はてなキーワード: 隠蔽行為とは
「たとえ1mmのズレでも、目標地点の距離が遠いほど大きなズレとして反映される」という喩え話がある。もし外的要因(地球の重力は除く。)に左右されず直進する物体があるとしたら、発射角がズレるほど目標地点から遠いところに着弾するだろう。
隠蔽といえばいわき信用組合の不祥事が記憶に新しい。迂回融資、無断借名融資などの不正行為に加えて、それらを告発しようとした団体に反社会的勢力の力を借りて圧力をかけ、隠蔽しようとした。
問題発覚後も預金通帳の焼却、マスターデータの入ったPCの破壊など証拠隠滅を行ったことが第三者委員会の調査によって判明しているらしい。
本事案は、融資先の赤字企業が潰れないようにペーパーカンパニーを使った迂回融資をしたところから始まったようだ。しかし、赤字企業の財政を立て直すには一社の迂回融資の金額だけでは足りず、いわき信用組合の利用者の名義を無断で利用して不正融資する(=無断借名融資)など、雪だるま式に不正行為が積み上がっていった。つまり、小さな不正行為を隠蔽するための不正行為が積み重なり、大きな不正行為になった。
結果、昨年に金融庁から査察が行われ、今年の第三者委員会の調査によりこれまでの不正行為がすべて明るみに出た。おそらく、職員もろとも今後数十年に渡って汚名を背負って生きていかなければいけなくなる。
さておき、先ほどの喩え話に戻そう。「たとえ1mmのズレでも、目標地点の距離が遠いほど大きなズレとして反映される」のだ。
換言すると、不正行為を隠蔽することは、物体が本来進むべきルートから外れたために、ルートから外れたこと自体を覆い隠すことを意味する。
しかし、直進する物体は時間が経過するほど目標地点から距離が離れていき、元のルートに戻すのが難しくなる。つまり、隠蔽行為のための隠蔽行為が増えていく。なにかミスが起きるたびに隠蔽を繰り返し、そのたびにコストがかかる。
隠蔽行為が露見したときの破壊力は凄まじい。組織が社会的責任を果たさないということは、組織の社会的信用(第三者から見た信用)を失墜させるということだ。社会的信用を失うと、一般企業であればあらゆる取引が破綻する。たとえば、札幌市では従業員に暴力を振るった建設会社はレバンガ北海道(プロバスケットボールチーム)との事業が打ち切られた。必然的に従業員の賞与金額が下がったり、非正規雇用者のクビが飛んだりするだろう。
こんなことは馬鹿でもわかる話だ。
だが、内部統制が実質的に存在しない中小零細企業(もちろん、すべての中小零細企業ではない。)だけでなく、大企業でさえ不正行為の隠蔽がたびたび取り沙汰される。これは内部の人間が馬鹿なのではなく、意思決定が狂う組織構造や企業文化によるものが少なくない。
そんなことになるくらいなら、問題が小さいうちに頭を下げるなり、示談するなりしたほうが余程被害は小さいまま、スムーズに解決する。
(俺の前職の連中はハラスメント事案などを気軽に隠蔽しすぎた。そのことが噂話として拡散され(しかも、当人たちの口によってである)、社会的信用を失いつつある。すでに採用難に陥っていて、信用回復の見通しは立っていない。不正を黙認した従業員のイメージも下がるので、転職なども難しくなっただろう。)
ガバナンスの効いた職場なら積極的に不法行為を犯し、問題を大きくする人材なぞ危なかっしくて使いたくないと判断するだろう。
仮に登用されたとしても昇進は見込めない。あるいは、昇進してもそこそこのところで転落するだろう。企業活動は問題解決の連続だ。わざわざ問題を増やし、問題を拡大し、損害を発生させるバカに上位の権限を渡すわけがない。権限を渡したらとんでもないことになるし、なっているところを何度も見てきた。
昨今はSNSの台頭によって情報の拡散が早く、広範囲だ。株価やブランドイメージを気にする大企業はコンプライアンスにはとりわけ気を使っている。昔からハラスメント気質の企業文化だとされてた営業系企業、建築土木企業も体質改善に取り組みはじめている。
そんな社会情勢の中、いまだに昭和の価値観の色濃い前職の連中。上から下まで馬鹿ばかりだといいたいが、一番だめなのは意思決定者であるトップだ。
切腹させるべきだ。
それがいちばん被害が小さく済む道だ。自分を含む周りの全てを破壊しながら、意地汚く座席にしがみつくつもりなんだろうか?
