はてなキーワード: さらだとは
「たとえ1mmのズレでも、目標地点の距離が遠いほど大きなズレとして反映される」という喩え話がある。もし外的要因(地球の重力は除く。)に左右されず直進する物体があるとしたら、発射角がズレるほど目標地点から遠いところに着弾するだろう。
隠蔽といえばいわき信用組合の不祥事が記憶に新しい。迂回融資、無断借名融資などの不正行為に加えて、それらを告発しようとした団体に反社会的勢力の力を借りて圧力をかけ、隠蔽しようとした。
問題発覚後も預金通帳の焼却、マスターデータの入ったPCの破壊など証拠隠滅を行ったことが第三者委員会の調査によって判明しているらしい。
本事案は、融資先の赤字企業が潰れないようにペーパーカンパニーを使った迂回融資をしたところから始まったようだ。しかし、赤字企業の財政を立て直すには一社の迂回融資の金額だけでは足りず、いわき信用組合の利用者の名義を無断で利用して不正融資する(=無断借名融資)など、雪だるま式に不正行為が積み上がっていった。つまり、小さな不正行為を隠蔽するための不正行為が積み重なり、大きな不正行為になった。
結果、昨年に金融庁から査察が行われ、今年の第三者委員会の調査によりこれまでの不正行為がすべて明るみに出た。おそらく、職員もろとも今後数十年に渡って汚名を背負って生きていかなければいけなくなる。
さておき、先ほどの喩え話に戻そう。「たとえ1mmのズレでも、目標地点の距離が遠いほど大きなズレとして反映される」のだ。
換言すると、不正行為を隠蔽することは、物体が本来進むべきルートから外れたために、ルートから外れたこと自体を覆い隠すことを意味する。
しかし、直進する物体は時間が経過するほど目標地点から距離が離れていき、元のルートに戻すのが難しくなる。つまり、隠蔽行為のための隠蔽行為が増えていく。
隠蔽行為が露見したときの破壊力は凄まじい。組織が社会的責任を果たさないということは、組織の社会的信用(第三者から見た信用)を失墜させるということだ。社会的信用を失うと、一般企業であればあらゆる取引が破綻する。たとえば、札幌市では従業員に暴力を振るった建設会社はレバンガ北海道(プロバスケットボールチーム)との事業が打ち切られた。必然的に従業員の賞与金額が下がったり、非正規雇用者のクビが飛んだりするだろう。そんな会社に就職したい者、就職させたい親がどれほどいるだろうか?
こんなことは馬鹿でもわかる話だ。
だが、内部統制が実質的に存在しない中小零細企業(もちろん、すべての中小零細企業ではない。)だけでなく、大企業でさえ不正行為の隠蔽がたびたび取り沙汰される。これは内部の人間が馬鹿なのではなく、意思決定が狂う組織構造や企業文化によるものが少なくない。(裏を返せば、中小零細企業であれ意思決定を正しく行えるのは内部統制がうまく機能してるということだ。)
そんなことになるくらいなら、問題が小さいうちに頭を下げるなり、示談するなりしたほうが余程被害は小さいまま、スムーズに解決する。
(俺の前職の連中はハラスメント事案などを気軽に隠蔽しすぎた。そのことが噂話として拡散され(しかも、当人たちの口によってである)、社会的信用を失いつつある。すでに採用難に陥っていて、信用回復の見通しは立っていない。不正を黙認した従業員のイメージも下がるので、転職なども難しくなっただろう。)
ガバナンスの効いた職場なら積極的に不法行為を犯し、問題を大きくする人材なぞ危なかっしくて使いたくないと判断するだろう。
仮に登用されたとしても昇進は見込めない。あるいは、昇進してもそこそこのところで転落するだろう。企業活動は問題解決の連続だ。わざわざ問題を増やし、問題を拡大し、損害を発生させるバカに上位の権限を渡すわけがない。もし管理職としての権限を渡したらとんでもないことになるし、なっているところを何度も見てきた。
昨今はSNSの台頭によって情報の拡散が早く、広範囲だ。株価やブランドイメージを気にする大企業はコンプライアンスにはとりわけ気を使っている。昔からハラスメント気質の企業文化だとされてた営業職、建築土木職も体質改善に取り組みはじめている。
そんな社会情勢の中、いまだに昭和の価値観の色濃い前職の連中。上から下まで馬鹿ばかりだといいたいが、一番だめなのは意思決定者であるトップだ。
切腹させるべきだ。
それがいちばん被害が小さく済む道だ。自分を含む周りの全てを破壊しながら、意地汚く座席にしがみつくつもりなんだろうか?
