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パンティーを被るという行為――羞恥・仮面・秩序転倒の文化社会学的考察
パンティーを頭に被る人物は、多くの社会において「悪ふざけ」「変態」として嘲笑の対象になる一方で、
マンガ・アニメ・コメディ・インターネットミームの反復的なモチーフにもなってきた。
一見して低俗にしか見えないこの行為は、しかしなぜこれほど強く人々の笑いや嫌悪、あるいは不安を喚起するのか。
その過剰な感情反応は、単なる嗜好の問題を超えて、近代社会における身体・羞恥・ジェンダー・権力といった構造的テーマを照らし出していると考えられる。
本稿の目的は、パンティーを被るという行為を「逸脱行動」や「性的倒錯」として切り捨てるのではなく、
という三つの観点から文化社会学的に分析し、その行為が現代社会の規範と矛盾をどのように露呈しているのかを論じることである。
第一に着目すべきは、対象が「パンティー」であるという点である。
しかし社会的には、身体のうち「隠すべき部分」を覆うことで、性的な領域と公共的な領域を峻別する境界線として働いている。
とりわけパンティーは、しばしば女性の身体性・性的魅力・純潔観念と結びつけられ、強い象徴性を帯びている。
文化人類学者メアリー・ダグラスは、「汚れ」を「あるべき場所から外れた物質(matter out of place)」と定義した。
下着は本来、身体の奥まった場所で皮膚に密着し、「見えないこと」自体が期待されるモノである。
それを頭部という最も視線の集まる位置に、しかも外から見える形で持ち出すことは、
「隠すべきもの」を意図的に「あるべき場所から外す」行為であり、ダグラス的な意味での「汚れ」を自ら演出することに他ならない。
人々が感じるのは「汚い」というよりもむしろ「恥ずかしい」「みっともない」という感情であり、
それは身体に付随する性的な領域が、モノを媒介して公共空間に溢れだしたことへの反応である。
パンティーを被るという行為は、自己の身体そのものを露出しているわけではないにもかかわらず、
下着の象徴性によって「性的なもの」が表面化したかのような錯覚を生み出す。
そのギャップこそが、笑いと嫌悪が混じり合う独特の印象をもたらしている。
第二に、「被る」という行為が意味する仮面性を検討する必要がある。
顔は、社会学者エルヴィング・ゴフマンが述べたように、対面相互行為の舞台において自己を提示する中核的なメディアである。
目・口・表情を通じて、人は自己の人格・感情・意図を他者に伝える。
そこに被り物をかぶせることは、自己呈示のチャンネルを意図的に撹乱し、
「いつもの自分」とは異なる人物への一時的な変身を可能にする。
仮面はしばしば、道徳的・法的な責任性を希釈し、人に「普段ならしない行動」を許す。
覆面をした抗議者やハロウィンのコスプレ参加者が、日常では抑制されている言動に踏み込めるのも同じメカニズムである。
パンティーという「ふざけた素材」を用いた仮面は、暴力性よりも滑稽さを強調しつつも、
顔を覆うことで〈誰であるか〉を曖昧にし、同時に〈何者にも属さない、ルール外の存在〉であることを宣言している。
重要なのは、ここで用いられる下着が多くの場合「女性用」として理解されている点である。
男性が女性用パンティーを被る場合、それはジェンダー境界を視覚的に撹乱する効果を持つ。
性的同一性や男性性の「まともさ」を象徴する顔の上に、女性性の象徴物を被せることで、従来的なジェンダー秩序は一時的に解体される。
この解体が、笑いとして消費されるのか、あるいは違和や嫌悪として反発を招くのかは、
社会がその時点で受け入れうるジェンダー規範の幅を測る指標ともなりうる。
第三に、この行為はしばしば「笑い」と結びついて登場する。
ミハイル・バフチンが論じたように、カーニバル的な笑いは、既存の秩序・権威・聖性を一時的に転倒させる力を持つ。
王と道化が入れ替わり、崇高なものが下卑たものに、清浄なものが汚穢に置き換えられることで、人々は日常のヒエラルキーから解放される。
パンティーを被る人物は、多くの場合「くだらない大人」「オトナなのに子どもじみたことをする存在」として描かれる。
そこでは、理性的で成熟した市民として振る舞うことが期待される大人が、もっとも幼稚で性的規範に反する身振りを自ら演じてみせる。