信用を回復させるためには、「罰則を受け入れ、損害を賠償する」という企業責任を果たすのが正解だ。
加えて、なにか問題が起きた時、当事者と真正面から話し合うほうが低コスト低リスクで済む。
実質が贈与とみなされる可能性
たとえば、貸付契約自体が形式的で、実際には利息を受け取っていない・親が返済の原資を持っていない等の状況があれば、税務当局に「実質的には子への贈与」と判断されるリスクがあります。
高額利息の正当性
仮に法定金利の上限(年20%)を設定したとしても、高い金利を“親”が子に支払う合理的理由があるかどうかを問われます。「資金需要の切迫性」「一般の金融機関から借りるよりも安い条件かどうか」などの状況次第で、不自然な金利設定だと判断されれば、やはり贈与とみなされる可能性があります。
子が受け取った利息は、子の雑所得等として課税対象になります。受け取った利息についてきちんと確定申告する必要があり、申告漏れがあると追徴課税を受けるリスクがあります。
絵画のような美術品は時価の評価が難しいですが、市場価格とかけ離れた高額(または低額)でやり取りすると、「贈与または遺贈の一形態」とみなされる可能性があります。
個人の私的売買の場合、必ずしも消費税が課税されるわけではありません。消費税の課税事業者として登録・届出をしているかどうかなど、さまざまな条件があります。単に「個人間で売買=10%の消費税だけで済む」という単純な話ではないため、注意が必要です。
会社の所有権(株式)が誰にあるかが重要であり、取締役(役員)に就任するだけでは資産移転には直結しない場合も多いです。逆に株式を無償で譲り受ければ、贈与税の対象になり得ます。
実態のない「名義貸し」
取締役が親から子に変わっただけで実態として事業をしていなかったり、出資者が親のままなら、税務上の評価としては「親が会社を所有している状況」と大きく変わりません。
実際の業務内容や会社の規模と見合わないほど高額な給与は、税務調査で「不相当な役員報酬(あるいは給与)」とみなされ、損金算入が否認される可能性があります。その結果、法人税や所得税などで余計に課税されるリスクが高まります。
高額給与として受け取る以上、所得税・住民税・社会保険料などの負担が増えます。相続税を下げられたとしても、トータルの負担で見れば得策ではない可能性があります。
業務委託契約に見合う労務提供・成果物があるかどうかが問われます。形式的に契約書だけ作っても、実際に業務を行わず実態を伴わない支払いであれば、やはり贈与とみなされる可能性が高いです。
税務上の処理や社会保険の扱い
個人事業として200万円/月もの売上がある場合、消費税の課税や所得税区分(事業所得か雑所得か)の問題など、慎重な手続きが必要です。
親側にも贈与を疑われるリスク
親が経費として落としたい場合、業務の実態を証明できなければ経費が否認されるうえ、子に渡した分が贈与とみなされるリスクがあります。
株式を誰が持つかで税務上の扱いが変わる
親が株式を持ち続けるなら、単に親の資産が株式という形に変わっただけであり、相続対象となります。
子への贈与扱いのリスク
名義を子にするために親が資金提供したのなら、株式の価値分が“子への贈与”とみなされる可能性があります。
将来的に会社の株式価値が大きく上がった場合には、相続税対策としては有効な場合もあります。しかし、その前提として、きちんと事業を行い、株式を適正に評価しておく必要があります。
形式上は合法に見えても、実質が「贈与」や「仮装・隠蔽行為」だと判断されれば課税対象
取引の実態(業務内容や対価の妥当性、市場価格との整合性など)を税務当局は厳しくチェックする
仮に贈与が発覚すれば、相続税より高額の贈与税が課される場合もある
結論として、挙げられた手法だけで「相続税を逃れる」ことは非常に難しく、むしろ税務リスクが高まると考えられます。実際に生前贈与や事業承継を検討するのであれば、税理士・弁護士・公認会計士などの専門家に相談して、法令や実態に則した正当な手続きを踏むことが重要です。下手に「裏ワザ」を狙おうとすると、後になってより大きな課税や罰則を受ける可能性が高まりますので、十分ご注意ください。
自称声優・佐藤利奈をはじめとする生活で出会った有名無名人を含む集団ストーカー集団から攻撃されている
自称被害者としてツイッターやブログで情報発信をされてるんだとか
https://archive003.blog.fc2.com/
https://ameblo.jp/archive006/ #←2023年11月11日朝頃表示されていないのを確認
https://anond.hatelabo.jp/20210620093633
お前等は此の儘ずっと嘘を貫き通して行くのか? (@yKvquuId1AA6Y7u)
お前等は嘘を貫き通して行くのか? (@Sinzitu00001)
「こういうのも『人権軽視』の一種なのだろうな」(http://anond.hatelabo.jp/20141009224728)を書いた増田だが、参加者が増えたことによってますます流れが分かりにくくなってしまったな。
これは俺がうまく整理できなかったせいでもあるので、申し訳なく思っている。
もちろんギャラリーに対して、な。トラバ削除とトラバツリー汚しを繰り返して自らの醜態を隠蔽することしか頭にない相手方(http://anond.hatelabo.jp/20141010222658)に対しては軽蔑の感情しかない。
ちょっと考えてみたが、俺はこの記事で互いの主張の流れを要約・評価したうえで改めて出典を示し、以後はこの件に関して記事を書かないことにしようかと思う。
ただし、流れの追いやすさを維持したまま相手方の醜態を周知する方法が見つかれば新たに記事を書くかもしれない(良い方法があれば教えてほしい)。