信用を回復させるためには、「罰則を受け入れ、損害を賠償する」という企業責任を果たすのが正解だ。そうでなくても、とっとと管理者が責任をとって問題解決に動けば切腹するほどの問題には至らない。
また、経験則上、なにか問題が起きたときに管理職と当事者が真正面から話し合えば低コスト低リスクで解決することが多い。
隠蔽とは問題を覆い隠すことだ。問題解決を遅らせるほど解決が難しくなる可能性があがる。したがって、保身のために隠蔽するなど愚の骨頂だ。
長くなったので読みにくいかもしれません
半年ROMれてませんが匿名性が必要だったのでここに書かせていただきます
乱文ご容赦ください
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
援護が無さすぎるのではないかと思い、やっぱり納得がいかないと感じたので
ここに書きにきた
以前から何度も書こうと思っていたけれど
どうしても書けないまま 何年も過ぎてしまったが
なんとか書き始めた
フラッシュバックなど、読むのが嫌だと感じる場合はスルーしてくださいーーー
呆然とした
正直なところ
ショックとか 人が亡くなったということ以上に
「どうして今になって」と思った
ようやく悪夢を見て、ドキドキしながら目覚めることが無くなってきていた頃だった
逃げ出した後も燃え尽き症候群のようになり
ベッドから起き上がれなくなる日が続いて
一度は「こんなに辛いならもう死のう」と思ったけれど
いつでもそのボタンは自分が持ってるんだから もう私は誰にも縛られてないんだから」と思い
誰にも助けてもらえないので(親に話したが困惑されて流されただけだったので)
それでもなかなか人への恐怖や組織へ入る恐怖を克服できなかったので
バイトもできず
それでも人が怖くて怖くて
いつも人の顔が見れず震えて汗をかいたり
人と会ったあとは部屋で寝て起き上がれなかったり
遠出ができなかったり
そういうことがようやくひと段落つき始めていた頃
「ようやく最近少しずつ人と話せるようになってきたな」
「ようやく教団の元仲間から説得のメールが来ることも無くなってきたな」
と思っていた頃に
誰にも言えなくて
昔から付き合いのある友人にも言えなくて
両親に言っても「よく出てきたな」と言われるだけで
具体的なケアは何もしてもらえない中で
「宗教施設で共同生活をしていて就活のタイミングを逃しました」
「経歴に書けることがありません」
「宗教施設で生活していた影響で人が怖くてしょうがなくてバイトすらできません」
「燃え尽き症候群のようになって社会生活を人並みに送ることがどうしても難しいです」
そんなことの説明をしようがなく
ただひたすら周りからの、
「この人どうして朝起きれないんだろう」「なんか付き合い悪いな」
「学生時代の話してくれないな」「この人いっつも何してるんだろう 無職?」
「なんで結婚しないの」「なんでハロワ行かないの」「なんでもっと営業しないの」
「なんでいっつもお金が無いの」
あらゆる なんで? に耐えながら
ひたすら自分の足で立つことができるようになるように
1発の銃声で 毎日のように統一教会の名前をテレビで聞くようになってしまった
無かったことになっている自分の在籍期間6年とリハビリ生活10年間が
突然色を与えられたような感覚で
苦しかった
その行為自体を賞賛はできるはずもないけれど 思いは複雑だった
ただ悲しかった
あれは叫びだと私には感じられた
それくらい 中にいると社会で生活している人とは隔絶され 外の声は届かないし
中の声もまた外には届かなくなる
そこには長らく透明な分厚い分厚い壁があって中と外は隔絶されていた
あの1発の弾がそれを壊した
尊い人命と共に
その重大さを社会にどこまで理解してもらえているのか 分からない
その苦しみは 多分本気であの中で一生懸命やった人にしか分からないだろうと思う
それでもそこから私が逃げ出せたのは
ある程度、状況を俯瞰して見る(ある種冷笑的な)感覚を身につけていたからで
そこに関しては、私は自分が漫画アニメ好きのオタクでよかったなと思っている
「マジで漫画みたいなこと言うやんw」という茶化しが自分の中でできていたこと、
不真面目だったため、外の読み物やテレビは見てはいけないことになっていたが
伝道(いわゆる勧誘)もこっそりトイレに隠れてサボりまくっていたことなど
中の人からすると酷い不真面目、規律違反的なことをやっていたために
最後の一歩(あ、ここにいたら私の人生、誰も保証してくれないんじゃないか?)
