はてなキーワード: デモとは
まぁでも経済学も財政論も知らんのに減税だのなんだの言ってる奴らだらけなんでAIや著作権だけ学べってのもおかしいわな
消費税無くすの無理ってプロ中のプロの財務省が反対してたのに世論で押し切ろうとしてたし
都合のいい時だけ文化庁出してきても実質的には意味ないと思うんだよな
結局民意がどう思うかでしょ?
https://b.hatena.ne.jp/entry/4778747478940775457/comment/Capricornus
今回の件への指摘としては不適切だったけど、実態として質問通告の遅さが官僚の長時間労働を招いてはいると。何人も改善案出してたし、見直しに良い機会だろうね。ワークライフバランスとして上がった話題だし。
見てた時からずっとモヤっとしてたんだけど。
理由が急に分かったので書いておく。
作中で何度も偉人による現代ミームパロディが差し込まれるって話は前に書いた。
それと同時に現代の政治家、コメンテーター、民衆を小馬鹿にするような演出も大量に入る。
寝てるジジババ議員とか偉そうに批判するけど対案出せって言われたらシュンってなる野党議員。
すーぐに熱狂してうちわ振ったり、tiktokで踊り出したり、お手製デモしたがる民衆。
偉そうに批判するけど対案出せって言われたらシュンってなる野党議員は女性なんだけど
見た目的に「これ蓮舫じゃんwww辻元清美じゃんwww」とはならないようになってる。
どっちかって言うと高市早苗みたいな見た目しててそれはそれで草なんだけど。
みんな特定の誰かっていうよりは「こう言うやつらいるよね」っていう最大公約数的なキャラになってる。
でもその中で、おそらく唯一名指しでバカにされてるのが「ひろゆき」なんだよ。
中途半端な長髪で、チョビ顎髭でティーシャツ着ててバックにエッフェル塔的なものが映ってて、画面に対して正面じゃなくて横向きに座ってて「(偉人内閣のこと)海外でバカにされてますよ」「それってあなたの感想ですよね」って言う出羽守系Youtuber。
これってもう完全に「ひろゆき」じゃん。声も喋り方も完全にひろゆきに寄せてるし。
でもキャストはひろゆきじゃないんだよ。ここまでやるんだったらひろゆきをキャスティングすりゃいいのに。
別にひろゆき好きじゃないけど、唐突にひろゆきだけ正面切ってバカにしに来たのは正直疑問。
それだったらよっぽど現実の議員を名指しでバカにした方がよっぽど偉いよ。
この絶妙に殴り返されなさそうなところで、殴り返されても炎上じゃなくて同情やむしろ好意的な後押しを得られそうでプロモーションになりそうなところを殴りにいってる卑小な感じがこの作品全体を表していたなぁと思いました。
神は細部に宿るじゃないけどこういうところで志が見て取れるよなと思いましたまる
意識的・社会的な問題としては、女性が幼児のことを「自分の体の臓器の一部」的認識でしかないものがある程度(女性による子供への差別、女尊子卑的な価値観)があるけど
痴漢被害が左翼とフェミニストの社会運動に利用されて実用的な対策(監視カメラの導入、私服警官)を妨げるので無しにしたい。
・親にバレたく無かった
・夫や親族へのあてつけ
が多い。
動機がさまざま過ぎて対処が難しく、単純に「母親をサポートしよう」では意味が無いだけでなく「サポートを受けたく無い」も動機としてあるのがわかる。
確実な解決策としては
まず子殺しに関して、アメリカなどに比べて子供を殺すことに関して緩すぎる。刑罰のバランスが殺人の中でも明らかに優しい。
匿名出産に関してや孤児院に関しては、今は社会的に良く無い雰囲気があり、また病院も説教まがいのことをしてるけれど推奨すべき。子育てに自信がある人だけが子育てすればいい。
孤児院も幼児教育など高等な教育を施すようにしてインセンティブを与える。離婚の場合は第一の選択肢になるレベルにすればいい。
子育ての免許化に関して、妊娠が発覚してから心理学や小児の権利、小児の医療について学ばせ、試験に合格しないと育児できないようにするべき。
車椅子母親の滅多刺しとかは防げないが、大多数は救えるんじゃないか。
PS:
なんか「男が〜男親が〜」とか「女は〜」とか、男女の社会構造の問題に持っていこうとしてる人が居るけど、そういう「個人的なことを政治的なもの」にするのを辞めようって言ってんだよね。
ピルが普及しなかったの、当時の左派系フェミニストが「男の快楽ために何か女が薬を飲む必要はない」ってデモや意見主張の材料にしたから。
直接的な痴漢対策が進まなかったのも、監視カメラ、私服警官導入に左翼系とフェミニストが嫌がったからだよ(女性専用車が痴漢対策として意味ないのはわかるよね……?)