その場合は、この記事に追記をする(つまり○○(新たな記事)を書いたのは俺である、とこの記事に追記する)方法で自分が新たに書いたものであることを示そうと思う。
1
俺が、前段で「表現の自由についてろくに知りもしない癖に偉そうに語っている(ように見える)連中を放置すべきではないのではないか」という趣旨を述べ、後段で「関係ないが」と断ったうえで、「人権も無制限に保障されるものではなく、公共の福祉による制約を受けるということを知らない人も多いのだということをここ数年で気づかされた」という趣旨を述べた。
2
これに対して、相手方から「公共の福祉による制限は極めて厳格でなければならない」という趣旨のトラバがついた。
3
俺からの反論として、「俺は公共の福祉によれば簡単に人権を制約できるなどと考えているわけではない(実際最初の記事にそのようなことは一言も書いていない)ので、トラバは的外れである」ことを指摘するとともに、「人権を十把一絡げにして各権利の性質を考えることなく『制限は極めて厳格でなければならない』などと述べるのは人権論をまともに理解していないのではないか」という趣旨を述べた。
ここで少し補足しておくと、「表現の自由」は人権の中でも優越的な地位を占めるとされ、これに対する制約の合憲性を判断する際には厳格な基準によらねばならないとされる。このような理解が前提にあるので、人権一般について、「公共の福祉による制限は極めて厳格でなければならない」などと表現することは、法学をやっている者にとって非常に違和感がある。
4
相手方から「人権制約のうち表現の自由に関するものが争点なのにも関わらず人権制約と大きい枠組みに逸らしている」という趣旨のトラバがついた。
この時点で「3」のうち俺の「的外れである」との指摘については無視されているように思われる。
5
俺からの反論として、第一に「人権制約の話をするにあたっては予め『関係ない』と断っている」、第二に「『公共の福祉による制約を受けるということを知らない人も多い』という結論を導き出した根拠として、表現の自由に関連する最初の記事前段の2つのリンク先に限定せず、『それから数年、俺がネット上のいたる所で目撃してきた人権をめぐる議論の醜状』を挙げている」ことから、後段の人権制約に関する話の争点は「表現の自由」ではない(人権一般である)という趣旨を述べた。
6
相手方から、第一に「人権論が学問的営為であることの周知をすべきであることと公共の福祉によって人権が制約されうることの周知がなされていないこととは関係がある」、第二に「表現の自由に対する制約も人権制約であるから関係がある」という趣旨の「反論」がなされた。
このような流れをふまえれば、「6」が反論になっていないことは明らかだろう。
相手方は「4」で、「人権制約のうち表現の自由に関するものが争点」なのに「人権制約と大きい枠組みに逸らしている」と述べている。
これはつまり、一般的な人権制約ではなく、「表現の自由」が争点である旨を述べるものだ。
そして、これに対する反論として、俺は「5」を述べたものである。
http://togetter.com/li/729640
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/729640
どうしようもないな。
いつものことながら、こうも訳知り顔で「表現の自由」について語れる面の皮の厚さにはおそれいる。
おそらく、人権論が体系化された「学問」であるという意識がないんだろうな。
「人権」はさまざまに分類され、それぞれについていかなる範囲で保護されるべきか、ということが慎重に議論されている(大雑把な言い方だが)。
そうした事実を知らず、あるいは軽く考える人々を放置することは、「人権」を薄っぺらい理想論と捉え(議論の厚みを知らないだけなのに!)容易く切り捨てる風潮を蔓延らせることにつながるのではないか。
そうだとすれば、これも一種の「人権軽視」というべきだろう。
人権論の権威を高めるとは言わないまでも、学問的な営為であることを周知するためのなんらかの手当てが必要だと思う。
関係ないが、昔ある人と「公共の福祉」について話したことを思い出した。
そのとき俺は、「人権も無制限に保障されるものではなく、公共の福祉による制約を受けるなどというのは誰でも知っている常識であって、皆それをふまえて議論している」という趣旨のことを述べ、相手は「いや、そのことを分かっていない人も結構多い」と応じたように記憶している。
それから数年、俺がネット上のいたる所で目撃してきた人権をめぐる議論の醜状は、相手が正しかったことを明らかに示していると言わざるを得ない。
Mさん、俺が間違ってました。
後段(「関係ないが」以降)だけを読めば、これはどう読んでも人権一般に対する制約の話であって、「表現の自由」に限定した話とは読めない。
しかし、前段と関連させて読んだ場合、後段についても「表現の自由」に限定した話と読む余地が出てくる(その場合相手方が「2」で「極めて厳格」との表現を用いたことは、不自然とは言えない)。
そこで、「そういう読み方はしないでくださいね。前段と後段はまったく別の話であって後段は人権一般に対する制約について言及したものですよ」と注意喚起するために(も)、俺は「関係ないが」と断っているのである。
したがって、相手方が「表現の自由に対する制約も人権制約の一種である」などと主張することには意味がない。相手方は、人権一般ではなく表現の自由が争点だと述べているのだから。
相手方が主張すべきは、後段のみでも表現の自由に限定した話と読めることなのである。
本件に関して意味ある主張のやりとりはこの程度であって、後は相手方が勝手に、
なお、俺がこの件に関して書いたのは、本記事及び出典中の奇数番号の記事のみである。
今後新たに記事を書くことがあれば、適宜追記していく。