という感覚に至れた、というところがある
しかし、そんな不真面目な私であっても
逃げ出すことが良いことなのか悪いことなのか、その時点では判別はできていなかった
神や、いわゆるお父様お母様(教祖)に背くことになるわけなので
正直ここから出てその後どんなことが訪れても覚悟を決めようというような気持ちはあった
なぜならいわゆる統一教会が言うところの「神のみ旨」を放棄することになるわけなので、
そうなった時に自分に何かよくないことが起きるかも、私だけじゃなく家族も何かよくないことが起きるかも、
という感覚が強く自分を支配していて そこに対して否定できる確証はなかったからだ
私が死ななくても 私の代わりに誰かが死ぬかも、と本気で思っていた
不真面目な信者であってもこのくらいにはどっぷり浸かっていた
それでも私は「本当に神様がいて 神様が私を愛しているとしたら
私のこの選択も祝福してくれるんじゃないか」という気持ちも微かに持っていた
それを信じたい、という気持ちだったと思う
そうであったらいいな、という感じで
もちろん確証も何もない
こんなふうになったから
今だからそんなふうに言えているだけで
その時には全く確証がなかった
ただ今言えるのは「神様がいるとすれば 統一教会にいる人も愛していると思うし
私のことも愛しているんじゃないかと思う」ということだ
これは信仰心ではなく
今の段階での結論というか、
信念的なものではあると思う
確証はないけれど「そうなんじゃないか?」と思っている、というようなことだ
「そうでなきゃやってられるか」というような思いでもある
神がいようがいまいが関係なく日々は続くし
私の場合 立ち止まっていても誰かが
「大丈夫?私がなんとかしてあげる 任せて」と
手を引いてくれるような状況は皆無だったから
(唯一打ち明けたカウンセラーの人も宗教的な苦しみまでは理解してケアしてくれなかったし
被害者コミュニティもあったかもしれないがまたそこから出られなくなるのではと思い、
組織に属するのが怖かった
両親は受け身なので私が動かない限り私の状況は好転するわけがなかった)
ただ言えるのは、自分で少しずつ歩く過程で人に支えてもらえることはあった、ということだ
理解できないなりに 両親は私の過去を酷くなじることはなかったし、生活も支援してくれた
「よく出てきたな それはなかなかできないことだぞ」と肯定はしてくれた
自立支援センターも、電話をかけたものの一人で行くのが怖かったので着いてきてもらった
理解してくれていようがしてくれなかろうが 都度都度助けてくれる人はいる
カウンセラーの人が言ってくれたことのいくつかは今も自分を支えてくれている
(私は自分の中に宗教施設にいたという負い目があったので、とにかく人に疑われるということが怖かった
自分の話をするのが怖く、いつボロを出しておかしなことを話してしまわないかと怖かった
そのせいか言葉がなかなか出てこなかったけど「ペラペラ話す人よりちょっとずつ一言一言話す人の方が信頼感があるよ」と言ってもらえたので 今は辿々しくても少しずつ言葉を並べられるようになった
だいぶ人と話すことが怖くなくなった)
神がいようがいまいが 関係なく日々は続いていく、というのはそういう感覚だ
私がいたのは学生寮のようなところで
信者に向け講義をするような人材を育てることを目的としている寮だった
20〜25人くらいの規模で
マンションの3部屋(うち1部屋は夫婦の家)を借りて男女別れて住んでいた
みんな割と若かったと思う
私は2世ではない
まだ規制が緩かったので大学内でも駅のコンコースでも勧誘を行なっていた
声をかけられた時も怪しいなとは思っていたが 半ば分かっていてついていった
統一教会だと開示を受けた上で「寮に入らないか」というような打診を受けたので
なんとなく流れで、面白そうなので入ることにした
あと、みんな、人が良い人たちだった、というのがあった
でも入教したキッカケには結局、自分の中に将来自分が働いているビジョンが湧かなかったり
社会一般の基準で勤めることは難しいんじゃないかという漠然とした不安があった
この時このような逃げの姿勢でいなければ
こんなに長く苦しむことはなかったなと今になってみれば思う
朝早くから起きて
原理講論を音読したり、勉強会をしたり、祈りをしたり、敬拝をしたりする
仕送りは全て世話役の夫婦に預ける形になっていて自由には使えなかった
お金は全て「聖別」といって、清められ
そういう清められたお金は「神様とお父様お母様のお金」と言い含められる
友人と遊びに行く、呑みに行くなどの経験も皆無だ
もちろん遊びにお金を使うことができないので 自由な交遊はできない、と言っていい
学校から帰ってきたら即駅のコンコースや他大学へ伝道という名の勧誘に行く
長期休暇は県外へ、車中泊をしながら1日中歩いてフキンの訪問販売をする
当然ながらより多く売れた方が良いわけだが私はいつもほとんど売れなかった
1ヶ月寮には帰れない
家族には内部のことは言えないことになっていて
これらを聞いて楽しそう、と思うだろうか?