これはまさに、近代的主体の理性と節度という自己イメージを、身体と笑いのレベルで裏切る行為であり、バフチン的な意味での秩序転倒である。
パンティーは、ファッションやポルノグラフィー産業を通じて商品化された「性的魅力」のパッケージでもある。
その商品を「本来の用途」から外し、頭に被るという過剰にズレた使用法は、
シチュアシオニストたちの言う「デトournement(転用)」にも似て、商品に埋め込まれた意味構造をずらし、
消費社会が約束する「ロマンティックで洗練された性」のイメージを滑稽なものとして暴露する。
多くの場合、当事者は「面白いから」「ウケるから」という動機で行為に及ぶ。
しかし、当人の意図とは無関係に、行為そのものが既存の秩序を揺さぶり、
笑いを通じた不安定化をもたらしている点に、カーニバル的な力があるといえる。
ここまで、パンティーを被る行為を文化的・象徴的なレベルで肯定的に読み解いてきた。
しかし同時に、この行為にはジェンダーと暴力の問題が潜在していることも看過できない。
たとえば、所有者の同意なく女性の下着を盗み、それを被って笑いのネタにするような事例は、明らかに性的暴力であり、先の分析とは質的に異なる。
そこでは、女性の身体性がモノに還元され、男性の自己演出の道具として一方的に利用されているからである。
「誰のパンティーか」「どう入手されたのか」「誰の前で行われるのか」「誰が笑う権利を持つのか」といった文脈と切り離しては成立しない。
他者の所有物を奪ってネタにすることとの間には、倫理的に越えがたい差がある。
この意味で、パンティーを被る行為を安易に「自由な表現」「笑いだから許される」として擁護することはできない。
一方で、倫理的に許容可能な範囲で行われるこの行為が、規範の硬直性をほぐし、身体と羞恥をめぐる議論を促す契機となりうることも事実である。
その両義性を見極めることが、現代社会のジェンダー感覚と表現の自由の両立を考える上で重要になる。
パンティーを被るという行為は、表面的には「低俗なギャグ」「一部の嗜好」に過ぎないように見える。
しかし本稿で見てきたように、
として理解することができる。
つまり、パンティーを被る行為は、身体と羞恥を厳格に管理しようとする近代社会の規範に対して、
「本当にそれが唯一の生き方なのか」と問いを突きつける小さな反乱なのである。
もちろん、その反乱が倫理的に許容されるためには、所有や同意、ジェンダー権力といった条件を精密に考慮しなければならない。
しかし、その条件さえ満たされるならば、「くだらない」と切り捨てられてきた行為の背後に、
規範の相対性を示す批評的なポテンシャルを見出すことが可能である。
だが、その笑いが何に支えられ、何を脅かし、何を許さないのかを問うとき、
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20250907/1757247960
要約
1980〜90年代の日本では、商品選びや消費行動を通じて「何者か」である実感を得ることが一般化した。
2. 消費個人主義の広がり
1990年代には地方の学生にもブランド品が普及し、消費によるアイデンティティ形成が大衆化した。
3. 過去の拠り所
1950〜60年代は政治活動や勤務先(所属)が自己認識の主要な拠り所だった。
三種の神器からレジャーやグルメまで対象が拡大。「モノより心」というスローガンも、次なる消費対象を探す動きとして機能した可能性がある。
ボードリヤールは「消費は差異を示すシステム」、バウマンは「アイデンティティすら商品化され、金銭力が選択を支配する」と指摘。
金銭的余裕のない人は消費でアイデンティティを得にくく、政治運動などが拠り所になりうる。人を「消費ユニット」として扱う現状は本当に豊かな社会なのか、という問いで結ばれる。
「劣等感マッチポンプビジネス」という言葉が、人々の不安や劣等感を煽り、それを解消するための商品やサービスを売りつけるビジネスモデルを指していると理解しました。
そうしたビジネスに感化される人を「負け組」と呼び、世間の価値観に流されず、ミニマリズムを実践して「消費社会はクソ」と言える人を「勝ち組」と表現している。
これは、社会の主流な価値観から距離を置き、自分なりの価値観を持って生きることの優位性を主張しているのだと読み取れます。
