はてなキーワード: 中二病とは
私は、昔から宇宙の真理とかに中二病的に憧れるタイプのオタクだった。当然、物理学の究極の理論である「超弦理論」に手を出したわけだ。
しかし、すぐに気づいた。これは物理学のフリをした、超絶ハードコアな数学だということに。
超弦理論が語る世界は10次元とか11次元とか言われる。我々が知る3次元空間(+時間)以外に、極小に丸まった余剰次元が存在するらしい。この「余剰次元の形」が、この世界の物理法則(電子の質量とか、力の種類とか)を決めている、と。
「その丸まった形って、一体どんな形なんだ?」
この素朴な疑問に答えるために、私は抽象数学の沼に両足から突っ込むことになった。
この余剰次元の候補の一つに、有名な「カラビ・ヤウ多様体」がある。 こんな、SF映画に出てきそうな、美しくて複雑怪奇な図形が、実は電子の動きを決めているというのだ。
この「形」を数学的に扱うには、通常の微積分なんて全然役に立たない。必要になるのは、
トポロジーは、空間を伸び縮みさせても変わらない性質(穴の数とか)で分類する。「コーヒーカップとドーナツは同じ形!」という、あの有名な学問だ。
超弦理論では、この余剰次元の「穴の数」や「ねじれ具合」といったトポロジー的な性質が、物理学の重要な定数に対応することがわかっている。
純粋な「形」が、現実世界の「法則」を決めている。これ以上の恐怖と感動があるだろうか。
私が最も戦慄したのは、このトポロジーで使われる概念の一つ、「ホモロジー群 (Homology Group)」だ。
これは簡単に言えば、空間の「n次元の穴」を数えるための、めちゃくちゃ抽象的な代数的な道具だ。
例えば、ドーナツには「ぐるっと一周する穴」が一つある。ホモロジー群は、この穴を代数的に(群という構造を使って)記述してしまう。
この概念は、元々、誰がどう考えても「何の役にも立たない」純粋な遊びとして生まれた。ひたすら抽象的で、自己目的的な美しさしか持っていなかった。
「このホモロジー群こそが、余剰次元の空間に存在する『ひも』の巻き付き方を完全に記述している…!」
純粋な数学的創作物が、数十年後、この宇宙の最も深い設計図のキーコードとして機能している。
これを目の当たりにしたとき、背筋が凍ったね。
抽象数学は、人間が世界を記述するために作り出した「道具」ではない。
そうではなく、抽象数学こそが、この世界が構築される「ルールブック」であり「設計図」だったのではないか?
そして、我々人類は、その設計図を、何の目的もない純粋な思考実験(数学)を通して、たまたま発見してしまっただけなのではないか?
超弦理論の沼にハマって得たのは、物理的な知見ではない。「この世界は、あまりにも美しく、冷徹な数学的必然性によって成り立っている」という、人生観を揺るがす確信だった。
最後に一つ。
「ホモロジー」、ちょっとググってみてくれ。理解できなくて全然いい。その概念が持つ、純粋で絶対的な美しさに、少しでも触れてみよう。そうすれば、世界が少しだけ違って見えるはずだ。
なんか勢いでランダムグッズをコンプしたくなって、夜中のテンションで爆買いしたんよ。
だって推しが神なんだもん。全部そろえたいし、推し活ってそういうもんじゃん?
欲しい人いるし、こっちは助かるし、まじでWin-Winじゃん。
しかもたまたまレアがダブってて、最終的に黒字とか意味わからん。
そしたらいきなり顔曇って、「お前みたいなのがグッズ争奪戦を地獄にしてる」って言ってきたの。
え、なに?中二病?って思った。
てか争奪戦なんて起きてないし。
オンラインくじだし、受注生産だし、普通にポチれば買えるやつだし。
そしたら「俺は金なくて買えなかった」とか言い出して、マジ意味不明。
しらねーよ。
てかお前が地獄なんよ。
ほんと弱者男性界の闇を見た気分だったわ😅
幼少期、いわゆるオタクとして育った私には、男たちの集団が常に攻撃的に映っていた。加害を厭わない彼らは、アニメや漫画に登場するような美しさとは無縁で、醜いばかりだった。
思春期になり、彼らからの好意などそもそも欲しくないというルサンチマンが私の内に芽生えるのは、今思えば当然の中二病だった。異性愛を欲しないという姿勢は、どうしようもなく男に夢見てしまう私にとって、困難であるが故に格好良く感じられた。どうにかして男からの好意を拒絶してやりたかった。(実際に好意を向けられることはほとんどなかったが。)
そんな私にとって、性的少数者というアイデンティティは、格好の盾ないし矛のように感じられた。しかも無料だ。オタ活で金のない女学生が飛びつかない理由がなかった。
しかし、無性愛者(アセクシャル)であることは私には難しすぎた。性愛的に寄る方を必要としないという気高さには、弱い私(性欲は強い)がどれだけ嘘を踏み固めたところで、手が届くとは思えなかった。
だから私は「レズビアン」になることを選んだ。そして、必要以上にその自認を痛いほどに主張した。言葉でもツイートでも。それはまるで自分自身に鞭打つようだった。「お前はレズビアンだ」と強迫しなければ、私は同性愛者ではいられなかった。
「私、レズビアンなので。」
と宣言した時に見せる男たちの曇った表情で、傷ついた私の精神が潤っていくさまを、心の裏側で確かに感じた。それは小さな復讐の成功体験だった。その時の私は、ひどく勝ち誇った顔をしていたのだろう。
20代、レズビアンとして恋愛を頑張ってみた。大して持ち合わせのない時間も金もつぎ込んだ。しかし結局、誰のことも心から好きになれなかった。パートナーができることは何度もあったが、その彼女が金銭や心理的な安心に寄与しない分かると、人でなしの心がスッと冷めていくのがわかった。
彼女との破局を正当化するために、いくつもの嘘を重ねた。その行為は、嫌いだった現実の男たちの醜い言い訳と重なった。
あれだけ認めたくなかった「レズビアンのカップルは破局率が高い」という統計に、私もいくらか貢献してしまっていた。
現在、30歳に差し掛かる私には何もない。残ったのは、「男嫌いの男体好き」という、抱えていくのには苦しすぎる醜い実態だけ。