けれど楽しいと思うことを排除し、自分を否定し、自分の望むものを否定して、
それを全てみ旨に捧げるというのが信仰の道だった
苦しければ苦しいほど条件になる、そういう発想なのだ
(そういう発想が多額の献金の要求にも繋がったのかもしれない が その要求に正当性は無いと思う)
私が寮内で大きな声で笑っていたら先輩に
「あなたが来てから、こんな大きな声で笑ってもいいんだなって 初めて思ったの」と言われた
そういう場所だったのだ
聞いた時はドン引きした
それでもやっている時は一生懸命だった
けれど これは本当に人を幸せにするような活動なのか?という疑問がずっとあった
(そういった活動などが条件となり積み重ねられ、
その条件が満ちると間接的に人を幸せにする、という考え方なので
目の前の相手を即幸せな気持ちにさせたかどうかはあまり重要ではない)
(どれだけ苦労を重ねるか 自分の欲や怠惰を否定できるかの方が
より大きな条件になるという考え方になる)
(親が子を置いて宗教活動に邁進することになるのは、そういう仕組みゆえだ)
人になかなか言うことができないような生活で費やしてしまったことは
勿体ないことだったと素直に思っている
勿体なかったと言うと「でもあなたのその過去も今に繋がっているじゃない?」
というような返しを親からされることがあるが
これを言われると いつも胸が詰まり
説明のできないいろんな思いが去来して胸がぐるぐるする
しなくてもいい苦労というのはある、ということで
誰も「統一教会が許せない」とも「あなたが失ったものを思うと本当に悲しい」とも
言ってくれる人はいなかった
私の、誰にも相談できなかった日々、1人苦しんだ日々を
私が逃げ出すことによって自分も家族も不幸な目に遭って死ぬかもしれない
もしひどい事が起こるなら私に起こしてくださいと
誰にも相談できなかった日々を
肯定しないといけないのだろうか?
この状況になるまで誰もそれをすることができなかった
その事実はとても重いと思う
それは助ける力がない人たちが口を揃えて言う言葉のようにも思える
とても、とても苦しいものだ
それがこの方法だったのだ
この方法以外で彼が救われることもなかっただろうと思う
山上被告が自分で自分を救うしかなかった結果がこれだったのではないだろうかと思う
私が入教して実感したことは、宗教に関わっている人は意外と多い、ということだ
私のいた寮の中にも、親が創価学会だったがそれに反発して統一教会に来た人もいた
(その人は非常に熱心な人だったが その後心身を崩して入院されたりしていた)
気になったのは、世話役の夫婦の奥さんの方はいつも病気がちで寝てばかりだったことだ
いつも辛そうだなと思っていた
断食をしたり敬拝をしたり長時間伝道をしたり 体を酷使することも多かったので
体を悪くしている人も多かった
みんな普通の人たちだ
そこにいる人たちは みんなそれぞれがんばって生きている
それを食い物にする、というのがおかしな話で
どんな宗教であっても「献金しなければ救われない」というのはおかしいことだと思う
正直に言えば 宗教法人は本当に好き放題するところは好き放題やっていると思う
人の気持ちは弱いので それで救われるなら払ってしまうわけだけど
なんとかもう少し規制ができてほしい
少なくともその行き過ぎた状態が、あのような悲惨な事件に帰結したのだということを思うと
そこをきちんと、法なりなんなりで整備しないというのは、単純に理解に苦しむ
状況がもう少し良くなってくれることを願う
あの事件が無ければ少なくとも私の16年は社会の中では意味を持たず透明なままだったし
こんな話は絶対にできなかっただろうと思う
誰も助けてくれなかったのだ
それを思うと本当に胸が苦しい
何度も書くが
誰かが助けてくれるはずがないのだ
そういう構造になっているのだ
楽しい家族旅行、欲しかったおもちゃ、勉強するための本、服、車
普通の人が当たり前に経験する友人との時間、家族と過ごせた時間、
そういうものに付随する思い出全てが
その悔しさ 悲しさ 苦しみを思うと計り知れない
私の失った16年 いや、それでは比較にならないほどの苦しみと絶望だと思う
それらは 決して帰ってはこない
泡になって 帰ってこない