たしかに、多くの人が抱える劣等感や不安につけ込んで、高額な商材を売りつけるような手法は、批判されるべき側面が多いかもしれません。
一方で、ミニマリズムのように、自分の内面と向き合い、本当に必要なものだけを選び取る生き方は、物質的な豊かさとは違う形で、心の充足をもたらす可能性があります。
自分の価値観を確立し、それに沿って生きることは、他者との比較や世間の評価から自由になる一つの方法であり、それが「勝ち組」の定義だと考える人もいるでしょう。
### はじめに
現代の消費社会において、商品やサービスはもはや物質的な価値を売るものではなくなった。とくに、接客業、SNS上の推し活、キャバクラ、ホストクラブ、ライブ配信、アイドル産業といった分野では、ユーザーの心に“近づいたと錯覚させる”ことそのものが価値になっている。これは、従来の経済学やマーケティングでは捉えきれない、人間の内面距離を取引する新たな商慣習である。
この論考では、それを「心の距離ビジネス」と定義し、その本質と危険性、そして社会的な位置づけについて考察する。
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### 心の距離とは何か
心の距離とは、物理的距離でも時間的距離でもなく、「自分と相手がどれだけ親密であると感じているか」という、主観的な心理空間の尺度である。
重要なのは、これは**絶対的な距離ではなく、常に非対称である**という点だ。客は「自分のことをわかってくれている」と感じていても、キャストは「客の一人」としか思っていない、というズレが生じる。
このズレが、“心の距離ビジネス”の土台であり、利益の源泉でもある。
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人間は根源的に、誰かに理解されたい、承認されたいという欲望を持っている。
「あなたは特別です」「私だけはあなたをわかっています」と感じさせるのが、現代型の接客・エンタメ・SNSビジネスの中核である。
顧客は“疑似的な親密さ”にお金を払う。これは実体のない絆であり、**脳内報酬系(ドーパミン)を活性化させる点で麻薬的でもある**。
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ここに決定的な問題がある。
心の距離を近づけることで、お金を落とす――これはビジネスとして歓迎される。
だが、**同じ心の距離が、裏切られたと感じた瞬間、暴力やストーキング、殺害へと転じることがある**。
「やっぱり特別じゃなかった」と思ったときに絶望し、その痛みを攻撃性に変えることがある。
このとき、キャストの感じていた心の距離と、客の感じていた心の距離は、まったく違っていた。
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### 対策はあるのか?
なぜなら、ビジネスとして成立させるためには、心の距離を近づける演出が不可欠だからだ。
・距離を近づけなければ売上にならない
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「加害者が100%悪い」という認識だけでは、問題の本質は見えてこない。
“距離を売る”なら、“その反動も織り込んで売れ”ということだ。
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### 終わりに
人と人の心の接点は、金銭と直結するようになった。
この構造を無視して「ただの異常者が暴れた」として片付け続ける限り、
同じ悲劇は繰り返される。
となりの洗面台にも人がいたんだけどそやつが歯ブラシに歯磨き粉をおもむろにブリブリっててんこ盛りにして歯磨きだしたからびっくりしたわ。
もうなんちゅうかブチチブリブリみたいなレベルで盛ってたんだわ。
ワイはいつも5ミリくらいしか出さない(歯医者の先生の教え)から余裕で数か月は持つけど隣の人はたぶん数週間で無くなるんじゃないかな。驚くほど歯磨き粉消費してそうだった。
そういえばウチの親も洗濯のとき洗剤をMAXの2倍はブチ混んだりするし、ばあちゃんも味の素をデカスプーンでモリっと入れたりするのを思い出したわ。
人数的にはごく少数だけど使用量ベースでみると無視できないのでは。