個人的なものは個人的なものとして、直接的な子殺しに対するアプローチをした方が結果的に環境を変えるのはフランスのピル普及後見ればわかること。
たとえば子育ては免許制にして、運転免許よろしく知的や精神的な問題を持つ人は弾くようにする。
教育を強制化することで、社会へのサポートを反強制化して結果的に孤立を防いだり、コミュニティへのアクセスが増えるだろ。
男性も「子育てわからない」で逃げられない。結果的に意識改善につながるし、社会の構造さえ変わるだろ。
「日本という共同体」そのものは目に見えない。触れないし、握れないし、形もない。でも私たちは、その「形のないもの」を前提にして、同じ道路を使い、同じルールで生きている。その目に見えない共同体をどうやって「そこにある」と確認してるのか?答えは単純で、象徴(シンボル)だ。国旗は、政治的な押しつけアイテムじゃなくて、私たちは同じ場所に立っているという共通認識のマーカーなのだ。
国旗を破って燃やして踏みつける行為は「私はこの国が嫌いです」という話ではなく、「この共同体を支える合意を破っていい」という宣言になりやすい。これは思想じゃなくて秩序の話。好き嫌いの話ではないし、心の中を強制しようとしているわけでもない。
「共同体をつなぎ止めてる目印に対して、どこまで攻撃を許すか」という、いたって地味で現実的な議題なのだ。
ここからが本題。代表的な反対意見(岩屋・橋下・日弁連)を見ると、どれもロジックがお粗末極まりなく、目も当てられなかった。法律の専門家(笑)が言うことかよ、というレベルだったので、あえて向こうの土俵で論破する。
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■岩屋毅(引用元:https://www.iza.ne.jp/article/20251104-KATPZGUBWFGNLBZXMVYLNT4XMA/)
>「当時、反対しました。なぜなら『立法事実』がないからです。立法事実とは、実際にそうした事例が社会問題になっているかということです。日本で誰かが日章旗を焼いた? そんなニュースを見たことがない。立法事実がないのに法律を作ることは、国民を過度に規制することにつながるので、それは必要ないのではないかと言いました」
一見もっともらしいが、この論法は立法事実という概念そのものを誤解している。立法事実というのは「すでに大量に事件が起きているかどうか」だけではない。とくに象徴や治安や社会秩序に関する立法では、「問題が顕在化してからでは遅い」という前提そのものが、法律の必要性を支えている。実際、現代の法律の多くは「予防的」に整備されている。
・・・本当に早大を出て閣僚を経験していてた人の理屈なのだろうか。国旗損壊罪が問題にするのは、「布が燃える現象」そのものではない。象徴が公然と破られることで、社会の緊張が増幅される・対立と敵対意識が活性化する・集団の統合が崩れる という作用のほうだ。この「象徴毀損→社会不安の増幅」という因果関係は、国際的にはとっくに前提として認識されている。
イギリスでは国旗侮辱は暴徒化の初動トリガー、韓国では対立デモの象徴破壊が衝突に直結、フランスでは国旗侮辱は「共和国に対する攻撃」、ドイツでは象徴毀損は「民主秩序破壊行為」と解釈されている。
つまり、「日章旗を燃やした事件が日本で多いかどうか?」は論点の中心ではない。本当の論点はこうだ。象徴破壊は、共同体の統合を揺るがす高い蓋然性があるかどうか。そしてそれは「ある」。岩屋の議論は、「国旗は共同体をつなぐ象徴である」という視点が最初から抜けている。だから彼の目には「問題がない」ように見えるだけだ。
言い換えるなら、日の丸を「自分の共同体の象徴」として認識していない人は、国旗損壊に「実害がない」ように感じる。ただ、それは「法的判断の結果」ではなく、立ち位置と感覚の問題だ。「国旗が燃えてないから法律はいらない」は、「家が燃えてないから消火器はいらない」と言っているのと同じ構造である。そして、そう言えるのは結局、自分にとってその家が「帰る家」でも「守りたい家」でもないからだ。