親が宗教活動にハマるなんていうのは交通事故のようで あまりにも避けようがない
加えてそれを身内がどうにかするなんていうのはほぼ不可能だと言っていい
なんなら母親も被害を受けた側、交通事故に遭った側だとも感じられる
内情を知る人の弁護がなさすぎる気がする
「宗教にどっぷりハマっている身内がいる状況」
私は最後、逃げ出す前に
もしこの人たちがもう少し私に向き合ってくれていたら
けれど最終的な結論として
「ああ この人たちは神に祈りお父様お母様に祈る以上のことはしてくれないんだ」と思った
それが最終的な答えになるので話ができないのだ
「こうこうこういうことで悩んでいる」
と悩みを打ち明けても
「神のみ旨はこうだ」「お父様お母様はこう言っている」
その堂々巡りになる
そこを信じて同じことを繰り返せばいいのだ
他の話は通じない
一切だ 一切通じない
その虚しさは 本気で話をしようとした人間にしか分からないだろうと思う
皆良い人たちなのだ
信頼もしていた
一個人で見れば仲間や世話になった人たちだ 頭が悪いわけでもおかしいわけでもない
けれどそうであればあるほど ある一定のところから会話ができなくなることが辛い
逃げた後、私は入教前に元々住んでいたアパートに帰った
入寮時にそこを解約すると家族におかしく思われるのでそのまま残しておく慣わしなのだ
入教すると元の家には特別なことでもない限り入ることはできなくなる
記憶が薄いが、そこに帰れたということは
しばらくその部屋には仲間が何度も説得に訪れた
手紙が置いてあったり食べ物がドアの取っ手にかかっていたりした
無視をし続けていたところ
ある時、眠っていて目を覚ましたら目の前に女性の仲間(先輩)がいて、私を覗き込んでいた
預けたままになっていた鍵を使って勝手に部屋の中に入ってきていたのだ
その人に悪気はなかった
けれど、「神のためならそれができる」そういう思考回路になってしまうのだ
「神のために、この人を救わないといけない」
「神のみ旨であればこの行いは許される」
私は何度も何度も「あなたたちを見ると色んなことを思い出して怖くて震えて辛いので何も送らないでほしい 会いにこないでほしい」と伝えた
「たとえ1mmのズレでも、目標地点の距離が遠いほど大きなズレとして反映される」という喩え話がある。もし外的要因(地球の重力は除く。)に左右されず直進する物体があるとしたら、発射角がズレるほど目標地点から遠いところに着弾するだろう。
隠蔽といえばいわき信用組合の不祥事が記憶に新しい。迂回融資、無断借名融資などの不正行為に加えて、それらを告発しようとした団体に反社会的勢力の力を借りて圧力をかけ、隠蔽しようとした。
問題発覚後も預金通帳の焼却、マスターデータの入ったPCの破壊など証拠隠滅を行ったことが第三者委員会の調査によって判明しているらしい。
本事案は、融資先の赤字企業が潰れないようにペーパーカンパニーを使った迂回融資をしたところから始まったようだ。しかし、赤字企業の財政を立て直すには一社の迂回融資の金額だけでは足りず、いわき信用組合の利用者の名義を無断で利用して不正融資する(=無断借名融資)など、雪だるま式に不正行為が積み上がっていった。つまり、小さな不正行為を隠蔽するための不正行為が積み重なり、大きな不正行為になった。
結果、昨年に金融庁から査察が行われ、今年の第三者委員会の調査によりこれまでの不正行為がすべて明るみに出た。おそらく、職員もろとも今後数十年に渡って汚名を背負って生きていかなければいけなくなる。
さておき、先ほどの喩え話に戻そう。「たとえ1mmのズレでも、目標地点の距離が遠いほど大きなズレとして反映される」のだ。
換言すると、不正行為を隠蔽することは、物体が本来進むべきルートから外れたために、ルートから外れたこと自体を覆い隠すことを意味する。
しかし、直進する物体は時間が経過するほど目標地点から距離が離れていき、元のルートに戻すのが難しくなる。つまり、隠蔽行為のための隠蔽行為が増えていく。
隠蔽行為が露見したときの破壊力は凄まじい。組織が社会的責任を果たさないということは、組織の社会的信用(第三者から見た信用)を失墜させるということだ。社会的信用を失うと、一般企業であればあらゆる取引が破綻する。たとえば、札幌市では従業員に暴力を振るった建設会社はレバンガ北海道(プロバスケットボールチーム)との事業が打ち切られた。必然的に従業員の賞与金額が下がったり、非正規雇用者のクビが飛んだりするだろう。