正確に言えば、「30年次の渡し手を探せ、そうすればその情報(言葉)が本当に人を救うかどうかはっきりする!」ということ。
ある意味ではこれにつきる。フェイクニュースの時代に、これは第一に考えるべきことだ。
逆に言えば、「情報なんてウソでもかまうもんか!」ということは、「ウソの情報(言葉)で他人をとことん食い物にしてかまうもんか!」ということだ。
わたしが兵庫県知事の事件や東横界隈をめぐる事件などをみると、大筋で正しく、かつ、悪人たちはもっとえぐいことを考えていると推測している。そういうことは、最近では5年もしないうちにウソがばれているのだが。
逆に、中村哲氏の水路は、2002年から数えて16年たった2018年に、土木の専門家たちすらその丈夫さをみとめ、賞ををあたえた。このことがあの事業が本物だということの最高の証拠になっている。
わたしが10年以上前からインターネット文化に対して感じていた不安は、「必要とされている情報」を、30年後に安心して次の本当に必要な人に渡せる条件がそろっていない、ということだった。ほかの人は、その前でとっくに情報を簡単に粗末にする人間社会に絶望して問題を投げ出していたらしいのだが、まあそれはあとまわしだ。
ともかく、「30年待て」というのは一つの真理だと思う。大学卒もそうでないものも、ちゃんとこのことを言葉と行動で示すべきだとこれ以上なく強く思う。結局、人間社会というのは、他人に対して楽をすればそれだけ早くどうにもならなくなり、他人に対して頭を使って苦労をすれば、それだけ長くなんとかなるようにできているらしい。
もし今、『ファイト・クラブ』を作り直すなら、物語はこうなると思う。
「満たされたはずなのに空虚」という中流サラリーマンの虚しさがテーマだった。
節約のため、ディスカウントストア・ファストファッション・100円ショップを駆使している
奨学金の返済
これらが、毎月確実に引かれていく。
何かを手に入れるためではない。
生き延びるために、必死で支払い続ける。
副業で埋めた60万も、
平日の夜のいくつか
土日の大部分
それらを犠牲にして、ただ穴を塞いでいるだけだ。
他のことは、もう何もできない。
このペースで50歳まで続けたとしても、
職場ではどうか。
「いつでも解雇できる」ほど雑には扱われない。
しかし「昇給も出世もないまま、ずっと都合よく働き続けてほしい」。
そんな便利な穴埋め要員として扱われている。
しかも、主人公は「別会社の正社員」という立場で客先に出向しており、
法律的には守られているようでいて、
実質は派遣社員のように扱われている。
成功者の自慢
そして、たまに流れてくる狂ったニュース。
桁違いの金が、桁違いの速度で流れていく
バズを狙う記事も溢れている。
その流れの中で、いがみ合った人間たちが、
「お前なんかAIに取って代わられるだけだ」と罵倒し合っている。
俺たちは、
「モノを買っても満たされない」んじゃない。
モノすら買えない。
持たないことを選んだんじゃない。
持てないことが、スタート地点なんだ。
しかも、
負け組だと思わされる。
昇給は見込めない。
だが、それは誤解だ。
ここにあるのは、
狂っているのは、俺たちじゃない。
狂っているのは、世界の方だ。
もし今、ファイト・クラブを作るなら。
「努力すれば報われる」という嘘を暴き
暴力ではない。
革命は起きない。
社会は変わらない。
生き延びるために、誰にも見えない場所で、
そっと、粘り強く、自分を守るために。
これが、
その第三次世界大戦は核戦争へと発展しないと仮定してのことだ。
というか核戦争に発展したら世界は終わりなので、そこは考えても仕方がない。
核戦争にはならない形で、世界戦争が勃発したときに自国で戦争物資が生産できなければ詰みである。
第二次大戦時のようにならなければならない。
東西冷戦は自由主義資本主義陣営と、共産主義体制との闘いだった。
米国の目的として自陣営を繁栄させねばならない、という使命があった。
歴史の結果から西側が勝利したと知っているから現代人にはピンとこないが、当時の米国人にとってソ連と冷戦に勝利することが出来るかどうかなど到底わからないことだった。
そのためには戦争でジリ貧となったヨーロッパや、新たな同盟国日本などを経済的に反映させねばならない。
そのためにはどうするか?
とにかく物を作れ。
産業を起こせ。
ものをつくれ、とにかくつくれ。
なに?ものを作っても売れなかったらどうするんだ?