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■橋下徹(引用元:https://x.com/hashimoto_lo/status/1985500133828805077)
そもそも出だしから政治家の不正を糾弾する論点ずらしを使用しているところが小賢しいストローマン的論調だが、論点も穴だらけである。本当にこの人は元弁護士なのだろうか。
法益は、「共同体の象徴秩序」である。橋下はこれを「愛国心の強制」だと見ているのかもしれないが、法益はそうではない。
象徴が破壊されると、共同体のつながりの感覚が損なわれ、対立や敵対意識が増幅する。これは国際比較すると常識に近い。
外国国旗は外交関係の安定を守るために保護されている。つまり、すでに日本の刑法は「象徴は秩序に作用する」という前提で立法されている。今回の議論は、その射程を「対外」→「国内共同体」へ拡張するだけ。理屈は同じ。
ここは技術的な話に見えるが、実際は簡単。「公然性」「侮辱目的」を要件にすればいいだけ。すでに名誉毀損・器物損壊・侮辱罪で使っている手法。「プラカードとしての国旗」や「スポーツ応援の旗」が誤処罰される、というのは法技術ではなく「雑な想定」による不安。構成要件で回避できる話。
されない。すでに外国国旗損壊罪ですら公然性が要件。私人の家で破ってる旗まで取り締まる制度設計はそもそも立法技術的に想定されていない。「家の中でポスターを破ったら逮捕」はフィクションでしかない。
それは国旗損壊罪とは無関係。国旗利用のガイドラインは運用・行政・プロトコルの問題。仮に「政治家が国旗を利用したくなる」というのが懸念なら、それは政治倫理規定のほうで制御する話。つまり「スプーンに毒を盛るかもしれない」から「スプーンを廃止しよう」と言っているようなもの。
ここまで来ると、さすがに苦笑いである。「国家とは何か」論は、象徴を理解していないからこそ無限に抽象化する。けれど現実の共同体は抽象ではなく合意で維持されている。その合意を可視化するのが象徴。象徴を理解しないまま国家論を語るのは、地図を見ずに登山ルートを議論しているようなもの。まず「どこに立っているか」がわからなければ、そこから先は全部空中戦。橋下の6論点はどれも一見まともに見えるが、すべて「国旗は、共同体の統合を可視化する象徴である」という前提が抜けている。
この前提を共有しない限り、国旗損壊罪は「不要な規制」に見え続ける。つまり、結局この話はこういうことだ。
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■日弁連(引用元:https://www.nichibenren.or.jp/document/statement/year/2012/120601_2.html)
>同法案は、損壊対象の国旗を官公署に掲げられたものに限定していないため、国旗を商業広告やスポーツ応援に利用する行為、あるいは政府に抗議する表現方法として国旗を用いる行為なども処罰の対象に含まれかねず、表現の自由を侵害するおそれがある。
この「おそれ」という言葉に全てを預けて議論を閉じてしまうところに、まず問題がある。刑法は「おそれ」で動くわけではない。刑法は構成要件を満たしたときにのみ成立する。ここは法学部の1年生でも最初に叩き込まれる部分だ。それにもかかわらず、その最も基本的な前提をまるごと無視して話を進めているあたり、本当にこの文書は日弁連が出したものなのだろうかと不安になる。
国旗損壊罪が成立するのは、ただ「国旗に触れた」からではない。国旗を侮辱する意図をもって、公然と破壊した時だ。「わざとであること」と「侮辱という意思」が明確に必要になる。そのため、スポーツ応援で旗を振ることも、商業デザインに用いることも、抗議運動のシンボルとして掲げることも、そもそも構成要件に当たらない。日弁連は「使うこと」と「破壊して侮辱すること」を意図的に混同している。その混同を前提にしている限り、彼らの議論は最初から成り立っていない。
