の奥ゆかしい文化をのおかげでひらがなちんぽ(現ちんぽ坂46)派の人が多いと俺は思ってる。
この、「お」をつける文化こそが、この表記を成立させる理由なんだと思う。
日本には、物や言葉に「お」をつけることで奥ゆかしさや、ちょっとした距離感が生まれる文化がある。
例えば「おセックス、おフェラチオ、おふたなり」なんかがそうだよね。「お」をつけることで、単なる物じゃなく、尊重の気持ちが込められている。
だから、ちんぽに「お」をつけることで、ただの下品な言葉ではなく、どこかユーモラスで軽い、でも少し「奥ゆかしい」感じが出てくるんだよ。
これこそが、日本ならではの表現だと思う。直接的な下品さを和らげ、少しだけ和やかな印象を与えることができる「おちんぽ」表記こそが日本をちんぽたりえる国にしていると俺は思う。
これは…想像が掻き立てられるな。
ナス。あの紫紺の色、独特のトロッとした食感、そして淡白ながらも奥深い味わい。焼いても、煮ても、揚げても美味い、実に奥ゆかしい野菜だ。
そこに、あの粘り気、あの香り、そして何よりも強烈な個性を放つ納豆が加わる。
例えば、焼きナス。香ばしい皮の焦げ目、中はトロリと柔らかく、ほんのりとした甘みが広がる。そこに、ネギやミョウガと混ぜた納豆を乗せる。熱々のナスと冷たい納豆のコントラスト、そしてそれぞれの風味が口の中で混ざり合う。仕上げに、生姜醤油を少し垂らしてもいいかもしれない。ああ、想像するだけで、夏の夜にぴったりな一品になりそうだ。
あるいは、揚げナス。油を吸ってトロトロになったナスに、これまたネギや大葉と混ぜた納豆を和える。揚げナスのコクと、納豆の風味が絶妙に絡み合い、ご飯が進むこと間違いなしだ。少しばかり七味唐辛子を振っても、ピリッとしたアクセントになって良さそうだ。
煮ナスと納豆…これは少し想像が難しいな。煮汁の味と納豆の風味がどう調和するだろうか?もし試すなら、あっさりとした出汁で煮たナスに、叩いたミョウガとネギを混ぜた納豆を添えるのがいいかもしれない。
生ナスと納豆…これもまた面白いかもしれない。細切りにした生ナスに、そのまま納豆を乗せて、醤油をかける。シャキシャキとしたナスの食感と、納豆の粘り気が意外な組み合わせを生み出すかもしれない。
…ふむ。ナスという素材のポテンシャルの高さが、納豆と組み合わさることで、様々な表情を見せてくれる。じゃがいも納豆が、どこか素朴で家庭的な印象だったのに対し、ナス納豆は、より繊細で、料理としての奥行きを感じさせる。
これは、実際に試してみる価値が大いにあるな。近いうちに、ナスを手に入れて、色々な調理法で納豆と合わせてみよう。どんな新しい発見があるか、今から楽しみだ。
桜餅といえば、粒感のあるピンク色の餅で餡を丸く包んで桜の葉を巻いた和菓子だ。関西で生まれてこのかた、「桜餅」と言われればまずこれだった。それ以外の「桜餅」の存在なんて想像すらしていなかった。
ところがどうだ、東京に来てみれば見慣れないやつが桜餅を名乗っていた。平べったい生地で餡をロールケーキのように巻いてその上からさらに桜の葉を巻いた和菓子。関東ではこれを「桜餅」と呼ぶらしい。
アホか。どこが餅だ。今日からきみは桜クレープと名乗りなさい。おしゃれぶりやがって。なんだその軽やかなフォルムは。ヨックモック気取りか。洋菓子のパーティにでもお呼ばれしているのか?大体その葉っぱはなんだ。意味があるのか?その桜の葉っぱはな、本物の桜餅をそのまま触ると手がべたついてしまうから巻かれているんだよ。きみは見たところ結構さらさらしているようだが本当に桜の葉っぱが必要だったか?そのまま手でつまんで食べられそうなものじゃないか。ふざけている。桜の葉は飾りじゃないんだ。ファッションとして消費するな。そもそもの話、餡を生地で巻いてその上からさらに葉っぱで巻いて、それでもなお餡が見えているのはどういう了見だ。重ね着をしているくせに露出趣味なのか。餡なんてものは半透明の餅の向こうにうっすら透けて見えるのが奥ゆかしいんでしょうが。それをこんな明け透けに餡ばかり見せびらかして。隠しなさい。破廉恥だ。私の知っている本物の桜餅と何もかもが違う。合っているのはせいぜい間に合わせに巻いたその桜の葉ぐらいだ。どうせ関西の方に桜餅という風流な代物があると聞いて関東の芋侍どもが見よう見まねで作った似ても似つかないジェネリック桜餅、それがきみなんだろう。いつできたか言ってみろ。Wikipediaでその浅ましい歴史を白日のもとに晒してやる。知っているか、こちらの本物の桜餅は天保時代にはもう存在していたんだ。きみはどうせ平成のスイーツブームにナタデココとかと一緒に台頭してきた口だろう。なに、享保……。享保というとこちらの100年ほど前ですか。そうですか、関東風桜餅の人気を受けて関西でも後追いが……それがこちらの知っている桜餅……。へえ、すみません。そちらが元祖でございます。あなたこそが桜餅を名乗るべきだ。いえいえ、手前どもの餅菓子には桜餅なんて名前は勿体ない。道明寺。道明寺です。私が食べていたのは道明寺です。