馬鹿野郎。俺達が全部買い取ってやるよ。
そして、お前たちが作ったものをじゃんじゃか消費(=購入)する。
、、、と。
その頃の換算にしたら、高い高いと言われてるiPhoneだって今の半額くらいになるわけでしょ?
20万のiPhoneが10万で変えたらずいぶんお買い得感ありますよね?
ね?
米国人から見て、これはお買い得だ!思わせるプライスになる必要があるから。
とアメリカが文句言い始めてニクソンがいろいろやったりプラザ合意とかでドルを安くしたんですけどね。
それでも相変わらずドルは強い。
そんなことよりも第三次世界大戦へ備えなければならないのだ。
今のまま、もしも世界大戦が始まったら、アメリカは確実に世界最強の座から滑り落ちる。
なぜ?
そんなことはあってはならないのだ。
そのための備えをするのはいつだ?
今ならまだ間に合うかも知れない。
再びアメリカを偉大な国へと、その一歩を踏み出させるのだ。
ギャンブルにおける秘匿戦略の優位性は、情報非対称性を利用した収益獲得の理論に帰結する。
しかし、戦略の露呈は模倣を誘発し、収益性を著しく低下させる。
資本主義社会において、ミニマリズムを徹底することは、労働負荷を極限まで削減し、充足感を最大化する戦略となり得る。
だが、ミニマリズムの過度な普及は、消費低迷を招き、経済成長を停滞させ、収入減少を招く恐れがある。
故に、ミニマリズムは個人的実践におけるフリーライド戦略なのである。模倣されないからこそ、最大の利益がある。
ソローはウォールデンにおいて、生活費の厳密な算出と、必要労働量の逆算、そして必要最低限の労働を推奨している。
私の例を挙げれば、社内ニートとしてフルリモートで1日6時間労働により月収20万円を確保し、田舎生活で月10万円の生活費を賄っている。労働時間を4時間に短縮しても十分な余裕がある。
年収800万円以上を目指す場合、労働時間は必然的に増加し、1日8時間労働は避けられない。
幸い、私の趣味は数学、散歩、座禅であり、消費を必要としない。消費社会に惑わされる必要はない。
「パーカーおじさん」と揶揄されようとも、そのスタイルを貫けば、衣服購入の必要性は皆無である。食事も、家庭菜園の野菜と質素な食材で十分満足できる。
『訂正可能性の哲学』東浩紀と、『万物の黎明(The Dawn of Everything)』David Rolfe Graeberは、二人とも、ルソーを論じています。二人のルソー観の相違点や類似点を分析してください。
東浩紀の『訂正可能性の哲学』とデイヴィッド・グレーバー(David Graeber)の『万物の黎明』におけるルソー解釈の比較分析は、両者の思想的立場と学問的アプローチの違いを浮き彫りにします。以下、相違点と類似点を整理します。
両者ともルソーが提示した「自然状態」や「社会契約」の物語を、近代社会の起源を説明する神話として批判的に扱います。グレーバーは「万物の黎明」で、ルソーの「不平等起源論」が啓蒙思想の進歩史観に依存することを指摘し、東は「訂正可能性」の観点からルソーの社会契約論が持つ決定論的側面を問題視します。
東もグレーバーも、ルソーの思想を単なる歴史的テキストではなく、現代社会を批判するための「ツール」として再解釈します。ルソーの「自然状態」を文字通りの史実ではなく、現在の社会構造を相対化するための比喩として読み直す点に共通性が見られます。
人類学的実証主義に基づき、ルソーの「自然状態」を「神話的フィクション」と断じます。『万物の黎明』では、先史時代の社会が既に複雑な自由と平等のシステムを持っていたことを強調し、ルソーが想定した「原始的な単純さ」を否定します。ルソーの「高貴な野蛮人」概念は、実際の先住民社会の多様性を矮小化する「ヨーロッパ中心主義の幻想」だと批判します。
ルソーの「自然状態」を、社会の「訂正可能性」を開くための仮構として積極的に評価します。ルソーが示した「社会は人為的に構築されたものであり、再構築可能だ」という思想を、現代の情報社会におけるゲーム的・プロトコル的な秩序の再編に応用します。ここでのルソー解釈は、現実批判よりも「未来の設計図」としての側面が強調されます。