加えて、日弁連は「表現の自由が制限される」と言うが、表現の自由は憲法上、絶対無制限に保障されているわけではない。人格権を守るために名誉毀損があり、社会的尊厳を守るために侮辱罪があり、財産権を守るために器物損壊罪がある。どれも「表現」が関わる可能性があるが、社会を成立させるために必要な領域では当然に制限がかけられている。国旗損壊罪が保護しようとする「共同体の象徴秩序」も、それらと同じく社会をまとまりとして維持する機能を守るためのものだ。
では、「濫用されるおそれがある」という主張はどうか。これも、法制度の議論としてはあまりに雑だ。「濫用されるおそれがある」だけで法律が否定できるなら、名誉毀損も侮辱罪も、スパイ防止法も成立しないことになる。極端な話、殺人罪だって捜査側が恣意的に使える「おそれ」があると言えてしまう。法治国家は「おそれ」があるかどうかではなく、その「おそれ」が実際にどの場面で生じうるのか、そしてどのように構成要件と運用基準で防ぐかを議論する。「おそれがある」とだけ言って反対した時点で、日弁連は法律論を放棄している。
つまり、日弁連の声明は、法律家として最もしてはならない論理の進め方をしている。構成要件には触れず、使用と損壊を混同し、法益概念を押さえないまま、「自由が脅かされる」とだけ言って議論を止める。これは法的主張ではなく、立場ありきのスローガンだ。
国旗損壊罪は、国旗を使う人を処罰するものではない。共同体を侮辱する目的で、象徴を破壊する者のみを対象とする。日弁連が「表現の自由」を盾にして反対するのは、その前提を理解していないか、理解した上で意図的にぼかしているかのどちらかだ。
どれほど上品な言葉で包んだとしても、これはもはや法律家による議論ではない。法概念を手放したまま「自由」を振り回しているだけの、大声の政治声明にすぎない。弁護士バッジを捨てて、もう一度法学部からやり直してください。
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日本社会には、法や監視に頼らずに秩序が保たれる場面が多い。繁華街に防犯ゲートが少なくても、万引きは多発しない。大都市でも夜に一人で歩ける安全がある。災害時には略奪ではなく、長い列を作って順番を守る。落とした財布は高い確率で手元に戻る。公園や駅の公衆トイレでさえ、世界基準で見れば極めて清潔だ。
これらは偶然ではない。日本には、古くから「和を乱さないことを尊ぶ」という共通意識がある。相手を尊重し、自分だけが突出しないように場を調整し、争いを避けて合意をつくる生き方が長く受け継がれてきた。重要なのは、この意識が誰かが教えたからあるのではなく、自然に共有されていることである。目に見えない合意は、形がなければ確認しにくい。そこで必要となるのが、象徴である。
国旗は、国民が同じ共同体に属し、同じ空気の中で生き、同じ基盤を分かち合っていることを簡潔に示す印だ。日本人の精神性は、派手でも声高でもない。主張ではなく、ふるまいと習慣の中に現れる。その「共有されているもの」を一瞥で思い出させるのが日の丸である。
国旗は威圧のための道具ではなく「この社会は、この形で、ここにある」という確認の標だ。その確認があるからこそ、人々は互いを信頼し、余計な力を使わずに秩序が保たれる。日本の治安や清潔さは、「日本人は良い人だから」という単純な話ではない。共同体を保つための共有されたふるまいが、長く維持されてきた結果である。
日本は世界で最も長寿の国の一つであり、国民皆保険制度によって、誰もが比較的安価に標準的な治療を受けられる。これは世界的に見ても非常に優れた仕組みだ。
たとえば、がん治療の中でも注目されている光免疫療法(レーザー治療)がある。
この治療は現在、頭頸部がんに対してのみ保険適用されている。肺がんなど他の部位にも有効な可能性が指摘され、治験は進行中だが、国内外ともに結論は出ていない。