こんなことは馬鹿でもわかる話だ。
だが、内部統制が実質的に存在しない中小零細企業(もちろん、すべての中小零細企業ではない。)だけでなく、大企業でさえ不正行為の隠蔽がたびたび取り沙汰される。これは内部の人間が馬鹿なのではなく、意思決定が狂う組織構造や企業文化によるものが少なくない。
そんなことになるくらいなら、問題が小さいうちに頭を下げるなり、示談するなりしたほうが余程被害は小さいまま、スムーズに解決する。
(俺の前職の連中はハラスメント事案などを気軽に隠蔽しすぎた。そのことが噂話として拡散され(しかも、当人たちの口によってである)、社会的信用を失いつつある。すでに採用難に陥っていて、信用回復の見通しは立っていない。不正を黙認した従業員のイメージも下がるので、転職なども難しくなっただろう。)
ガバナンスの効いた職場なら積極的に不法行為を犯し、問題を大きくする人材なぞ危なかっしくて使いたくないと判断するだろう。
仮に登用されたとしても昇進は見込めない。あるいは、昇進してもそこそこのところで転落するだろう。企業活動は問題解決の連続だ。わざわざ問題を増やし、問題を拡大し、損害を発生させるバカに上位の権限を渡すわけがない。権限を渡したらとんでもないことになるし、なっているところを何度も見てきた。
昨今はSNSの台頭によって情報の拡散が早く、広範囲だ。株価やブランドイメージを気にする大企業はコンプライアンスにはとりわけ気を使っている。昨今はコンプライアンスを意識して、昔からハラスメント気質の企業文化だとされてた営業職、建築土木職も体質改善に取り組みはじめている。
そんな社会情勢の中、いまだに昭和の価値観の色濃い前職の連中。上から下まで馬鹿ばかりだといいたいが、一番だめなのは意思決定者であるトップだ。
切腹させるべきだ。
それがいちばん被害が小さく済む道だ。自分を含む周りの全てを破壊しながら、意地汚く座席にしがみつくつもりなんだろうか?
信用を回復させるためには、「罰則を受け入れ、損害を賠償する」という企業責任を果たすのが正解だ。
加えて、なにか問題が起きた時、当事者と真正面から話し合うほうが低コスト低リスクで済む。
俺は一人っ子で父母ともに大人しく行儀の良い人間だったのでいわゆる乱暴な言葉とはそこそこ無縁で育った。
ドリフもひょうきん族も見ない家庭だったので、別に親はそう意図したわけでもないと思うが純粋培養みたいな環境だったと思う。ちょっと言い過ぎか。別に息が詰まる家庭とかそういうレベルじゃない。いわゆるお坊ちゃん育ちみたいな感じといえば伝わるか。
おまけに俺自身一人遊びが割と好きで良くも悪くも周囲の友達の言葉遣いの影響を受けることも少なかった。
しかしこれは大人になって気がついたことだが、友人関係を深めるには売り言葉に買い言葉というか、悪意も他愛もない乱暴な言葉の応酬ってのが一役買うことがある。
日常のふざけ合いじゃれ合いもそうだし、あるいはちょっと嫌なことをされたとき瞬発的に「ざけんなバーカ」と笑って言い返せるかどうかは友人関係においてまあまあ大事なことなんじゃないかと思う。もちろんほんとに嫌なら笑わなくていいがそのあたりの塩梅を学習していくためにも、ある程度勢いのある言葉をポンと出せるかどうかの違いは大きい。
俺は男だが女でも同じだ。
娘が二人いるがまあ若者言葉全開で口が悪い。しかし本人たちは楽しそうだしちゃんとした場ではちゃんとした言葉を使っている。だから心配はしていない。
子がちょっとした悪さ(家の中でボール遊びしてぶつかったとか、それこそ親に対して乱暴な言葉を使ったとか)をしたとき、コンコンと諭すように説教するには大げさだし、真面目なトーンでピシャリと注意するのもなんか違うなって場面はままある。そういうとき「なんだコラ?あ?」などと笑ってすごんで見せると場が和みつつ、ちょっとだけ「悪さ」を牽制できる。実に便利だ。親のタイプを問わない。いかついタイプの親がやればハマってて笑えるし、おっとり優しいタイプの親がやればギャップ萌え、インテリタイプがやればインテリヤクザだ。楽しそうだろう?
