はてなキーワード: 踏み絵とは
『中国に日本が侵略されて同化を迫られる時になんで中国国旗を踏み絵に使うの?
その場合に踏むことを要求されるのは日本国旗だろ? って言ってるんだけど。』
って話
主題は主題でいいんだけど、ここを修正出来ない理由が分からない
よく言う死んでも間違いを認められない人の類いか
「踏み絵」とは「ある人の思想や主義などを強権的に調べること、またその手段のことを意味する言葉」
なのだけど、もしかして実際に絵を踏む意味しかない言葉だと勘違いしてたの?(笑)
マジか!
言いたいことは分からんでも無いが、いくつか事実と違う部分がある
今の「政党政治をやっていない」状態が続く場合、国民民主党はじかんをかさねようとも「間に合う」時は来ないので、間に合っていないと言う表現は間違っていると考える。
私としては、国民民主党が最終的に目指しているような共産党のようなポジションで、いつも一見申し上げる、第三の視点を提供するのは上手いが、最前線には立たないと言う所をのらりくらりとやっていく連中だと思っていた。特に幹事長の榛葉なんて共産党の記者会見にそっくりなテンションでいつもやっているから。
これ、高市詰んでね?このまんまだと国民民主が連立いるする可能性なくない?
今回公明党が示した政治資金の改正案だけど、これ、公明党と国民民主党が共同で作って提案してるやつだよね。
これを拒否したってことは、国民民主党も拒否してしまったことになってない?
このままの状態で国民民主が合流したら、政治資金問題を容認したと取られかねないし、国民民主は合流したくても連合を説得する材料としてヤバイ状態だし、詰んでない?
逆に、公明の踏み絵を踏めば、自動的に国民民主の案も飲んだことになって自民公明国民で連立してた可能性はかなり高かったように思う。
今からでも党内手続きとやらをさっさと済まして、受入表明するしかなくない?
まじやばくね?
QAエンジニアの採用面接とは、いわば古式ゆかしい儀式のようなものである。そこではいくつかの定番の質問が投げかけられるが、それは候補者の能力を測るためというより、自社の「文化」という名の型枠にはまる人材かを見極めるための踏み絵に他ならない。本稿では、この儀式で頻出する質問の裏に潜む、構造的な問題点を明らかにしていきたい。
面接官は必ず「改善経験」を問う。これは、候補者が自社の「正義」を理解しているかを確認する、一種の信仰告白である。ある組織では数字という名の神を崇拝し、またある組織では行動変容という名の哲学を信奉する。候補者が語る改善経験が、面接官の信仰する価値観と異なるとき、その表情はたちまち曇り、まるで異教徒を見るかのような態度を取る者さえいる。
そもそも、テストの原則として「テストはコンテキスト次第」ということを理解していれば、まずその背景から問い始めるはずだ。だが、多くの面接官は、自らの信仰を告白させることに終始し、候補者の経験の普遍的な価値を理解しようとはしない。
なぜ、これほどまでに「立ち上げ経験」が神聖視されるのだろうか。誰もが旗を振りたがる組織は、果たして前に進むのだろうか。プロジェクトに必要なのは、常に革新的なリーダーシップとは限らない。時には、卓越したフォロワーシップこそが、プロジェクトを成功に導くという事実を忘れているらしい。
「必要な時に、必要なことを、的確に実行する」という本質的な能力よりも、「何かをゼロから始めた」という物語が評価される。この風潮は、実務能力よりも聞こえの良い経歴を優先する、業界の浅薄さを象徴している。
テスト自動化の経験は、もはやできて当然の嗜みである。しかし、面接で問われるのは、その実装の些末な部分ばかり。まるで、最新の戦略論が飛び交う戦場で、いまだに剣の振り方について熱弁をふるう老兵のようだ。
とうにテスト自動化のトレンドは移り変わり、「いかに自動化のコストを抑制し、最小限の労力で最大の効果を得るか」という高度なマネジメント能力が求められている。にもかかわらず、「E2Eテストを増やしたい」などと無邪気に語る管理職がいまだに存在する。彼らの下で働くことのリスクは、賢明な候補者なら即座に察知するだろう。だからこそ、このような時代遅れの質問にも対応できるよう、経験だけは積んでおくべきだ。処世術として。
リファレンスチェックという名の、不可解な儀式も存在する。これは、候補者の能力ではなく、その人物が持つ「紹介者の質」を問うているに等しい。特定のキャリアパスを歩んできた人間にとって、この要求はほとんど意味をなさない。
この儀式をパスできないという理由だけで有能な人材を門前払いにするとは、実に合理的な判断と言えよう。その組織が、自らの手でどれほど素晴らしい機会を逃しているか。おそらく、彼らがその事実に気づく日は永遠に来ないのだろう。
人間誰しもエコーチェンバーの中にいるんやでぇ〜というクソ相対主義もそれはそれで正しいのだが、問題は明らかなウソがまかり通ってるということだ。
タコツボAの中では急増する外国人犯罪に怯えておちおち外も歩けないというのが事実だとされて、そんなことはないと言っても通らない。
タコツボBの中では外国人との摩擦問題というのは負け組ネトウヨの捏造であって平和を愛する諸国民が問題起こすわけないというのが事実だとされて、そんなことはないと言っても通らない。
そしてそれぞれの穴の民が本心からそれを信じて疑わないのであれば、それは人間の認識力の限界でしかないのだが、
実際は極端なウソはウソであるとみんな知っている。「ウソであってもここではウソじゃないんだ」というダブスタがまかり通っており、ダブスタを受け入れるかどうかがその穴で暮らす踏み絵であり住民の絆である。
わたしは啓蒙がキライだ。他人から啓蒙されるほどアホではないし、他人さまを啓蒙するほど傲慢でもない。
フェミニズムの運動は、自己解放から出発したはずなのに、いつのまにか「すすんだワタシ」が「おくれたアナタ」を啓蒙するという抑圧に転化してしまった。
フェミニズム啓蒙主義には、リブ度に応じて女たちを「ススンデルーオクレテル」に序列づける権威主義がある。
ススンダ方はオクレタ方に正義を押し付け、あまつさえフェミニズム十字軍よろしく女の正義を「輸出」しさえする。
フェミニズム先進国ー後進国の関係は、たとえば「アメリカの正義」を押し付けようとする抑圧的な植民地主義と
変わらない。大きなお世話だ。何が解放かはテメェが決める。他人様のお世話になんかならない。それがフェミニズムの出発点だったはずだ。
おんなの運動は抑圧的な男権社会に対する対抗文化として、成立したとたん「対抗的価値」の尺度ができあがる。
法律婚をしているかしてないか。化粧するかしないか。夫を「主人」と呼ぶか呼ばないか。さまざまな尺度が「踏み絵」になる。
運動の退廃は、自分たちが批判したはずの当の社会体制の歪みを、そのままカリカチュアライズして、しかももっと歪な形で再現してしまうところにある。