ルソーの「一般意志」概念を、中央集権的な権力の正当化に利用されたと批判します。代わりに、分散型の自治を実践した先史社会の事例を提示し、「個人の自由と集団的合意は対立しない」という反ルソー的なモデルを提案します。
ルソーの社会契約論を、個人の欲望と社会の規範の「ずれ」を前提とする動的システムとして再解釈します。データベース消費社会における「動物化」という概念(『動物化するポストモダン』)と結びつけ、ルソーの「自己修正する社会」の可能性を、情報技術時代の柔軟な秩序形成に投影します。
ルソーの直線的進歩史観(自然状態→社会の堕落→契約による再建)を完全に否定し、非線形的で多中心的な人類史を復元します。ルソーが想定した「起源」そのものを虚構とみなす点で、根本的な批判を行います。
ルソーの歴史観を「修正可能性の物語」として部分的に継承します。社会が絶えず自己修正を迫られる「未完のプロジェクト」であるという考え方を、ポストモダン社会の流動性と結びつけます。ここではルソーは「批判すべき対象」ではなく、「再発明すべき先駆者」として位置付けられます。
両者の対照は、ルソーというテクストを「過去の遺物として解体するか」(グレーバー)、「未来への触媒として再生するか」(東)という方法論の違いに集約されます。しかし共通しているのは、ルソーを現代の問題を考えるための「思考の実験場」として活用する姿勢です。
これを東浩紀が語っているような文体で直してください。一人称は「ぼく」で。
>> ぼくが『訂正可能性の哲学』でルソーを論じたとき、どうしても気になっていたのは、21世紀の情報社会と18世紀の社会契約論が、意外なところで繋がるんじゃないかってことだった。ルソーって「自然状態」とか「一般意志」とか、けっこうロマンチックな概念を振りかざすでしょ? でもね、あれはたんに昔の理想を語ってるんじゃなくて、社会のOSが書き換え可能だって気付かせてくれるツールなんだよね。<<
>> グレーバーが『万物の黎明』でルソーを批判してるのは知ってる。あの人類学的な実証主義もいいんだけど、ぼくの立場はちょっと違う。ルソーの「自然状態」が史実かどうかなんて、どうでもいいんだ。重要なのは、あのフィクションが「いまの社会は絶対じゃない」って可能性を開いたことだ。たとえばSNSのアルゴリズムだって、ルソー流に言えば「人為的なプロトコル」でしょ? だったらユーザー同士で修正できる余地があるはずだ——そんなふうに考えられるのがルソーの面白さだよ。<<
>> グレーバーさんが先史時代の自由を強調するのもわかる。でもぼくらが生きてるのは、もう一度グローバルな社会契約を考え直さなきゃいけない時代だ。ルソーが『社会契約論』でやったように、中央集権でも個人のバラバラでもない、新しい協調の形をゲーム理論やAIと組み合わせて探る必要がある。そのとき「自然状態」という仮構は、逆にすごく役に立つんだ。現実に縛られないからこそ、倫理的な実験ができるわけで。<<
>> もちろんルソーには問題もある。たとえば「一般意志」が全体主義に転がりやすいのはその通りだ。でもぼくが『動物化するポストモダン』で言った「データベース消費社会」を見てみ? あそこでは人々の欲望がバラバラで、もはや「一般意志」なんて成立しない。でもルソーの理論を逆手に取れば、そのバラバラさ自体を社会の訂正可能性のエンジンにできるかもしれない。つまりルソーは、彼自身が予想してたよりもずっとポストモダンな思想家だったんじゃないかって話だ。<<
>> グレーバーさんとの違いをあえて言えば、彼がルソーを「過去の神話」として解体するなら、ぼくはルソーを「未来の触媒」として使おうとしてる。人類学も大事だけど、哲学の役割は過去の正しさを証明することじゃない。間違ってた思想家ほど、新しい思考を生む資源になる——それが訂正可能性の本質だと思うんだよね。<<
(※東浩紀の実際の文体を完全に再現したものではありませんが、インタビュー調の語り口・「ぼく」の一人称・「ゲーム的」「プロトコル」「データベース」などのキーワードを意識した再構成です)