こういう対応ができるようになったのも、子どもたちが俺に乱暴な言葉を教えてくれたおかげだ。乱暴な言葉も使いようだなとアラフォーにして初めて知ったよ。それ以来、子どもたちやその友達、あるいは自分の友人なんかを注意して見てると、できるやつはたぶん子供の頃からそういうコミュニケーションができていて、これもまた「コミュ力」の一要素か、などと思う次第。
「悪い言葉」はわざわざ意識して身につけるもんでもないと思うが、使い方次第で有益なのは間違いない。ジェンダー関係なく、子どもが今そういうふうな感じならあえて直さなくていいと思うよ。父親として「息子はいいが娘はちょっと」みたいな動機ならなおさらだ(ただまあ気持ちはわかる)。
それが原因で友人関係に傷つけてないか? 先生や友達の親御さんやご近所さんに悪い言葉遣いをしてないか? など簡単なチェックポイントだけ脳内で設定しておいて見守ってればいいじゃないかな。「ちゃんとした言葉」も「悪い言葉」も両方使いこなせるなら、そっちのほうがいいじゃん?
特に昭和平成に活躍した「文化人」の皆様は世界中の良いものも知っていて教養もあるのに、みんな引退して南の島でゴロゴロしているのか、あるいは年をとって思うようにならないのか発信活動が低調だ。若い人が動画ベースでつくる「バズ」は文化的な底が浅いし、2chやその他サイトでおじさんたちは「何回も通ってきた道」だしでとてもつまらない。AIギミックには驚くものの、やっぱり底が浅い。つまりすぐ手に入る身の回りの文化に枯渇感が激しい。良いものにあふれていた良い時代を知っているだけになおさらだ。
良いものを作ったり良いものをたくさん知っている人達は老化して自分で発信する力が衰えている。音楽など顕著で、50年昔のYMOや70年前のエラ&ルイも今みても何回みても聞いても素直に楽しめるけどそれに匹敵するような文化的なすごさを備えた音楽体験みたいなのがとても難しくなった。なんだかとても寂しい。
今さらだけど、コスプレイベント写真をAIで修正するとかなり強力なツールになるんだな。
イベントだと、どうしても背景に邪魔な人とか物が写り込みがちだ。通行人とか、区画を仕切るための三角コーン、仕切り棒、荷物、スーツケース、etc.