患者が、たとえば初期の肺がんに対して光免疫療法を自由診療で受けることは可能だ。
しかし日本では「混合診療(保険治療と自由診療の併用)」が原則禁止されているため、
レーザー治療を選択するとその他すべての治療が保険適用外となり、すべて自費になる。
制度として「おいしいところだけ保険で」という“つまみ食い”を防ぐ仕組みになっているのだ。
アメリカでは年間約1万4千人が臓器提供を行い、3万5千件以上の移植手術が実施されている。
一方、日本では年間149人にとどまる。人口比で見ても大きな差だ。
それでも、日本では臓器移植が保険適用であり、さらに公的医療費助成制度を併用できる。
アメリカのように「高所得者しか受けられない医療」とは対照的だ。
もし日本でアメリカ並みに移植件数を増やしたらどうなるだろう。
人口比で計算すると、およそ年間1万人の命が救えるかもしれない。
しかし、そのコストをすべて保険で負担すれば、医療財政は確実に破綻する。
日本の医療制度は、「どの治療に公的資源を使うか」を経済合理性で選別している。
つまり「標準治療」は、世界最高峰の技術をすべて使えるという意味ではなく、
費用対効果(コストパフォーマンス)を最大化するための妥協点として設計されている。
「海外では一般的な治療法だが、日本では保険が効かない」というケースは多数ある。
理由は単純で、それを認めると制度全体が維持できなくなるからだ。
「命は地球より重い」という理想を掲げ、あらゆる先進医療や高額薬を
誰に尋ねても「ない」と答えるだろうし、実際に制度もそれを許していない。
すでに日本の医療・介護制度は財政的に破綻寸前であり、どこかを削らなければもたない。
仮に今後、頭頸部がんへの光免疫療法が「コスパ見直し」で保険適用外になれば――
「治療中の人は来月から自費でお願いします」という事態も理屈の上では起こりうる。
そんなことになれば国会は大炎上し、千代田区にデモがあふれるだろう。
新しい治療法の採用は抑制的でも叩かれないが、一度採用したものの取り消しは炎上案件となる、そこに合理はなく情緒的なのだ。
冷静に考えればすでに現状でも命は“選別”されている。
「どの命に、どれだけの社会的コストを割くか」という配分の問題にすぎない。
医療制度や介護制度は、突き詰めれば徴収(税・保険料)と分配(給付)の設計に尽きる。
問題は、その分配が誰にどれだけ公平かということだ。
/ChatGPT15分
リベラルとかフェミニストとかLGBTQ+活動家とか、反対者からやたらと「金持ちの道楽」扱いされるが、これは実態にあっていない。
まず統計的に女性は男性より稼ぎがない。フェミニストの未婚率がどの程度かわからないが、独身ならかつかつの者が多いはずだ。LGBTQ+になるともっと酷くて貧困率が上がる集団が多い。トランスジェンダーなんて男も女も貧困で、シス女性より遥かに酷い。
女性の権利や性的マイノリティの権利に関わっているのは主にそうした人々だ。もちろん、いわゆる発言力がある人間は大抵そこまで貧困ではない。大学教員であったり、ライターであったり。けれど、デモやパレードなどの実際の運動が大学教員などばかりで構成されていることはまずなく、発言力がないから不可視化されているだけの、膨大な「金がなくて社会制度の変革を求めている女性やマイノリティ」が現場には存在している。
SNSなどを見ているだけではその存在は気づきにくく、フラワーデモとかレインボーパレードとかに実際に行って、各団体が募金でどうにかこうにかやりくりしている様子を見たり、参加者の思いがけない普通さを見たりする必要があるだろう。
それを怠る人間が、「金持ちの道楽」呼ばわりする。単に経済的に恵まれた発言力のある人間がメディアで目立つだけで(それは「発言力のある」の定義そのものだ)、それ以外に気づいていない。メディアに出る俳優だけ見て無数の売れない舞台俳優に気づかなかったり、メディアに出る売れっ子作家ばかり見て無数の売れない物書きに気づかないようなものだ。