そういうのが「背景の人物削除」「赤い三角コーン削除」とか指示を出すだけできれいさっぱり消えて、普通の人が見たら修正とは解らないレベルになる。
あの有名な、巨大な囲み撮影のカメラマン達だって、一発消去できる。まぁそれはそれで、閑散とした野っぱらにコスプレイヤーさんが1人で撮ってる写真になってしまって、さすがにおかしいのだけど。
もともと、何らかの加工は一般的に行われている界隈なので、AI導入によって単純作業が劇的に省力化できることがわかる。
もうちょっと難易度のたかい修正だと、「少し微笑む」「目線をこちらに向ける」とか。これは今はまだちょっと不自然でバレるけど、そのうち解らなくなりそう。
もう一歩踏み込んで、体型の修正もまぁやろうと思えばできてしまう。でもこうなると、もはや何が写真なのか解らないし、コスプレの面白さってそういう事じゃないよね、って気がする。
失敗も含めて、みんなで楽しめるからいいんじゃんね。大事なのは愛だよ愛。
うまく使えば便利だけど、前提としてなんというか、非常に高い人間性とか、文化に対する理解度とか、深い愛情みたいなものが求められる時代が気そうだね。
これはそう
いや「きっっっしょ」は怒らせるからいらんけど
理由をつけて断るのは「本当は行きたいけど残念ながら行けない」というメッセージだから、相手に対して好意があることを伝えてしまってるので、勘違いされて当然
理由をつけて断るのは、行きたくないと相手に伝えると自分が不利になる場合だけ
立場上参加すべきだけどしないときや、本当に行きたいけど行けなくて相手に残念な気持ちと好意だけは伝えたいときなどがそれにあたる
元増田の場合は、相手に対してもちゃんと行きたくないということを伝える必要があるので、真顔で「行きません」でいいし、理由聞かれたら「行きたくないからです」で終わり
一度なにかで「粘着アンチ」が付くと、常に誹謗中傷まがいの書き込みにつきまとわれることになる。
どれだけ心が強い人でもこの状況が続く限り心は確実に蝕まれる。弱い人はなおさらだ。
その結果病んだ人は思考や言動が徐々におかしくなることが多い。
そしてその中でなにか失言をしたとしよう。粘着アンチは鬼の首を取ったかのようにこれを拡散し、背景を知らない人々も一緒になってこれを攻撃する。そしてまたおかしくなる。この繰り返しだ。
粘着アンチが圧倒的に有利な立場なのである。これの対策は自分がSNSがやめるか、完全に無視を決め込むかである。粘着アンチの数が少ないのならば誹謗中傷で訴えるのも有効だろうが、制裁を科されても辞めない人もいる。
カークの暗殺が起こるべきでないことだったのは間違いない。ただ、カークを単に右派の青年活動家とのみ伝えている報道には疑問がある。
カークの初期の仕事は、左派の大学人達をリストアップして公開することだった。左派だと思われる大学人をリストに追加するようネット上で広く呼びかけ、そしてリストにあがっている大学人の職場にメールや電話をしてその大学人をクビにするよう運動しろと煽っていた。結果、黒人女性などを中心に職場への攻撃が強まり、なかには命の危険があるために大学側からセキュリティをつけられた人もいる。これに関してはニューヨークタイムズの記事などに詳しい。
要するにカークは、発言や思想のみの活動家ではなく、実力行使をして人々の職を奪おうとし、暴力的に発言や思想の自由を制限しようとしていた側だ。もしもトランプや一部のメディアが報じるように容疑者が左派的なイデオロギーから犯行に及んだのだとしても(そうなのかどうかは現状わからないが)、この事件は表現の自由対左派イデオロギーというフレームに当てはめるべきものではない。むしろ、互いに暴力的に相手の表現の自由を奪い合う(カークが代表する右派は組織的に、容疑者が左派なのだとしたら左派側は容疑者個人のレベルで)状況を示している。事件後、犯行を好意的に見る左派が問題になったが、そしてそれ自体は問題と見てもいいと思うが、左派側の開放感はまさにこの実力行使のターゲットになってきた、あるいはいつターゲットにされるかわからない恐怖に由来しているだろう。トランプ政権が大学への圧力を強め、学問や表現の自由がすでに制度的にも広く脅かされている状況ではなおさらだ。
要するに、自由vs暴力ではなく、暴力vs暴力として理解すべきではないか。にもかかわらず、メディアがカークのこれまでの活動を報じないことで、事態が単純化されているように感じられる。容疑者のパートナーがトランスジェンダーであるだとかよりも先に、まずはカークがどのような人物だったのかを理解することが、動機を考える上でも重要なのではないか。
それさらだぼうるさんだけだろ!
私も同じような感じだった。お前ほんとうに鬱なん?甘えてるだけなんじゃ?つか鬱だったら家庭維持の努力一切しなくていいの?お荷物やん
で、どうしたかっていうと
病院についてった
んで一緒に診察室入って、診察後に先生と2人きりりで話させてください!って言って全部ぶちまけた
あれが本当にうつなの?甘えてるだけじゃないの?家だと元気なんですけど!って
先生は忙しいだろうに私の話をしっかり聞いてくれて、ちゃんとアドバイスをくれた
そのアドバイスを聞いてからは少しずつ当人に対する対応が分かった気がする
ちなみに事後に看護婦さんに言われたんだが、事前に家族が先生と話したいって言っとくと時間をあけといてくれるらしいので、その方がいいかもしれない。